いまどきのイノシシ
(「明石大門17」収載 '97 明石ペンクラブ刊)
とても霧の深い日でした。
男は金の入った鞄を抱えて、山の中をさまよっていました。人をだましてお
金を持ち逃げして、追いかけられたのです。しばらく身を隠すつもりで、寝袋
と食料を担いで山の中に入ったものの、どうやら道に迷ったようでした。
「なに、地図もコンパスもある、寝袋に食料もあるし、この辺りの山は深くて
も、熊が出るおそれはない」
そう思って、三晩は過ごしたのです。
霧は晴れるどころかますます濃くなって、ほんの二、三メートル先が見えま
せん。
「弱ったな、もう追っ手はまいたと思うが、そろそろ街に戻らないと、最後の
缶詰もなくなって、本当に腹が減ってきたぞ。山中で餓死なんぞした日には、
なんのために危ない橋を渡って金を手に入れたのかわからなくなる」
男は雑木林の中の倒木に腰を下ろしました。
その時です。
「どないしました?」
すっとぼけた感じの声がしました。
男は心臓が口からでそうなほど驚きました。どう考えても人がいる場所では
ないのです。
声の方を向いて、今度は息が止まりました。
目の前にイノシシがいます。
「どないか、しはった」
「お、お前が喋っているのか」
「そう、わてが話してま」
確かにイノシシです。
「い、いの、いの、いのしし、イノシシ・・・」
男はかっと目を見開きました。
「ここは、人間世界ではありまへんで、山の中、イノシシかてしゃべりま」
「ああ、し、しかし・・・」
「まあ、わてが親切に、どないしはった、って聞いているのやで」
「え、道に、道に迷って、街に、街に出たいのだが」
「ああ、あの空気の臭い、ごみごみして、ぎすぎすした、灰色の巣へ戻りたい
のでっか」
「あ、ああ・・・」
「ま、いいでっしゃろ、教えたげまひょ。ここを真っ直ぐに上がって、とんが
り岩を右に折れて、二股松を右斜めに下って、十歩進んで、はげ地面を左に折
れて、道なりに進んで、猿の木を左に折れて、窪地を右に下って、ああいっ
て、こういって・・・」
「わ、わからん、覚えられん」
指を折りながら道を覚えていた男はわめくように言いました。
「そうか、そらそやな」
イノシシはぶるっと鼻をふるわせました。
牙が二本、男の方を向いています。
「よし、そうでんな、これ、貸したげまひょ」
イノシシは思い切ったように言いました。
男がきょとんとしていると、イノシシはどこからか眼鏡を持ってきました。
真っ黒な分厚い縁のついた、丸い眼鏡です。
「こ、これはなんだ」
「これはな、イノシシ眼鏡。掛けると道が見える、案内板も見える。人間には
見えんけれど、動物の山には、動物語で書かれた案内板が至るところにありま
してな、この眼鏡を掛ければそれが見える。人間には人間の文字として読める
はずや」
「動物語ねえ」
男は首をひねりながらもそれを受け取りました。
「イノシシ圏の端までは送ってあげまっけど、あとはその眼鏡で帰るとええ。
眼鏡は谷の出口の一本松に掛けておいてや」
「うむ・・・」
「ほんなら、荷物を持ったげまひょ」
男は、寝袋と現金の入った鞄をひもで結び、イノシシの背中に振り分けまし
た。
「ほな、いこか。でもこれ結構重い荷やな、なにがはいっとうねん。さつまい
もなら一つ分けて欲しいが」
「い、いや、寝袋とか、財布とか、地図とか、まあいろいろと」
男はあわてて言いました。
「おまえはん、金持ちなんか」
「え、ああ、か、金はうなるほどある」
イノシシに金のことを話しても、誰にも漏れる気遣いはありません。
でも、イノシシがにやりと笑ったことに男は気がつきませんでした。
真っ直ぐ上がって、とんがり岩を右に折れて、二股松を右斜めに下って、十
歩進んで、はげ地面を左に折れて、道なりに進んで、猿の木を左に折れて、窪
地に出たところで、イノシシは止まりました。
「ほな、ここまでな。ここから先はイノシシ眼鏡を掛ければわかるさかい」
「あ、どうも」
男は尊大に頷きました。
荷物を持って、眼鏡を掛けると、なるほど、至る所に看板が見えます。
「イノシシ進入禁止」
「この先急カーブ」
「イノシシ制限速度二十キロ」
「猿のモン太の家」
「こネズミの館」
「犬立図書館この右折れる」
「カラスの勝手でしょ」
「泥棒に注意」
「爆走、イノシシ軍団」
訳の分からないものもあります。
「なるほどこれは便利な眼鏡だわい」
男は歩きながら感心しました。
山の様子が手に取るように分かります。
ほんの一時間も歩いたでしょうか。
いつの間にか谷の出口に男は立っていました。
人間の造った道路が目の前に延びています。
一本松が長く枝を伸ばしていました。
「ふん、この眼鏡、もらっておこう」
男は、眼鏡をポケットに入れると、そそくさと街に向かいました。
ホテルに落ち着いて、早速鞄を開けてみた男の顔が引きつりました。
「金がない」
鞄の中には札束はなく、小枝がぎっしりと詰まっています。
「く、くそっ、あのイノシシやろう」
狐や狸にだまされる話は聞いたことがありますが、イノシシにだまされるな
んて聞いたことはありません。
翌朝、男は猛りくるって山に向かいました。
一度通ったところです、イノシシ眼鏡がなくても、もう道は迷いません。
「やい、イノ公、でてきやがれ」
男は叫びました。
「なんや、この間のお方やないか」
イノシシがもっそりと現れました。
「か、金を返せ」
「金」
「そうだ、おれの金を返せ」
「そりゃ無茶な言いがかりや」
「なんだと」
「イノシシが金を盗って、どうしまんねん」
「な、なに・・・」
男は言葉に詰まりました。確かに冷静に考えて、イノシシが人間のお金を盗
っても仕方ありません。
イノシシはにやりとしました。
「それより、イノシシの眼鏡、返してくれはりましたか」
「あ、当たり前じゃないか」
「そうでっか、ほな信用しますけど、使用規則を破ってあれを使うと、とれん
ようになりまんで」
「なんや、とれんようにって」
「いや、返してくれはったんなら、それでよろしいけど」
イノシシは男の顔を見て、また、にやりとしました。
男はやましいところがあるので、不安になりましたが、なるだけ冷静そう
に、山を後にしました。
ホテルの部屋でテレビをつけても、金のことばかり考えます。
金がなくなっても、これからだました人と警察に追いかけられ続けなければ
なりません。
「くそっ、金はどこへいったんだ」
男は歯ぎしりをしました。
「しかし、イノシシの眼鏡を大量に作って売り出せば・・・」
いいことを考えついたと男は胸ポケットからイノシシの眼鏡を出そうとしま
した。
「ない」
眼鏡がどこにもありません。
「使用規則を破ると、とれんように」
男はイノシシの言葉を思い出して、あわてて顔を触りましたが、眼鏡はあり
ません。しかし、何か妙な感触はあるのです。
「なにが、とれんように・・・」
男は洗面所に入りました。
男の顔がゆがみました。
目の回りに黒い縁の眼鏡が皮膚の上に黒々と書かれているのです。
「あっ」
男はあわてて、洗い流そうとしましたが、眼鏡は取れません。
「イノシシの眼鏡がとれなくなった」
呆然とたたずむ男の後ろでテレビのニュースが流れていました。
「K市では、盗まれた札で、大量のさつまいもが買われました。買った男は丸
い黒縁の眼鏡を掛けて、マスクをして、山の方に向かったそうです」
男の顔が引きつりました。
「泥棒に注意」
山の中の看板がまぶたに浮かびました。
おわり
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