小泉孝太朗の決断
足達 光輝 作
孝太朗はじっと机上の大きな用紙を睨んでいた。
時折、フッと視線がさまよい、再び戻ってくる。もう、二時間近かった。
建物の中は、静まりかえっていたが、執務室の孝太朗の僅かな動きにも、誰かが微妙に
反応しているのが感じられるような気がした。
机の上の用紙には、北極点を中心とする正距方位図法の世界地図が描かれている。中心
からの方位と距離だけを完全に正しく表現する地図である。地図の右手にあるパソコンの
十七インチ有機液晶にも、世界地図がある。こちらはよく見かけるメルカトル図法による
普通のものだが、こちらの地図の上には明滅する十数個の点が見える。
机の背後は分厚い遮光カーテンが引かれ、二十畳ほどの四角い部屋の反対側にはドアが
ある。部屋は濃い茶系統のカーペットに合うようにベージュで統一され、天井にはシャン
デリアが輝いている。
孝太朗が、大きな執務机から顔を上げた。
それだけで、建物全体の空気が揺らいだ。
右手前にあるコントロールボックスのインターフォンを押す。
「はい」緊張のためか妙にくぐもった声がした。
「決めました。全員招集。指示が済めば来てください」
「はい、わ、わかりました」
孝太朗はボタンを押して電源を切ると、すっかり生ぬるくなった、アルコール分2パー
セントのビールを口に含み、ナッツ入りのチーズを囓った。
そして、引き出しから赤鉛筆をとりだし、目の前の地図を睨んだ。
一呼吸置いて、スッと一本の線を引いた。
それから、父親譲りのライオンヘヤーをかき上げた。
口元に微かな笑いが浮かんだが、すぐに消えた。
入り口ドアの上にある、古びてはいるが正確な丸時計は、既に日付を超えている。
ほんの五分足らずで、ドアがノックされた。
「どうぞ」孝太朗は、ドアを見ずに言った。
四十歳にはなっていないが、幾分頭に白いものが混じった男性が、顔を見せた。
「十五分もすれば、全員集まるかと思います」
緊張感は残っていたが、落ち着きを取り戻したらしく、きらりと光る目をまっすぐに孝
太朗に向けている。
「ありがとう」
孝太朗は、ゆっくりと立ち上がって、後ろを向くと、厚いカーテンを半分ほど開けた。
天井まである二枚のガラス窓の向こうに、部屋の中から黄色い光があふれ出した。
二十メートルほども芝生が続き、その外には木立がある。木立に向こうには、高さ四
メートルもあるフェンスがあるはずだが、闇の中に沈んで見えない。僅かに周辺の建物の
灯りが、空中に浮かんでいるだけだ。月も星も姿を隠しているらしい。
「決められましたか」背後から、男性が声を掛けた。
「うん」孝太朗は振り向きもせずにぶっきらぼうに言った。
背後の男性は、さらに言葉を継ごうとして、それを飲み込んだ。
孝太朗は、じっと闇を見つめ、男性も焦点を失ったような目をして、立っている。
時が霧のように流れていた。
再びドアがノックされた。
「村上首席補佐官」高い女の声がした。
呼ばれた男性が振り返った。
「入りたまえ。ドアはそのままで」
「わかりました」
白いズボンに黒いジャケット。背は1メートル七十五センチの孝太朗より高い。見事な
ブロンドをショートカットしている。
村上と呼ばれた男の隣に立つと、背丈が余計に高く見えた。
孝太朗は、まだ背を向けたままである。
「決まりましたか」男が二人、入ってきた。
村上首席補佐官が軽く頷いた。前髪が額にかかる。東大法学部主席、ハーバードの客員
研究員という経歴だが、そのままハードボイルド映画の主役にしていいほどだ。
だが、相変わらず孝太朗は無言で背を向けている。
続いて、数名の人間が、慌ただしく、部屋の中になだれ込んできた。
執務室は机以外に余分なものはなかったが、十名が揃うと、さすがに狭い。
ドアが閉まった。
同時に、村上が口を開いた。
「大統領、揃いました」
孝太朗が、ゆっくりとカーテンを閉め、振り向いた。
村上とブロンド女性以外は、中年が多い。六十代前後と言うところであろう。
孝太朗は、机を挟んで立つ全員の顔を順に見た。
男が一人、ごくりと喉を動かした。
「見たまえ」
孝太朗は机上の地図を指さした。正距方位図法の地図は、逆向きに見てもよくわかる。
赤い色鉛筆は、東京とアラスカの州都アンカレッジを結んでいる。
全員が机に近より地図を十分に見終わってから、孝太朗は、ゆっくりと口を開いた。
「東京、アンカレッジ間の飛行距離は約5,500kmでしかない。」
「では、大統領・・・」村上が声を出した。「やはり、我が国は」
孝太朗はゆっくり頷いた。
「二十年前から、父の方針通り。そう決めました」
「わかりました」村上が周りを見ながら言った。
「戒厳令ですか・・・」
国防長官の成田が誰に言うともなく呟いた。
「そうだ。戒厳令、国民投票」
「否決されれば」補佐官のメアリーが念を押すように言った。
「否決はない。万一否決されれば、国がなくなる。我が国はもたない」
全員が黙り込んだ。
この日のために、二十世紀末からの準備がなされてきた。英会話主体の学習を小学校ま
でおろし、やがて来る未来に備えた。よく判っていることなのだ。が、それでも確かめず
にはおられなかった。
「では、明日、いや、もう日付は変わっていますね。予定通り証券取引所が閉まる午後3
時に予告をし、午後8時に国民に発表します」
「よし」村上が、孝太朗の言葉を受けて、自らを奮い立たせるように言った。
半年前、日本は、北朝鮮の核攻撃を受けていた。
彼の国は、金正日体制から変わりつつあったけれども、一旦できあがった支配・搾取の
仕組みは、瓦解しなかった。中国やロシア、韓国、アメリカの間をうまく泳ぎ、内部矛盾
をなだめつつ生き残っていた。太陽政策の韓国と一つになるにしても、東西ドイツと比較
しようがないほど国家間の落差が大きく、更に半世紀以上の時間を必要とした。
アメリカは、イラク戦争、ハリケーン災害などにより、急速に孤立化の道を進んでい
た。世界に自由と民主主義を広げようとしたが、支持を得られず、気がつけば国内の貧富
差が拡大し、機会の平等さえ失われようとしていた。そこで、第二次モンロー主義を掲
げ、主要同盟国家以外とは、関わりを持たなくなっていた。この大国は、一国でも繁栄で
きる世界で唯一の国なのだ。
中国も国内矛盾を欺しながら発展してきた。日本をスケープゴートにする方法は実に効
果的で、北朝鮮とともに国内の不満をそらし続けていたが、その方法も限界に近かった。
日本は、世界の工場から滑り落ちた19世紀のイギリスのように国家として生き延びよ
うと考えていたが、初めから無理があった。英連邦のような同盟諸国、世界に散らばるア
ングロサクソン系の民族、巨大な英語圏を持たない。世界が安定していれば受け入れられ
たが、激動する時代に突入すると、見捨てられた。東アジアでは韓国との関係は悪くなか
ったものの、韓国にとってみれば北朝鮮・中国やロシアとの関係が優先した。
東南アジアでは経済力も国際政治での力量も中国にとって代わられている。
アメリカは日本をアジアにおける最も信頼できる同盟国と位置づけてはいたが、その日
本を全面的に支援するほどの意志はなかった。
軍事的にはアジアを中国が完全に押さえ、台湾は2017年に武力併合されていた。イ
ンドは世界の工場となったが、他国への関心はあまりなかった。中東では第五次の戦争が
起きて、イスラエルは、一旦解放したガザや、エルサレムを完全に自国領土に組み入れ
た。そして貝のように閉じこもった。
国連は、アメリカに見捨てられ、日本は財政的に破綻していた。その結果ユーロと中国
の発言力を高めはしたが、日米にとってかわることは出来ず、結局、力を失った。
北朝鮮の核攻撃は、二十数発のミサイルであった。日本国防軍と、アメリカ極東軍が、
ミサイル防衛システムで迎撃した。しかし、一発だけが、長野県松本市に着弾。盆地であ
ったために、消え去った松本市とその周辺、長野県内だけに影響は限定されたが、広島型
の十数倍の威力をもつ核爆弾は、およそ八十万の人間を一瞬で殲滅した。
インターネット上に、「日本など世界に巣くう害虫である、核攻撃で地上から消し去
れ。数発で足りる」という主張が流れ出したのは、二十一世紀初頭である。それを内部矛
盾が爆発点に達した北朝鮮が実行した。
だが、アメリカは核の傘の約束を果たさなかった。核兵器は、偶然に防空網を突破した
一発のみだったから、アメリカは反撃をためらった。確かに長野県民は大被害を受けた
が、1憶を切り出した日本人口の1パーセント弱であり、しかも東京や大阪という大都市
圏ではなかった。中韓両国も北朝鮮を非難したが、自国には何の痛痒もなく、アメリカ以
上に軍事力の行使は差し控えた。北朝鮮はおよそ三分の一の支配層が、国を牛耳ってい
る。核攻撃すれば、奴隷状態の国民が犠牲になるだけだ。通常兵力での反撃は、アメリカ
軍に多大の死者を生む。それ以上に、中国や韓国がそれを望まない。その関係を破壊して
まで日本を守る気はない。ましてや、孤立主義に陥っているアメリカには、長い文化的魅
力はあるが、極東の経済力の落ちた小国を血を流してまで助ける必要はなかった。「三度
目の被爆か。気の毒に」という反応があり、日本の国防軍が在来兵器で反撃することにも
賛成しなかった。国連も各国も北朝鮮への非難決議をしたが、それだけだった。考えてみ
れば中国・韓国・そしてアメリカさえも、このまるで事故のような核攻撃は、北朝鮮に干
渉し、適度に民主化しコントロールする絶好の機会であった。
日本国内世論は沸騰したが、軍事力の行使には懐疑的であった。衰退したとはいえ、ま
だ日本の持つ軍事力は強大である。しかし、血を流して北朝鮮を制圧しても、得るものは
少なく溜飲を下げるだけのことであった。まして、その後、未だに飢餓に苦しむ北朝鮮を
支えるのは大変だった。いわば、やられ損という状況に日本は陥っていた。落ちたとはい
え有数の工業力を持ちながら、世界のいじめられっ子を続ける、それが日本であった。
小泉孝太朗は、全員が部署に散り、大統領官邸が熱を持ったようにざわめき始めるのを
感じていた。
父親の小泉準一朗が「自民党をぶっ壊す」と宣言し、議会解散までしてから20年が経
っていた。紆余曲折はあったが、議院内閣制はなくなった。議会は定数200人の衆議院
と、100人の参議院に編成し直された。2000年の時点でそれぞれ、480人、24
2人、合計722人という膨大な議員数が、半数以下になった。なにせ、当時、日本人口
のほぼ倍の人口を持つアメリカの上下院議員数が535名である。しかも、1人あたりの
日本の議員の年間給与は2400万で、これもアメリカの2000万、英仏独の1000
万前後を上回る。給与以外に、文書交通通信滞在費1200万、政党への立法事務費が7
80万、公設秘書が3人、宿舎と事務所、公用車、手厚い年金などが出ていた。もちろん
兼業も許される議員天国である。それが地方議会や公務員制度にも反映していた。
人口が減少し、技術立国に赤信号がともり、財政が破綻しかかっても既得権と古いしが
らみにとらわれていた。「改革には総論賛成」であり「各論反対」あった。その中で、グ
ローバル化しか生き残る道のない大企業が悲鳴を上げ、老後の生活保障さえ危なくなった
国民が、強力なリーダーシップを求めた。「大統領制」がひかれた。孝太朗は、第2代の
大統領であり、「日本をぶっ壊す」のスローガンで改革路線を走っていた。大統領支持率
は六十数パーセントであり、彼の決断に頼るしか日本の未来はなかった。
ドアを閉めると、彼の側には村上首席補佐官だけがいた。
「頼む」孝太朗は、黒いレザーシートに腰を下ろした。シートの上には、この部屋には不
釣り合いな、にんじんじんのマンガクッションが乗っていた。
「いいですか?」
「ちょうどいい、約束の時間だ」
「わかりました。お待ち下さい」
村上は、執務机の上のパソコンを回転させると、マウスを操作した。よく光る目が、画
面上にあるワシントン、ホワイトハウスをあらわす点を見つめていた。
かすかなモーター音がして、ドアと机の中間点の天井から、70インチのパネルがおり
てくる。
「暗号化接続完了」
ホワイトハウス、アメリカ合衆国大統領とのテレビ回線は、人工衛星と海底テーブル、
インターネットのトリプルセーフシステムが取り入れられている。
しかも、暗号化された通信は、もし、それを解析しようとして世界最速のスーパーコン
ピュータ何台かで並列処理しても、数日はかかる仕組みが取り入れられていた。
孝太朗は、目前の大画面に現れたエンジのスーツを着た女性に、ゆっくりと口を開い
た。
「こちらでは、まだ、おはようございます、です。閣下」
音声認識装置が直ちに、それをとらえ、瞬時に英訳していく。その言葉を村上がじっと
聞いている。誤訳率は0.00001パーセントだが、どうしても微妙な表現は機械は苦
手らしい。
「おはようございます」
ヒラリー・ロダム・クリントン大統領の顔が笑いかけた。もう、七十七歳だというの
に、どうかすると四十歳代にさえ見える。
2020年の大統領選で選出され二期目である。
「お約束通り、決定いたしました」
孝太朗は静かに言った。
「わかりました。では、基本事項を確認させます」
ヒラリーは、彼女の側にいる首席補佐官のチェルシーと代わった。
孝太朗も、村上首席補佐官と交代する。
「おはようございます。では」
孝太朗は目を閉じて、じっと耳を傾けた。
「一、日本国は、アメリカ合衆国の当該憲法修正条項の制定を待って、特別州である日本
州となる。期限はアメリカ東部標準時における2027年9月24日0時。憲法及び法体
系、外交権は十年間、これを変更しない。その後、合衆国憲法下で、州議会の構成に入
り、州法を制定。直近の選挙で人口比による合衆国議会議員を選出するも、十年間はその
半数とする。天皇制及び国防軍はこれを維持。国防軍は、およそ十年をもって合衆国軍・
州兵体制に移行する・・・」
孝太朗の口元に、微かな笑いが浮かんでいた。
了