031212

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 新居候時代


                         大西 生一朗

                 
 大学を出て以来、もう三年もこの暮らしである。

 新幹線で二時間の距離にある両親のところに転げ込めば、居候で、二、三年
は遊んで暮らせる。しかし、両親も定年間近、自分たちの老後の蓄えも必要だ
ろうし、親父からは、援助は大学卒業までと釘を刺されている。

 フリーターは気楽である。

 とも思う。なんとなく将来に対する不安はあるものの、二十五歳のぼくにと
ってみれば、それは遠い未来の話である。

「そう、思っているうちに、あっという間に時間が過ぎるんだ」
 と、三十半ば過ぎのコンビニの雇われ店長は、痩けた頬を撫でながら言う。

「はあ・・・」
 というのがぼくの答えだ。

  時給九百円。深夜手当がついて、一晩出かけると一万二千円になる。勿論、
深夜の軽食と朝飯、それに交通費付きだ。自転車、月二千円。
 昼夜は逆転するが、仲間どおしで勤務日を融通すると、月に二十日勤めない
でも、楽に手取りは二十万円を超える。

 なるほどボーナスはないが、税金や社会保険料を引かれて、手取りが十五万
ほどもない正職員よりましだ。なにより、自由がきく。休みたければ、大学の
後輩に連絡して、代わりを用意すれば、いくらでも休める。正職員となれば、
そうはいかないだろう。責任ある仕事を任せられ、拘束される。上下関係もき
つくなる。

 もちろん、フリーターにまともな昇級があるわけでもないし、企業保険があ
るわけでもない。退職金もない。いくら勤めても、経験には勘定してもらえな
い。だが、精神は自由だ。いつ辞めてもかまわない。いつ休んでもかまわな
い。
 なにを好んで奴隷になる必要があるのか。

  と、ぼくは不安げに自分に言い聞かせる。

 体力は確実に、落ち始めた兆候はあるし、そろそろ、「二十五のフリーター
なんているかい」と言われかねない。フリーターは二十前後が花なのだ。
 コンビニから、自転車で十分のところが、住処である。煙草を一本吸い終え
ると、店を出た。

 自転車に乗ろうとして、くまさんと出会った。

「ども」

 軽く頭を下げた。名前は知らない。無精ひげの時が多いのと、体躯から店員
はそう呼んでいる。日に二回程度は店に来る。弁当を買うのだ。 時折、奥さ
んらしい人や、二人の小学生ほどの子どもも一緒の時があるが、断片的な会話
からすると、リストラされてぶらぶらしているらしい。弁当は三百八十円も出
せば、味もよくて、結構おなかがふくれるものがほとんどだ。それにしても親
子四人となれば千五百二十円。やっぱり作った方が安そうだ。

「でもないぜ」

  店長の言葉を思い出した。

「冷麺だろ。麺代安くて四人で三百円、卵が二つ、ハムだろ、キュウリ、辛
子、出汁、それからガス水道代、手間、洗い物もでてくる」

「はあ、そらまあ」

 ぼくは、雇われ店長の顔をじっと見たようだ。そういえば、店長のところも
小学生の子どもが二人いる。時折、期限切れ寸前で、半額になったもののう
ち、売れ残りを買って帰っている。期限切れは、どのみち捨てるのだが、職員
が食べたり持ち帰ることは厳禁だ。それをしてクビになったものもいる。

 ぼくは、自転車をこぎながら、親子四人でコンビニ弁当を囲む、くまさんの
家庭を想像しようとした。たぶん、ゲーム機が接続された大型テレビがあり、
ビデオがあり、DVDもあるかもしれない。絨毯の上にテーブルと椅子があっ
て、流しの横には不釣り合いな大きさの冷蔵庫と、花柄のついた食器棚がある
のだ。

 ぼくはそこでイメージを振り払って、自転車を降りた。

  不況だ、リストラだといわれつつも、みんなこざっぱりしている。なんとな
く余裕があって、なんとなく不安で、何となく生きている。

 国が豊かになって、失業や貧乏というイメージが変わったのだ。つまり、寄
生して暮らすことが出来る。

 チラリと自分の軽四に視線を投げてから、階段を上がる

 ワンルームマンション。トイレと洗面所とバスが一体化したユニットが狭い
玄関左手にあり、右手にミニミニ台所。その奥が六畳の洋間で、ベッドにテレ
ビ、パソコンラック。小さな本棚、まん中に電気ごたつ用机。押入は半畳ほど
のものがある。

 ベランダは広くて、四畳ほどもあり、それが気に入って、借りたのだ。  家
賃は四万五千円。電気ガス水道は仕方ないが、新聞はコンビニで読める。ただ
し、売れなかったもので半日遅れだが。

 昼は、ほとんど食べないし、このごろは外食も安くなって、まあ、十万あれ
ば一月は暮らせる。軽四のガソリン代と、友達との飲み会の費用もかかるの
で、貯金は月に二、三万。それでも三年で六十万ほどになっている。このとこ
ろ、友達も就職したり、結婚したりで、つきあいが悪くなった。恐らく三十ま
でに、ほとんど会わなくなるだろう。

 彼女はいない。

 カオルという名の子と、学生時代につきあっていたが、卒業して離れてしま
うと次第に疎遠になり、今では電話することもない。

 新しい彼女が欲しいとも思うが、セックスも含めて、煩わしさが気になる。

 両親は、ぼくが就職して、結婚することを望んでいるようだけれども、さほ
ど強い気持ちは感じない。

 どのみち、親の近くに来たりするはずはないと思っているらしいし、まして
マンション暮らしの両親と同居するはずもない。

 ぼくの両親は、二人とも都会生まれで、田舎も、一寸の土地も持たないか
ら、家とか土地とかといったものに執着心はない。父親のほうはそれでも退職
後は、都会に近いところで、猫の額ほどの畑でもしたいと思っているらしい。
しかし、母親は乗り気ではない。だから、そんなことにならないだろう。なっ
たとしても、貸し農園を、父親一人が耕すという構図が見えている。

 両親は、それぞれに年老いて、軽費老人ホームや、介護保険のお世話になり
つつ、老健施設で、人生を終える気らしい。西欧流で、自立した個人が現れた
と言うところか。

 だからこそ、大学を出てしまえば、ぼくは自立しなければならないのだが、
世間的にはあんまり立派に自立してはいない。しかし、両親に何の迷惑もかけ
ていないのだから、自慢できる息子ではないが、そう卑下する存在でもないの
だろう。

 第一、がむしゃらに働いたところで、たかが知れている。一九九十年代のバ
ブル崩壊以後、日本も貧富の差が拡大して、二十一世紀の初頭には、年収三、
四百万円層と二、三千万円層に分離してしまった。しかし、下の階層だからと
いって、惨めな生活を送らねばならないということでもない。

  金持ちが、金持ち然としているわけでもないし、貧乏人がぼろを着ているわ
けでもない。同じソニーのデジカメを持ち、ホンダの車に乗っている。金持ち
が千円のデジタル時計をしているかと思えば、貧乏人がロレックスをはめてい
る。もちろん、通勤快速の三千円の靴と三万円の皮靴の差はあるが、貧乏人だ
って、三万円の靴は一足ぐらい持っているのだ。

 高級車を見ると「ホーッ」と感心はするが、それで彼我の差を思い知るわけ
でもない。木造アパートに住んで、シーマに乗っているやつも知っている。グ
ッチやエルメスのブランドもので身をかためているのが、ぼくの住むこのワン
ルームマンションにも何人かいる。

 何百坪もある豪邸に住む、本当の金持ちはもちろんいる。ぼくたちの知らな
い生活圏はあるが、そこにぼくたちが入り込めないわけではない。 毎日は無
理だが、一食五万円のフランス料理店に、ぼくたちだって行くことが出来る。
一泊十万円のスウィートに泊まることも出来る。そんなところ、たまに行けれ
ばそれで十分で、そこに行くために、人生に重荷を背負い込むことはない。

 毎日無理をして働けば、なんとか年収二千万円層には辿り着けるだろうけれ
ども、僅かな優越感を持つために、ストレス漬けの生活を送る必要があるだろ
うか。

 朝の八時に、部屋に着く。月に三度くらいは、日勤に就くこともあるが、そ
の時は夕方か夜だ。

 日勤は疲れる。客が多い。それに夜に寝なければならない。臆病な性質で、
一人部屋にいると、怖いのだ。魑魅魍魎が跋扈している気がする。ぞくっとし
て、思わず狭い部屋を見まわし、「だ、だいじょうぶだ」と自分に言い聞かせ
る。「お化けなんていない、生きている人間の方がよっぽど残酷なんだ」と自
己確認して、布団を頭からかぶる。

 コンビニの明るすぎる照明の下で、結構賑やかな夜中に生きてくると、シン
として暗い夜には耐えられなくなるのかも知れない。

 マンションは本来、富豪の大邸宅の意味だが、千九百六十年代から、日本人
はコンクリート長屋をそう呼ぶことにしてしまった。ハイツ、レジデンスなん
ていうのも、住宅地を指したり、高級住宅を指したりする意味を、すっかり現
代長屋に当てはめてしまった。ワンルームマンションなんて言う言葉は、海外
では噴飯ものであろう。

 その、三〇二号室に、転がり込む。

 ここは、学生と独身の会社員が多い。会えば、頭を下げるくらいで、もう学
生時代から五年も住んでいるが、名前も知らないやつがほとんどである。

 まず、煙草を吸う。日に十本ほどだが、学生時代からのくせだ。部屋に臭い
がつくし、金はかかるし、健康によくないし、最近は煙草を吸っていると就職
試験に通らないことが多いし、悪いことだらけだ。それでもなんとなく吸って
いる。たぶん、禁止にならない環境に置かれない限り、自分ではやめないだろ
う。

 顔を洗い、冷蔵庫のペットボトルの水を飲むと、ジーパンを脱いで、ベッド
に飛びこむ。昼過ぎまで眠るのだ。

      ※

  チャイムが鳴った気がした。

 起きあがるのもじゃまくさい。三月末の春の眠りを邪魔するやつの気が知れ
ないが、宅配便かも知れない。両親から時折、荷物が届いて、結構助かってい
るのだ。手紙もある。もっとも、手紙に入っている現金が嬉しいので、小言中
心の手紙は難儀だ。

(それでも、ぼくのことを気にかけてくれる人間がいると思えば、鬱陶しくも
あり、有り難くもあり、か・・・)

  再び、チャイムが鳴った。

(宅配便じゃないな・・・)

 彼らときたら、二度目のチャイムの後はすぐにドアを叩いて、叫ぶのだ。ノ
ルマがあることはわかっているが、余裕がない。寄生社会にも、必死に働く人
間はいるのだ。

「はい、はい」

 のそりと起きあがって、ドアを開けた。

「お、おお」

  ぼくの口から言葉擬きが出た。

「はい」

「お、おお」

「こんにちは」

 後ろにもう一人、人間が立っていた。

「お、おお」

 ぼくはパンツ姿のまま、頭をズルリとかいた。

 目の前にいるのは、カオルで、後ろにいるのは同年代の男性だった。カオル
の彼氏だと、感じた。

「元気?」

「お、おお、うん。カオ・・・、あ、いや、今村さんも元気」

「おかげさまで」

「で、びっくりしたけど、どなしたん」

「今晩、二人泊めてくれる」

「お、おお、うん、はい」

 カオルは髪の毛を茶髪に染めている。小学校の先生になったらしいが、最近
は、それでもいいらしい。頬がこけて元々大きい目玉がよけいに際だつ。細い
体に大きな胸、スタイルは抜群だ。

 ぼくはざっと見て取ると、後ろの彼氏も値踏みした。眼に艶がない、中肉中
背、センスはあまりよくない、人を小馬鹿にしたような雰囲気を漂わせてい
る。

「ち、ちょっと待ってや」

 ぼくは慌てて、部屋に駆け込むと、ジーパンをはき、ベッドの布団をたた
み、窓を開け放した。

 散らかしていた本やら、シャツを、押入に投げ込む。
 時計は二時半になっている。
 電気ごたつ用机は、布団がかかったままだ。こいつは電気ごたつ用机であっ
て、電気ごたつ本体はない。なかなか便利な代物で、机の下に半畳用の電気
カーペットを敷いているから、真冬でも、そのまま寝込むことも出来る。

 三人が回りに座ると、さすがに狭い。

「あ、彼、戸田くん」

 カオルが鼻にかかった声で言う。

「お、おお。ぼくは、大島」

「同僚なの、春休みに旅行。で、今晩泊めて欲しいの」

「お、おお。ええよ」

 ぼくは立って、お茶を入れる。電気ポットにいつも湯は沸かしているから、
すぐだ。

 小学校の先生なら、三月の下旬から、四月初めの新学期の準備まで十日ほど
は休みだ。

「ぼくは、夜中はおれへんけど、二人ならスペースあるで、どうぞ」

「助かるわ。結婚しようか、と貯金してるの。でも旅行もしたいし」

「お、おお、結婚ね、おめでとう」

「ありがとう」

 カオルを見て、彼女とのセックスも思い出したが、不思議と嫉妬も未練も感
じなかった。考えてみると、二人であまり真剣に話し合ったこともなかった。
お互いに、性的なことを含めて、学生生活に便利だった。授業情報のやりとり
から、代返にノートのコピー。なにより人間関係が広くなって便利だった。食
事も二人でままごとのように作ってみると、安く済んだ。互いに居候をしてい
るような毎日だった。

 カオルは今から、車で二時間ほどの旧陣屋を見学して、食事をしてから、こ
の部屋に、夜中に戻って来るという。

「ほんなら、これ」

 ぼくは、部屋のキーを渡した。  

「じゃあね」

 カオルは腰を上げる。戸田という男は、ぼくの淹れた茶に口も付けなかっ
た。 

  廊下まで出ると、戸田の車が見えた。二百万はするという、ユニークな小型
の外車だった。ぼくの軽四が、うらぶれて見えた。

 顔を洗って、洗濯機を回し、久しぶりに部屋の掃除をした。それからパソコ
ンを起動して、教員試験のホームページに接続した。

 考えてみたら、ぼくも一応、小学校の教員免許がある。なんやかやといって
も、小学校なら、毎日定時に帰れる。中学生は怖いが、小学生なら何とかなる
し、年休をフルに取れば、休みも多い。

 子どもが好きだから、教員養成の学部に入ったのだが、実習をしているうち
に、抵抗のない子どもが好きと言うだけで、本当は、好きでも嫌いでもないこ
とがワカッタ。一ヶ月の実習が終わるときには、別れに泣き出す子がいたりし
て、ぼくは感動した。が、なんのことはない、よく知らないどうしの先生と子
どもが、感傷に浸っていただけである。実習など何年しても、子どもにとっ
て、実習の先生はお客様なのだ。それを、ついつい錯覚して、自分に適性があ
ると思うと、本人にとっても子どもにとっても不幸なことになる。

 教員は給与水準も高いし、社会的地位も、ずいぶん落ちたとはいえ、まだ少
しは残っている。一旦就職すると、手放したくなくなるのだ。だから適性がな
くとも居続けることになる。昔はそんな教師がたくさんいたが、欠点が表に現
れないほど「先生様」の世界だった。だが、今は違う、しがみつくほど子ども
は不幸になり、先生も完膚無きまでに拒否される。

 だが、それは良い教師でいようとするからであり、食べて行くための手段と
割り切って演技すれば、案外、いい教師になれるかも知れない。 子どものた
めなどと言う思いこみは、自分の存在欲、自己顕示欲を満たすためだけのこと
が多い。

  カオルや戸田は、多分そんなことも考えていないだろう。食べるための手段
であり、同時に自己有用感を得るための手段であって、子どもなど目にも入っ
ていないに違いない。完全に教育と学校に寄生しているのだ。

 考えていると、そんなことを思う自分がバカバカしくなって、ぼくはネット
から離脱した。

 のろのろと、部屋を出て、牛丼屋に向かった。大盛り、汁付き四百円。

 労働者諸君、と、寅さんのように演説をぶちたい空気が、そこにはある。あ
まり生気のない、地球と人生に寄生したような人の顔が多い。恐らくぼくの顔
もそうなのかも知れない。牛丼屋だけでなく、ファミレスにも、コンビニにも
その手の雰囲気が満ちている。たぶん時代そのものにもあるのだろう。

 たくわんの切れ端を噛みながら、ワンルームに戻り、シャワーを浴びて、服
を着替えた。

 時折、カオルの顔が浮かび、「ひょっとして、逃がした魚は大きかったのか
も」などと思う。戸田という男とカオルの痴態が頭をかすめる。嫉妬だろう。
嫉妬は努力に転化するというが、ぼくの場合、さほど強くわき上がるものはな
い。

 ビールを飲んでテレビを眺め、十時に再び部屋を出た。

 街の中心部ではないので、十時になるとさすがに車も減ってくる。
 自転車をコンビニの裏手に停めて、店に入った。

「大島くん、頼むで」

 ぼくの着がえを待ちかねたように、店長が言う。ローテーションを組むの
で、いつも店長と会うとは限らないが、ぼくは知らない間に、副店長のような
立場にいる。これは面倒だ。手当が付いているわけでもないのに、責任らしき
ものがある。といって、二十五歳にもなると、そういう振る舞いをしなければ
ならないこともわかっている。

「お、おお、うん、はい」

 引き継ぎを済ませて、店内に入る。十二時をすぎると、一人勤務になる。

 立地条件が良いので、うさんくさい連中のたまり場になることも少ない。客
の数は少なくなるが、それでも店内が空になることはほとんどない。   

 それがいい。何が大変だといって、何もないのに拘束されるほどつらいこと
はない。適当に客が続くから、知らずに時間が過ぎていく。

 六時に、交代が来る。七時半にもう一人来る。七時から九時くらいまでは、
かき入れ時だ。新聞、雑誌、朝飯、昼の弁当。出勤、登校前の連中が、押し寄
せる。ぼくはその波を見ながら退散する。

 コンビニに押し寄せる人間たちは、コンビニに寄生しているのだ。コンビニ
が彼らに寄生しているのではない。恐らくコンビニというものがなければ彼ら
は生きていけないはずだ。いつの間にか主客が入れ替わって、コンビニという
システムが、人間を居候させている。

 人間の考えも、行動パターンも、二十四時間眠ることのないコンビニ中心に
回転しているのである。
(ぼくなども、コンビニに食べさせてもらっている寄生虫の一人なのか
も・・・)

 自転車をころがしながら、ぼくは笑みを浮かべた。自分が可笑しいのか、社
会が可笑しいのか、よくわからなかった。

 部屋にはいると、カオルと戸田が眠っていた。

 夜中に帰ったのだろう、パジャマに着替えてはいなかった。もっとも初めか
ら着がえるつもりはなかったに違いない。

 カオルはベッドで、戸田はこたつ机のところで、眠り込んでいた。

 ぼくはしばらく、カオルの顔を見つめた。

 好きになって、半ば同棲した。性的な関係の側面が強かったけれど愛してい
た。それでもどこかにすきま風のようなものが吹いていて、ぼくはそれがなん
だかわかっていて、そのままにしていた。

 お互いがお互いに寄生していた。人として必要なのではない。とりあえず生
きていく上で、便利だから、そうしていたにすぎない。だから相手に期待もし
ない。期待しない関係では、愛情は熟成しない。

 愛情に種類はない。芽生えた愛情が歳月をかけて、深まっていくのだ。新酒
のとげとげしさは、互いを傷つけあう。傷つきながら、味のある古酒へと変身
していく。だが、ぼくたちの愛情は、互いを傷つけあわない距離のままだっ
た。

 落としていない化粧が、頬の上で浮き上がり、かさぶたのように見えた。

 ぼくは小さなため息をついてから、音を立てずに顔を洗い、ジーパンを脱い
で、こたつ机の反対側に滑り込んだ。

 戸田の靴下の臭いがしたが、ほんの一瞬のことで、ぼくは眠り込んだ。

      ※

 人の気配で目を覚ますと、カオルが台所で化粧をしていた。戸田はトイレら
しい。

「お、おお」

  ぼくはむっくり起きあがって、時計を見た。十一時半だ。少し寝足りない。
どうせ、今夜は出勤せず、明日は日勤だから、それはかまわない。

「どうも、でかけるわ」

  カオルが言う。

「うん」

 まともに返事が出た。

  カオルが、もの問いたげな眼を一瞬した。

 自分を手放したぼくを責めているようでもあり、戸田という金持ちの男を手
に入れたことを誇っているようにもとれた。

 だが、ぼくの死んだような目を見て、それが無益だと悟ったらしかった。
  二人は、バタバタと出て行った。

 戸田という男は結局、ろくに口も開かなかった。モトカレの所に泊まる女
と、泊まらせるモトカレ。そこに平気についてくる男。戸田は案外ぼくの分身
かも知れなかった。

 ぼくの親が知れば、「ま、最近は・・・」と、平気な顔で理解したように振
る舞いながら、新しい生き物の出現に戸惑うだろう。

 団塊の世代より少し若い両親は、『好きだったら性的関係を結んで良い』と
いう世代であり、ぼくは『退屈だから性的関係を結ぼうか』という世代であ
る。

  ぼくは、窓を開け放ち、玄関のドアを開け、風呂場の換気扇を回して、掃除
を始めた。平気なようでいて、カオルと戸田のいた痕跡を消してしまいたかっ
た。過ぎ去って、思い出したくもない古い時間が、体と部屋にまとわりついて
いる気がした。
 狭い部屋の清掃に三時間もかかった。
 ゴミ袋が四つも出来て、ベランダのゴミ箱が満杯になった。

 シャワーを浴びて、冷蔵庫から発泡酒を取り出して飲んだ。
 明日の朝、十時の出勤だと、少し気がゆるんだのかも知れない。ベッドに転
がって、テレビの相撲を見ていたら、眠くなった。リモコンでテレビのスイッ
チを切ると、そのまま寝入ってしまった。

   ※

 寒さで目が覚めた。

 開け放った窓から、春の冷気が侵入していた。

 月の光が斜めに射し込み、部屋の中を打ち抜いていた。

「十一時か・・・」

 時計を眺めて、体を震わせて、半身を起こした。

 その時、ベッドと反対側、テレビの側に誰かいる気がした。

「お、お化けなんかいない。生きている人間の方がよっぽど残酷なんだ」

 いつもどおり、自分に言い聞かせる。

 と、寝息が聞こえる。

 ぼくの心臓が一つ大きく鳴った。

「カオル・・・」

 と口の中でつぶやいてみたが、そんなはずのないことはわかっていた。カギ
も返してもらっている。

 背中が冷たくなった。
 だが、寝息が聞こえる。
  狭い部屋の目と鼻の先だ。
 立ち上がって、蛍光灯の紐を引けばいいのだが、ぼくは凍り付いていた。
 月光の影になった、テレビ横の壁に、そいつがいた。
 黒い、影のような、それでいてしっかりと質感のある人型。
 ぼくは、ようやく、ごくりとつばを飲み込んだ。
 ゆっくりと腕を伸ばして、目覚まし時計を掴んだ。武器になりそうなものは
それしかない。立ち上がれば、パソコンラックの上にある、十五インチの液晶
画面は、武器になりそうだった。

 眼をこらす。
 黒い人型のそれは、まるで風船で作った人形のようだったが、十分に重量感
があった。
 頭の部分が、下に垂れて、曲げた足を抱え込むようにして眠っている。
 鼾をかいている。

「ば、化け物・・・」

  心臓が口の辺りにせり上がってきて、爆発するように打っていた。
 ぼくは、大きく息を吸うと、ベッドから跳ね起きて、蛍光灯の紐を引くと同
時に叫んだ。

「だ、だれだ!」

 右手に目覚ましを掴んでいる。
 蛍光灯の紐は、手荒く引かれたため、音を立てて切れた。天井の蛍光灯のス
ターターが、明滅し、それはすぐに沈黙した。
 蛍光灯は点かない。
 ぼくは慌てて、十五インチの液晶画面をコードを引きずったまま持ち上げ
た。

「ま、まちなはれ」

  全身の血を凍り付かせるような、低い声がした。
 目の前の黒い人型が発したものだった。
 ぼくの目は最大限に見開き、体中のアドレナリンが一時に放出されていた。

「べつに、強盗やおまへん」

 そいつは言った。
 黒い人型は、正座をして、ぼくを見上げていた。といっても眼があるわけで
もない。頭の部分が持ち上がり、ぼくを見ているのだ。
  表面は艶がなく、よく見ると、目や鼻や口のある辺りに、微かに凹凸が見ら
れる。

「お、おまえ・・・」

 ぼくは液晶画面を振り上げたまま、そいつを睨んだ。
 艶のない吸いこまれそうな真っ黒なかたまり。

「だから、何もしまへん」

「お、おお・・」

 眼と思える窪み、鼻のような隆起、口と耳らしいものもある。

「おまえ、誰だ」

 ぼくは漸く、落ち着いて相手を観察している自分に気がついた。液晶画面も
下に降ろしている。

「わて、でっか・・・」

 ぼくはそいつの、関西弁丸出しの口元を見つめた。

「わて、は、幽霊」

 ぼくの口の中が、シュッと音を立てて乾いた。
 液晶画面を顔の前にあげて、いつでも放り投げられるようにした。

「驚かしましたな。わては幽霊。でも、怖いことおまへん」

「ゆ、幽霊?」

 ぼくは、そいつのおとなしい口調に、大きな息を吐いた。
 幽霊というのは、普通足がなくて、青白い顔をしているのだ。西洋の幽霊に
は足があるというが、どちらにしても人間のスタイルである。だが、目の前の
やつは、真っ黒なかたまりなのだ。

「なにも、真っ黒でもかまいまへんやろ」

 そいつは、ぼくの心を見透かしたように言った。

「あ、そりゃ」

 ぼくは言葉に詰まった。

「幽霊は、こんなスタイルなんでっせ」

「お、おお、あ、うん、はい」

「固定観念で物事を見るとあきまへん」

「う・・・」

 説教されているようだ。

「普通は、生きてる人間に気づかれたらあきまへんねやけど、疲れてつい眠っ
てしまいましてな。鼾かいてしもて、姿まで見せて、あんさんに気づかれまし
たんや」

「疲れて、眠っていた?」

「そら、一日ぶらぶらしたら、疲れますで」

「ぶらぶらしたら?」

「当たり前やおまへんか。仕事せんと、ぶらぶらばっかりやったら、疲れます
で」

「わからんなあ・・・」

「まあ、生きてる人から見ましたらな・・・」

  そいつは口ごもった。

「どうした」

「しゃあおまへんな。話しまひょか。本来は、生きてる人に姿を見せても、ま
して話をするなんて、あきまへんねんけどな。油断して鼾までかいてしもたの
は、わてのミスやさかい。そのかわり、絶対しゃべったらあきまへんで」

「お、おお、うん、はい」

「しゃべったら、幽霊になりまんで」

「はあ?」

  ぼくはまだよく話が飲み込めない。

「わてはな、003020546286言いまんねん」

「それ、何?」

「名前でんな。人間時代の名前は忘れます。長いから6と、省略してますけど
な」

 幽霊が話し出した。やっぱりぞっとする声だ。

 6は、生きているとき印刷会社の営業マンで、ノルマノルマで追いまくられ
ていたらしい。不景気で、どこも印刷発注などは控えるし、だいたいが入札方
式なので、談合をしても価格は低下していく。年齢は四十七歳だったという。
「けどな、人間時代の記憶は、初めから、ぼやっとしてまんねん。この世とあ
の世がつながったら困りまっさかい、そうなっとんでっしゃろな」

 妻と子があったらしい。一人ならどうにでもなったろうが、大学と高校生を
抱えて、必死で働いたあげく過労死したという。

  ぼくはくまさんの、ブョッとした顔を思い出した。割り切れば、寄生してな
んとか生きていけるのに、この目の前の幽霊は、がんばったらしい。

「まあ、生命保険が五千万、遺族年金もでるし、あいつらは困らんやろな」

  6は自嘲的に口とおぼしきものを歪めた。

 死ぬと、幽霊になっていたという。

「幽霊言うても、別に黄泉の国があるのと違いまんねん」

 なんと、人間世界と同じ世界に、だぶって存在しているらしい。

「それがやな。幽霊爆発が起きてましたんや」 

「幽霊爆発?」

「そうでんがな。人は死ぬと幽霊になる。人間世界の人口爆発が起きると、幽
霊もどんどん増えていく、そうでんな」

「ああ、それで幽霊爆発か」

 幽霊は人間の時と同じ年月を過ごすと、どこかに生まれかわるという。どこ
かにというのは、宇宙のどこかの星にと言うことだ。だが、幽霊の時代は、生
きていた時代の星に住みつくらしい。

「昔は、幽霊の方が少なかった」

  6は、しんみりといった。

 何もしないで幽霊として生きるのである。幽霊政府から、住処が割り当てら
れる。お寺とか、大きな屋敷とかである。だが次第に幽霊が増えると、そうも
言っておれなくなる。

「わてなんか、人間時代が安サラリーマン。だから死んだ後、ここが割り当て
られましたんや」

 ぼくは、しばらく思考を停止していた。

「な、なんかそれ、馬鹿にされてるような」

「馬鹿にしてまんねん」

  ぼくはさすがにむかついた。

「ま、怒りなはんな」

  6が立ち上がって、ぼくの肩を叩いた。

  幽霊はいわば、人間世界に寄生している。別にエネルギーを消費するわけで
はないが、住処が必要なのだ。その住居は、人間として生きていた時代の格に
応じて割り当てられるという。

「だから、われわれにしてみたらでんな、そこら中に幽霊がいて、しかも働か
ず、ぶらぶらして、時間が来て生まれかわる幽霊死をまってます。これ、狭い
部屋で拷問でっせ」

 ぼくは、ようやく理解できた。死んでも、今以上のことが待つわけではな
い。働かなくていいが、何もしないで時の過ぎるのを待つのは、これは辛い。

「ま、盆だけは、うろうろしてええことになってますけどな」

 幽霊は究極の居候なのだ。

 ぼくは、液晶画面を机に戻し、ベッドに座った。

「ほんなら、わて消えますからな。しゃべらんように」

「お、おお」

 6の姿が壁にとけ込むように消えた。

 人間も幽霊も、寄生社会、つまり新しい居候時代というわけである。楽だ
が、夢のない社会。なんとなく余裕があって、なんとなく不安で、何となく生
きている時代。

 ぼくは、机の上から煙草を取り、火をつけてから、ため息とともに、大きく
煙を吐き出した。 

  6の声がした。

「わ、かないまへんな。けむたくてしゃあない」

  ぼくは、煙草をもみ消して、頭をかいた。




                                                      おわり




                           031212

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