〔2〕 ヤマタノオロチ伝説と出雲国風土記 『出雲国風土記』の神門郡 の条に、以下のような記述があります。 『 狭結の厩(さゆうのうまや) 郡家(こおりのみやけ)と同じき処(ところ)なり。古志(こし)の国の佐與布(さよふ)という人来(き)居(す)みき。故(かれ)最邑(さいう)といふ。 神亀(しんき)三年、字を狭結と改む。 其の来(き)居(す)みし所以は、説くこと、古志(こし)の郷の如し。』 そして脚注には、それぞれの語句について、次のような説明がしてあります。 郡家 ⇒ 古志の郷の地。出雲市古志町 古志の国 ⇒ 越の国。北陸地方。 佐與布 ⇒ 人名。池造りの土木工事のために召しよせられた人である。 最邑 ⇒ ヨフ(与布)・ユフ(結)イフ(邑)・近似音の故に、いずれにも通わしたのであろう。 ( 以上 『風土記』 岩波書店 日本古典文学体系 より ) この文章の大略は、『古志(越)の国から遣って来た佐與布(さよふ)という名前の人が、この土地に住み着いたことから、最邑(さいう)と呼ばれるようになった』 ということです。 そして、その人がここへ来た理由が 『古志(こし)の郷の如し』 とあるのは、前のページで紹介した次の部分を指します。 『 古志(こし)の郷(さと) ーー 略 ーー イザナミ命の時、日淵川(ひぶちかわ)を以(も)ちて池を築造(つく)りき。 その時、古志の国人等(くにひとら)、到来(き)たりて堤(つつみ)を為(つく)りき。即(すなは)ち、宿(やど)り居(ゐ)し所なり。ーー 略 ーー 。』 ( 同 上 ) さて、この記述をそのままに受け取ると、北陸に、越(古志)という国が存在した。そこでは以前から、川の氾濫を防止するために、酒船方式のダム工法が使われていた。つまり治水に関して、高い技術を持っていた。 その高度な土木技術を伝えるために、佐與布(さよふ)という人を始めとする古志(越)の国の技術者たちが、遠方からわざわざ召喚された。そして、そのうちの一人であった佐與布という人は、やまたのおろち退治の工事が終わった後も、自国へ帰らずに、ここに住んでいたということです。 しかし、ここに幾つかの疑問が生じます。 その一つは、果たして、この当時、北陸にすでに、越(古志)という国が実在したのかということです。 脚注の説明では、『 古志(こし)の国 ⇒ 越の国。北陸地方。』 となっています。 しかし、これは順序が、逆になっている可能性があります。この出雲で活躍した一団が、後に北陸に移り住んだために、越(古志)という国が出来たとも考えられるからです。 つまり『出雲風土記』が編纂された時代には、たしかに越という国があったとしても、須佐之男命の時代には、まだ存在していなかったのではないかということです。 二つ目は、酒船(樽)方式のダム工法は、果たして、稲作のための灌漑・排水の技術から生まれた工法なのだろうかということです。 稲作が行われていれば、田畑に水を廻らすために灌漑・排水の技術が発達します。しかし櫛名田比売は、氾濫する川の流れを変える治水技術は持っていませんでした。つまり利水の技術はあっても、治水の技術は無かったのです。そのために斐伊川の氾濫を止められなかったのです。 この技術が開発されるためには、自然を利用する技術だけでなく、積極的に自然環境を変える発想が必要です。山を削り、谷を埋めるという大掛かりな工法だからです。自然破壊にもつながる工法です。 そして、この技術が開発されるためには、その背景に、かなり切羽詰った事情が必要であろうと考えられます。要するにこれは、軍事用に開発された技術であろうということです。言い換えれば、利水のために開発された工法というよりは、敵と戦う際の陣地造りに必要な技術であるということです。 後に登場する環濠(かんごう)集落というのは、周囲に濠(ほり)を巡らせた村落のことです。これは周辺の部族との戦いに備えたものであり、敵が容易に攻め込むことが出来ないように、周囲に深い堀を廻らしています。大規模なものでは二重、三重に堀が張り巡らされています。 これは後に、戦国時代の城造りにも応用されました。大阪城が容易に陥落しなかったのは、何重にも取り巻いた深い堀があったおかげです。攻めあぐねた家康は、謀略を用いて堀を順次埋めさせ、ようやくにして攻め落とすことが出来たのです。 それには水路を掘って、近くの川から水を引き込むための技術が必要です。つまり堤防を築き、水門を造り、水路を固めるといった高度な土木・建築の技術が必要なのです。ただし、これは国が平和な時代には必要のない技術です。 このようなことから、どうしても越(古志)という国は、もともと中国大陸にあった国であり、そこから須佐之男命といっしょに脱出して来た一団が、出雲の国に遣って来たのではないかと考えてしまうわけです。佐與布という人物も、その中の一人ではなかったかということです。 さて、そうすると、ここでどうしても注目されるのが、古代の中国に実在した 「越の句践(こうせん)」 という人物です。 「春秋の五覇」と呼ばれたうちの一人です。 この「越」 は音読みにすれば 「エツ」 ですが、訓読みにすれば 「コシ」 です。即ち、古志です。 ですから、もしかすると句践の子孫たちが、秦の始皇帝の統治から逃れて、遠く海を隔てた出雲の地へ遣って来たということも、決して考えられないことではなかろうと思う次第です。 ぜひ、彼等が使っていた旗印について知りたいものです。何か手掛りは残されていないものでしょうか。 2004. 3. 2. 店主記す |