浄土真宗の教えってな〜に?親鸞聖人(しんらんしょうにん)てどんな人?
おつとめの言葉ってどんな意味があるの?等々。これから、ほんの少しずつ
でも解説していきます。PART1
とPART2に分けました。知らないかたも知
っている方もこのコーナーもたま〜に見て下さいね。
PART2 浄土真宗
Q&A・・・・浄土真宗に関する様々な疑問と平易な解答
NO.1「お経」ってな〜に?
NO.2「お経」は何のためにあげるの?
NO.3親鸞聖人の主な著述ってな〜に?
NO.4
なぜ、浄土真宗の本堂は、畳の間がひろいの?
NO.5浄土真宗では、般若心経はあげるの?
N0.6 お経をあげるときの作法は?
NO.7 浄土真宗の法名(ほうみょう)は、死んだ人に与えられる名前?
NO.8 お仏壇のロウソクの火はなぜつける?
NO.9
「宗教」で病気が治ったりお金がもうかりますか?
NO.10
お仏壇にお水を供えてはいけないのですか?
NO.11
お仏壇の北向きの位置はいけない?
NO.12
四十九日(満中陰《まんちゅういん》)が三月(みつき)にわたるといけない?
NO.13子どもが生まれたら神社とお寺お参りにいくのはどっち?
NO.14
足のしびれは がまんする?
NO.15
浄土真宗では、お寺さんのことを「和尚(おしょう)さん」と言いますか?
NO.16
葬儀では、塩をまく?茶わんを割る?棺桶をまわす?
NO.17
浄土真宗の お念仏ってどういう意味?
NO.18
お念珠(ねんじゅ)は、なぜ持つの?
(1)仏教の2つの大きな流れ
お釈迦様(おしゃかさま)によって開かれた仏教には、八万四千の法門(ほうもん/教え)があります。
それを大きくわけると聖道門(しょうどうもん)と浄土門(じょうどもん)の2つに分けることができま
す。
聖道門・・・人はすべて仏になる可能性をもち、自分の力で努力精進して仏になるというものです。その
ためには、たいへんな努力を必要とするので、自力聖道門(じりきしょうどうもん)とか難
行道(なんぎょうどう)ともいわれます。
○浄土門・・・仏の力によって極楽浄土(ごくらくじょうど)に生まれて仏になるというもので
す。そのため、他力浄土門(たりきじょうどもん)とか、易行道(いぎょうどう)
ともいわれます。
※浄土真宗は浄土門の教えの流れをくみます
2、浄土真宗の宗祖(しゅうそ)親鸞聖人(しんらんしょうにん)
親鸞聖人は、法然上人(ほうねんしょうにん)
から浄土教を学びます
平安時代の末期、世は貴族社会から武家社会へと大きな
転換をとげようとして戦乱と天災があいついで乱れに乱
れていました。その頃、京都郊外に生まれた親鸞聖人
(しんらんしょうにん)は、9歳で出家して比叡山(ひ
えいざん)に登り修学に励みました。
しかし、聖人はその修行でさとりを得ることはできません
でした。そんな苦悶の中、夢のお告げがあり、聖人は29
歳で比叡山を下り、京都吉水(よしみず)におられた法然
上人について浄土教を学びます。
これは、阿弥陀仏を一心に念ずる事(専修念仏[せんじゅ
ねんぶつ])によって、仏の慈悲の力がわたしたちを浄土
へ導いてくださるという教えです。
しかし念仏の教えは時の権力の弾圧を受け、法然上人は土佐
(実際は讃岐[香川県])へ、親鸞聖人は、越後(新潟県)
へ流されました。のちに許されてから関東に移り、約20年
のあいだ教化活動に励まれました。そこで、多くの人々と語
らいながら念仏の信仰を深めていかれたのです。
そして62、3歳の頃、京都にもどられ、著述に専念し90歳
で亡くなられました。それまで教えを受けた子孫や門弟たちの
努力によって、聖人の念仏の教えは次第にひろまっていき、親鸞聖人は、宗祖と仰がれる
ようになったのです。
※親鸞聖人のご生涯は後述します。
○仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)こそが真実の教えです
数多い教典の中から、親鸞聖人は特に「仏説無量寿経」(大無量寿経[だいむりょうじゅきょう])
または大経[だいきょう]とも言います)を「真実の教え」として選ばれました。
それは、迷いと苦しみのさ中にあって、成仏を求めようとして得られないでいる人々に対して実は、
人々が成仏を願うのではなくて、仏が人々の成仏を願っているということを説いているのが「仏説無
量寿経」です。
親鸞聖人は、この教えを除いてほかに成仏する道はないので「真実の教え」と言われました。また
「仏説無量寿経」の中で、釋尊(お釈迦様)自らが、この経典が永遠に真実の教えであることを宣言
されています。
この「仏説無量寿経」には、阿弥陀如来の本願《ほんがん/すべての人々を救おうとしてたてた願い》
が説かれています。48の願があります。その中で、親鸞聖人は第18願が「根本の願」であるとし
めされました。
第18願というのは、「すべての人が、如来(仏)の み名を称えて浄土に生まれることがないならば、
わたしは、けっして仏になりません」というのです。これを「絶対他力の本願」といいます。
浄土真宗では、この「仏説無量寿経」の他に「仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)」
と「仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)」を正依(しょうえ)の経典とし、これらを合わせて
「浄土三部経」と呼んでいます。
「仏説観無量寿経」は、韋提希夫人(いだいけぶにん)が、釋尊の 教えによって、どのように救われ
ていったかを説いています。
「阿弥陀経」は、釋尊が西方極楽国土の荘厳を説き、六方の仏がそれをほめたたえて、浄土に往生する
ことをすすめています。
浄土真宗において救いとは、阿弥陀如来の本願によるものです。これを「他力廻向[たりきえこう]の
本願」「絶対他力[ぜったいたりき]の本願」と言います。この如来の本願は、1つには、「南無阿弥
陀仏[なもあみだぶつ]」という名号[みょうごう=阿弥陀仏の名のこと]として、わたしたちの心に
とどきます。親鸞聖人は、これを「如来からの呼びかけ」と言われました。《※参照》もう1つには
「摂取不捨」の光明としてわたしたちを外から包んで見護っています。内に働く名号と外から見護る光
明と2つの働きによって、わたしたちは救われていくのです。
※Q&Aなぜ南無阿弥陀仏は、「如来からのよびかけ」?
例えば、混雑した満員電車の中でおかあさんの姿が見えない子どもが「おかあさん」とさけぶやいなや
「ここよ」とこたえてくれる母親の声は、煩悩の中にまどう私に「安心しなさいよ」という仏さまから
の呼びかけと同じものなのです。そして、「おかあさん」と子どもがさけんだ呼び方自体も 生まれた
とき以来、おかあさんから教えていただいたものなのですね。南無阿弥陀仏は、「如来からのよびかけ」
です。
1、木像(もくぞう)
2、絵像(えぞう) 3、名号(みょうごう)
◎浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)です。
御本尊とは、信仰のよりどころとなる仏さまのことです。浄土真宗の御本尊は、阿弥陀如来です。また、仏像
(上@写真参照)、絵像(上A写真参照)、他に「南無阿弥陀仏」と文字書きされた六字名号なども御本尊に
なります。
◎阿弥陀如来は無限の命と光明をそなえた仏さまです。
阿弥陀如来の「阿弥陀」は、限りない命を意味する「無量寿(むりょうじゅ)」量りしれない光明を意味する
「無量光(むりょうこう)」を表しています。したがって、阿弥陀如来は、無限の命と光明をそなえた仏さま
なのです。遠い遠い過去の世に法蔵比丘(ほうぞうびく)として出家し48の願をたてて今から※十劫(じっ
こう)の昔に本願を成就して阿弥陀仏となられました。そして、今も西方浄土で法を説いておられます。
お寺の本堂に安置されている阿弥陀如来は立っている姿の立像です。これは、阿弥陀如来が法蔵菩薩の時、48
の願をたてて、自分の力で成仏できない人々を阿弥陀如来が極楽浄土に救いあげることを誓われたので、自ら救
いに立ち上がる姿を示されているのです。
<解説>
※十劫・・・劫は、時間の単位です。一劫は、40里四方の大きな岩の上に3年に1度、天女が舞いおりてその
着ている羽衣(はごろも)と岩がこすれると顕微鏡で見てもわからないほどの何ミクロンかが摩滅
してへってきます。この40里四方の岩が摩擦(まさつ)ですべてなくなってしまうまでの期間が、
一劫です。十劫はこの10倍です。
◎浄土真宗は「絶対他力の教え」を説きます
これは、あらゆる自己のはからい(自力)を捨てて、阿弥陀如来の本願力を信じることによってのみ救われるのです。
※御伝鈔(ごでんしょう)上巻の第五段に「しかるに愚禿釋鸞(ぐとくしゃくのらん)、建仁辛酉の暦(けんにん
かのとのとりのれき)、雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰し〜」とありますように宗祖親鸞聖人は、阿弥陀
如来の本願力を信ずることにより救われたのです。成仏するためには、その願いと実践がともなわなければなり
ませんが、阿弥陀如来の名号の中には、その大願(南無)と大行(阿弥陀仏)が完全にそなわっており、わたし
たちに働きかけてくださるのです。この如来の本願を「絶対他力の本願」といい、本願の働きにめぐまれること
を「他力廻向(たりきえこう)」と言います。
※御伝鈔・・・「本願寺聖人親鸞伝絵」「親鸞伝絵」とも言われていて、親鸞聖人の曾孫にあたります第三代宗主
覚如上人(かくにょしょうにん)が、親鸞聖人の御遺徳を讚迎するために聖人の御生涯を数段にまとめたものを
言います。
◎悪人正機(あくにんしょうき)の悪人とは?
学校の教科書にも親鸞聖人は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」という「悪人正機」という教えを明らか
にした人と出ています。その通りです。「悪人」という言葉を聞いた時、私たちは、世間でいう極悪非道の人とい
うイメージがあります。でもそうではないのです。「悪人」というのは、「私」のことなんです。仏樣を前にした
時、「私」というのは、善根どころか罪ばかりつくっている私です。「私」というのは、煩悩[ぼんのう=身を煩
わし心を悩ませる]を抱えているのです。特に「三毒の煩悩」と言って「貪欲[とんよく]もっともっと欲しいと
いう心」、瞋恚「[しんに]怒り」愚痴「[ぐち]こうすればよかったというおろかさ」。これらに苦しみ迷って
いることが悪なのです。親鸞聖人は、「罪悪深重の凡夫[ざいあくじんじゅうのぼんぶ]」は「私」なのですと言
われています。そのことを仏樣は、最初から見抜いて下さって、そういう「私」をなげきつつも、捨てずにおけな
いというのが、阿弥陀如来の本願です。そして悪人正機の「正機」とは、正しくその教えや救いを受けられる人と
いう意味です。
◎浄土真宗は在家仏教です
親鸞聖人は、自らを「愚禿(ぐとく)」と言われました。愚禿というのは、愚(おろ)かな禿頭(はげあたま)の
俗人ということです。その愚かな俗人という立場から「絶対他力の教え」を確立されたのです。これは、日常生活
のそのままで教えを聞き、阿弥陀如来のご本願を信じ念仏することなのです。
《誕生》承安3年(1173年)4月1日、新暦に直して5月21日、京都市伏見区日野に生まれました。幼名は
松若丸で、父は、日野有範(ひの ありのり)、母は吉光女(きっこうにょ)と言いました。
《9歳》青蓮院(しょうれんいん、京都市東山区)で出家得度されました。以後20年間比叡山(ひえいざん)で
仏道修行されました。
《29歳》聖徳太子にゆかりのある六角堂(京都市中京区)に100日間参篭(さんろう)し、東山吉水(よしみ
ず)の法然上人をたずねました。
《35歳》念仏弾圧によって法然上人は藤井元彦(ふじい もとひこ)の俗名で土佐へ、親鸞聖人は藤井善信(ふじ
いよしざね)の俗名で越後の国府(こくふ、新潟県上越市)へ流されました。親鸞聖人は、流罪後まもな
く、恵信尼公と結婚されました。
《39歳》流罪をとかれました。親鸞聖人は「非僧非俗」(ひそうひぞく)という僧侶でも俗人でもない立場でお念
仏の教えを伝えられました。
《42歳》親鸞聖人は、妻子をともなって関東の常陸国(ひたちのくに、茨城県)に移りました。
《52歳》主著の「教行信証」(きょうぎょうしんしょう、正しくは顕浄土真実教行証文類[けんじょうどしんじつ
きょうぎょうしょもんるい])の執筆にとりかかりました。
《62歳頃》家族を連れて京都に帰りました。「教行信証」の改訂など、主に著作活動に専念されました。
《90歳》弘長2年(1262年)11月28日(新暦で1月16日)に90年の生涯を閉じられ浄土におかえりに
なりました。
お釈迦様から親鸞聖人まで阿弥陀樣のお念仏の教えが伝わりましたのは、親鸞聖人「師」と仰いでいる七高僧の方々
です。「正信偈」の中にも順次出てまいりますが、ここでは、簡単にご紹介します。
1、龍樹菩薩[りゅうじゅぼさつ]・・・・2世紀頃、インドの僧。仏教を大衆化させた大乗仏教の祖師、八宗の
祖師としてあがめられています。
2、天親菩薩[てんじんぼさつ]・・・・・4世紀、インドの僧、※小乗仏教から大乗仏教に帰依し、「浄土論」を
あらわしました。世親(せしん)ともいい、親鸞聖人の「親」は、こ
の高僧の一字です。
3、曇鸞大師[どんらんだいし]・・・・・5〜6世紀頃、中国の僧、天親菩薩の浄土論の註釈「浄土論註」[じ
ょうどろんちゅう]をあらわすことによって浄土教の教学と実践を確立
しました。
4、道綽禅師[どうしゃくぜんじ]・・・・6〜7世紀頃、中国の僧、「観無量寿経」を解説した「安楽集」で仏教を
聖道門と浄土門に分けて曇鸞大師のお念仏の教えをさらにおしひろめ
ました。
5、善導大師[ぜんどうだいし]・・・・・7世紀、中国の僧、道綽禅師に師事し、「観経疏」[かんぎょうしょ]
という注釈書をあらわし、浄土教の大成者として知られ、宗祖聖人に
大きな影響をあたえました。
6、源信和尚[げんしんかしょう]・・・・10〜11世紀、日本の僧、地獄、極楽の世界を描いた「往生要集」
[おうじょうようしゅう]をあらわしてお念仏の教え説きました。比
叡山[ひえいざん]の恵心院の僧都[そうず]で恵心僧都ともいいます。
7、法然[ほうねん=源空げんくう]上人・1133〜1212年、日本の僧、善導大師の「観経疏」を読んで
感動し、日本浄土宗を開くに至るのです。主著は「選擇本願念仏集」
(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)。宗祖親鸞上人は、直接に師事し
ました。
※小乗仏教から大乗仏教・・・小乗とは、自己のさとりだけを目的とする乗り物という意。大乗とは自己のさとり
とともに広く一切の生きとし生けるものをも救う目的の教えをいいます。
お仏壇には、浄土真宗の宗派によっては、かけないところもありますが、ご本尊を中心に右には宗祖親鸞聖人、左
には、蓮如上人の御影(ごえい)の掛け軸をかけることが多いようです。もちろん本願寺派もかけます。
蓮如上人(1415〜1499)は、室町時代の乱世にあって門徒や農民や商工業者を中心にした多くのたちに
浄土真宗の教えをひろめられた方です。
蓮如上人は、応永22年(1415年)に生まれ、6歳で実母と生別されました。43歳で本願寺第八代宗主と
なられました。越前吉崎に坊舎を建て、浄土真宗の教えを たいへん分かりやすく説いた「御文章」《ごぶんし
ょう》を作成するなどして独創的な伝道を展開しました。また、蓮如上人は、「正信偈」《しょうしんげ》や
「和讃」《わさん》を刊行して、それを門徒が朝夕のおつとめに読むしきたりをつくりました。蓮如上人の活躍
によって北陸・東海を中心として九州から奥羽の地まで教えをひろめられました。今日の本願寺教団の基盤をつ
くり、本願寺教団「中興の祖」と仰がれました。
to be continued・・・・続きます