ファンタスティック
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記者のたまご

青夜の風船

酒と蛙とお月さま

たぬきの天井


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■「たぬきの天井」は、無料ソフトのアクロバットリーダーが、必要です。

記者のたまご  <これは神戸新聞に掲載されたものです。>  「ん?」  鈴木記者は重くなったまぶたをこすりました。  暗い部屋の片隅に何かが動いた気がしたからです。 「気のせいか・・・」  鈴木記者は両手で自分のほほをパチンと音をたてて叩くと、また、ワープロ の画面に向かいました。  時刻は夜の十一時を過ぎています。  二十四歳の誕生日を迎えたばかりの鈴木記者は、新聞社の新米です。 「なんだ! この文章は! 明朝までに書き直せ!」  と、鬼というあだ名の田中デスクから原稿を突き返されてもう三時間になり ます。  鬼の田中デスクは、ギョロ眼を光らせて怒鳴った後、九時過ぎに、「帰る ぞ」と言い捨てて、鈴木記者の机にぽんと紙袋をおいてゆきました。  紙袋の中には、ハンバーガーとパックコーヒーが入っていました。  だから、頑張っていい文章を書こうとしています。  広い部屋は鈴木記者の机と、その回りだけにあかりがつき、後は真っ暗で す。 「やれやれ・・・」  鈴木記者は、ため息をつきながら、ワープロのキーを叩き続けました。 「えっ?」  誰かの息づかいが聞こえました。  心臓が小さく一つドキンと鳴りました。  音のしたのは部屋の隅です。  闇が静かに息づいています。 「・・・」  と、その闇が動きました。  ドンと心臓が鳴り、口の中がシュッと音をたてて乾きました。 (ここは、新聞社で、僕は記者だぞ!)  自分に言い聞かせます。  闇の中に小さな黒い塊が現れ、それは音もなく近づいてきます。 「なんだ?」  鈴木記者は眼をこらしました。  小人が立っています。  天井の蛍光灯の光をあびて、小人はじっとこちらを見ています。 「な・・・」  後は声になりません。  小人は背広をきちんと着て、眼鏡をかけています。背の高さは三十センチと いったところでしょうか。  鈴木記者は音をたててつばを飲み込みました。  どう考えても現実ではないようですが、夢でもなさそうです。  思わず、握りしめた手の爪がくい込んで、軽い痛みがあります。  小人が微笑みました。 「な、なんだ・・・、おまえは・・・」  やっと声が出ました。 「新聞が出来たとき私は生まれました。新聞とともに私はあるのです」  小人は落ち着いた声で言いました。 「なんだ? 新聞の神様?」 「そんなに偉い存在ではありません。新聞とともに生きているだけです。で も、生きているお礼に、新聞記者の方々に小さな勇気を差し上げています」 「・・・」  鈴木記者は新米とはいえさすがにもう落ち着いて、小人をじっくりと観察し 始めていました。 「もちろん、他の部門の方々にもですが。あなたにもそろそろ差し上げようと 思いまして」 「何をもらえるんだい」 「たまごです」 「たまご?」 「ええ、記者のたまごです」  鈴木記者は、また自分のほほをパチンと叩きました。  なんでも、小人の話だと、新米から一応、記者らしくなってくると、このた まごがプレゼントされるのだそうです。べつに深い意味はなく記念品だそうで すが、名誉なものであることは確かだそうです。 「わかったよ。いただくよ」 「では」  小人は白い歯を見せてにっこりしました。 そして、フッと消えました。  鈴木記者は目を丸く開けて、慌ててそこら中を見回しました。部屋の灯を総 てつけてみました。しかし、小人は見あたりません。 「あっ!」  鈴木記者は椅子に腰を降ろした瞬間、目を疑いました。  机の上にたまごがあります。  ダチョウのたまごほどの大きさで、しかも真っ赤です。  恐る恐る手にとってみると、ずしりと重く、まるで鉄の塊のようです。 「確かにたまごだが・・・、こんな馬鹿な・・・」  鈴木記者は身体を震わせると、改めて辺りを見回し、それから、ふーっと長 い息を吐きました。  翌日、鈴木記者の原稿は、見事、鬼の田中デスクの眼にかないました。 「やっと、まあ、まともな文章が書けるようになったな」  田中デスクはニヤリとしました。  鈴木記者もうれしくって仕方ありません。  だけれども心の片隅に、あのたまごのことが引っかかっています。  机の上におきっぱなしのたまごは嫌でも眼につくはずなのに、誰も「それは なんだ?」とも言わないのです。  わざと持ち上げて、眼の前に座っている事務の三島女史に突きつけると、 「なによ、変な格好して、どうしたの?」と厚い眼鏡の奥の鋭い瞳でにらまれ ました。  どうやら、誰の眼にも見えないらしいのです。が、それどころではありませ ん、落としても気づかないし、身体にあてても感じない、つまり、存在してい ないのです。  鈴木記者だけに見え、彼だけが触れる事のできるもののようでした。  こんな理屈に合わない事をうかつに話す訳にはゆきません。やがて、たまご は引き出しの奥深くにしまいこまれ、がらくた入れの箱にほりこまれました。 捨てられはしませんでしたが、鈴木記者の脳裏からもいつのまにか消え去って しまいました。  それから、十数年が経ちました。  鈴木記者は結婚し、本社から支局、支局から本社に帰り、押しも押されもせ ぬ、中堅記者になっていました。  文章はさらさらと水の流れのように書けてゆきます。  遠慮がちな文章が、鋭い筆鋒へと変わってゆきました。  それからまもなくの事です。  十数年前のあの日と同じように、鈴木記者は一人で残業をしていました。  と、机の中から突然、黒い煙が吹き出してきたのです。 「おっと、火事だ?」  鈴木記者はくわえ煙草をもみ消すと、慌てて机の引き出しを開けました。  机の一番下奥の紙の箱の中から黒い煙がでています。  箱を机の上に出すと、鈴木記者は蓋を開けました。 「・・・・・・」  煙の中から小さな黒い塊が現れました。  それは蒸気機関車でした。  そして、その機関車はパックリ二つに割れたあの赤いたまごの中に入ってい たのです。 「記者のたまご・・・」  随分と懐かしいものに出会った気がしました。  鈴木記者はそっと手を差し伸べました。しかし、その掌の中で、赤いたまご のからは煙のように消え失せ、後には、本物の煙を吐いている汽車が残りまし た。  たまごから生まれた汽車です。  鉛筆削り機ぐらいあって、妙にずんぐりとしています。小さな煙突からは黒 い煙が勢いよくたちのぼっています。 「記者の汽車です」  聞き覚えのある声がしました。  振り返るとあの小人が立っています。 「お久しぶりです」  そういう小人に、鈴木記者は思わず頭をさげました。 「それは一人前になった記者のたまごから生まれる記者の汽車です。 汽車は目的に向かって力強くばく進しますが・・・・」  そういって小人は眼の前の黒い煙を手で払いました。 「煙も出します」 「・・・これも、記念品・・・」 「ええ、では」  小人はそう言うと、鈴木記者の不審など無視するようにスッと姿を消してし まいました。 「まただ・・・」  鈴木記者は残された機関車の煙を手で払いながら頭をかきました。  機関車はたまごと同じでした。  誰の眼にも見えず、触れる事も出来ません。その黒い煙さえ影響を与えない のです。  鈴木記者はたまごと違い、その異様にずんぐりとした蒸気機関車を机の上に 飾ったまま仕事を続けました。  洪水のごとく仕事は押し寄せ、それを彼はまさに機関車のごとく押し退けさ ばいてゆきます。  それから三年が経ちました。  鈴木記者は副主幹になり、デスクの横にすわりました。  汽車は相変わらず煙を出し続けています。 「なんだかけむいわね」  定年の近い三島女史がぼそっと呟きました。 「あっ・・・!」  鈴木記者の頭の中に雷鳴が轟きました。  汽車の煙はけむいのです。  当たり前の事にいまのいままで気がつきませんでした。  記者はばく進する汽車です。猛然と不正義をえぐり、圧力をはねかえし、た くましく進んで行きます。 「だが・・・」  そうでした。汽車の煙は公害を引き起こします。  ペンは剣より強いのです。へたをすると人を傷つけ苦しませる恐れがあるの です。  そこまで、鈴木記者が考えたときです。  眼の前の汽車の煙がたちまち白くなりはじめ、やがて薄れ消えてゆきまし た。  そして汽車は僅かにぶれ始めました。  ずんぐりした胴体が絞りこまれるようにへこむと、なんと、汽車の下からま た、たまごが出てきました。  黄色をした、にわとりのたまごぐらいの大きさです。  そしてたまごが姿を現すにつれ、汽車はその形がゆらいでゆきます。  鈴木記者は息をするのも忘れて見つめていました。  やがて、汽車はまったくその姿を黄色いたまごと置き換えてしまいました。 「黄色いたまごか、それにしても・・・」  鈴木記者はたまごをそっと持ち上げました。  と、 「ついに、黄色いたまごを手にいれたか」  という声がしました。  顔をあげると鬼の田中デスクの後をついだ、木下デスクがこちらを見ていま す。 「み、見えるのですか・・・?」 「ああ、見えるさ。しっかりね」  退職間際の三島女史がうるさそうな目で、二人を見て言いました。 「何をびっくりして、ぶつぶつ言ってるの」  鈴木記者は慌てて、「いや、べつに・・・」と言い繕いました。 (木下デスクと僕だけの秘密なのだ)  それから、木下デスクに向き直りました。 「見えるのですか?」  改めて鈴木記者は木下デスクに尋ねました。 「見えるとも。私の机を見て欲しいね」  そう言われて鈴木記者が木下デスクの机を見るとマッチ箱ほどの汽車が灰色 の煙をあげています。 「そ、それは・・・」  木下デスクは丸い顔をほころばせました。「黄色のたまご、君の机のうえの それと同じものから生まれた汽車だよ。もう、五年も煙をあげている」 「じゃあ、デスクもあの小人とお会いに・・・」 「そうさ、黄色のたまごになったら、他人のものも見える。こうして、たまご の話もできる。黄色は止まれだろ」 「あ、しかし、最初のたまごは赤でしたが・・・」 「ああ、赤でとまりっぱなしだ。危険な事このうえない。書くもの書くものが 人を傷つける恐れがある。黄色になって漸く、注意止まれになったのさ。ぼち ぼちと一人前で、注意しながら書きなさいという意味だ」  鈴木記者はすっかり感心しました。 「しかし、小人なんて、非科学的な・・・」 「おいおい、こいつは夢だぜ。俺もおまえも小人にあった。記念品をもらっ た。でも科学的に証明のしようはない。いいじゃないか、そんなことがあって も。新聞記者はロマンも追うんだぜ」  鈴木記者は頭をかいて、ふっと息を吐きました。 「そうですね。では、僕も頑張ると後少しで、その汽車がもらえるのですね」  木下デスクは大きく頷きました。 「でも、赤、黄の次は青のたまごでしょうか。いつもらえるのでしょう」 「さてな・・・、青かどうか、俺もまだお目にかかった事はない」  と、突然、三島女史が顔をあげました。 「記者だけじゃないわ、私のたまごは事務のたまご。でも青いわよ」  そう言って、机の引き出しを開けました。  うずらほどの青いたまごが姿を見せました。


青夜の風船


  夕ぐれの街角で、さいごに売れ残った青い風船に、水素が入りました。

 風船はこの時、生まれたのです。
  これが昼間でしたら、たくさんの風船の仲間がいて、祝ってくれたり、いろ
んなことを教えてくれたりしたのです。

  ところが、陽が沈んで、たった一つ残った青い風船でしたので、だれも話し
かけてはくれませんでした。

「ねえ、ぼく、生まれたよ」
 真っ青な色をした風船は、ガスボンベの入った木の枠にくくりつけられて、
ゆらゆら揺れながら、目の前にいる大きな壁に向かって言いました。

  それは、くらいオレンジ色の光に照らされた十階建てのビルディングでし
た。
  ビルディングは、向かいの建物と話をしていたので、小さな声に、「ああ」
と、じゃまくさそうに生返事をしただけでした。

「ねえ、ぼく、生まれたんだよ!」
  青い風船は、せいいっぱい叫びました。
  けれど、今度は生返事も返ってはきません。大きなビルディングはそしらぬ
顔です。
  小さな小さな風船の声など、ろくに聞こえもしませんし、聞く気もないので
す。

  だいいち、すぐにはれつするか、ガスが抜けて、この世から消えていく風船
などにかまっていたら、きりがないのでした。
  青い風船はしかたなく、道の向こうにとまっている白い自動車に話しかけま
した。

「ねえ、ぼく、生まれたよ。きみはなあに?」
  でも、白い自動車も、大きなビルディングと同じように、ろくにふりむきも
しないで、「そうかい、よかったな」と、上の空のように言うと、走り出して
しまいました。

  みんな忙しくて、生まれても、せいぜい二、三日で消えていく風船などに、
相手になっていられないのです。
  しかし、青い風船は、自分の命が短いことなど知りません。だから、せっせ
とみんなに話しかけました。

「ねえ、ぼく、生まれたよ。きれいだろ」
  光の入った街灯も、暗くなって赤く見えないポストも、めんどうくさそうに
こたえました。
「うん、うん、そのとおり」
「ああ、きれいだよ、きれいだよ」
  けれど、そうこたえるだけで、話し相手にはなってくれません。
  街灯はせわしなくまたたき続けますし、ポストは壁の時計と、おしゃべりを
始めました。

「あーあ」
 青い風船はため息をつきました。
  みんな、何年も、何十年も生き続けるのに、みょうに忙しそうです。

  風船などは、きっと子どものおもちゃになり、はれつするか、しぼんでいっ
て、ほんのわずかな命をおえるのです。その短い命の風船のために、ちょっと
話し相手になってやってもよさそうなものですが、だれも話しかけるものはあ
りませんでした。

「ねぇ、だれか、いませんか?」
  青い風船はぐるりとあたりを見まわしました。
  闇のせまった空には、うす青い星が、二つ、三つ、かすかに光っています。

  青い風船は、木の枠につながれた糸を、ぶるっとふるわせて、また、ため息
をつきました。

  その青い風船を、さきほどから、じっと見つめているものがあります。
 街路樹のイチョウでした。
  イチョウは、あまりに風船がかわいそうになったので、やさしく声をかけま
した。

「元気で、長生きするんだよ」
 風船はうれしくなりました。
「うん、ぼく、長生きするよ」
  やっと話し相手が見つかったのです。

  ところが、その時、風船は、お父さんに手をひかれた小さな男の子に、手わ
たされてしまったのでした。

「元気でな」
  イチョウの木が言いました。
  男の子は、おとなしそうです。ひょっとすると、風船の命は、三日ぐらいも
つかも知れません。

「うん、ぼく、がんばるよ。あなたも元気でね」
 青い風船は、ちょっぴり残念そうな調子で言いました。
 男の子は風船の糸を、モミジのような手でつかんで歩きだします。
 イチョウの木は、そのうしろすがたを、じっと見おくっていました。

  と、とつぜん、子どもの手から、風船の糸が、するりとぬけました。

「あっ!」
 男の子は叫びました。

「あっ!」
  イチョウの木が叫びました。

「あっ!」
 風船自身も声をあげました。

 その声で、街灯も、ポストも、大きなビルディングも、みんな、「あっ!」
と言いました。

 青い風船は、ゆらゆらと、のぼっていきます。
「さようなら」
 イチョウの木が小さな声でつぶやきました。

 男の子の手をはなれた風船は、高くのぼってはれつするか、しぼんで落ちる
かしかないのです。
  運がよくても、流されて、少しは遠くを見ることができるだけです。

「やれやれ、気のどくに」
  大きなビルディングが言いました。
  けれどその声は、もう風船にはとどきませんでした。

 青い風船は、これから何がおこるのかもよくわからぬまままに、ビルのはる
か上空を、ゆっくりのぼり続けていました。
「ぼくは、どこへいくんだろう?」

  暗くなりかかった空には、星が輝きはじめています。

  今日は月のない星月夜です。
  地上には街の灯が、宝石箱をひっくり返したようにまたたきだしていまし
た。

  冷たい光の中をのぼってゆく風船に、帰りがおくれたカラスが一羽、すっと
近づいてきました。

「どこへゆくんだ?」
「さあ、ぼくにも、わからないんです」
「そうかい、ま、気をつけな」
  カラスはそう言うと、身をひるがえしながらつぶやきました。
「やれやれ、すぐに、はれつするのも知らないで、かわいそうなこった」

  風船はそれを聞いていました。
「そうか、このままのぼっていくと、ぼくはもうすぐはれつするのか・・・」
 悲しくはありませんでした。
  こわくもありませんでした。
  けれど、さみしい気がしました。

 ほんの少し前に生まれて、言葉をかわす相手もなく、いろんな生活や、さま
ざまな世界を見ることもなく、そして友達の一人もなく、消えていくのが、た
まらなくさみしかったのです。

「もう少し、生きていたいなあ・・・」
  青い光のシャワーが、すっかり暗くなった星空からふりそそいでいます。
  その中を風船はぬれながら、のぼってゆきます。

「いやなことにあったり、つらい目をみたりするかも知れないけれど、やっぱ
り、もう少し生きて、いろんな世界を見たいなあ・・・」
 のぼっていく風船を、青い光の流れがあらい続けます。
 空には、赤や、黄、青、緑、だいだい、めまぐるしいほどの星が、輝いてい
ます。

  やがて、風船はふくらみはじめました。
  空気がほんの少しうすくなって、中の水素が、風船を、おしひろげだしたの
です。

「いよいよ、おしまいだな・・・」
 青い風船はかくごをしました。
  風船の口はかたくしばられていますので、水素がぬけて、しぼみはしないで
しょう。

  きっと、はれつするにちがいないのです。
  青い風船は、はじめの倍ほどの大きさになり、さらにふくらみ続けました。

「さようなら・・・」
 青い風船は、この世のみんなにむかってそうつぶやき、それからかたく心を
とざしました。

 しかし、いつまでたっても、さいごはおとずれませんでした。

「あれ・・・?」
  青い風船は、自分の体が、もうあの大きなビルディングほどにふくれてい
て、しかも、はれつしていないことに気がつきました。

  その上、体の青色はますますこくなり、深い天空の青色と同じようなので
す。

「おかしいな?」
 そう思っている間にも、青い風船は、どんどん大きくなり、もう自分でも、
どれくらい大きいのか、わからないくらいになりました。

  そうして、そのうち、青い風船は、自分の体の中で、何かが光っているのに
気がつきました。

  赤、黄、青、緑、だいだい・・・。


       
                        
      
                           

「ああ・・・」

 青い風船は、やっとわかりました。

 いつの間にか、自分が空いっぱいにひろがって、いまや、青い天空そのもの
になっていたのです。

 体の中では、数え切れないほどの星が輝いています。
  風船は新しく、星月夜そのものに生まれ変わったのでした。

 風船はうれしくなって、地上の、イチョウの木や、街灯や、ポストや、ベッ
ドにもぐった子どもたちに話しかけはじめました。

「ねえ、ぼく、生まれ変わったよ」

  しん、とした青夜に、空から聞こえてくるのは、この青い風船の声なので
す。

  ほら、耳をすませてみてください。



酒と蛙とお月さま


 親指の先ほどの青蛙は小さな悲鳴をあげました。
 男の子の歓声とともにすくい上げられ、あっという間にガラスびんに閉じ込
められてしまったのです。

 男の子が友達に別れを告げる声が聞こえました。
  ガラスびんは自転車の前かごに、乱暴に落とされます。
 青蛙は、また悲鳴をあげました。
 自転車は走り出します。
 青蛙は住宅街のはずれの池の中で生まれていらい、初めて見る景色をながめ
るどころではありません。
 足をぴんとふんばって、必死で跳ねる身体をおさえていました。
 二十分も走ったでしょうか、ようやく青蛙は自転車の振動になれ始めまし
た。

 暮れかかった街の中心部に入って来て、道路が良くなり揺れが少なくなった
からかも知れません。
 びんの蓋が緩いのか、すきまから空気がもれてきます。
 自転車は走り続けます。
(どこへ行くのだろう?)
  青蛙はやっと落ち着いてびんの外を眺めました。
  大きな建物が道の両側にはずらりと並んでいます。
  沢山の人が一日の勤めを終えて、ほっとした表情を浮かべながら行き交って
います。

(これが人間の都会か・・・)
 青蛙は池の学者蛙から聞いた話を思い出しました。学者蛙はずっと昔に人の
世界に出かけ、その時から人の話がわかるようになったのです。人の世界に出
かけ、幸運にも古里に帰ってきた蛙は少しはいましたが、人の話がわかるよう
になったのは学者蛙だけでしたから、大変な尊敬を集めていました。

「人間は、われわれをすぐに殺そうとするのじゃ」
 学者蛙の言葉を思い出して、青蛙はぶるっと身体を震わせました。
 人間は蛙を生きたまま解剖するのだそうです。
 悪い子供は、蛙のお尻からストローを突っ込んで、お腹が破裂するまで吹く
のだそうです。
 青蛙の身体がますます青くなりました。
 どうやら生きて帰るのは難しいようです。
 けれど、簡単に諦める訳にはいきません。ひょっとすると池には帰れなくて
も、都会にも蛙の住むところがあって、そこで命ながらえるかもしれないので
す。

 街の中は青や赤のネオンが瞬きはじめました。
(きれいだなあ)
 青蛙はしばらく自分の境遇も忘れて見とれてしまいました。
 自転車はもう走るというより、歩道の人混みを縫ってよろよろと進んでいま
す。

 暗くなった空にうすぼんやりと丸い月がかかっています。
 池で見る月よりこころなしか頼りげない姿です。
 と、突然、「キーッ!」という音とともに青蛙の身体が跳ね上がりました。
 鈍い震動と一緒にびんが飛び上がり、緩くなった蓋が外れて、青蛙は歩道の
上に投げ出されたのです。

(な、なんだ?)
 青蛙はともかくきれいに着地すると、目の前にある細い隙間に、二、三度跳
ねて滑り込みました。
 女の人のかんだかい声と、男の子の情けなさそうな声が聞こえました。
 自転車が歩いていた女の人にぶつかり倒れたのです。
 男の子は謝ったあと、びんの蓋が外れていることに気がついて、辺りを見回
していました。が、やがて短く舌打ちすると、自転車を再び走らせはじめまし
た。
         ※
 青蛙は暗い隙間に身を潜め、しばらくじっとしていました。
 ほっとため息が出ます。
 助かったのです。お尻の穴にストローを入れられて吹かれる心配はなくなり
ました。
 青蛙は歩道と反対側の暗い空間の奥に向かって進みました。
 どうやら人間の部屋のようで、高い天井にはぼんやりとした明かりがありま
す。
 足元は柔らかく、腐った草の上のようです。
 頭の芯を突くような臭いがしていました。

 そして前方に人間の足が見えました。
 青蛙はまた自分の心臓がたてる音を聞きながら、壁際により前に進みまし
た。
 逆戻りして恐ろしい歩道に出る訳にはゆきません。
 そろそろと進みます。
 人間の足が身体の横にきました。

 何を話しているのか声が頭から降ってきます。
(いまのうちに通り抜けよう・・・)
 青蛙はとにかくそう考えました。
 前に進んで、どこにでるのか、そんなことはわかりません。でもとにかくこ
こは進むしかないのです。
 ところが、鋭い痛みが青蛙を襲いました。

 人間の足が急に動いて、青蛙の足をふんずけたのです。
 青蛙は人間の足を敵とは考えていませんし、人間のほうも青蛙に気づいたわ
けでもないので、まったく無意識に動かした足が蛙に当たったのです。
 青蛙は驚いて、跳ね飛びました。
 痛めた足ではほんの三十センチも飛べたでしょうか。
 飛んだ場所で青蛙は動けなくなりました。

 なんとかしようと思うのですが、後の右足がいうことをきかないのです。
  人間の声が聞こえました。同時に青蛙は胴のところをつかまれて、持ち上げ
られました。
(もう、だめだ・・・)
 手足をぴんと伸ばして、青蛙は苦しい息の下で考えました。
 とうとう人間にまた捕まってしまったのです。
 しかも大人です。人間はこどもより大人が凶暴だと聞かされていました。
 人間の女の人の悲鳴が聞こえました。
 青蛙をつかんだ男の人間は笑い声をたてているようです。
(殺すなら早く殺してくれ・・・)
 青蛙は観念しました。

 ところが今度はそのままどこかの上におろされたのです。
 人間の男の凶悪な白い歯を見せた顔が間近にあります。
 部屋の隅では女の人が、何かわめきながら青蛙を見つめています。
 どうやら青蛙は男の人と女の人を隔てる長い机の上に降ろされたようでし
た。
 目の前にはコップやら小鉢などが並んでいます。
(うまく飛べば逃げられるかも知れない・・・)
 青蛙は人間の男の様子をうかがいながら、じっと身体をこわばらせ、逃げる
機会をさがしました。

 足が痛みます。
 青蛙がそっと足を縮めた瞬間、まるでそれを待っていたかのように男の手が
再び胴をつかみました。
「グェッ・・・」
 青蛙は弱々しい悲鳴をあげました。
(やっぱり・・・、だめだ)
 青蛙が身体の力を抜くと同時に、彼はいきなり水の中に突っ込まれました。
 胴はつかまれたままです。

 狭い穴のようなものにたまった水の中に無理矢理押し込まれたのです。
 彼はもがきました。
 妙な水でした。
 痺れそうなほど冷たくて、中にはその水より冷たい硬いものが詰まっていま
す。
 思わず含んだ妙な水は少しねっとりとして、頭につんとくる刺激がありまし
た。
 咽喉と胸が焼けるようです。
 息がどんどん苦しくなってきました。
 頭がぼんやりとして何も考えられなくなりました。
 目の前を青と赤の光が明滅しています。
(死ぬんだなあ・・・)
 青蛙はただそれだけを感じました。

 ところが、そこで彼は水の中から引き上げられたのです。
 机の上に乱暴に置かれました。
「ははは、見ろよこいつ」
 男の人の笑い声がします。
「動かないわよ。死んだのじゃない、いやね」
 女の人の気配がします。
 青蛙は手足を縮めて化石のように動きません。

 不思議なことに足の痛みは消えていましたが、そのかわり頭が少しぼんやり
として、景色も少しぼんやりとしていました。
(どうしたんだろう?)
 青蛙はよく動かない頭で考えました。
 どうやら命は助かったようです。
 でも逃げられた訳ではありません。
 どこへ逃げればいいのかもわからないのです。

「早く捨ててよ」
 真っ赤な唇をした人間の女の口が歪みました。
「ああ、そうするか。でもおまえ残酷だなあ。捨てろなんて」
「じゃあ、どう言えばいいのよ」
「逃がしてあげてよ、だなあ」
「どこへよ。逃がすっていっても蛙のいるところっていえば・・・、西のほう
の沢池ぐらいよ」
「少し遠いか」
「四キロはあるわよ」
「それじゃあ、捨てるほかないか」
「そうよ。それから、蛙を漬けた水割り、捨てるわよ」
「いいよ、呑むさ」
「知らないわよ、病気になったって」
「まさか、蛙になりはしないだろう」

 青蛙はもう話を聞いてはいませんでした。
 ぴょんと跳ねると、床に飛び降り、入り口目指しました。
「あら?」
「おっ! 逃げた!」
 人間の声がしましたが、それはもはや青蛙を追いかけてこず、濁った空気を
僅かに動かしただけでした。
         ※
 青蛙はドアの隙間から外に滑りでました。 足の痛みはありません。
 短い時間であったと思うのに、人間達の津波のような帰宅時間が過ぎ、歩道
の人通りは数えるほどになっていました。
 月がかっと照っています。
「西だ・・・」

 青蛙はそう呟いて、それからぎょっとしました。
 人間のような発音ではないとはいえ、人間の言葉をいつの間にか話していた
からです。
(そういえば、先ほどの人間の会話もわかったぞ)
 青蛙は目玉をぐるりと回しました。
 知らぬ間に青蛙は人間の言葉がわかるようになっていたのです。
(学者蛙と同じだ)
 彼は嬉しくなりました。

 蛙の世界で二番目に人間の言葉がわかる学者蛙になれたのです。
 彼はぴょんと跳ねました。
 歩道の端にきて、「ゲコッ!」と鳴きました。
 それから、はたりと考え込みました。
(西だ! 西!)
 で、西はどちらなんだ。
「四キロはあるわよ」
 人間の女が言っていた言葉を思い出しました。
 四キロと言うのは蛙単位で二十ゲロ、池の回り二十回。とてもじゃないけれ
ど、簡単に跳ねてゆける距離ではありません。
(どうしょうか・・・)
 青蛙は目を閉じました。

 人間の手から逃げ出して、古里の池の方向まではわかったのです。そこまで
は本当に幸運でした。
(しかたがない跳ねるしかない)
 青蛙はぴょんと跳ねました。
 自転車の通ってきた道はまっすぐではありません。けれど、街の中に入って
からは曲がりはしませんでした。少なくとも街の入り口までは来た道を逆に辿
ればいいのです。
 彼は歩道を跳ねました。

 道を行く人間はほんの僅かです。そばの道路を自動車が時折走りすぎて行き
ます。
 排気ガスの洪水の中を彼は進みました。
 何度跳ねたことでしょう。
 足が痛くなってきました。
 人間にふんずけられた足もじわりじわりと痛みます。
(休もう)
 青蛙は柳の木の根元にちょこんとへたりこみました。

 それにしても誰にも会わないものです。
 人間と車はますます少なくなってきたとはいえ、結構な数がいるのに、人間
以外の動物ときたら、何にも出会わないのです。
 恐ろしい烏を始めとする鳥は、日が暮れ落ちて見かけることはありません。
 蛇もいません。
 いるものといえば、小さな蟻ぐらいのものです。
 その蟻も日暮れとともに姿を消していました。

 動物がいないということは食べ物もないということです。
「お月さま、ぼくは帰れないのでしょうか、助からないのでしょうか」
 青蛙はもう高く昇った丸いお月さまに向かって言いました。
 しらじらと輝くお月さまは、少し驚いたかのように見えましたが、それは彼
の錯覚だったのでしょう。
 よく見るとお月さまはまるで青蛙のことなど関心なさそうに、ただ静かに光
っているだけです。

 青蛙は「ふっ」と息を吐きました。
 それから自分に言って聞かせるように呟きました。
「がんばるぞ!」
 青蛙は痛み始めた足と、すきっ腹をかかえながら、再び跳ね始めます。
 彼が紛れ込んだ人間の部屋はもうすっかりとおくなっていました。
 何十度目かのジャンプだったでしょうか。固い地面に着いた瞬間、彼は身動
きできなくなりました。

 誰かがじっと見ているのです。
 恐ろしい視線です。
 歩道の端の建物の影から、ぎらりと光る目玉が二つ、彼を射すくめていまし
た。
(ネズミだ!)
 青蛙はピクリとも動けません。

 動こうとしたが最後、ネズミは襲ってくるでしょう。
 ネズミの舌なめずりが聞こえるようでした。
「うまそうな蛙だ」
 ネズミの呟きが聞こえました。
「ぼ、ぼくは旨くないよ」
 青蛙は思わず叫びました。
 と、ネズミがするっと後ずさりしました。

 ネズミの作り出す恐ろしい空気がみるみる和んでゆきます。
(ん?)
 青蛙はゆっくりとネズミを見ました。
「お、おまえ、われわれの言葉が話せるのか?」
 ネズミがきょとんとして言いました。
「え、あ、ああ」
 青蛙は気がつきました。

 いつのまにか人間の言葉がわかるだけでなく、ネズミの言葉までわかるよう
になっていたのです。おまけにネズミ語は話しさえ出来るようでした。
「驚いた蛙だ。わしはネズミでもずいぶん長く生きている部類だが、ネズミ仲
間以外で話しのできる生き物と出会うのは初めてだ」
 ネズミは、鋭い目玉をぐるりと回しました。

 青蛙も心の中で自分の目玉をぐるりと回しました。古里の池にいた学者蛙も
人間の言葉がわかるとは言いましたが、ネズミの言葉がわかるとは言いません
でした。
「どこへ行くんだ?」
 ネズミが尋ねました。
 青蛙は正直に古里に帰りたいことを話しました。
「よし、じゃあ、わしが送ってやろう」
 ネズミは思わぬ言葉を口にしました。
 確かに青蛙は人間の親指の先ぐらいの大きさですし、ネズミの背に乗れば走
れぬこともなさそうです。
「おまえの跳ね方では、とてもじゃないが池までは無理だ。飢え死にするか、
何かに捕まるか、人間の乗り物にはねられるか、どのみち死ぬしかない」
「はい」
 青蛙はおそるおそるですが、大人しくネズミの背に乗りました。
「行くぞ!」
 ネズミが走り出しました。

 その早いこと。おまけにネズミは池の在処を知っているらしいのです。
 街を通り抜けて、所々に畑の広がる道を、スルスルッと駆けて行きます。
 お月さまの光がまわりをしとどに濡らしていました。
「おっと!」
 ネズミが急ブレーキをかけ、青蛙は投げ出されました。
 くるりとまわって、冷たい地面に着地すると、ネズミが全身を針のように身
構えているのが見え、その少し前方、農家の影、闇の中に銀色の光る目玉が二
つ浮かんでいます。

(猫だ!)
 青蛙はやはり身体を固くしました。
 猫はネズミを狙っているようです。
「猫さん、ネズミさんをいじめないで」
 青蛙は思わず叫びました。
 猫もぎょっとしたようです。
「だ、だれだ、おれの獲物を横取りしようとする奴は」
 猫はぎろりと辺りをなめ回しました。
 同じ猫仲間の誰かが声をかけたと考えたのです。

 青蛙はもう自分の力を知っていました。
 どの動物とでも話が出来る力があるのです。どうやら、人間の世界で無理矢
理飲まされた妙な水のせいのようでした。
「横取りじゃあありません。ネズミさんは私を池まで連れていってくれる途中
なんです。お願いですから通して下さい」
 猫は小さな青蛙に気がついて、ぎょっとして、それから大きな息を吐きまし
た。

「こいつは驚いた。猫語を話したのはおまえさんか?」
「はい」
 青蛙は答え、続いて、いきさつも話しました。
「よし、じゃあ、私が送ってやろう」
 今度は猫が言いました。

 青蛙はネズミにあつくお礼を言うと、猫の背中に飛びつきました。ネズミの
それよりずっと広くて、乗り心地がよさそうです。
「ネズミさん、ありがとう、さようなら!」 走りだした猫の背中から青蛙は
大声で叫びました。
「・・・・・・・!」
 別れのネズミの声がもう遥か彼方から、届きました。

 お月さまの光のシャワーの中を、猫は飛ぶように走ります。
 風はぶんと唸り流れていきます。
 銀色の池の水面が、ぎらりと見えました。
「池だ!」
 とうとう青蛙は古里に帰り着いたのです。

 猫が止まると、池の端に学者蛙の姿が見えました。
 青蛙は飛び降りました。
 懐かしい池の臭いがします。
「・・・・・・・・」
 猫が別れの挨拶をして、きびすを返しました。
「猫さん、ありがとう」
 青蛙はお腹の底から叫びました。
 光の中に猫の姿が消えると、学者蛙が言いました。
「人間の言葉がわかるようになったな」
「はい、人間と・・・」

 青蛙は得意げに答えかけて、それからぎょっとしました。
 猫の別れの言葉がわからなかったことに気がついたからです。
 そういえば、ネズミとの別れの時も、ただ距離が離れていたと言うだけでは
なく、言葉そのものがわからなくなっていました。
「人間の言葉がわかるようになったのは、お酒のせいじゃ」
 学者蛙が言いました。
「わしもその昔、人間の世界で酒を呑んだ」
「でも・・・」
 青蛙が言いかけるのを、学者蛙が目でとめました。
「おまえさんがここまで帰る事が出来たのは、お月さまのおかげじゃぞ」
 青蛙ははっとしました。

 そういえば、お月さまにお願いをしたとき、お月さまが少し驚いたように感
じました。
 ネズミや猫の言葉が話せたおかげで、彼は古里に帰り着く事が出来たので
す。彼が帰り着くのに必要な間だけお月さまは、ネズミや猫の言葉が話せるよ
うにして下さったのでした。
 青蛙はゆっくりと天を仰ぎ、輝くお月さまに向かって、ありがとうございま
すと、「ゲコリ」と鳴きました。

 お月さまは少しにっこりされたようです。
 青蛙は学者蛙と頷きあいました。
                  ※
 学者蛙は猫やネズミ語はわかりませんが、でも、お酒のおかげで人間の言葉
だけはわかるそうです。
 もし、蛙を捕まえて、じっとしたまま咽喉をぷくりと膨らませ、ゲコリと鳴
くとしたら、それはこの新しい学者蛙ですから、必ず逃がしてやって下さい。


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