荒神谷遺跡と「× or 乂」マークの銅剣 【 2】

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 (五)実在した「 乂 」のマークを持つ人物

 少し前にふとした切っ掛けから、中国の風水師の方と話をする機会がありました。この人は職業柄、歴史や、宗教に詳しい方でした。しかも、日本の古典である『古事記』の内容にも詳しいので、少々驚きました。これは神道と関係するために、仕事の上でも必要な知識なのかも知れません。

 私にとってはめったに無い好い機会ですから、その人に、荒神谷遺跡で見つかった銅剣と銅鐸に、「× or 乂」のマークがついていることを話しました。そして、中国の歴史上の人物で、このマークを旗印とした集団がいなかったかどうかを尋ねてみました。その結果、たいへん貴重な情報を得ることが出来ました。以下に、簡単に紹介しておきます。

 その一
  中国、西安にある青龍寺の掛け軸に、このマークに類似する印が付いているということでした。この寺は日本からの留学生、弘法大師・空海が、恵果和尚から、密教の印可を授かった寺として有名です。
 またこの寺の境内の露天商が扱う品物も、このマークの付いたものが売られているということでした。話の様子では、お皿の内側の溝の部分に、上で紹介した金文のような文字が、幾つか書かれていたということです。その中に、この字が混じっていたとのことです。どうやら、文字として読めるようなものではなかったようです。
 このことから、どうやらこの人物はこの辺りの人たちにとって、崇拝の対象になっていたことが窺えます。ただし、その人物が、何者であるかは分からないということでした。また写真があるわけではありませんので、実際にどの程度類似する文字なのかも分かりませんし、また全体の意味、内容も不明です。もちろん旗印には他の一団と似通ったものは使われませんから、類似する記号・マークは、すべて同一部族のものと考えてよいでしょう。

 その二
  皇帝の誕生を祝う「万寿節」で使われる飾り物に、「乂」のマークが描かれています。ただし、このマーク単独ではなくて、二重の丸の中に、このマークが書かれています。
 その時に見せていただいた『故宮博物院展 紫禁城の宮廷芸術 図録』〔1985年 西武美術館 緑箱社制作〕( ただし出版社名は、書いてありませんでした。特別に限定制作された本のようです。この年の六月29日から、八月26日まで、池袋の西部デパートで開催された「故宮博物院展」のために創られた本で、市販はされなかったようです。) の中には、その時の様子を描いた風景画の複製が綴じ込まれていました。街中の景色を描いた絵です。横長のかなり長い絵で、綴じ込み式になっていて、何回か折り畳まれて綴られていました。

 説明書きには、「康煕六旬万寿豊図巻(上巻)康煕期」とありました。 その絵に描かれている大きな幟(のぼり)か衝立のようなものの上部に、そのマークが描かれています。二重の丸の中に乂です。従ってこれが、何等かのEmblemとなっていることは間違いありません。 (下の画像図形をご参照ください。)
 このことから、このマークに関係する人物が、皇帝とかなり近しい関係にあったことが伺われます。或いは、建国に尽力した人物であった可能性があります。

 以上のことから、荒神谷遺跡で見つかった銅剣と銅鐸に付けられている「× or 乂」のマークが、中国の歴史上の人物と大きな関わりを持つ可能性が浮上したことになります。
 ただし今のところ、この人物が具体的に、どのような人物であるかは、まったく分かっていません。
 もし荒神谷遺跡で発見された銅剣と銅鐸が、その人物と直接的に結びつくことが証明されれば、日本の歴史が変わります。これはそうした、けっこう大きな意味を持っているわけです。

 (六)『古事記』に記された中国大陸の歴史

 『古事記』に記されている内容と対照するために、中国大陸の歴史について調べてみました。
 以下に、その概略を紹介しておきます。
 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓

 BC 453年  晋が韓・魏・趙の三国に分裂し、戦乱の時代が始まった。

 BC 221年 秦の始皇帝が天下を統一する。
  これにより、ひとまず戦国の時代が終わります。
 ( 秦の天下統一  ⇒ 秦王の贏政は、韓、趙、燕、魏、楚、斉の六国を滅ぼし、戦国の時代に終止符を打った。咸陽で、中国史上初の中央集権国家である「秦王朝」を樹立する。そして、初代の皇帝になった。 )

 その始皇帝は、BC 210年に、東方巡行中に死去します。以後、内乱が発生し、秦王朝は、BC 206年に滅亡しました。

 BC 202年  劉邦(高祖)が楚を破って、中国を統一する。
 これにより、「漢王朝」が成立します。
 (項羽と劉邦 ⇒ 秦朝末年、劉邦と項羽は、それぞれ部隊を率いて秦に進行した。その後、項羽と劉邦の争いが起きたが、最後に劉邦が勝利を収め、前漢王朝を確立した。)

 BC 154年  呉楚七国の乱が起こる。

 BC 141年  武帝が即位する。(〜87)。

 BC 139年頃  武帝は張騫(チョウケン)を、大月氏(ダイゲッシ)国に派遣する(〜126頃)  武帝は大月氏と協定して、対匈奴同盟の締結を目論んだ。しかし、その同盟は実現しなかった。

 (月氏(ゲッシ) ⇒ 中国の秦〜漢代に中央アジアで活躍したイラン系騎馬民族。BC 176年 頃 匈奴の冒頓単于の攻撃で、モンゴリア高原西部から追い散らされた。その主力は天山山脈の北へ逃れ「大月氏(ダイゲッシ)」と呼ばれた。黄河の西に残った勢力は「小月氏」と呼ばれた。 BC 150年頃 大月氏は再び匈奴の攻撃を受けて西遷し、アフガニスタン北部、オクサス川の北に移動。 前2世紀後半 さらに南下して大夏を併せ、大月氏国を建立する。)

 ( 張騫 (BC139〜126)  ⇒ 都を出立してすぐに匈奴に捕えられ、そこで10年を過ごした。その後、脱出して大宛、康居、月氏を訪問。その帰路で再び匈奴に捕らわれた。自国に帰還するまでに、計13年を要した。)

 BC 121年 将軍、霍去病(カクキョヘイ)の匈奴討伐成功。甘肅を平定。
 将軍、衛青(霍去病の叔父)、霍去病と共にゴビ砂漠北方へ出征。

 BC 30年頃  匈奴の活動始まる

 AD 8年  前漢、滅亡。皇帝の外戚であった王奔(おうもう)が、「新王朝」(8〜23)を建てる。
 ( だが未熟な行政手腕のために、各地で混乱が生じ、遂に農民が蜂起する。長安に漢朝の宗室の兵馬が攻め込み、王莽は殺された。その二年後に、劉秀が、「後漢王朝(東漢)」を樹立した。)

 AD 25年 劉秀(光武帝)が、「後漢王朝(東漢)」(25〜220)を建てる。そして、後漢の初代皇帝となる。
 ( 光武帝(こうぶてい) (前6〜57)  ⇒  在位25〜57。 父が早逝したため、叔父に養われて育ち、二十歳過ぎには長安に上って学問に励んだ。新の時代の末期に天下が混乱すると、王莽討伐のために起兵し、昆陽の戦いで王莽軍に大勝。河北・山東・関中を平定した。25年に即位して、漢王朝を再興した。洛陽に都を置き、37年、天下の統一を完成した。ただし、即位後も「皇帝になりたかったわけではない。執金吾になりたかった」とよくぼやいたというエピソードが伝えられている。 )

 光武帝(劉秀)の後、皇位は明帝(劉荘)−章帝(劉?)−和帝(劉肇)−殤帝(劉隆)−安帝(劉祐)−少帝懿(劉懿)−順帝(劉保)−冲帝(劉炳)−質帝−桓帝(劉志)−霊帝(劉宏)−廃帝(劉弁)−献帝(劉協) と引き継がれた。

 AD 57年  倭奴国(日本国)の使者が洛陽に来る。

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 さて、この中で注目されるのが、月氏(ゲッシ)、大月氏(ダイゲッシ)という人物の存在です。これは、倭国の卑弥呼と同様に、シャーマンであったと考えられます。つまり月や星の運行、満ち欠けから卜占(ぼくせん)を立てる人という意味です。これはかつての指導者たちには、ぜひとも必要な能力でした。

 ところで、『古事記』の中には、月読命(つくよみのみこと)という呼び名で登場する人物がいます。国産みの神話の後に、イザナミ、イザナギの命が、三人の子どもたちを設けたことが記されています。左の目を洗うと「天照大御神」が、右の目を洗うと「月読命」が、鼻を洗うと「須佐之男命」が誕生します。
 そして天照大御神が支配するのが「高天の原」、月読命が支配するのが「夜の食国(おすくに)」、須佐之男命が支配するのが「海原」と決められます。
 月読命が夜の世界を支配するというのは、この人物が占星術師であったことを物語っています。

 さらに、この後の「五穀の起原」のところには、オオゲツヒメ神という呼び名の人物も登場します。原文とは別の漢字を当てはめれば、「大月氏神」です。つまり、『古事記』の中には月氏、大月氏という二つの名前が登場しているわけです。
 そして、月氏、大月氏が、それぞれ「月読命」、「オオゲツヒメ神」に該当すると考えると、それでは天照大御神というのは誰か、ということになります。
 最初に国の基礎を創った人物という意味では、秦の始皇帝を指します。秦王朝の滅亡後に、それを再建したのが、前漢の皇帝となった劉邦です。
 武帝は張騫を、大月氏国に派遣した人物です。天照大御神と月読命が兄弟のような関係であったことからすると、この人物が一番近いかも知れません。ただし、後漢の初代の皇帝、光武帝という名前は、いかにも天照大御神と名付けるのにふさわしいように感じられます。しかし、月氏との関係では遠くなります。
 ですからこれは、次のように考えるのが妥当と思われます。天照大御神というそもそもの名前の由来は光武帝から来ているものの、実質的には、支配者として君臨した中国大陸の歴代の皇帝を指すということです。つまり、光武帝以前の皇帝が、すべて天照大御神として総称で呼ばれたということです。

 このように考えると、『古事記』の記述が、一定の事実に基づくものであったことに気付くわけです。つまり長い中国大陸の歴史が、短い文章の中にぎゅうぎゅう詰めにされているのです。主要な部分を寄せ集めて、攪拌したところからお話として紡ぎ出しているのです。しかも倭国(日本国)向けに、様々な色付けがなされているのです。そのために全体が分かり難くなってしまったのです。
 さて、そこで問題になるのが、それでは須佐之男命というのは一体、誰を指すのかということです。この場合の「海」というのは、Sea や Ocean のことではなく、様々な人が集結する場所のことです。従って、多くの人種の寄り集まりである匈奴たちを支配する者という意味になります。
 上に書き出した年表の中で、それに該当する者がいるとしたら、霍去病及び衛青が最も近いように思われます。張騫の場合は長期間、捕虜になったりしましたから、支配したとは言えないでしょう。

 ですから、この人物たちの末裔が、今でも中国か日本国内に残っていて、「× or 乂」の旗印を持っていれば、そのことが証明されるのですが、、、、・・・。

 はて、 さて、なにしろ、ふるーい、古い、お話です、。二千年も前の出来事です。
 果たして、どうなることか、、?、・・・、。
 でも、孔子の子孫は、今も残っています。これよりも、もっと古い時代の人物です。先日、あるテレビ番組(タモリさんが司会をする、ご先祖様を紹介する番組。) に、その子孫の方が出演したので驚きました。なんでも外交関係の仕事をしているということでした。こうした事例がある以上は、希望がまったく無いわけではありません。

 それから、、、。
 例の雨の岩屋戸の話ですが、これは前漢と後漢の間の出来事と考えればよいでしょう。「新王朝」を創った王奔が、ろくな政治をしなかったことから、それこそ世の中が真っ暗になってしまったのです。しかも、本家である劉氏の血筋からは、皇帝になろうとする者が現れなかった。そこで、劉秀(光武帝)を引っ張り出すためのさまざまな工作が行われたのです。
 つまり暗い世の中に、燦燦と光を照らした人物が、新たに即位した後漢の初代皇帝だったのです。まさに光り輝く皇帝、すなわち光武帝だったわけです。そのことが比喩的、象徴的に語られていると考えればよいでしょう。

 ということで、、、
  「× or 乂」の旗印に詳しい方は、いらっしゃいませんか。??・・・。
 二重丸の中に「 乂 」が、もともとの正しいマークだったのかも知れません。
 こんな感じのマークです。⇒ 

 これは確かに存在するマークであり、そのマークで象徴される人物がいたことは、まず間違いありません。そして、これ等の二つのマークがイコールで結ばれて、その人物が特定されたときに、日本の歴史が変わります。
 荒神谷遺跡で発見された銅剣と、銅鐸が動かし難い物証となって、『古事記』に記されている出来事が歴史的事実として認定されるからです。 つまり『古事記』が、「神話」ではなく、歴史書になるのです。

 情報をお待ちしております。 (^-^)/~~~~ 。

 2002. 8. 20. 店主記す

 ― 補足 ―

 上に申し述べたような、須佐之男命が渡来人であったという考え方は、考古学の専門家の間ではけっこう知られている考え方のようです。
 ある雑誌で、島根女子短期大学・名誉教授、藤岡大拙さんが、次のように言っていました。下に、その記事の一部を、紹介させていただきます。

 (女優の高田万由子さんと超能力者の高塚光氏が、出雲地方に、海人族の痕跡を求めて訪れた際に、案内役を兼ねて解説してくれたのが、この分野の専門家である藤岡大拙さんです。全体ではけっこう長くなるのですが、ここで扱っているテーマとはややずれますので、必要な部分だけを限定して紹介します。)

 「 新たな仮説を打ち出せない高塚を横に、再び藤岡氏が口を開いた。
 『須佐之男というのはね、出雲の神様ではあるけれども、朝鮮半島からきた神様だとも言われています。おそらく須佐族が渡来した時に祀ってたんじゃないかと思います。』
 須佐族というのは新羅系帰化人の集団。先住の海人族を駆逐して出雲の砂鉄地帯を占領し、韓鍛冶系鉄の文化を背景に勢力を増強した。須佐之男命を氏神と斎いていた。
 すると、すかさず高田が反応する。
  『でも、須佐之男命は天照大神の弟じゃないんですか? それに大国主神は、たしか須佐之男命の6世の孫だったと思いますけど』
 藤岡氏はにっこりとうなずく。
 『古事記ではそうなっています。けれども、それは出雲を支配するようになった大和朝廷勢力が、天津(あまつ)神という天孫降臨した大和朝廷の神々に、須佐之男をくっつけようとした創作だと言われています。それに大国主は地生えの神様といわれていますから、いわゆる国津(くにつ)神というわけで、やはり大和朝廷の神々とは、元来つながりはなかったんです』 」

 (『ボーダーランド』1996年11月号 滑p川春樹事務所刊 編集人 荒俣宏 
 高塚光・高田万由子の超常査察レポート / FILEbU  )

 上の文中にもあるように、渡来人であった須佐族が、この出雲地方で、砂鉄を材料にした鉄の文化を構築したという考え方があるようです。 しかも須佐之男命は、大和朝廷の神々とは系統が異なるとも言っています。

 ただし、藤岡氏が何を根拠に、須佐之男命渡来人説を取っているのかは分かりません。もしかすると、他の著作物の中で、すでに紹介されているものかも知れませんが、寡聞にして存じ上げません。

 以上、興味深い資料をみつけましたで、何かの参考になるかと思い紹介しておくことにしました。

 2003. 1.29. 店主記す

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