特 集
教会初夏の集い
主題講演「神と共に歩む」
山北宣久牧師
  「神と共に歩む」ことは教会の年間テーマ「主のみ業に奉仕する」ことでもあり重なってくる。

  キリスト者の三つの任務。

  古来の教会が大切にしてきた「証し、交わり、奉仕」について考えます。証しは、言葉により、行動により、存在によりなされます。言葉をもってする証しには、信仰を表すための訓練が必要です。行いによる証しは軽視すべきではありません。聖書に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」とあるように。存在による証しとは身をもってする証しです。「存在」そのものが信仰を証しするのです。新渡戸稲造が「ありよう」が「おこない」に勝ると述べているように。
  交わりとは、まず神との垂直な交わりがあって、それが人との水平の交わりを支えることを覚えたい。単なる仲が良いだけのものが交わりではありません。十字架の元に力が組み合わされて、共に主のために命をかけて戦う戦友となるのです。人間は愚かなものであるけれども、羊飼いである主によってひとつの群れになれるのです。
  奉仕とは、語源のディア・コニスから来ていて、コニスとは、塵、埃、泥という意味ですから、奉仕はきれいごとばかりではない、埃だらけになることです。聖書に「上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」とあります。イエスが給仕されたことで、私たちも促されてする、仕える行為が奉仕です。被奉仕の奉仕といえます。
  「神と共に歩む」とは愛と正義のため生きることであり、そのためにこの三つの任務を実践することです(ミカ書6・18)。

  キリスト者の七つのタイプ

  @ご利益型。自分のためだけではなく他者や神のために求めないと、自分中心になる。A思想適合型。自分の考えに合っている限り、奉仕するタイプ。孤立してしまい群れを形成できない。B宗教教育型。悔い改めがないと信仰があいまいになる危険がある。C独断型。自分の信条以外認めない。共に行動できなくなる。D教会社交型。表面だけの交わりで、共に苦しむことをしない。E教会利用型。冠婚葬祭の時だけ教会に来る。F奉られ型。チヤホヤされる。
 信仰にあっては保守的、行動においては進歩的でありたい。変わらないもの(みことば)に立って、常に、縦横無尽に変わるものでありたい。

  日本人キリスト者の特徴。

  信仰において神との契約という概念が欠落している。信仰における甘えがある―信仰に愛・赦しに重きがおかれ、義・裁きを強く言わない。教会性の希薄さがある。教団は聖霊信仰が未定着―「御霊よ、来たりませ」と祈ることが信仰である。

  キリスト者のアキレス腱

  ボンヘッファーは信仰生活の問題性は三つあるとして、個人的、部分的(日曜日のみの信仰)、形而上学的(この世離れした信仰)であると述べた。さらに、今日のキリスト者に求められるものは、祈ることと正義を行うことだと述べた。
 弟子の召命の箇所で漁師(若者も年寄りも)を招かれた。伝道・奉仕・交わりに二人一組になってあたることを教えている。また動的な人も静的な人も等しく用いられることを教えている。これが信仰の原点であろう。
全体協議
「己を空しうし、事あるごとに祈る」
永井清陽
  今年の初夏の集いは、主日礼拝に続くものとなったので、時間配分の関係から、分団協議を割愛せざるを得なかった。従って分団協議の整理という従来の司会役から、ぶっつけ本番、しかも、予定した時間より30分早くバトンタッチされたこともあって、若干の危惧を抱きながら壇上に上ったが、始まってみると会場から九人が活発に質問・意見を述べてくれただけでなく、洒落の連発、しゃれのめす「山北節」が初めから終わりまで続いて会堂は笑いの渦。講演で「日本のキリスト者のアキレス腱はユーモア感覚の欠如」と断じた山北牧師らしい、あっという間の一時間半だった。
  以下、主な発言要旨。
−−無教会運動について。
  「無教会運動は、教会が余りにも形式的、儀式的になったことへの反発から生まれて来た。私は、無教会という教会と積極的に受け止めている。内村鑑三は『真理は楕円だ』といった。二元論では律し切れないものがあるということだろう」。
−−日本のキリスト者について。
  「総じていえば、謙遜・消極的。もう少し自分を露わにしてもよいと思う。『地の塩』たらんとよく努めているが、その一方で、もう少し『世の光』的なところが出ても良い。いきなり2ストライクでバッターボックスに立つ打者のようで、肩に力が入って、余裕がない。『さようなら』は、いかにも日本的な無常感を表している。私は、『左様ならざる運命ゆえにお別れします』という『さようなら』よりは、『では又』と言いたい。『では又』は復活信仰だから」。
−−武士道的キリスト教について。
  「内村鑑三、新渡戸稲造、南原繁といった人達は、しばしば武士道を称揚した。無教会の人達の中に武士道は、脈々と流れている。そこにいさぎよさを見ていたためで、いわば死から命を考えた。武士道は主君へのロイヤリティだが、われわれはキリストへのロイヤリティが大切と考えている。信仰は、インスタントでなくコンスタントだ」。
−−悪魔について。
  「Live(生きる)を逆さに読めば、Evil(悪)となり、神あるところに悪魔がいる。内なる悪魔性という言葉があるが、スペインに悪魔は四つの声で誘うという諺がある。私たち一人一人が悪魔を見つけ出さなければならない」。
−−聖霊信仰について。
  「聖霊は、『注がれる』『満たされる』という動詞が続くことでも分かるように、獲得するものでなく、神から『与えられる』ものだ。神の前に己(おのれ)を空しうし、事あるごとに祈るしかない。讃美もまた祈りだ。御前に静かに座り、怖れの念を抱いて祈ること。聖霊が注がれないとしたら、人間的な思いが充満しているから、ともいえるだろう。何をどう祈るかにもよる。隅谷三喜男氏は『反省的信仰から決断的信仰へ』といっている」。
−−教育基本法について。
  「愛国心は国家から強制されるものではない。法は愛で裏打ちされねばならない。学園内でも法を貫く愛の精神で対応することが何よりも大切」。
−−聖ケ丘教会の伝道について。
  「現住陪餐476、平均出席218人。聖ケ丘教会も多くの課題を抱えている。私はかねがね、日本に弱小教会はないが、弱大教会はあると思っている。『だれかがやってくれるだろう』と何もしない人が増える。一度も献金をしない会員が1割強に上っていることにも現れている。それを克服するため、『入り口は広く、出口は狭く』『気安く声をかけ、気を抜かない』『一人が一人を、みんなで一人を』といった伝道7(セブン)をつくって、伝道に努めている」。
「初夏の集い」に参加して
岡山いち
  例年「秋の集い」として親しまれて参りました、いわゆる修養会が、今年からこの季節に行われることになり、講師にお迎えしたのが聖ヶ丘教会山北宣久牧師でした。
 「キリスト者とは何か」ということについて具体的にお話下さいましたが、ご自身が学び、考えて来られたことをなんとしてでも皆に伝えたいとの熱い思いが先ず飛び込んで来ました。その話しぶりは牧師先生というよりも咄家のそれに近く、ユーモアたっぷり、笑いの連続で知らず知らずのうちに山北ワールドに引き込まれておりました。
  とりわけ印象に残ったのは、やはり牧師であられた父上が亡くなった後に見つかった遺書は「会うは偶然別れは必然。では又」で結ばれていて、「では又」という言葉が先生の出発点であったというお話でした。私はこの十数年の間に近い周りの何人かを神様の御許に送り、さびしい限りでしたけれど、この「では又」という言葉に励まされ力づけられました。
  講演の終わりに当たり「この群れは生きていますよ、皆さんの迫力を感じて力を得られ、語らせられた感じがしました」とおっしゃって頂いたことは教会員として大変嬉しく、誇りとして良いのではないでしょうか。
  限られた短い時間ではありましたが、実り多い豊かな時間を持てました事に心から感謝致します。
不真実なキリスト者
酒井由紀子
  日頃は地下で子供達が遊ぶなか説教を聞いているので、話に集中できないことが多いが、「初夏の集い」では1階でじっくりと先生のお話を聞く事が出来た。
  「キリスト者とは何か」という身近なテーマで耳の痛いお話が多かったが、特に、「真実で始まったものも不真実になることがある」という先生の言葉にはドキッとした。
 受洗した頃と比べ、現在の自分は祈る時間も聖書を読む時間も激減してしまった。仕事・家事・育児に追われ慌しく日々過ごしていると、不平・不満を感じることが多く、神を身近に感じることは少ない。特にここ数年、ローンの融資審査という仕事柄、詐欺まがいの行為に接することが多く、他人をすんなり信用できなくなった。ただ礼拝に通うだけで言証・行証のない自分はまさしく「不真実なキリスト者」だと思った。
  また、「キリスト者の7タイプ」の分類にはつい笑ってしまった。この中では自分は「思想適合型」プラス「教会社交型」タイプだろうか。私達は、世俗にまみれて生きている。これは逃れようがないことだ。そんな私達が神から離れないためには「神の声を聞き分ける」ことが大切なのだと改めて感じた。まずは、もう少し聖書を読む時間を増やし、子供と共に祈る時間を増やそうと決意(?)した一日だった。