( 五 ) 物質化された「小世界」 ―――――――――――――――――――――― お断りするまでもなく、我々が知る科学常識では何も無い空間から、突如として物質や物体が出現するなどということは、絶対にあり得ません。もろろん一度死んだ人間が、生き返るなどということもあり得ません。そうした一般常識をもとにして法律が整備され、脳死状態の人からの臓器の摘出が合法化されたのです。 しかし前回紹介した事例のように、実体化(物質化)した生き霊、すなわちドッペルゲンガー(複体)というものが存在する以上、それ等を否定することが出来なくなります。それどころかむしろ積極的に、肯定する必要があるわけです。 要するに、時と場合と何らかの条件によっては、何も無い空間から様々な物質・物体が出現するのみか、生身の肉体を持った人間さえ生み出されるということです。また損傷した肉体が再生されて、死者が生き返ることもあり得るということです。従って、脳死状態になった人から、早々に臓器の一部を取り出すことは死者の復活を妨げることになり、問題があるということです。 さて、以上のような認識を確かなものとした時に、さらに大きな疑問が解決されます。それが物質化された「小世界」の存在です。つまり現実のこの世界と平行して、或いは同時に、別の世界が存在するというものです。 そこには、この世界に存在するものが、すべて物質化して存在し、また生身の人間までもが存在します。つまり無から有が生じる現象が、大掛かりに発生することによって、究極的には、物質化された小世界が出現するわけです。 **** ***** ―― ○ ○ ――― ***** **** 【 霊と共に物質化された小世界 】 ( 一 ) 『 雨月物語 』の小世界 1953年に公開された映画『雨月物語』は、古典的名作の一つに数えられる作品です。溝口健二監督の作品で、京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之といった蒼々たるメンバーが共演しています。なかなかに見ごたえのある作品です。おそらくご覧になった方も多いことでしょう。 この映画は、上田秋成の『雨月物語』の中に収められている『浅茅が宿』をもとにして創られた作品です。そして、その『浅茅が宿』も、もともとは中国の明の時代の奇憚集、『剪燈新話』(クユウ作)の中に収められた一編、『愛卿伝』を下敷きにしたと言われています。因みに、我が日本国で怪談・牡丹燈篭として有名な『牡丹燈記』も、この中に収められています。 その『浅茅が宿』の大まかな筋は、次のようなものです。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 故郷を離れて行商に出ていた男が、様々な事情から国へ帰れなくなり、しばらくの間、都に留まることになりました。そして七年後に、ようやくにして故郷へ帰ってみると、夫の身を心配していた妻が、いそいそと出迎えてくれました。 その晩、男は妻から、夫がいなかった間の様々な出来事を聞かされました。また恨み言なども言われました。しかし、夜は短いということで、ともかく寝ることにしました。 ところが翌朝、その男が目覚めると、家は、屋根さえ無い廃屋になっており、とうてい人が住める状態ではありませんでした。あたりに妻の姿も見当たりません。 昔、臥所(ふしど)であったところには、土盛りをした塚が築かれており、目印になっている短冊には、妻の筆跡で和歌が認められていました。男はそれを見て、妻が、とうの昔に亡くなっていたことを知ります。 しかも、近くの家を訪ねてみても、知らない人ばかりで、自分のことを知る人は誰もいませんでした。戦(いくさ)があったために、郷の人たちは、散りじりになって逃げてしまったのです。 昔のことを知っている人がいるというので、男は、その人の許を訪ねました。その老人だけが、男のかつての知人でした。その老人が言うことには、妻はその男の帰りを待ちわびつつ、五年前に亡くなったということでした。塚は、その老人が築いてくれたということでした。ただし、その老人は字が書けないために、和歌が書かれている短冊を使って、塚の目印にしたのだということでした。 ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ この物語で興味深いのは、男が七年後にようやく故郷へ帰った時に、待っていた妻が出迎えたことです。しかもその夜は、二人して、寝所で寝たのです。つまりその時点では、雨露がしのげるまともな家があり、また生身の妻がたしかに実在したということです。 そして夜が明けて、朝になってから、家が消失して廃屋になっており、妻も、すでに五年前に亡くなっていたことが分かったのです。 ですから、この場合は、家そのものが物質化しており、また妻の霊(意識主体)も物質化して、帰って来たその男を迎え入れたことになります。要するに、その男の妻を取り巻く小世界全体が、すべて物質化していたわけです。 従って、この作品の原典となった『愛卿伝』が、何らかの事実に基づいて書かれたとすると、これは物質化された小世界の一事例ということになります。ただしこの作品は、あまりにも古い時代のものであり、今となっては確かめるすべがありません。 だからといって、これをすべて虚構であるとする根拠もありません。むしろ何か、ヒントになるような出来事が、実際にあったのではないかと考えるのが自然です。人が想像だけで創り出した世界は、どうしてもリアリティに欠けるからです。 ところで実は、このような予備知識を持った上で、次の事例を読むと、これまでとは異なった捉え方が可能になります。つまり小世界の物質化が、創作されたマンガや物語の世界だけで生じるものではないことに気付かされるのです。それにより、上に紹介した『浅茅が宿』の内容が、極めて現実的なものとなります。 下に紹介するのは、例のテレビ番組「アンビリバボー」(フジTV)で、 2000年3月2日(木) に放送されたものです。 この回の「恐怖のアンビリバボー」は、視聴者が実際に体験した不可解な出来事を扱ったものでした。しかも、現れた霊が、物理的な痕跡を残したというものです。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 1988年10月。鹿児島県に住む山村さん夫妻(仮名。当時、夫31歳、妻25歳)は、ある日、宮崎県の妻の実家へ遊びに行った。 そして、長居をしてしまったために、帰りが、かなり遅くなってしまった。 車での帰り道に、ふと気がつくと、道路沿いに旅館の明かりが見えた。 実際の体験者の証言。(夫。現在、42歳) 『 鹿児島の自宅に戻ろうとしている途中に、峠にかかったところで、二人とも眠 たくなっていたので、ちょうど近くにホテルがあったので、そこに入いろうと・・・、』 怪奇現象は、駐車場で二人が、車から降りた直後に起きた。 山村さんは背後から、突然、何者かに顔を殴られた。 倒れた状態で山村さんが上を見ると、大勢の人たちが、山村さんを取り囲んでいた。お百姓さんたちであった。だが、それはすぐに消えてしまった。 妻には、その人たちの姿が見えなかった。事情を説明しても、まったく信じようとしなかった。 山村さん夫妻は、ともかくその宿に入った。 その宿には、まったく人の気配が無かった。(再現映像では、受付の女性だけがいるように構成されていました。) 山村さんがトイレに行って、鏡で顔を見ると、自分の顔に確かに殴られた跡が残っていた。それによって、先ほど自分が見たものが、決して幻覚などではないことが確認できた。 その後に、幾つかの奇怪な現象が生じた。 〇 水道の蛇口からは、ドロで濁った水が出た。 〇 部屋のテレビがつかなかった。 〇 奥さんが、ふと外を見ると、窓の外に何人もの人影があった。 それ等を見て、奥さんは、ようやく山村さんが言ったことを信用してくれた。 そこですぐチエックアウトしようと、フロントに電話したが、受話器からは強い風と、雨の音だけが聞こえて来た。 山村さん夫妻は、車に飛び乗って、やっとのことで県境まで逃げ延びた。 だが、途中で、車のアクセルが効かなくなった。 山村さんは、ふと後ろに、人の気配を感じて振り向いた。 と、その時。車のフロントガラスに、人がぶつかった。 山村さんは、てっきり人を轢いてしまったと思った。 車を、急停車させた。 車の外へ出て調べてみたが、それらしい人影は見えなかった。 だが、車のフロントガラスは、大きくヒビ割れていた。それは、人がぶつかった確かな証拠であった。 すぐに警察へ通報した。 警察官が来たので、事情を説明した。 だが警官も、被害者らしき人影を、どこにも見つけることが出来なかった。 翌日、知り合いの修理工場に、その車を持ち込んだ。 当時、車を修理した人の証言。 『 石とかが当たった形跡があれば、割れ方がぜんぜん違いますから、・・ もう、 完全に人の顔が、そのままぶつかったかなという感じに・・・私には、見えたん ですけどね。』 保険会社でも、この事件に関して、独自の調査を行った。 しかし、車のフロントガラスからは、人間がぶつかった痕跡を示すものは、一切検出されなかった。 それでも警察から事故証明が出ていたことから、あくまでも事故として取り扱われることになった。 なんとも釈然としない山村さん夫妻は、後日、もう一度、その旅館へ行ってみることにした。 そして、、、そこで二人が見たものは、何と、!!、廃屋と化した建物であった。 地元の人の話では、そこはだいぶ前から、空き家になっているということであった。 体験者本人の証言。 『 近くの人に聞いたところ、もう何年も、この旅館は営業をしていなかったし・・、 そして最近では、売りに出ているということを聞いて・・・・。 私たちは、実際 に、その旅館に行ったし、・・・ ネオンも、ついていました。』 さらに、次のように付け加えた。 『 お祓いに行ったところ、お坊さんが、いきなり自分の顔を見て、あなた(後ろ に)人を連れてきたねと言われて、・・ びっくりしました。』 奥さんの父親の証言。 『 あの旅館のあたりは、不思議なことがよく起きるということで、われわれタク シー運転手の間でも、よく知られているところなんですが・・・。昔、台風があ ったときに、水が氾濫して、あの旅館のあたりに、たくさんの死体が、・・・ 』 * 宮崎県を含む九州南部は、台風の被害が多い。普段は水嵩が少ない川も台風 の時には氾濫して、昭和の中頃には、多くの人たちが亡くなっている。(実際に宿の近くには、川があった。) * その建物は売却されて、現在は、営業を再開している。(そのために体験者本人が再度、その場を訪れた時の映像には、ぼかしが入っていました。) ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ この事例で極めて特徴的なことは、霊が物理的な現象を発生させて、しかもその痕跡を残したという点です。 まず殴られた山村さんの顔には、あざが残っていました。また、霊がぶつかった車のフロントガラスは、人の頭の形に大きくヒビ割れていました。つまり、修理工場の人が証言したように、人身事故の痕跡が明確に残されていたのです。 それにも関わらず、なぜ死体が消えてしまったのかということですが、これについては、次のように考えることが出来ます。 前回紹介したドッペルゲンガー(複体)の事例では、JRの電車の運転手は若い女性が飛び込んだ時に、衝撃さえ感じたということでした。しかし、あるはずの死体がどこにもありませんでした。また痕跡らしきものも、何も残されていませんでした。ここに生き霊と、死者の霊との違いがあります。 生き霊の場合は、当の本人がまだ生存しているわけですから、それから分離した霊(意識主体)も実際に死ぬことは無いのです。つまり物理的な痕跡は残らないわけです。しかし死者の霊の場合は、本人がすでに亡くなっており、しかも以前に紹介した事例のように、自分が死んだ時の状況を、物理的に“再現・復元”することが出来ます。ですから、この事例の体験者である山村さんの場合は、死者の霊の死の情況が“再現・復元”されたと考えることが出来るわけです。 つまり、かつてここで亡くなった人は顔面を負傷したり、或いは、何かに顔面を強く衝突させて死亡したのです。そして、その情況が物理的に“再現・復元”されたことによって、体験者の山村さんは顔を殴られてあざが残り、また車のフロントガラスには大きなヒビ割れが生じたのです。これ等はいずれも死者の霊が、物理的な“力”を発生させたことによって生じた現象です。以前に紹介した事例で、カセットテープのフェイス部分が割れたのと同じことです。 また、山村さん夫妻は、物質化した旅館の中に入って、しかも部屋に通されたのですが、これは上に紹介した『浅茅が宿』の内容と完全に一致します。つまりこの場合は、村の人たちも含めて、旅館の建物もすべてが物質化しており、実際にそこに存在したのです。言い換えれば、村人たちがいた小世界が、すべて物質化されて実在したということです。これは『浅茅が宿』で、家で待っていた妻が夫を出迎えた時の情況と合致します。 そしてここに至ったときに、『浅茅が宿』の原典である『愛卿伝』が、何らかの事実に基づいたものではなかったかという考えに傾くわけです。つまり、この物語も虚構ではなく、実話であった可能性が高いということです。 また、この事例によって明らかになるのは、物質化現象というものが、霊本体だけに生じるものではないということです。発生する規模が大きくなると、その人が生存した当時の世界が、全体的に物質化されるのです。つまり、小世界が物質化されるわけです。 ところで、このような現象が発生する理由は何かということですが、実はここにも、前回紹介した「願ったことが叶えられる」という例の基本原理が働いているのです。ただしこの場合は、死者が残した「想い」、すなわち残留思念です。 上に紹介した『浅茅が宿』のもとになった『愛卿伝』では、おそらく帰って来る夫を家に迎え入れて、ぐちの一つも言いたいという妻の想いが残っていたと考えられます。そうした想い、すなわち願望を実現させるために、小世界の物質化現象が生じたのです。 ですからこの事例の場合も、その旅館に、ぜひ客を迎え入れたいというのが、亡くなった人の想い、すなわち残された思念であったのかも知れません。もし顔面を負傷して亡くなった人が、この宿の前の主人であることが確認されれば、そのことが断定できるのですが、残念ながらその方策がありません。ですからこれは、その可能性が高いという推測の段階に留まります。 ( 二 ) 友達をつくりに来た少年 もう一つ、事例を紹介しておきます。 同じテレビ番組、「アンビリバボー」(フジTV)で、1998年年11月5日(木)に放送されたものです。この回の「恐怖のアンビリバボー」もやはり、“不思議な体験談”を扱ったものでした。 ただしこの事例は、ただ単に霊と小世界が物質化されただけでなく、実体化したその霊が消える際に、人々の記憶までも操作したと考えられるやや特殊なものです。つまり、その物質化した霊に関係する出来事が、人々の記憶の中からすべて消去されたのです。より具体的には心霊現象の終結と同時に、周囲の人たちにの脳内に蓄積されていた記憶の一部が、すべて無くなってしまったのです。 そうした特異な事例であるという認識のもとに読み進めると、全体が理解しやすくなります。同時に、人の記憶の成り立ちを、別の角度から捉えることが必要となる事例です。おそらく多重人格(解離性同一性障害)の人の個々の記憶のありかを考える際のヒントにもなることでしょう。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 当時、中学三年生(15歳)であった長田博さん(仮名)は、その時、街の本屋にいました。 普段は、人通りが絶えない表の通りが、その日は、奇妙に静まり返っていました。長田さんはこの時、妙な胸騒ぎを覚えたということです。 ふと、一人の少年が、前の道を自転車で通り過ぎて行った。 それは、知っている少年であった。長田さんは、、その後を追いかけて、 『 ゆうちゃん? 』と声を掛けた。 少年が振り向いた。 それは果たして、この世には居ないはずの、ゆうちゃんであった。 同時に、長田博さんには、七年前の恐怖の体験が甦った。 それは、1979年当時の、埼玉県の某所で起きた出来事であった。 近くに、子供たちがたくさん集まる場所があった。(再現映像では、神社の境内に設定されていました。) だが、当時八歳の長田博さんは、年上の子供たちの仲間に入れなかった。ところがそうした長田博さんに、一人の少年が声を掛けてくれた。それが、ゆうちゃんであった。 現在27歳の長田博さん本人の話。 『 ボクが、小学校2年生の時が、初めだと思います。そこで、みんなで、野球をやっ ていたんですよ。 その野球をやっているメンバーの中の一人が、ゆうちゃんという 方ですね。ゆうちゃんは、小学校の高学年だと、ボクは思ってました。半年ぐらいは 、たぶんいっしょに遊んでいたように思うんです。 』 その半年が過ぎて、夏休みになると、ゆうちゃんは毎日、博君の家まで迎えに来るようになっていた。 祖母も、ゆうちゃんを、たいへん気に入っていた。 帰宅する時も、二人は、たいてい一緒であった。 ゆうちゃんの家の前で別れるのが、いつもの二人の日課であった。 その日も、互いに手を振って別れた。 その晩、博君は、強い金縛りにかかった。目を開けると、人が立っていた。消える寸前に振り返ったその顔は、ゆうちゃんであった。何か言いたそうであった。 翌朝、早めに家を出た博君は、途中で、激しい衝突音を聞いた。 急いで、その現場に駆け着けると、自転車のゆうちゃんが、血だらけになって倒れていた。 博君は、おばあちゃんを迎えに、家に戻った。 そして、現場までおばあちゃんを連れていって見ると、そこには何も残されていなかった。事故現場の一切合切が、消え失せていたのである。 しかし、それ以上に博君が驚かされたのは、おばあちゃんから、 『 ゆうちゃんって、誰だい?? 』と訊かれたことであった。 祖母は、毎日のように会っていたゆうちゃんのことを、知らないと言うのであった。 博君は、急いで友達がいるところへ駆け着けた。 みんなに、ゆうちゃんのことを尋ねた。しかし、昨日まで一緒に遊んでいたゆうちゃんを覚えている者は、誰も居なかった。 博君は、パニック状態になった。そこで、ゆうちゃんの家に行って確かめようと、その家があったところまで行ってみた。 ところが、そこに家は無かった。何もない空き地が広がっているだけであった。 「ゆうちゃんは、どうしたのか?。一体、何が起こったのか?。」 再び、長田博さん本人の話。 『 昨日までずーっと、一緒に遊んでいたはずのゆうちゃんが、、、もう、ゆうち ゃんが居ないような・・・。誰の話をしているんだ、みたいな形なんですね・・。 ま、その日のうちかどうかはわかんないんですけど・・・、かなりの人に聞いた と思うんですね。近所の人だとか、、。一緒に遊んだ人だとか、、。それでも誰 も、ゆうちゃんを、知らないって言われて・・・・ 』 **** ** *** 当時、ゆうちゃんの家があった場所は、今は畑になっている。 また、付近の人の話では、かつてその交差点では、交通事故が多かったという。 心霊鑑定士の森じゅんさんに、現場を見てもらった。 『 なんか、あんまりいい気持ちはしませんね。ひじょぅに、くらい感じがしま すし、寒々しい感じですし、、・・・ 』 ゆうちゃんとは?、という質問に対して・・。 『 やはり、まあ、、、。少年時代に、、おそらく、事故死した少年ということだと 思います 』 なぜゆうちゃんは、長田さんの記憶にだけとどまったのか?。解けない謎がのこった。 そして、7年後に、長田博さんの前に現われた、かつてのままのゆうちゃんは、 『 さようなら 』 と言って消えて行った。 *** ○○ *** 司会役の佐藤藍子さんの説明。 『 不思議なのは、その長田さんの記憶が、、すごく鮮明なんですよ。で、それを もとにしてスタッフが、似顔絵を、・・・ 。ゆうちゃんの。』 画面に、ゆうちゃんの似顔絵が映し出された。( それには、はっきりと特徴を捉えた少年の絵が描かれていた。) 関根勤。 『 すごいのはね、。中三になったときにね、もう一度会っているというのが、す ごいんだよ。これがね、ちょっと、信憑性があるんだよ。 』 佐藤藍子。 『 その時も、ゆうちゃんは、昔のまんま、。自分は成長しているんだけども、ゆ うちゃんは、もう、、、この絵のまんまで、・・・、 』 突然の、清水圭さんの話。 『 怖い話でもなんでもないんだけど、、 うちは兄貴と二人兄弟で、、商売してた んで、家にだれも居なかったんですよ。テレビのロードショーみたいな、映画を やっているじゃないですか。アレ見るのが趣味で、、。 二人で映画を見てたんですよ。もうすぐエンディングという時に、兄貴がトイ レに行きくなってたんですよ。 ーー 略 ーー 。 もうちょっとだけ我慢するわ、とか言っていて、それで、終わった瞬間に、パ ーってトイレに走って行ったんですよ。、んで、、、うわーって言うから、、な んやおもって、、。 後で聞いたら、、、トイレを開けたら、自分がおしっこをしてたんですって。 あーって、言ったら、消えたらしいんですけど、、』 所。関根。同時に、 『 あぁ!!。気持ちが、先に行ってたんだ!。 』 ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 先に触れておきますと、最後に清水圭さんが紹介したお兄さんのエピソードは、ドッペルゲンガー(複体)が出現する条件とピタリと合致するもので、非常に興味深いものがあります。 今すぐにでもトイレへ行って、おしっこをしたいという願望が、もう一人の自分自身を創り出したのです。前回紹介した事例のように、必ずしも生死の縁をさまよっている時だけに生じる現象ではないことが分かります。 ただしこの場合は、第三者の目撃証言がありませんから、それは幻覚だといわれてもやむを得ません。しかしながら健康な人でも、そうした幻覚を見ることがあるのだという説明では、とうてい納得することができません。 さて、この長田博さんの体験事例では、ゆうちゃん本人と、ゆうちゃんが住んでいた家が物質化して存在していました。そして、長田博さんの周囲にいた友人たちはもちろん、おばあちゃんも、ゆうちゃんの存在を知っていました。 ところが、ゆうちゃんが自動車事故で亡くなると同時に、それ等の人たちのゆうちゃんに関する記憶が、すべて消失してしまったのです。 物質化現象に関する予備知識を何も持たない人が、いきなりこの体験談を聞かされた場合、まず長田博さんの精神状態を疑うことでしょう。周囲の人たちが何も覚えていないのだから、ゆうちゃんという人物は、最初から存在しなかったと考えるのが普通の考え方だからです。すると原因は、長田博さんの精神状態にあるに違いないということになります。少なくとも現代科学を盲信する人たちは、そう考えるに違いありません。つまり、幻覚・妄想のたぐいで片付けられてしまうわけです。 しかし、ここで見落としてならないのは、長田博さんにはゆうちゃんの似顔絵が描けるほど、鮮明な記憶が残っていたということです。しかも七年後に、以前とまったく変わらない容姿・容貌のゆうちゃんと、再会したという点です。 この二点を確かなものとして長田博さんの体験談を考えると、まずゆうちゃん本人が物質化して存在しており、またゆうちゃんが住んでいた家も物質化しており、当然のことながら周囲の人たちも、ゆうちゃんのことを知っていたことになります。つまり、この場合はゆうちゃんと、ゆうちゃんを取り巻く小世界がすべて物質化していたのです。 ところがそれ等のすべてが、交通事故の“再現・復元”と同時に、完全に消滅しのです。同時に、周囲の人々の記憶の中から、ゆうちゃんに関係する出来事が、すべて消失したのです。 こう考えると他の人たちが、ゆうちゃんのことを知らないと言っていることの説明がつきます。つまり、ゆうちゃんに関係するものすべてが、ゆうちゃん本人の消滅と同時に、次元を超えた別の世界へ消え去ったということです。 では、ゆうちゃんに関する記憶が、長田博さんにだけ残ったのはなぜかということですが、それこそがゆうちゃんの霊が実体化(物質化)して、この世界に出現した本来の目的であり、願望であったからです。つまりここにも、「願ったことが叶えられる」という例の基本原理が働いているのです。 あくまでもこれは推測になりますが、おそらく事故死したゆうちゃんには、友達がいなかったのです。そのために自分のことを、誰も覚えていないという無念さが残されたのです。つまりゆうちゃんは、友達との思い出をつくるために、この世界に戻って来たと言ってもよいでしょう。そして、たくさんの友人と遊んだ記憶を持って、再度、死んで行ったのです。つまりこの場合は、他の人に対してではなく自分自身に対して、死の情況を“再現・復元”したわけです。 住んでいる家が物質化されたのは、その願いを叶えるためには、ぜひとも必要なものだったからです。もしかすると、家族も物質化されていたかも知れません。ゆうちゃん本人がこの現実の世界で生活し、実際に生きている人間でなければならなかったからです。 そして、七年後に、二人が再会したのにも意味があったのです。むしろ再び登場するのに、七年も掛かってしまったと考えるのが正しいように思います。ここには「七」という数字が持つ重大な意味が、背後に隠されているのです。 そして、ゆうちゃんは最後に、 「さようなら」と言って消えて行きました。 つまり、この再会と、この分かれ方をすることが、ゆうちゃんにとっての切なる願いだったのです。なぜならこれは、自分のことを覚えている友達との普通の分かれ方だからです。最後にそうした分かれの挨拶をするために、再びこの世界に戻って来たのです。言い換えれば、この一言のために、七年前の数々の思い出が創られたということです ***** **** ―― ○ *** ○ ―― **** ***** 以上により、死者の霊だけでなく、その霊が属する小世界全体が物質化されることが明らかになりました。つまり、この現実の世界と平行して、或いは同時に、まったく別の世界が存在するということです。 さて、そうしたときに、もしこれがもっと大掛かりに発生したら、一体どのようなことになるだろうかという疑問が生じます。言うなれば、超々巨大空間の物質化現象です。そうしたことも起こり得るに違いないからです。 ということで、次回に、つづきます。 2003. 2. 23. 店主記す |