中区大井町コインパーク物語
         中保育園日照問題 あの手この手の奮戦記

 弁護士の仕事は、物を作る仕事ではない。なので、なかなか形に残らない。
 でも、ボクは幸いにも、日照権を守る住民運動に首を突っ込んでいるおかげで、街のそこここにその成果が残っている。ボクは、これを「ボクの作品」と呼んでいる。
 たとえば、10階建てワンルームマンション計画に反対して建てた3階建マンションがある。民家の真南を覆って建つ筈だった3階建マンションの内、民家の正面1列分の部屋をすっぽり切り取った建物もある。保育園の真南に建つ5階建事務所を、日影だけは3階建並になるように北側を急勾配に下がるデザイン賞もののビルも建てた。7階建てマンション計画地を戸建て住宅街を造成した。
 そう、「ボクの作品」とはいうけれど、これらは決して諦めなかった住民たちの結束の成果、そして、名古屋の建築業者指名手配ものの、切れ者建築専門家の後藤徹氏の尽力の成果だ。
 そんな粘り強い住民運動への関わりは、一つ一つが思い出深い。

 昨年、また、中区大井町のコインパークが私の作品リストに加わった。
 発端は、一昨年2月、C建設が、名古屋市立中保育園の南西側に計画した10階建てマンション。公立保育園父母の会(名古屋市立保育園80数ヶ園の保護者会の連絡会)から、来てほしいとの連絡を受けたボクは、父母との打合せの機会もなく、第1回の建築説明会に臨んだ。
 保育園での1回目の説明会は、園庭に日影が生じることから、父母が業者に対して、強く計画の縮小を強く求めるのが常だ。ところが、説明会では、入居者の治安対策を求める意見が大半だった。折から池田小学校児童殺傷事件の記憶も鮮明な頃で、都心にある保育園の親としては当然の不安だったかもしれないが、8年振りに保育園のマンション建設説明会に出たボクは、最初から計画縮小をほとんど求めようとしない対応に今浦島の心境だった。
 日照運動には、決定的な手がかり等、何もない。法律も、行政も建築側の味方だ。だから、最初から、「どうなるんですか」と聞かれれば、「法律的にも行政的にもどうにもなりません」というのが弁護士の模範回答だ。でも、それは、立ち止まったまま物を考えるからだ。運動は歩きながら、走りながら考える。最初から計画縮小を諦めているような物わかりの良さに最初は戸惑ったし、正直、腹さえ立てた。
 でも、ちょっとしたきっかけで親たちは変わる。ボクは、「頑張ったら、こんな成果が上がった例があった、あんな思いもよらない結果になった例があった」と、「作品リスト」からいくつか取り出して説明する。運動の要諦は、先のことを見るより、今何ができるかを考える。今できることをやり尽くす。それに尽きる。
 しばらくは、みんなが経験のないマスコミ会見、市役所交渉や、市議会議員回りなどに付き合った。公立保育園父母の会を通してお願いした署名が、どんどん返ってくる。親たちの目の色が変わった。
 ボクの役目はここまで。忙しいことをいいことに、後は、皆さんにお任せ。
 意外に早く、突然、C建設から、撤退の連絡が入る。実は、ボクとC建設は3回目の顔合わせだった。C建設は、本当に被害者に酷な建築もするが、手間がかかると見れば、見極めも早い。早々の退散だった。
 一幕目はこれで、終わった。でも、施主は建築を諦めていない。いずれ他の建築業者を使ってマンションを建築しようとするだろう。
 そう、それからが本番だった。

 2か月後の6月、今度は、Yハウスから説明会の連絡が入る。
 この頃には、建設反対の署名は1万名を超えていた。親たちも自信を持っていた。 3回の説明会を重ねて出された回答は、9階建てへの変更。
 それでも、園庭の日影はほとんど変わらない。親たちは反対の意思を確認し合った。市役所交渉、施主との少人数の直接交渉、それでも事態は動かない。
 親たちは栄での宣伝行動、市議会議員回りを重ねる。やがて、新聞だけでなく、テレビも親たちの活動を報道するようになり、署名も1万5000を超えた。
 しかし、業者は建築確認を申請し、着工は目前に迫る。
 そんなとき、願ってもない朗報。市議会で中保育園の日照を守る請願が採択される可能性が生まれたというのだ。市議会での請願は、紹介議員が必要とされており(法律的根拠はない)、採択されるには、与党議員を含めた複数政党が賛成する目処が立たなければならない。願ってもなく、与党の中から自民党と民主党の議員が紹介議員になってくれるという。これで市議会請願採択への道は大きく開けた。市議会で請願が採択されれば、建築業者も身動きが取れなくなる。ボクは、議会請願には正直否定的で、否決されるような請願はしない方がいいと考えていたくらいだ。まさか自民党の賛成まで得られるとは想像もしていなかった。

 ところが、異変はその翌日に起きた。
 Yハウスが名古屋市を相手取って、調停を起こしたというのだ。
 この調停は、裁判所で行うものではなく、名古屋市の中高層建築物条例によって設けられた制度で、名古屋市長が主催するものだ。Yハウスは、名古屋市の調停制度を使って保育園の設置者である名古屋市を相手に調停を起こしたのだ。
 最初、このことが何を意味するのか、ボクにもよくわからなかった。Yハウスも遂に、柔軟に話し合おうとする姿勢に転換したのかと思ったくらいだから、ボクもお人好しだ。
 これがYハウスの放ったウルトラCだとわかったのは、2日くらい後。紹介議員を引き受けていた自民党の大物市会議員を初め与党議員が請願の紹介議員になることを次々と断ってきたのだ。理由は、名古屋市自身が当事者になっている調停をしている事件について、市議会が独自に請願を採択することはできないという形式的なものだった。
 Yハウスの調停申立は、請願採択を不可能にするための政治的手段だったのだ。
 かくして、追いつめて、捕獲寸前だった獲物は、するりと逃げていった。

 しかし、保護者会は、ひるまなかった。その後集められた8000名の署名を市長に直接手渡そうと、市長室前に座り込んだ。昔は、こんなことをすると、不退去罪で警察に追われることもあった。万一の場合に備えてアドバイスすべく、ボクも事務所に待機した。ところが、覚悟の座り込みも、座り込み開始まもなく、市長がテレビカメラと一緒に市長室に入ろうとする場面に出くわすという幸運に恵まれた。さすがの市長もテレビカメラの前で父母の懇願を無下に断る訳にはいかず、直接、署名を受け取った(ホントに嫌々そうな顔をしていたというのが親からの後日談)。これで、一挙にまた新聞各紙が中保育園の日照問題を採り上げた。

 名古屋市は、調停の当事者はあくまでも保育園の設置者である名古屋市であるとして保護者を調停の当事者とは認めないにも拘わらず、執拗に保護者代表を調停に出席させるように求めてきた。
 ボクは、名古屋市が設けている調停が、決して住民側の立場になって運営されていないことを知っている。この調停は、建築基準法上、適法なのだから、マンションは建ってしまうと、住民に些細な手直しで泣き寝入りを強いる場でしかない。
 出席しなくてもよいのかと、何度も私は保護者から相談を受けた。そのたびにボクは、僅かな手直しで、保護者の意見も聞いたというお墨付きを業者に与えるだけだから、絶対に出席しないように勧めた。調停という何となく大げさな手続だけに、保護者は随分、迷ったようだったが、結局、出席を拒絶した。
 案の定、調停は、僅か3回の期日を開いただけで、名古屋市は9階建ての計画をそのまま認め、申し訳程度の変更を加えただけで成立した。

 保護者会は、「調停は名古屋市とYハウスの間で成立したもので、私たちは独自にYハウスに計画変更を求めていく」との談話を直ちに発表。Yハウスに対して、直接交渉を求めた。
 いつ、建築に着工されてもおかしくない状況の中、保護者会は建築反対を求めて、保護者会は活発に動き、様々な集会で、被害を訴え、署名を集め続け、マスコミも運動を追い続けた。
 ついに、調停から3か月後、Yハウスは「8階建てに下げるので、建築を認めてほしい」と保護者会に打診してきた。相談を受けたボクは、ここまで頑張ったのだから、皆さんは子どもたちに対する責任を果たしたと思う、後は皆さんで決めてほしいと答えた。内心、これで解決するのだと思っていたが、自分たちの活動に自信を深めていた保護者会は、8階建て案も拒否。
 いつ工事が始まるのか、固唾をのんで見守る数ヶ月が過ぎた。

 マンション建築問題が持ち上がって1年半経った夏のある日、突然、地盤工事が始まった。あわてて親が飛んでいって尋ねると、コインパークを作るとのこと。施主に電話して確かめると、「もうマンションは建てません」との明確な返事。
 あまりにもあっけなく、10階建マンションは、コインパークに変身してしまった。親たちが大喜びしたのは言うまでもない。
 手探りで運動を始めたとき、だれも、マンションが建たなくなるなんて考えもしなかった。結束して粘り強い運動を続けた保護者会と、それを支えた公立保育園父母の会の力が、土壇場の逆転勝利を生んだ。
 実は、施主は、当地ではよく知られた大企業の会長。
 終わってみての親たちの感想。「相手も気持ちの通じるいい人だったんだ」「みんなでパーキングを利用してあげようネ」
 かくして「ボクの作品」に中区大井町のコインパークが加わったのであった。