『旧約聖書』の「創世記」を歴史書として読む 〔 その 三 〕 ―――――――――――――――――――――――――――――― ということで、前回からのつづきです。 今回は、「第五の日」の初めからです。 そこには、まず、 ○ 「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」 という「神の言葉」があります。 そして、その後に、 ○ 「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼のある鳥をそれぞれに創造された。」 と続いています。 これは具体的な年代で示すと、「約15〜6億年前から6〜7億年前にかけての時期」ということになります。 この頃にようやく、古生代の最初の「生物」が誕生しました。つまり植物細胞から動物細胞への、遺伝子レベルでの変換が起きたわけです。そのことが説明されているのです。 まず、微生物の「単細胞生物」が誕生しました。それが「多細胞生物」へと進化して行きます。そして、その多細胞生物が次第に、大型の生物へと進化を遂げて行ったのです。「大きな怪物、うごめく生き物」と表現されているものがそれです。 また、翼を持つ「鳥」の原形も誕生します。ただしこの段階では、まだ陸上生物は誕生していません。ですからこの時期に、実際に空を飛ぶ鳥が出現したということではありません。あくまでも「翼を持つ鳥」の「原形」、或いは「基本形」といったものが創られたということです。つまり、そうしたものを生み出すような「一定の方向性を持った力」が、すでにこの段階から機能していたということです。 少し前に、「始祖鳥」よりもかなり古い年代の鳥の化石が発見されました。二億二千万年前のものでした。これは鳥が、恐竜を経ずに進化したことを裏付けるものです。このことから考えても、どうやらあの特殊な形態の生物は、そうそう簡単に出来上がったものではないようです。 空を飛ぶために必要な羽毛の翼にしても、それを支える強くて軽い中空の骨格にしても、単に幾つかの偶然が積み重なって出来上がったものではないということです。そのような生物を生み出すための一定の方向性を持った“力”が、すでにこの頃から働いていたのです。ですから、おそらく鳥の起源は、陸上生物が誕生した直後の時点まで遡るものと思われます。 次に神は、出来上がったそれ等のものを祝福して、次のように言います。 ○ 「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」 これは具体的な年代としては、「5億7千年前」の「カンブリア紀」ということになります。この頃に「進化の大爆発」があったことが知られています。 それは「極めて異常な進化と繁栄の時代」であったと言われています。多くの「種」や「属」が、入り乱れて、異常に繁殖したのです。この頃に誕生したものの中には、何の種に属するのか、分類の定かでないものが多く存在します。例の奇怪な容姿の「アノマノカリス」などがそれです。そして、現存する「網」のほとんど全てが、この時期の化石の中に見出されるということです。 従って、この「神の言葉」は、それぞれの種や属や網の繁殖、繁栄を促進する“力”として働いたことになります。つまり、この頃の異常な種の繁栄には、偶然以外の何等かの未知の原理や、未知の法則が働いていたということです。それでなければ、太古の海に溢れ返るように誕生した生物の種の多さが説明できないでしょう。 「第六の日」には、まず始めに、 ○ 「地はそれぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれ産み出せ」 という神の言葉があります。 そして、その後に、 ○ 「そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものを造られた。」 と続いています。 これは年代的には、「約三億六千年前」のデポン紀後期の出来事です。この頃に、最初の「陸上生物」が誕生しました。 陸に上がった最初の生物としては、「イクチオステガ」という名前の生物が知られています。つまり、これこそが現在、地上に棲息する両生類、爬虫類、ほ乳類等々の先祖となった生物です。 ところで海の生物が陸に上がるには、まず真水の川を溯り、その後、水陸両棲の生活を経て、徐々にその水辺から離れて行ったという経緯が考えられています。ただし水棲生物が、水の浮力のない陸に上がるには、生体の構造を根本から改造する必要があったのです。では具体的に、どのような生態的変化が必要かということですが、幾つか例をあげると次のようになります。 ○ 海の成分を体内に蓄積するために、「脊椎」が形成される必要があります。 ○ 地上の重力に打ち勝つためには、「体骨格」が必要です。 ○ 重い骨格を支えるためには強い「筋肉」、及び丈夫な「筋」が必要です。 ○ 空気中から酸素を取り入れるためには、「肺呼吸」が必要です。 ○ 陸上を歩行するためには、「四本の足」が必要です。 こうした諸々の生態的変化が生じたことによって、ようやく海の生物が、陸へと上がることが出来たのです。従って、こうした一連の変化を可能にしたものが、「地はそれぞれの生き物を生み出せ」という「神の言葉」であったということです。 もしこれが、その時々の必要性に応じて、バラバラの「進化」が生じていたら、生物たちは決して陸に上がることは出来なかったのです。それでなくとも生物にとっては、海の中で暮らした方が楽なのであり、なにも苦労して陸へ上がる必然性はなかったのです。また、それぞれの段階ごとの生態的変化が、それぞれの必要性に応じて生じなかったら、やはり生物たちは、陸に上がることは出来なかったのです。 つまり、「陸に上がる」という一つの方向性を持った生態的、機能的な変化が長い間、継続的に生じたために、生物たちは海から川へ、そして川から陸へという進化の過程を辿ることが出来たのです。ですから陸上生物の誕生も、単なる偶然の積み重ねによるものではないということです。 第六の日には、まだ続きがあります。神は、この後、 ○ 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 と言います。 そして、その後に、 ○ 「神はご自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」 と続きます。 さらに、 ○ 「神は彼らを祝福して言われた。」 とあって、 ○ 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 という「神の言葉」が続いています。 これは生物たちが進化し、存続していくための「原理と法則」が、この頃、ようやく確立されたことを説明するものです。つまりこの頃になって、ようやく「種の保存」の原理と、「進化」の法則が確立されたのです。 ここで注意しなければならないのは、年代的には生物達が、今まさに上陸しようとしていた時期であるということです。具体的には約3億6千年前のデポン紀後期です。このことを認識しておかないと、大きな誤りを犯します。 また、ここで言うところの「神にかたどり、神に似せて創られた」ものというのは、我々人間から見れば、やはり「神」と言うべき存在であるということです。神に等しい能力と、神と同等の力を有するものは、まさしく「神」にほかなりません。ですからこの「人」というのは、正確には「神の分身」というのが正しいことになります。 そうしたものを創造して、全ての「種」や「属」の支配を任せたのです。つまり全ての種や属の「進化」と「保存」を司るものが、ここで言う「人」であるということです。 それにより生き物たちの進化が統制され、繁殖が制御されるようになったのです。 また、それが「男と女に創造された」ということは、動物たちの「種」の保存は雌・雄の「性」によってなされるということです。つまり動物の場合は、「有性生殖」が種の保存のための基本原理であり、「単為生殖」や「無性生殖」は行われないということです。 もちろんこれは、後に出現する「人類」にも当てはまります。従って、最初の人類であるアダムとイブの誕生の場面でも、再度このことが取り上げられます。そこでも「人」という表現がなされているために、取り扱いに注意する必要があります。 これによって、ようやく「カンブリア紀」の「秩序のない繁殖と繁栄」の時代に終止符が打たれ、より秩序だった進化と、統制された繁栄の時代に入ることが出来たのです。そうしたことを司る「神の分身」、すなわちここで言う「人」が、あちら側の世界で創造され、設置されたからです。 次に神は、 ○ 「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」 と言います。 この部分も少々分かり難いかも知れませんが、要するにここでは地上に生える植物は、動物たちの食物であると同時に、「人」すなわち「神の分身」の食べ物でもあると言っているわけです。具体的には野菜や果物というのは、地上の生き物たちの食料であるが、それは同時に「神の分身」の食べ物であるということです。 従ってこれには、まったく別の意味が含まれていることになります。つまり我々人間を含む全ての動物たちというのは、単なる物質的な存在ではなく、「神の分身」との結合によって成り立っているということです。そして、その「神の分身」もこの三次現世界で存続していくためには、何等かの形でエネルギーを補給する必要があるということです。そのエネルギー補給が、我々が野菜や果物を食べることによって、同時に可能になるということです。ですから我々の日々の食事は、神の分身の食事でもあるわけです。 次に、 ○ 「そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」 と続いています。 これは前にも述べたように、「天地創造」から「生物の誕生」までが、事前に設定された設計図(プログラム)通りに、つつがなく進行したという意味です。そして、それが見事に完成したということになります。 そして、その後に、 ○ 「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」 ○ 「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」 ○ 「これが天地創造の由来である」 と続きます。 いよいよ最終日の「第七の日」です。 これはただ単に、「天地創造」のための一連の作業が、すべて終了したという意味です。言い替えるならば、さらに何等かの“力”を働かせて、新たな現象を発生させる必要性が無くなったということです。ですからこの時点で、現在とほぼ同じ様な環境の世界が、すでに出来上がっていたことになります。 ただし、ここにある「第七の日が聖別された」というのは、もう一つ重要な意味を持っています。これは仏教の「六道輪廻」の思想とも関連すると考えられます。 仏教の開祖である釈迦は、悟りを拓いて俗界の人ゴータマシッダールタから「仏陀」として生まれ変わった時に、「七歩」歩んで、「天上天下唯我独尊」と唱えたと伝えられています。この「七」という数字と同じ意味です。 つまり、永遠に続く「六道輪廻の業」を断ち切ったときに、はじめて開かれる世界が「第七番目の世界」であるということです。これは「苦役の労働」から逃れられたのが、第七の日であるということと関連します。要するに一切の難行、苦行、業苦から解放される世界、それが「聖別された七番目の世界」なのです。ですから第七の日に神が休んだということではなく、一切の業苦の無い「祝福された安息の日」が第七番目の世界であるということになります。 ( 一つ補足しておきますと、釈迦に関する伝記の中には、釈迦が生まれてすぐに立ち上がって、「天上天下唯我独尊」という不遜な言葉を吐いたとされているものがあります。これはまったくの誤解、偏見に基づくものです。たとえ将来どんなに偉くなる人でも、生まれてすぐに立ち上がることは出来ません。 また「天上天下唯我独尊」という言葉は、「悟り」の世界の何たるかを、具体的に説明したものです。つまり、その際に生じる心的な現象について述べたものです。「自分の意識のみがその空間に存在する」という特異な心理現象のことです。 ですから決して「自分だけが偉いのだ」という意味に解釈すべきではありません。例の広辞苑にさえそのような意味が載っていますが、仏教関係者は、むしろそのような解釈が広く世間に流布してしまっている現状を愁うべきでしょう。 ) さて、以上で天地の創造と、生物が誕生するまでの七日間が終了しました。このあとに続くのが、いよいよ人類の誕生です。 人類の誕生は、今から「約五百万年前」と言われています。そのことが『旧約聖書』の中では、次のように記されています。以後、関連する部分を抜粋しながら、同時に説明を付け加えて行くことにします。 ただし、このあたりは、非常に抽象的な表現が目立ちます。しかも、フロイトの言う「象徴化」という現象までが生じていたりして、けっこう分かり難くなっています。その上に、妙に教訓的だったりします。これまでの淡々とした簡潔で分かり易い文章とは、かなり対照的です。おそらく後世の人たちがいろいろと手を加えて、無理に修正してしまったためではないかと考えられます。不必要な記述が目立つので、よけいにそうした印象が強くなります。 まず、人というものについて、次のような定義付けがなされています。 ○「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」 これは人間というものが、物質的には「土の塵」のようなもので出来ているということを説明しているわけです。実際に人が死ねば、誰でも「土」に返ります。つまり我々「人間」は、そうした物質的な存在であるということです。 ただし、人は、ただ単にそれだけで出来あがっているわけではなくて、神から「命の息」を吹き込まれることによって初めて「人」になるのです。ですからこれは、人間というものが「霊的な存在である」ということを説明していることになります。 先に「青草」のところで、人というものが物質的な存在であると同時に、霊的な存在でもあると述べたことが、ここではからずも裏付けられたことになります。要するに、人というものは肉体と、「神の分身」としての霊との結合によって成り立っているということです。 また、我々人類が誕生する以前の状況が、次のように説明されています。 ○「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」 ○「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」 ○「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」 ○「主なる神は人に命じて言われた。 『 園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう 』 」 ここにある「命の木」というのは、我々人類が、生命を維持するための木と考えてよいでしょう。つまり、木の上になっている果実や、種が我々人類の食料であったということです。 そして、そうしたものを取って食べることが、神によって「命じられた」ということは、人類の祖先が「四足歩行」の動物から、「手」を使うことが出来る動物に進化したということです。 実際に手がなければ、自由に木に登ったり、果実を採ったりすることが出来ません。従って、ここでは我々人類の祖先が地上から離れて、樹上生活をするようになったということを説明しているわけです。もっと簡単に言ってしまえば、お猿さんだったということです。我々のご先祖様は、、、、。 ただしそのためには、木に登るための手や足が必要です。また枝にぶら下がるためには、長い指が必要です。これ等は、地上を走ったり、歩いたりするのとは別の機能です。従ってこの時期に、ある種の生物に対して、手足の発達と、五本の指の成長を促す現象が生じたことになります。それによって、木の上に登って自由に果実を取ることの出来る動物、すなわち類人猿が誕生したのです。 また、ここにある「善悪の知識の木」というのは、人間に「智恵」を授けるものという意味です。そして、それが神によって「禁じられていた」ということは、この頃の人類は、まだ自分自身では何も考えることが出来ない本当のお猿さんだったということです。 ただし、それを食べると必ず死んでしまうというのは、まったく別の意味があります。それについては、後程、、。 ということで、、 次回に続きます。 2001. 3. 2. 店主記す |