1970年頃の八重山(BGM:汗水節)
奇妙な体験をしているのですが、ほとんど写真がありません。

2002年3月14日開設

八重山の位置関係

東京⇔石垣島
:2,252km
那覇⇔石垣島
:410km
基降⇔石垣島
:277km
沖縄本島より、台湾に近い事が分かります。
初めて行った1970年当時の沖縄は、琉球政府で総理府発行の身分証明書が必要でした。
証明書には、「本土と沖縄との間を旅行する日本人であることを照明する。」とあります。
左:那覇から石垣に乗船した琉球海運の2等乗船券で4$。満月の凪で、モノトーンの素晴らしい航海でした。
右:航空便の封書は9¢、八重山の風景印は、パパイアです。
石垣港
1970年10月

那覇〜石垣と辿り着き、一気に最南端の波照間島に向かうことにしました。手前の新栄丸に乗りましたが・・・
石垣〜波照間
新栄丸
1970年10月


船尾から流した仕掛けに、鯖が次々と掛かり、空腹を満たしてくてました。暑さで子豚がトン死し、目の前で解体が始まりました。
波照間島
日本国(当時琉球政府)の最南端の地
1970年10月


三脚がないので証拠になりませんね。2泊の予定が運動会があり欠航。しかも民宿がなく、民泊で4日もお世話になりました。ちなみに最北端は1980年8月に制覇しました。
波照間島
1970年10月


なにもする事がないとはこの事で、見かねたのか漁に連れて行ってくれました。「老人と海」という雰囲気がぴったりでした。
波照間島
1970年10月


今村昌平監督「神々の深き欲望」のロケ地とお別れです。右にうっすらと見えるのは、西表島です。
石垣島
1970年10月


なんと文化財である石垣邸が、ユースホステルになっており、情報交換場所として、旅人の溜り場になっていました。パイナップルの調達の仕方が、伝達事項になっていました。
石垣島から西表島西部へ
1970年10月


西表島西部へ向かいました。遠い西部の方が、当然ながら秘境です。料金は87セントでした。
西表島西部
1970年10月


東部と西部は、道路がつながっておらず、いちいち石垣まで戻ります。ハイビスカスの原種である、仏桑華の垣根に蝶が乱舞していました。
西表島西部
1970年10月


石垣島から西表島に出張中のお役人と、土砂降りの中浦内川をサバニで遡り、泥だらけになって、カンピラの滝にたどり着けました。
西表島西部(船浦港)
1970年10月

出港時間なのですが、一向にパイナップの缶詰の積込みが進んでいません。八重山タイムに、イライラしてはいけません。
竹富島
1971年3月


島で一番高い所にある展望台からの眺望です。遠方は西表島です。
小浜島
1971年3月


全部の島を巡りませんでしたが、水が豊富な小浜島が気に入ってしまいました。長居をしているうちに金欠病となり、写真もモノクロになってしまいました。
小浜島
1971年3月


この島では、昼食代わりになるパイナップルがないので、向かった先は・・・・・サトウキビ刈りを手伝って、お昼を分けてもらうという生活をしばらくしました。ハブがいるのですよ。
小浜島
1971年3月


夜は大岳宅で民謡三昧となり、とぅばらーまや与那国しょんかねには大感激してしまいました。
小浜島
1971年3月


さとうきび刈りから逃れて、裸馬に跨って乗馬を楽しみました。おとなしい馬で、しかたなく言うことを聞いてくれた感じでした。
小浜島
1971年3月


黒毛牛が放牧されていました。成長すると島を離れて、高級和牛になります。
小浜島
1972年8月


沖縄の本土復帰により、ホーバークラフトが就航しました。が強風に弱くて、欠航もしばしばありました。
小浜島
1972年8月


水牛を使った田起しです。島で生活している大和ンチューと遭遇。トカラ列島から漂着してきた「蛸取秀樹さん」で、脱サラを勧められましたが、下戸なので辞退しました。
小浜島
1972年8月


3年に渡る八重山訪問も、次第にサラリーマン生活漬けになると疎遠になり、再訪は20年後の西表島の高那温泉となります。

八重山再訪に戻る