日本で一番若いデイレクターだった。テレビというメディアも若かった。映画やラジオに馬鹿にされても、無我夢中の活気に満ちていた。学生時代がぼくの青春なら、ここにはまぎれもなくぼくの第二の青春があった。

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 これが副調整室(サブ)だ

副調整室(サブ)といい、あだ名を金魚鉢といった。スタジオから見上げると、中二階のガラス窓の内部が、本番中のプロデューサー兼ディレクターの城だからだ。ぼくの左はテクニカル・ディレクター(TD)で、この場合はスゥイッチヤー(sw)も兼任していた。周囲には照明・音声・効果のチーフがひしめていた。正面ガラス窓の上部にモニターが並んでおり、二台か三台のカメラが常時映像を送ってくる。ぼくのキューにしたがって、スゥイッチャーか画面を切り換えてゆくわけだ。平行してインターフォンでスタジオのフロア・ディレクターを通して役者にキューを出す。格好よくいえばオーケストラの指揮者だが、たいていはぼくかだれかが想像を絶するミスを演じた。
半世紀前の生放送しかなかったテレビ現場の光景である。いまはナニをどう呼んでどう作っているのか、テレビ原人のぼくには別世界である。


 早春の磯遊び

菊地寛賞を受賞した当時のテレビの代表番組『バス通り裏』は、生放送を再現できない限り、スタッフキャストの記憶と共に消えてゆく運命だろう。帯番組(毎日放映)・ホームドラマの元祖としての歴史が失せるわけではないが、年老いた元ディレクターとしては心寂しいものがある。みんな若かった、テレビも若かった。季節でいえばホンの早春であった。若いからみんな良く遊んだ。演出陣ではぼくだけ独身だったから、残業の間を縫って誘われればホイホイと遊びに出かけた。これは若い主役たちが、茅ヶ崎の海へそろって出かけたときのスナップだ。十朱幸代さん、岩下志麻さん、宗方勝巳くん、十朱さんの母親役だった露原千草さん、その息子さん(その後に起きた国鉄の三河島事故の犠牲者となって若い命を絶たれた……みんな泣いた)が、陽気にお手手つないでいるところである。1960年ごろだったと思う。四隅が欠けているのは、なにせ古い写真なのでご勘弁を。


 テレビ最初期のスターの思い出

森繁さん、水之江さんと、テレビ黎明期を支えた大スターが亡くなった。ぼくは水之江さん主演の連続バラエティでインターフォンを被っていたから、思い出はいっぱいある。森繁ショーではパシリでしかなかった。ところが写真を探してみると、なぜかターキー関係が一枚もない。そこで持ち出したのは、ヒットミュージカル『オオ・マイ・パパ』で主演?したカップだ。亡きパパ森繁を偲んで家族が集まる。テーブルの中央には愛用のカップ。それにダブって森繁の手にしたカップが現れ──あの歌になる。だから重厚でデザインがシンプルなカップが二個必要だが、小道具屋にない。ぼくが高島屋のローズショップでみつけたカップがOKになった。自前で買ったのだから、テレビが終わればぼくのものだ。そんなわけで今もぼくがコーヒーを飲んでいる。人物写真は、森繁さんと丹阿弥谷津子さんである。


 あのころのテレビドラマの花形を

長い間テレビのページは店晒しだった。アルバムをひっくり返していたら、こんな写真が出てきたので、ご紹介する。上のきりっとした美少女は、当時新東宝の田原知佐子さん。東宝では原知佐子として『黒い画集』に主演しているが、亡き実相寺昭雄監督夫人としてご承知かもしれない。連続ドラマ『駅まで六分』にゲスト出演してもらったぼくは、そのクリアな存在感に一驚したものだ。下の楚々たる美少女は連続ドラマ『虹が呼んでいる』に主演した磯村みどりさんと、ぼく。森繁さんに見いだされてデビューしたんじゃなかったかな。生放送の『虹』では高熱をおして演じ切り、終わるやいなや昏倒した。大映『忍びの者』シリーズの一本で、市川雷蔵の相手役を勤めたっけ。


 それぞれの漂流先に関わるリンクを、少しづつ増やすつもりですが……

 日本脚本家連盟
とりあえずリンクはこの日本最大の脚本家団体から。むかしぼくはここの動画部長を勤めました。まんがの原作教室もやりました。お世話さまです……そのころも今も。
 日本放送作家協会
04年現在の理事長は市川森一さんです。放送文化向上のために奮闘されています。脚本家志望の人はぜひおいでください。ぼくは半年に一度フリラーイター教室に現れます。


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