Web日記帳
BIAの画像付き「Web日記帳」です。

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2007年09月03日(月)  赤倉スキー場と泥だらけの純情
「泥だらけの純情」は、1663年の日活映画で外交官の令嬢真美とチンピラヤクザの次郎の悲恋物語です。
浜田光夫と吉永小百合が主演しました。
最後の舞台になったのが「赤倉スキー場」です。
先日テレビで放映されていました。二人は逃避行のうちに赤倉スキー場の雪の中で戯れ、ふとこぼれた睡眠薬を見つめ合い死を決心します。
このあたりがその舞台になっています。

2007年08月16日(木)  日本最高気温更新
本日、日本最高気温が74年ぶりに更新されました。
日本最高気温40.9度を記録したのは、埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市です。
これまでの日本最高気温は1933年7月25日に山形測候所が記録した40.8度です。
私の故郷山形の日本一の記録が破られて、ちょっぴり寂しい気分です。

2007年08月01日(火)  阿久愁さん死亡
「UFO、津軽海峡冬景色」等5000曲以上の歌謡曲を作詞した「阿久愁」さんが、本日死亡しました。
「北の宿から、先生」も阿久愁さんの作品です。
阿久愁さんの作品の中で、私が好きなのは「津軽海峡冬景色」です。青函連絡船には乗ったことはありませんが、冬の津軽半島には何度も釣りに行っています。
この歌は、冬の津軽海峡の情景を見事に表現している歌だと思います。私は今でも青森に行くたびに、この歌謡碑の前に立って感動を新たにしてきています。

2007年06月23日(土)  回転寿司
大阪万博の話題をもうひとつ。
それは回転寿司が大ブレークしたことです。

回転寿司の元祖は1958年に東大阪市の近鉄・布施駅前で"回転"した「廻る元禄寿司」です。
元禄寿司に始まる回転寿司は、大阪人のせっかちな気性に合ったのか話題を集め、1967年にはフランチャイズ1号店となる仙台店がオープンしました。それを皮切りに全国展開が進んで行きます。
しかし、まだまだブレイクまでには到らない回転寿司でしたが、1970年に開催された「大阪万国博覧会」に出店する事となり、一躍脚光を集めました。
その大阪万博の西口に、回転寿司がオープンしました。
回転寿司は近未来の寿司システムとして万博の未来志向に見事にマッチし、一挙に全国的な認知を集めたのです。
さらに元禄寿司は、大阪万博の4年後の1974年に、ニューヨークへの海外第1号店を出し、これが回転寿司のイメージを高め、その後、元禄寿司が持つ回転寿司の特許が切れたことから、一挙に全国各地への出店が広がりました。

●その回転寿司は
終戦直後の1948年に白石義明さんによって考案されました。白石さんは当時、中小企業の工場がひしめきあう東大阪で立ち食い寿司屋を開いていました。
それまでの寿司屋といえば高級料理の代名詞でした。
しかし白石さんは地元の工場で働くお客さん達に喜んで貰おうと、一皿20円の立ち食い寿司屋をオープンしました。
一皿20円という明朗会計と低価格による安心感がある立ち食い寿司屋は、高級品が安く食べられるとあって人気を集めましたが、今度は寿司職人の確保が難しくなり機械による省力化を迫られていました。
そうしたジレンマを抱える中、ビール工場の見学をした白石さんは、そこで見たベルトコンベヤーの上をビンが流れ、次々とビールが注がれる様子から、寿司屋でそのコンベヤアーが使えないかと思いつき、それから10年の歳月をかけて回転寿司の基礎となる「コンベヤー旋回食事台」を開発したのです。

2007年06月22日(金)  大阪万博
本日の「報道ステーション」でジローズが歌った「戦争を知らない子供達」が大阪万博から生まれたことを知りました。
大阪万博での私の思い出は、当時の電電公社が電電館の目玉として出品した「コードレス電話」です。
万博が開かれた1970年は、携帯電話はおろか、家庭のコードレス電話もありませんでした。
電電館の「コードレス電話」は、電電館の中でだけ使えました。アメリカ館は3時間、電電館は1時間並んで入りました。
そして、初めて体験するコードレス電話で会社に電話しました。現在は家庭の電話はコードレスホンになり、携帯電話も一人1台になるくらい普及しています。初めてコードレスホンでお話した時の感動が思い出されました。

2007年04月04日(水)  「目に入れても痛くない」は本当か
「目に入れても痛くないほど可愛い子」とは良く言いますが、実際に目の中に入れたらどうなんでしょうか。
私の弟に「目に入れても痛くないほど可愛い娘」がおります。その娘の白魚のように細い指が弟の目に入ってしまいました。弟はそこで「かわいい娘の指が目の中に入っても痛くなんか無い」と言えば、世間でいう言葉が立証出来たのですが、実際は大違いでした。
あまりの痛さに大声で騒ぎ、病院に行ったら目に傷がついていました。それ以来弟は、「目の中にに入れても痛くないほど可愛い娘」だが、実際目の中に入れたら痛くてたまらなかった」と言っています。

2007年02月18日(日)  フランク永井・松山小にピアノ寄贈
大崎市松山出身の歌手、フランク永井さんが、自宅で使っていたピアノが母校の松山小学校に寄贈されました。
(本日の河北新報に写真入りで掲載)
フランク永井さんは、吉田学校の優等生で、橋幸夫さんがどうしても追いつけなかった先輩でした。私が好きだった歌は「夜霧の第二国道」です。
あの事件以降テレビの前から姿を消しましたが、本日の河北新報で名前を見て大変懐かしく思いました。

2007年01月18日(木)  井沢八郎死去
1月17日、歌手の井沢八郎さんが死去しました。
井沢八郎さんが歌った「ああ上野駅」は昭和39年(1964)に大ヒットしました。私が就職したのは、翌年の昭和40年です。
就職列車ではありませんでしたが、「ああ上野駅」を口ずさみながら急行蔵王に乗って上山駅を後にしました。
今でも大好きな歌です。

2007年01月13日(土)  ザ・ピーナッツ
本日のテレビで「特集 ザ・ピーナッツ」が放映されました。2003.11.1の日記で触れましたが、私が「ザ・ピーナッツ」の歌で一番好きな歌は「中村泰士」さんが作曲した「大阪の女」です。「ザ・ピーナッツ」は引退間際に、このようなしっとりとした大人の歌を数曲歌っています。本日も終了間際に「大阪の女」が流れました。

2006年11月21日(火)  鮭のつかみ取り
最近は川の鮭釣りに夢中になっていますが、鮭との最初のふれあいはつかみ取りでした。
福島県の請戸川で鮭釣りを許可してから4年ですが、請戸川で鮭のつかみ取りを体験したのは10年くらい前のことでした。
最初の年は鮭のどこをつかんで良いか分からず、両手でエラをつかみました。実際にやってみると泳いでいる鮭のエラは開かないため、非常に苦労しました。
翌年は両手で尻尾をつかみましたが、これも水に手を入れると鮭が逃げてしまい、うまく掴めませんでした。
鮭つかみをマスターしたのは、3年目です。
水の上から、片手を鮭の尻尾をめがけて勢い良く振り落とすとうまく掴めました。
福島での鮭つかみの体験が花を開いたのは、下田の日本一の鮭祭りでした。
ここでは、尻尾に印のついた景品付き鮭を一発で掴み、さらには鮭の早つかみ大会では、3位に入賞しました。
1位と2位は三沢基地のアメリカ人でした。私とはパワーが違いました。
今年は、11日がスコンクだったために、2000年のリベンジを予定していた翌日の鮭掴みには参加せず、傷心のまま仙台に帰りました。
写真は200年11月11日の下田の鮭祭りです。


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