

コモンセンス
Presented for several of author's friends and leaders of the SGI with least
response in 2001. The author's main concern is democracy among ordinary citizens and members
of so he calls Human Value Creation Society. A little revised on November
11, 2003. Ver. 1.0226
set 8/1/2007
はじめに
仏教運動には、人類の未来がかかっている。一人の精神闘争が、社会を善へと変えていくからである。しかし、仏教運動の退廃は、もう始まって久しい。その絶頂期としか考えられない人に、その衰退の兆候を指摘すると、激怒されるであろう。しかし、教育的、科学的視点で、創価学会(日本人)、公明の未来を憂い、提案したいことが山ほどある。SGI-Japanから、Human
Value Creation Society 人格創価学会へと、会員の日常活動を、教育的に再生する事が、喫緊である。この文は、特に日本人向けに書く。
「日本国憲法」
...われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、我が国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
....われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。...
「SGI憲章」
7.SGIは仏法の寛容の精神を根本に、他の宗教を尊重して、人類の基本的問題について対話し、その解決のために協力していく。
キーワード
日本人、民主主義、自律性、個の独立(個人主義)、平和後継
コモンセンス2 Common Sense 2
問題点と、未来予測
1.現世利益(功徳信心)はエゴイズム、イドイズム
宗教運動の方向性を、現世利益から、社会運動へと変えなければならない。さもないと、カルトや、邪教と変わりない。学会の方向が間違うならば、今後消滅しかあり得ない。社会の傾向として、エゴイズム
Egotism が顕著だ。本能を制御できない意味において、イドイズム Idoism ともいえるであろう。若者に顕著なこの傾向は、大人が導いたもの。社会を善導できなかった原因は、私たち学会にもある。会員の会話を聞いていて、棚ぼた式の功徳が望みと分かる。他律的な拝金主義、政治経済主義も、平和哲学に取って代わろうとしている。
戦後の混乱期には、功徳論によって、多くの民衆を救ってきた。その意味は小さいはずはない。事実、貧乏と病気は多かったし、動機も個人の悩みだ。しかし、他を救うという行為そのものが、貧困と病苦の時代の中で社会運動でもあった意味を考えてみよう。「大」功徳論に示されるように、本来の功徳は、他者のために生きる姿勢変革によってなされた。小さな悩みは、他者や社会への大きな悩みによって消えていく。実際に社会を変えられて、初めて、大善生活といえる。困難な時代に、国家百年の計を立てられた牧口会長に、敬意を払おう。
時代は変わった。経済的に世界第2位のGDPを誇るのに、なぜ豊かな生活実感がないのだろう?なぜアジアの人たちから、特に朝鮮から、敵視され続けるるのか?世界がますます地球一体化する中で、日本人は一国平和主義ではないのか?政治の貧困は、国民の貧困。経済問題を、経済だけで解決できるはずがない。ボランティア活動家をきちんと糾合できる学会に、していきたい。
環境、貧富の差、地域紛争、飢餓、人権など、地球的問題群が課題となった世界なのだから、新しい指導理念を必要とする。学会の中にそれがないとは言わないが、中間指導層によってゆがめられるとき、現世利益信仰を、未だに克服できないでいる。日本人の小市民化、イドイズム傾向とも、無関係ではない。信仰の目的も、完全に矮小化されて、今後発展が望めるの?時代の要求も、宗教本来の目的も、異なった時代を生きている認識があるのだろうか?そういう勉強をしているのだろうか?1.26平和提言を、きちんと再読している人間は、まれではなかろうか?政治家を含めて。
中国との友好開拓が評価され、トインビー対談がベストセラーであることに示されるように、外部の識者は、宗教活動よりも、学会の社会活動に注目してきた。宗教を押しつけようとするとき、それは戦争の原因とすらなり、布教も、目的が勢力拡大に取り違えられる。「社会を善導」すること、「救済」が目的である。現在の所、それはトップリーダーお一人の活動である。亡くなったら、急速に消滅しかねない性質のものだ。なぜなら、新しい時代には、新しい理念を要求するからだ。常に外へ目を向けた、デリカシーがない限り、即応はできない。お一人の指導性に頼ってきた学会にとって、今後の平和後継は、正夢でしかない。
職場、職業での貢献・具体化が、これからは重視される。女性の世紀も、働く婦人の世紀である。ボストンに着いて、教師、民間団体で、婦人がいかに貢献しているかに、驚かされた。ピューリタンの精神よりも、女性の平和行動家
Woman Pacifist が常識であることに、納得させられた。SOHO、女性の社会進出。表面的な事実より、それを一つ一つ具体化してきた人々の歴史に、頭が下がる。ナイトとして支える、男性の働きもちろん。
1-2.モラルの退廃
誰かが、勇気を持って言わねばならない。日本において、特に性文化が退廃したと。自由といわれるアメリカにおいてすら、空港では「売春は取り締まられる」と何度も放送され、アダルト雑誌・ビデオは、「アダルト」と大書したダウンタウンの汚い一角でしか入手できない。新宿の町の、異臭を放つ文明!よくここで暮らせるものだ。日本のコンビニは表文化だが、エロ雑誌やエロビデオが、堂々とおいてある。最近は、ふつうの本屋にも進出している。活字文化が衰退するはず。
IT、ITとうるさいことだが、ITとは、バーチャルリアリティーだと誤解される人もいる。プレイステーションや、エロゲームの影響は、アジア諸国や、Microsoft
まで巻き込むようなので、心配させられる。エコノミックアニマルの考えることは、儲けるためには何をしても良いわけで、立派なコンピュータも、ただのゲームマシンにするつもりらしい。ちなみに、もう儲けるは、信ずる者と書く。3D-CGやVirtual
Reality開発者を、冒涜している。どうぞ、「バーチャルな」と言っては誤認識を与え、デジタルデバイドに乗り遅れていって下さい。
情報革命はすでに終わって、着々と次へ向かっている。Internetは、知識を結びあわせた。Info-superhighway は世界を結び、さしずめ
Encyclopedia Terrestrial (地球百科辞典) には、どこからもアクセスできる。個々人のCyberspace (情報空間)は、嗜好を反映するので、グラフィックスのみに興味を持つ人も出てくる。IT
は、私にとっては、Intra-terrestrial (地球人の自覚) である。コンピュータは道具。Internet も、知識の宝庫、使いこなすのは、人間。
しかし、創価学会で否定的発言が多いのは、きちんと使わない証拠。これでは、将来、システムの奴隷となる。道具として、上手に使いこなすためにどうするか?意味のないゴミ情報が、コンピュータによってきれいに印刷されても、永遠の仕事にはならない。情報や頭の中身、質の問題。
大量消費文化は、本能を刺激し、消費意欲を促進する。近代化、アメリカ化、自由化がもたらすものが、(日本化によって)人間を退廃させるだけだとするならば、違った方向に向かってはいないか?民主化とは、個の独立をも促進するものだから、優れた指導性が発揮されるならば、容易に退廃の道にははずさないはず。ただし、どこでも「日本化」が心配されると言うことは、世はあげて、政治経済主義に偏ったようだ。
我々が目指すものは、一人一人が幸福をつかめる社会である。それは一人一人が、自らを輝かせる世界であるはず。性モラルが退廃して動物社会に似てきても、それで良しとするなら、私は日本を逃げ出す。この国では、自分がだめになるからだ。
こういうイドイズム社会になると、基本的な議論が成り立たない。味噌もくそもぐっちゃぐちゃ、人々は鑑賞眼をなくし、芸術と俗物の区別も付かない。精神性が低下した社会では、考えることすら必要もなくなり、刺激に反応するだけの日常生活が、上辺を繕っていく。議論も、他人によく聞こえれば良いならば、中身はないことになる。事実、政治家の議論の言葉のアナクロぶり、報道の愚劣ぶり。世界の常識は、この国では遙か雲の上であろう。
ここに、Wilhelm Furtwangler指揮の、ベートーベン第5交響曲が、三枚ある。1943年、1947年のベルリンフィルによるライブ録音、1954年のウィーンフィルによるスタジオ録音。それぞれ立派な演奏であるが、テンポも、スタイルも演奏も全く異なる三枚だ。批評しようとしても、勉強不足の私には、表現する言葉が足りない。彼による「音と言葉」は、焼失していたが、最近また買ってきた。世界は広い。偉人の世界は深い。音楽の専門家でもないのに、突然このような話題を持ち出すのは、「日本では、こういう議論が成り立たない」ほど、文化状況がおかしいからだ。「ていの低い日本人とは、議論にならない」と言われてしまう。
優雅な五音の日本音階や琴などを捨てて、いとも簡単に高価なピアノがすばらしいと走ってきた。戦後の混乱期に、すばらしいメロディーメーカーであったのは、日本人として誇りに、私は思う。メロディーは、生まれる。人工的に創られはしない。イメージ枯渇すれば、音楽美もなくなっていって当然。精神砂漠著しい。沖縄は、サンシンを抱いて独立した方がよい。
日本を離れるに当たって、警告しておく。今後も、酒・たばこの自動販売機、コンビニのエロ文化など取り締まれないようならば、日本の未来はないと。先生が生徒を買う時代である。若き知性の女性も、自身の欲望を開発され、金のために脱ぐ時代になって当然。何がこうしたのか?個人だけの問題なのか?イドイズムという、日本文明の問題だ。文化戦争に、負けていっているのだ。
2.日本社会の等質性と、新千年紀(Where is Homogeneous Japan from? に詳述)
一将功成りて、万骨枯る。(将軍学のピラミッド)
船頭多くして、舟山へ登る。(副役職の多さと、低い指導性)
長いものには 巻かれろ。(権威に従順)
寄らしむべし、知らしむべからず。(衆愚制)
出る杭は打たれる。(嫉妬社会)
井の中の蛙 大海を知らず。(視野の狭さ)
日本人は依存的、情緒的な国民である。グループの調和を大切にする社会では、他人の意見を自分に採り入れ、他人のまねをすることがよいとされる。マスメディアの発達によって、等質化は、ますます促進。
正当な意見を言っても、なぜ取り上げないのか?方針は、なぜ平均以下でよいとされるのか?なぜ、今までのやり方に疑問を差し挟まないのか?結局、改革に伴い、自分が傷つくことを恐れている。正義が悪に負けるとき、「小人閑居して不善を為す」。善いことをしないのは、悪いことをするのと違うのか?小善は、大善に背けば、大悪となる。創立者の言に、誤りなし。
右傾化、全体主義が、常に日本では議論される。等質社会であれば、常に避けられない。個人主義や独立人格教育が、最も大切だとは、牧口会長も見抜かれていた。近代知性の結晶、価値論をもとにした創価教育学は、その解決への方向を指し示す試論であろう。創価教育の目的を、「子供の幸福」にあるとだけする現在の解釈は、現世利益的逸脱である。
日本の衆愚制をきちんと分かった上で、真の個の独立(個人主義)が涵養され、つっこんだ議論がなされるであろう。内なる偏見に気づかずして、自分は変えられはしない。英語で話すだけでも、自分を見つめられる。言葉は、文化に他ならないから。
3.創価学会の組織悪、宗教官僚性
「創価学会の組織は、戸田の命よりも大事だ。」という言葉が、ピラミッドを正当化するように働くとき、多くの精神的奴隷を生み出す。ここで「組織」といわれたのは、「同志のきづな」ととらえてみよう。それは人を救い、社会を変革していくエネルギーとなりうる。しかし、教条的に組織そのものと思いこみ、上からの指示でしか動かぬ人間群を正当化するとすれば、およそ民主社会とは似ても似つかぬ官僚組織に、疑いを差し挟まなくなる。
例えば、私の上に地区部長がいる。その上には、支部長、本部長、圏長、県長、総県長と続くわけだ。副役職を含めると、多くの方々が、私を指導する立場だ。「信心は役職とは関係ない」とは言っても、指導者は指導をするものと勘違いしている。会員は、指導されるものと誤解している。人を役職で判断している。会合での、意味のない「指導の言葉」の氾濫、行動を伴わぬ「平和の指導者」「善の連帯」。アムネスティーの会員と話したことがあるのか?どういう風に、善が連帯しているのか?まだ、してはいない。ボストンセンターなどで、模索している段階。ドグマを主張しては衝突し、内部にしか通じない言葉を多く創り、宗派の閉鎖社会をますます閉ざしてきているのは、誰の責任だ?
いくら社会運動の必要を訴えても、上が全く動かぬと知ったとき、私の目は、会員の日常活動に向けられる。自律的、独立の文学運動や、教育運動が出てこなければ、仏教運動は、勢力拡大と何ら変わりない。会員数が延びること、選挙で票数が延びることが、問題なのか?会員に無理をさせて数にこだわると言うことは、結局、勢力が気がかりらしい。人々の生き方を変え、社会を変えていくはずの本来の戦いが、最近は変質してしまった。
本部職員も、幹部も、終身雇用制だ。年功序列の日本型組織を、海外にも当てはめてはならない。日本型は、上意下達、親分子分型。方針は、コンセンサスを重んじるので、平均以下。出る杭は打たれる。海外では、日本人が主導すべきではない。間違いを平気で言う指導者も多く見ている。日本人は、令法久住にこそ、気を使わねばならない。自分が、仏法を誤解しているかもしれない。毛筋ほどもゆがめば、永遠の世界宗教とはなりえない。幹部問題・日本人問題をはじめとして、今後、氷山の一角ではすまないほどに、還著於本人の現証が続出するであろう。否、私がさせずにはおかない。「日蓮を用ひぬるとも、悪しく敬まわば国滅ぶべし」
日本には、SGI-Japanと、秋谷会長を中心とする、日蓮世界宗創価学会がある。どちらも方向をはずしている。私がここで統合しようとするHVCS人格創価学会は、何も別の派閥を創ろうとするものではない。三代の会長の真の精神闘争を受け継ごうとすると、こういう形とならざるを得ない。精神闘争を基本に、社会を変えていく運動である。
悪政にはノーといい、脆弱な精神性にはついていかないことを、この際はっきりさせよう。
大切な地球憲章(pdf)運動を、創価学会でも、公明でも推進しはしない。トップから言われなければ誰も動かないと知ったとき、私にも考えるところがある。自ら進んで進める以外にはない。
組織の再編も、中央集権を減らし、地方の自治を推進できる方向にできる。例えば、会館中心に、運営委員会と、支部、地区。むろん会館ごとにホームページを開設し、日程も閲覧できる。
「小人閑居して不善を為す。」とか。わいせつ事件、不倫など、現在の不祥事も氷山の一角である。党から、学会の幹部から、不祥事が続出してくる。それでは、邪教となってしまうのか。
さて、具体的方向は個人の提案であるし、検討を要する。民主化と社会運動を推進するために、俳句・和歌集の編纂、日記、文学や投稿運動などを企画。尚、幹部全員に、時事論文を年一回提出させ、1.26に向けて、集大成する。SGI提言は膨大な事業となる。書けぬ幹部は、解任される。
組織のリストラについて、徹底的にスリム化、地方分権を要求される。中央、総県・県組織は縮小。副役職も最先端に張り付ける。会館運営委員会とブロック・地区・支部を中心に再編する。それ以外の組織は廃止する。最先端を重厚な布陣にできる。地方会館ごとの独自色を、むろん大切にする。
ホームページ情報を充実させれば、予定、日程など公開でき、無駄な会合も減らせる。Webmaster や、LAN管理者は、Part Timer だとしても必須の職員となる。本部職員や教育文化事業などの会計、業務査定など、Management
の一部は外注も民主的手法だ。コスト削減にもなり、需要喚起にもなる。学会関連とて経済の一部であり、大幹部だけが、「朕はたらふく食っている。」とは何事か、何十万円もらっているのか?100万円か?尊くも寄付で運用されて...
不況の時代に、私の住む市に私と、二人の婦人部の友は失業中。しかし、「幸運にも蓄えがある」と心豊かであり、求道の心猛きボストン市民である。
教会組織型ともいえるが、幹部も会長自身すら御書と会員の間に立つのではない。従って、内容のない幹部は容赦なく糾弾される。正本堂完工式にすら、「無教会主義」に言及されたのが、私の記憶には新しい。
「会員が上、幹部は公僕」と明言されるのを、直に聞いた。仕事で働く人々の知恵を取り入れ、社会に遅れないようにしたい。特に情報化は重要。
平和会議については、独自に会館ごと組織化を要する。教学運動、教育運動を強化し統合する。
4.公明が、なぜ日本社会を変えられなかったか?
「青年よ、心して政治を監視せよ。」とは、戸田会長の遺言ですらある。日本社会の閉塞感は、自民党、野党など、政治の問題だけではない。竹入さんを今になって糾弾するならば、なぜその時におろせなかったのか?(我が級友、彼の子息医師すら、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは何事か。社会貢献は敵わないはず。委員長暴漢に刺された後医学を志した。私は東海大の臨床研修時、エレベーターで出会い医局を訪ねた。)代わって統率する人間がいなかったからと言って、自らを省みないことは、やめよう。私も知らなかったが、知らなかったことを恥じよう。政治のみの問題でなく、文化全体の問題ならば、宗教も、政治を変えられなかったことを、反省すべきだ。
聖教新聞で、宗教リーダーの政治に対する座談会が掲載された。トップリーダーがそろって、かくも他律的なのかと、あきれる。政治家にこうしてほしいという討論のみだ。本質は、自らが国家百年の政策も、現状認識も持たないところにある。出てくる項目は、嫉妬ばかり。勲章にまで文句を付けるのは、良い仕事をさせてはいない証拠だ。「私にも総理がやれる」というように、誰しもが望む国家像がある。宗教組織の欺瞞に慣れてしまうと、社会への責任がなくなるものらしい。
指導者がそうし向けているのだけれど、学会員の政治行動は、明らかにおかしい。選挙の時だけ、一生懸命に「頼む」けれど、政策提言をするわけではない。従って政策や、政治を監視できてはいない。頼まれる皆がおかしいと言っている声が、聞こえないのか?ビデオ一本で、長年批判してきた自民党に流れる票...やかましい私などが政策提言しようとしても、はねとばされる始末。政治家にとって、政策は命だろうし、実績も、それとの関連で問われるものだが。
働かない婦人や、実社会と隔絶した宗教官僚に、良い政策を考えられないように、政党人も、実績に関係なく応援してもらえるとなれば、傲慢となっても仕方がない。「票を頼む」精神構造が、政治家に頼む事になり、政策をお任せにする。これらが、利益誘導とかわりない実績となっても、文句は言えない。市民相談といっても、自らの就職斡旋を頼む人間も多いのだろう。相談事が多くて疲れたので、私の電話にはつっけんどんな応対をされたらしい。
立法者は、政策や実績だ。私たちがしっかり勉強し、政策提言できなければ、結局は利益誘導にとどまる。税金を吸い上げて、予算を分配するだけの政策ならば、利権に群がる人間が、甘い蜜をすう。そういう構造のみが、目立っている。どこに、教育的配慮があるのか?
あの困難な時代に命を懸けて、国家百年の計の根幹に、教育科学を提唱された牧口先生に、学ぶべきだ。第三文明社から、全集が出版されて久しい。
選挙を戦う意味も、現在では、「頼むと功徳がある」という形でしか語られなくなった。確かに無名の庶民が政治参加する意味は大きいが、それは現世利益とは無縁ではないか?だからこそ、当選後の活動は、「お任せ」になる。どんなに立派な政治家が出ても、一人で変えられるほどの日本社会だろうか?政治の堕落は、 国民、創価学会の堕落そのものに過ぎない。
戦後社会を総括する中で、私たちも、学会も、党も、自己批判せねばならない。真の民主化も、政治改革もそれからと言わねばならない。
5.将軍学、師弟不二説の誤謬 → 永遠の平和使徒として信仰自律・独立へ
1956年大阪の布教、参議院の闘争について、あまりに尊い救済活動であったし、一会員が、その哲学に疑義を差し挟むことは、まことに畏れ多い。しかし、用語法に敏感な現代にあっては、表題は誤解の種ではないのかと心配する。あえて一項をもうけて、用語法にこだわりたいと思う。
将に将たるには、ナポレオンが必要だったのか?あるいは、ソクラテスだったか?若き池田氏の真摯な姿勢、内面の精神闘争を思いめぐらすとき、「指導者達を指導するのには、誠実な哲学者が必要であった」と解釈したい。将軍学などと、指導者論を強調されると、「会員は下、幹部は上」という、新しい差別観と対決しなければならない。その兆候が顕著である最近の日本を見れば、私の心配は杞憂では全くない。新千年紀には、新しい指導原理を必要とする。表現の用語法を選ばねばならない。
日本論盛んな中で、Chie Nakane著Japanese Societyのある一節に惹かれるものがあった。日本型社会の親分子分性、特に、トップリーダーと、直属の部下が、個人的にわたってきわめて親密な関係になりやすいこと、「陰では、上司はたびたび部下に裏切られている」と記述されている。薄弱な個の独立(個人主義のなさ)に基づく、依存関係が明らか。広く解釈すると、「師弟不二」という仏法原理も、親分子分関係ととられなくもない。
師弟の「不二」を強調することは愚かだ。日本型の等質性を強調し、全体主義と変わりうる。様々な考え方の多様な社会の中で、一つの考え方に従えぬものは、排除されていく。師と同じことをしないと弟子ではないならば、創価教育学会は、なぜ創価学会と変名したのか?王仏冥合論は、なぜその名さえ聞かれなくなったのか?時代が変われば、思想の言葉は変化せざるを得ない。表現が変わっても、根底にある何者かは、不変であるはず。ではその変化の妥当性は、どこで判断されるのか?平和行動は妥当な基準を与える。「師弟不二」が、妥当な基準を与えるとは、信じがたい。人は歴史を生きるものだが、いつまでも先人の一言に恭順なのは時代錯誤でもあり、真に歴史を生きていはしない。「(会長の)自己正当化の論理じゃないですか?!」と言下に否定した友人がいる。英語の
Soka Gakkai Unofficial Yahoo Group (Listserv) では、激しい論争になっている事はご存じない。師弟不二説を強調し、池田引用ばかり出版に埋め尽くすから、会員の視野を狭くし、平和行動も平和主義もカスんで行く。
時代錯誤の表現を修正できない弟子ならば、その可能性はある。意図が誤解されるならば、普遍性は獲得されない。福島源治郎さんが、師弟の道を強調されていた意味が、反面的によくわかるではないか?高校生の私たちは、他の幹部から、「福島さんが先生に一番近い」と聞かされたものだ。本当?師弟不二論も、次のSGIリーダーや、中間幹部によって、自らの権威付けに利用されかねない。問題は、「誰が」ではない。自身の「どういう行動となって証明できるか」にかかっている。具体的な形を、問われる。
例えば、Boston Research Center の女性所長、バージニア・シュトラウスを見よ。政府関係者が、外部から支援するならともかく、会員となった例は少ない。とりわけ、アメリカである。動機は、トインビー対談を読んで、東と西の架け橋になりたいと誓ったそうだ。Boston
Center の指針を見られるがよい。まことに、機根高い人間の、祈りが叶うということは、このように純粋なものなのだ。立派である。仕事ができる。事実、平和研究に貢献している。
法華経が、釈尊や、菩薩の悟りの内容をきわめて忠実に文学表現したように、特には弟子達の主体的な行動が、真の救済精神を継承する。また、翻訳によって中国に伝えられ、文明の果ての国・日本で試練に会う中で昇華したものが、日蓮仏法であった。伝えられるごとにその普遍性を増していると、内容を吟味して、感動させられる。新千年紀は、さらにまた、国により、機根により、教法流布の先後により、きわめて緻密に、具体的な普遍化をそれぞれ要求される。アメリカでのあり方、バングラデシュでのあり方、人々の幸福のためには、異なった哲学をも要求される。歴史も、教育も違う。法華経とは、万年の平和神学である。広い世界では、宗派性にこだわれないし、戦争の原因とすらなっている。歴史は変えらえようのない大切なものだが、教義は、むしろドグマと見なされる。師弟の道が、もし大切なドグマであるならば、わかりやすい言葉で語られなければ受け継がれはしない。
仏教の師がすばらしいと何度強調しても、異教徒にまで受け入れられはしまい。牧口先生を飛び越えて戸田先生を賛嘆しても、内容が時代錯誤ならば、永続性はない。功徳論は誤解のもと、王仏冥合論は変更を要求され、師弟の道も人には頼れない。「悟った」という人間ほど、信用できないとも言えはしまいか?今になって勲章がいっぱい贈られて、自己満足しておられるようだが、後継者達は、どういう行動をしているの?「池田」の名前だけで、息子が跡を継げるのか?社会人が汗水して働いた金を寄付されて食っていながら、傲慢になっていられませんか?宗教は欺瞞だらけだ。よくも皆、腹が出るほどに食えるものだ。ガンジーの断食の祈りと、やせ細った体躯、孤高の牧口先生とは違って、現在のSGIには、にせ物臭が目立つ。
釈尊は、人類の教師といわれる。ソクラテスも同様に、ヨーロッパ精神の源流である。それは、「哲学する心」の大切さだと思われる。謙虚に自分の無知を知ったからこそ、毎日考え続けられたのではなかろうか?ニュートンの謙虚な言葉を思え。思想は行動となって現れる。新たな生態系時代には、「地球憲章」や、「第三世代の人権宣言」こそ、指導原理とされねばならない。
師弟の道と、創価教育は、違うのか?違わない。「創価教育学」は、科学的教育哲学を、国家百年の計においた故に、総論主体ではあるが、優れて啓発的である。強靱な知性の言葉、西欧流の論理にも耐えうるきわめて優秀な内容である。池田氏の優秀さは、勇気ある行動に表れている。申すまでもなく、創価教育者「戸田氏」の生徒であるという点だ。おじいさん先生、牧口教育学の各論は、現代の言葉で、具体化されているだろうか?学校や、建物の問題ではなく、後継者の行動、特に日本人の。
これこそが、私たち次世代の、それぞれの課題なのではなかろうか?キーワードは、独立性をはぐくむ教育、自己教育、自律性にある。個人によって、課題も、表現も変わってこなければ本物ではない。誰しもが、主体的に取り組む内容である。もしかしたら、仏教徒ではない、外部の理解者が、もっとも忠実に具体化するかもしれない。「地球憲章」のように。しかし、「地球憲章」すら、本文も名前も知らないSGI会員のあまりに多いこと...
これ一つでよいわけではあるまい。
「平和の永遠の使徒」として、いかに人々に尽くせるか?日々の精神闘争が要求される。仏教が永遠の哲学でなければならぬなら、平和行動、平和哲学を、皆が継承できなければならない。誰かが、本当に自己犠牲を要求される。先駆者として、捨て石になる覚悟を、先輩は語った。しかし、決して、誰をも捨て石にはしない。将棋の一つの駒でもない。自らが布石し、自ら詰めていく。すべてが平和戦略の中でつながった石として、生きた地を囲おうではないか!その中で遊ぶのが、私たちの子孫、地球家族である。繰り返そう。私たちは、平和の永遠の使徒である。この、「哲学する精神の継承」こそ重要である。
どんな言葉で語られてもよいが、誤解は避けたい。恩師の片言隻語を、「ご指導」と伝えるだけならば、オームである。その片言を引用されて、にせ物の、薄弱な指導性を補おうと利用されても、多くの人を長くだまし続けられはしない。ましてや、世界が相手である。行動、思想の核をこそ、表現形態は違え、継承せねばならない。衛星放送の恩師の獅子吼も、そのあと虎の威を借るキツネ発言によって、感動が殺がれる。きちんと聞きもしないで、指示だけ流す幹部すら出てきている。哲学の創価学会が、誰も考えなくなって良いのか?
アショカ王の、「だるま法(だるま)による統治」は永遠。石に刻まれた牧口会長の「教育」も残る。池田氏の「師弟」の書は、次の時代には、こそこそと片づけられよう。雑草の思想は、むしり取られる。ガンジーがしたように、思想の言葉は、つむぎ出されるもの。すらすらと出てはこない。「哲学し、科学する」執念の日常によって、「牧口メモ」は山を築いた。「人生地理学」は30代。
同じ30代でも、公明の原理だったかもしれない「政治と宗教」、私も入会動機となった「科学と宗教」も、全集からははずされる。今読めば、確かに独善、狂信的。職業的宗教家は、自分では雑草も抜かず、苗も植えず、米も炊かない。婦人が、「お題目で飯が食えるか?」と、未入会亭主に叱られるはずだ。
幼き思想の言葉、「戸田という師に帰命」「師弟の道」は立派であるが、永遠には残るまい。「将軍」は江戸時代の日本語とは、世界の常識。「学」をつけると指導原理になるならば、「イワシの頭も信心」ではないか。一度の御開扉で浮かんだくらいのアイデアは、すぐ消え去るべきだった。奇襲戦には役だったが、誠実な人間行動や、献身的な激励に、皆が奮い立ったのであって、将軍学と名付けた指導原理にではあるまい。「妙法の名将」の巻頭言は、歴史に残ってしまったけれど。
カレルギー伯、周恩来、トインビー対談以後、平和行動の歴史は偉大だ。一様に、識者の評価は「社会的行動」にある。ただし独り舞台。将軍学や、組織活動が災いしてか、自発的には、幹部は社会行動できない。本部職員は「慈善運動は禁止」と聞いた。その分テレビの「ソウカ
ガッカーイ」宣伝費を使うらしい。「決済」を、トップリーダーに要する仕組み。いわゆる「創価株式会社」社長のハンコ。確かにハンコは多い。社会行動の自発性は、育つはずがない。宗教は心の問題ではない。日蓮仏法は社会・国家に責任を持ち、諫言を直にぶつけてきた(立正安国論)からこそ迫害を受けてきた。
戦争がないだけが、平和ではない。努力せず生き残れる日本人は、自分が堕落したことに気づかない。Identity を持たず、Identity を失う拝金の文化侵略に加担し、伝統の良さをなくす文化戦争に、完全に負けていっているのが、日本創価学会だ。
ベトナム戦争終結は、敵味方入り交じって座談会を開き、皆が祈っていたではないか。平和は、祈るだけではこない。人間の行動が、平和を築く。ベトコンが、血染めのシンボルフラッグを贈ってくれたのは、一人の指導者に対してではなかった。仏教者だけの祈りでもなかったはずだ。指導者のデリケートな感性と、一本の手紙の適切なタイミング...平和の永遠の使徒の応戦は、これからも続いていく。
「法によって人によらざれ、義によって語によらざれ、智によって識によらざれ、了義経によって不了義経によらざれ」(涅槃経、御書p.44、価値論)
又「国ハ依テ法ニ而昌ヘ。人ハ因テ法ニ而尊シ。」との教えは二十世紀文明国の等しく帰依している立憲政体の本義にも合致して居るもので、又科学の期待する所とも合致するではないか。(牧口常三郎
価値論所収、創価教育学大系II 聖教文庫 p.192)
新たな千年紀の了義経は、「平和神学 Pacifist Theology」と名付けられる。いかが?
6.人間のための宗教か、宗教のための人間か?
「他のために明かりともせば、我が前明らかなり」
「一身の安堵を思はば、まず四表の静謐を祈らんものか」(p.31)
「宗教のために人間があるのでなく、人間のための宗教です。」との宣言は、コスイギンとの会談の折り。そのとき、「創価学会は文化主義、平和主義、人間主義」とも言及された。この路線を、いよいよ強固にして行かねばならない。
その反対の証拠は、衆愚制、上意下達、中央集権、世襲。地方組織も、「総」県が必要なほどピラミッドが積み重なるのは、幹部の指導力低下し、組織を巨大化したら会員を動かせると思い上がっている。教学力、教育運動含め、教育力は低下。上からの指示、命令の言葉はあるが、各人の精神闘争は中央を含めて全くない。一日20分の御書はかけ声となり、深い解釈はなくなっていく。哲学の組織であるべき学会が、企業タイプになってきた。
布教は勢力拡大か?会員数が増せば広宣流布か?創価学会は人々を改宗させて、世界制覇を企てる新たなファシズムではないか?数にこだわる活動を続ける限り、誤解される可能性は十分。
1000万得票目標の数字が、2001年参議院選支援において一人歩きしている。創価学会員は悪政にノーといえない事は、極めて危険なことだ。公明党が与党に入り、前年衆議院では票を減らしているに関わらず、実績や政策に関わらずなぜ数字が意味を持つのか?持たない。国民はそれほど愚かではないから、実績もなく、政策も大したことのない政党が、1000万とれはしない。会員に無理を承知で推進させるが、敗北してがっかりさせることになる。責任は党や幹部にある。
宗教の論理で例えば「仏縁を結ぶ」といって得票目標を正当化するのは、正しいだろうか?公明が良い仕事もしないのに、組織やカリスマの力で勢力拡大をはかるとしたら、民主主義だろうか?ちゃんと仕事をしてから、言ってもらおう。聖教新聞・公明新聞を購読し、たまに他紙を読む程度でも、自分の洗脳され度合いには気づかされる。両紙とも、私の後輩がほとんど書いているから、彼らの不勉強度合いがよく分かる。
宗教は民衆支配の道具に使われる。容易に権力機構に組み込まれる。宗教組織が権力機構ならば、なおさら容易だ。
一会員の政策や建設的提案は採り上げようとはなさらぬ理由が、よく理解できない。拒絶反応よりも、無視に等しい扱いをされるのは、読解力の問題であろう。しかし、問い合わせすらなさらぬのは、よほど自己正当化していられるか、誤りに気づいてはいられないのだろう。稟議書に反応すらしないのは、一般の会社でも許されない。学会には、特に大幹部に悪人が多い。こういう指導者には、出ていっていただく。ネルソン・マンデラ氏の南アフリカで、修行し直していただく。聞かぬ耳には見切りをつけて、機根ある人に話しかけていくことにする。
SGI憲章7条に示されるような、他宗・他思想と協調した平和運動などが、もっと広範に推進されるべきだ。会員自らが、それぞれ橋渡しをする。私のPEACE
Ashramがガンジー主義とのそれを目指すのは、非暴力である点、インドである点、独立運動という社会運動であった点だ。法華経=>平和神学路線の中核にとの思いからである。「いざ征かん
月氏の果てまで 妙法を弘むる旅に 心勇みて」だから、平和友好の旅である。あらゆる運動との善の連帯も、模索しつつ。
SGIの次にくるべきHVCSは、会員の利害のために動くか?国民の利害のためか?地球全体の存続、平和、幸福のために動くか?もちろん。
従って、ドグマや宗教の論理よりも、人間の論理、世界の常識が最も尊ばれる。日本人については、その精神構造が、民主化を要される。
仏教は、末法でも第二の千年を越える。次の末法ともいえる。思想の混乱はますます激しく、モラルの低下は加速、仏教の原理のみでは人類は救われない。創価学会の中で、モラルの低下しているのがその兆候だ。教機時国抄には、「無戒」の時代とあるが、無戒で救われるのだろうか?戒律が必要なのでは?キリスト教は、第三千年紀を迎えた。イスラムとユダヤ教は、地域紛争・戦争の火種であり続けている。
構造的暴力について、仏教は何も説いていない。貧困、飢餓、経済格差の分析は、経済学、国際政治学によるところが大きい。比較宗教学も、争いの分析には必要。人類の経済活動が環境をも変え、核兵器が地球を破壊できる時代、文明はとてつもない転換を余儀なくされる。時代が新しい救済の哲学を要求するとき、宗教も宗教のみにとどまっていたら愚かだ。科学、政治経済学とも融合し、次を見過たぬようにせねばなるまい。
仏教を、平和神学として再構築しようとすれば、いろいろなアイデアも生かされる。例えば、宗教そのものが強力な信念であるので、常に争いの原因となる現実がある。学会員の中でも、宗教が家庭不和の原因となる。ドグマや、教義を主張することは、これからは気をつけねばならない。また、「我こそ優れている」との主張こそ、争いの原因となる。急速な、熱心な布教は、かえって警戒される。
社会貢献の、「平和の文化の一環」としての宗教に着目すれば、新たな理論構築の方向も見えてくる。人道主義、平和、幸福、進歩など、異なる宗教でも普遍的な価値に着目して、これらを同じ目標に宣言してもよい。いわゆる大同小異であるが、これまでは差異が強調されたと同じように、これからは共通の部分にこそ焦点を当てるべきだ。小さな教義の差にこだわることは、中東に代表されるように、愚かこの上ないことだと、皆分かっている。
その上で、Main Problem Oriented Pacifism主要問題にもとづく平和主義(仮称) のような、新たな学問を構築したい。平和な世界を実現するために、現在の問題点を分析、解決法を探るもの。国際政治・経済学も、むろん統合される。あるいは、予防の平和学・平和機関も、有力なアイデアだ。
来るべき地球文明は、単数であってはならない。多様性の共存の時代には、人口の数だけ文明もある、一人一人が幸福を満喫する文明となる。一つの歌が、一人の貴重なメッセージが平和を現出しうるのは、奴隷を解放した「アンクルトムの小屋」の例にも明らかではないか。
善の力は、人々を結びあわせる。日興上人の「謗法と同座すべからず 与同罪をおそるべきこと」(p.1618)などといった閉鎖主義は否定されて当然。SGI憲章とは、逆だとは明らか。人類の基本的問題について、Boston
Centerなどで、宗教を超えて対話を開始している。間違った教義ならば、これからも訂正されていく。宗教にこだわらないで、時代の要求に、広い眼を持っていくべき。
6-2.宗教関連団体の発達
東京、信濃町周辺にしばらくぶりに行ってみると、異様な光景に出くわす。何をしているのか訳の分からぬ多くの「創価」建物群と、職員の多さ。土産物屋が建ち、「三色旗ロゴ」製品や、小物類を製造販売すれば、それで食っていける。
「社会に信念の人を。」これが戸田会長の教育方針であった。最初のころ、創価大に集まった学生は、既存の学閥のエリートコースをあえて拒否した高校生達だった。国立大や、有名大学に在学しながら、捨てて来た人間もいた。あえて選んだイバラの道だった。最初、食べること本を買うことから始めなければならなかった。卒業後、有名会社に就職しても、あえてやめた人間も多い。多くの、そういう友人が、私のクラスメートだ。本気で捨て石の決意を貫いた友人達を、決して捨て石にはさせない。悪を及ぼす指導者達を、絶対許さない。
創価大も30年にもなると、労せずして一つのエリートコースになる。学園(高校・中学)の時代から、勉強しないで本部に勤めると公言する生徒ばかりと聞く。
組織、党、教育機関、民音、信濃企画、美術館等々、もったいなくも寄付で運営される機関に、能力に関係なく、よくも平気で勤められるものだ。いくら池田SGI会長の子息だからといって、よくも生まれの力で美術館に務まるものだ。感覚にあきれてしまう。それを許す指導者も、傲慢このうえない。美術品は、市民すべての共有物であって、投機の対象と考えるのは、芸術を侮辱している。個人の持ち物ではないし、巨額の資金も、会員が書籍購入したものだ。芸術家が管理者になるなら問題ない。ナショナルジオグラフィー雑誌を寄贈しても、お礼の返事すらなかった。
私がこの文を書くのは、改革への問題提起である。反逆と見る人がいてもよいが、私の人間や、普段の私の行動を理解される人は、むしろ恐れを感じられて当然。低い指導性の人は、放り出す勢いだからだ。歯に衣着せないでトップリーダーも批判できるのは、四人組の日本版が実現したら、中国の物笑いだからだ。女学生から全く成長していない夫人では、将来がまこと心配。
「人は生まれによって尊いのではない、行いによって尊い」のならば、身口意の三業の行いで示してもらおう。御書も読まず、日々の精神闘争もなく、発言は切り売り、腹が出ていかにも生活習慣病となれば、次世代の指導者には従えない。内部改革を目指してHVCSを一人で始めている。変名と、改革運動だから、派閥ではない。今始めたばかりだが、賛同者は、広がりつつある。
人材育成は、将棋の駒ではない。一つ一つ平等な囲碁の石になぞらえて、石の働きにこそ、それぞれの自立した働きにこそ、敬意を払わられるべきだ。組織に出なくとも、社会で必死に貢献している卒業生の心意気を、分かっていただけると信じているからこそ、従順についていっている。本家本元で腐敗するようならば、崩壊は早いと予測される。
組織を含めて、関連団体にはカスばかり。本物こそ、外部で必死に社会貢献にがんばっていることを、分かっていただこう。高校卒も大学卒も、「創価」の二文字を背負っているのだから、何も言わなくとも、姿で示す以外にない。中央にいる人間こそ、「言葉のみ」。方針をゆがめて伝えて、学会を邪教にしていく。給料泥棒どころではない。精神を分かっていない意味で、反逆者が多い。仏法の原理に照らして、必ず還著於本人の報いを得ていくであろう。党にも組織にも早くから認められて、すいすい出世していくことの愚かさ。日本型企業が理解できる故に、いかに仕事・勉強していないか、ありありと目に見える。せいぜい皆に嫌われないようにし、おべっかを使いなさい。
「かかる日蓮を用いぬるとも、悪しく敬わば国滅ぶべし」
「人民に奉仕せよ」毛沢東
7.世界市民教育の10年はなぜ失敗したか?
1990年だったと記憶するが、国連世界市民教育の10年にちなんで、SGI会長はある提案をされた。「世界市民の輩出競争で、宗教の正邪を競おう。」というもの。教義や、原理に関係なく、社会貢献で判断してもらおうと提案されたもの。
結果、SGIからは、世界市民が多く輩出できてはいない。宣言に基づくと、SGIは邪教と言うことになるし、一番正しいのはキリスト教と、残念ながら認めざるを得なくなる。神戸地震以後、急速にボランティア活動も社会化され、たくさん結成されつつある。環境NGOも盛んだし、SGI以外でむしろ社会貢献運動は盛んとなってきた。NPO法も整備された。
なぜ失敗したのか?日本社会の他律的傾向や、人々の変化も無関係ではない。個人主義のなさ、会員の自律・独立性のなさ、世襲化、中央集権なども原因。経済的に豊かとなり、個人の悩みも以前ほど深刻ではなくなったと同時に、社会を変えようという革命精神も希薄となった。反動や小市民化が、むしろ内部に目立つと言うことは、改革できていないのがSGIということだ。なるほど人間関係も希薄になり、指導力も低下すると、本来の功徳信心すら怪しくなろうというものだ。日顕と低次元の争いを続けてもよいが、師匠の哲学や活動の中核も、分からなくなってしまうのか?
「衣食足りて礼節を知る」はずなのに、会員はますますエゴイズム傾向。「一将功成りて、万骨枯る」のは、何か、間違っていはしまいか?指導力が文学的・直感的ではあっても、科学的・教育的ではないこと、民主化が足りないことがますます社会に遅れていっていると感じられる。
広宣流布の前に情報革命がきたことが、意味ありと私には思われる。善の力は人々を結びあわせるもの、インターネットは、すべての知識を結びあわせた。しかし、婦人が最もデジタルデバイドに遅れる。学会ホームページも、一見デザインは優秀だが、リンク破綻が長年も続いている。地球憲章にも、ローマクラブにもリンクはない現在。現実の形が、私にとって証拠だ。広島以外では、ホームページ構築しようにも、発信するだけの地方独自の取り組みがないのが現状だろう。この時代に、コンピュータもきちんと使わない指導者が聞いてあきれる。働く女性の方が優秀となることは、明らか。
例えばアマゾンの環境センターや、自然環境研究所にしても、会員の自発的に出てくるなら心配いらない。すべてSGI会長の発案と指導力が要請されるとしたら、今後はどうなるのか?聖教新聞記事が、ただ一人の世界市民(会長)の報道に満たされるとしたら、未来はうすら寒い。
眼を社会に向けるためには、どうしたらよいだろう?日常活動の中に、世界市民教育も入ってこなければならない。平和会議が、各会館ごとに必要なのはいうまでもない。日常活動に教育が強化され、会員自らの執筆原稿が、聖教新聞を埋める勢い。これが、私の描く未来像だ。当然、文学運動もおき、時事論文も会員が各紙に自発的に投稿される。
御書が現代語訳されるのは必要かもしれないが、出版されるだけで毎日読む人が増えるとは考えられない。以前にもまして教学運動が強化される必要がある。幹部会で御書片手に演説されるような強者が、今後こそ出てこなければ、「日蓮大聖人」すら死語になるだろう。今の方向は、教学力低下の方向だが。
世界市民教育の10年は、もう10年、10年と延長してすすめる。信仰していれば世界市民とは簡単にはいえないし、地球人としての自覚や、ノーマルな感性、広い視野などが基本だろう。残念ながら平和提言をきちんと読む会員は内部にはいないので、前記宣言は無視され、検証もなされていない。10年間社会運動を主張し続けてきたが、組織では取り上げられないので、やむなく個人で活動始めたのが、PEACE
Ashram、HVCSである。いかに学会員が社会運動に無関心かは、これらを推進して、いやと言うほど分かってきた。新聞啓蒙、折伏や、選挙など上から指示されるもの以外には、見向きもしない。「もう一つ別の学会を創るしかない」と、私が決意した所以でもある。私達の運動は、世界市民教育に絞られる。あと10年後の結果で、判断していただきたいと願う。
8.結論... 平和後継、自律・独立
お題目を唱えるだけの拝み屋ならば、日顕とどこがちがうのか?自分の小さなイドすら制御できなくなるのは、目が外に向いていないからだ。日蓮仏法は、社会・国家に責任を持つ。
1.自ら主体的におこす、平和行動。
2.個の自律・独立教育を基とした、民主化。
この二点が、最も重要なキーワードとなる。世界宗教としての普遍化を模索するに当たって、これ以外にホシはない。誤解し、問題行動をとる日本人が、最も大きな障害になる。
私を、裏切り者・謗法と批判されるのは大いに結構、歓迎もされる。あなたが真の仏弟子である証拠を、事実で示していただこう。普段の行動で、私と勝負しよう。ただし、幹部の指示には従わないことを、理由にされるいわれはない。聖教新聞啓蒙も、公明支持も、理由が強固ならばする。記事が推薦できず、政策・実績が支持できぬならば、しないのは理由が明らか。医療記事の訂正を申し込んでも、返事がこないこともあった。聖教記者の責任だ。政策や本格的な資料を提示しても、リーダーの議員がそろって読みもしなければ、私にどういう選択肢があるのか?議員が裏切っているとしか思われない。我慢に限界があっても、創大卒は、姿で示していかねばと、心得ている。
「創価」の名は、一生ついて回るから、裏切れば私の一切を否定することになる。「創価」は私のすべてである。創大生はすべて牧口常三郎先生の生まれ変わりかと、考える私だ。絶対に裏切らない。創価を、邪教には絶対にできない。
急速に、今までは発展してきた。永遠に発展していくためには、後戻りも、軌道修正も大いに必要。
平和行動をこそ、継承しよう!
1.なぜ今、社会貢献に打って出るのか?
宗教の使命は、救済の一言につきる。釈尊の出家の動機も、生老病死の四苦に代表される人生の根源的苦悩を、いかに解決できるかにあった。そして、修行の果てに、普遍の生命の法を悟ったといわれる。当然のことながら、釈尊の教えは、戦争という人類の宿命からの救済も含んでいた。仏国土という言葉がそれを示している。
釈尊の悟りに基づいた仏教は、自己の生き方の変革によって幸福な人生、平和な社会を打ち立てるという実践、また、その永遠の生命観に基づいた哲学的深さによって、多くの人々に信仰された。その一対一の対話による平和的な布教は、反対勢力をも抱擁し、為政者が仏法の慈悲の精神を体現するや、理想的な平和社会が実現した。釈尊在世の舎衛国、アショカ王のマウリア王朝、カニシカ王のクシャーン王朝、中国の隋、唐の時代、日本の平安時代などがその典型である。「だるま法(だるま)による統治」とアショカ王は石に刻んだ。これは、自然法思想の源流となった。
哲学的には不変のものも、歴史的に発展するごとにその普遍性を増し、実践形態もさらに徹底されていく.真実の法とはそのようなものである。「経法流布の先後」を、現代的に語る時、SGI
→ HVCSの路線に、必然的に行き着く。
日蓮大聖人は、釈尊の仏法がまったく効力を失った末法の時代に、大白法、三大秘法を打ち立てられた。そのご生涯は、「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わるといわれる。立正とは、正しい仏法を信ずることであり、安国とは、未来及び全世界に、三大秘法を広宣流布する事によって、平和な社会、個人の幸福を実現することをいう。大聖人は、苦難の中、その一歩を踏み出された。
創価学会の運動もまた、現代における民衆救済である。国家神道に基づいた戦争に反対の立場を貫いて、牢獄でその尊い御生涯を終えられた、創立者、牧口常三郎初代会長の御精神を絶対に、忘れてはならない。戸田第二代、池田第三代会長(現SGI会長)を中心とした、破邪顕正の折伏は、多くの人々を救い、1975年、創価学会インターナショナル(SGI)として創立され、世界宗教として新たな社会貢献の活動を展開している。
その基本路線は、仏法を基調とした平和、教育、文化運動である。これは、21世紀には人格創価学会 Human Value Creation Society
へ統合され、また文化的平和教育へ、特化されていく。インターナショナルという用語は、国家組織に基づいているが、仏教も平和運動も、宗派・国家を越えているし、越えなければならない。創価教育学大系の、「人格価値」の章、2000年の平和提言などを参照のこと。
そこで、SGI→HVCSの活動の一端を継承する社会運動を、興すべきと提案する。それも、青年部(出身者)が先駆を切るべきである。
要約すれば、民衆救済の宗教は、必ずや、大きな社会運動、平和運動となっていく。そのような歴史的発展こそ、真実の宗教の証でもある。新千年紀を迎えて、それを担う世界市民を生み出す事が、喫緊の課題でもある。
2.民主の時代、民意の潮流
21世紀を迎え、時代は確実に、戦争から平和へ、民衆自身の力によって動いている。
東西冷戦後の、新たな秩序の模索。台頭する民族主義、宗教原理主義。旧ソ連のペレストロイカ後の混沌、中国の社会主義市場経済、EUの統合。生態系問題以前に、南北問題、など。
しかし、驚いたことに、国際関係の考え方や用語は、未だに軍事的に満ちている。湾岸戦争も、軍事的解決だった。NATOの空爆も人道介入の名の下に正当化された。ユーゴ紛争、アフリカ諸国や東ティモールの難民には、何の罪もないのに...
奇しくも湾岸戦争10年に、米英がイラク空爆。
一人の指導者の発言や政策で、過剰反応もし、偶発戦争も起きうる。外交努力もしない、歴史認識も曖昧な日本首相が、「集団的安保」などといえば、世界平和に逆行が明らかである。一市民にも、北朝鮮へ、友好メッセージは送れる。フィリピン、ミャンマーの女性指導者にも、エールを送りたい。
我々自身の自発的な意志の発露として、仏法の精神を体現し、時代、社会を変革していく時代である。政治革命も、そのような世界市民の連帯の、一環にすぎない事を明確に位置づけるためにも、私たちの社会運動が説得力を持つ。
軍事に次ぎ、政治・経済から、人道的競争の時代への指向(牧口会長)や、原水爆禁止宣言(戸田会長)、世界市民輩出の競争で、宗教の正邪を競うとまで宣言された提言(SGI会長)に、誰が正確に答えようとしているだろうか?誰が、SGI憲章を、真剣に実践しているだろうか?
少なくとも、7条は、Boston Centerや、外部の所長をもつ戸田記念研究所などが主体の現状。また、日本の平和研究は、広島などに於いて盛ん。
ボランティア活動だけをとっても、神戸地震以後、急速に社会化され、人々の関心も高い。新たな組織もでき、NPO法もできている。コンピュータを使った、SOHO(スモールオフィス
ホームオフィス)環境も整えば、一人から活動を始められる。何よりも、社会活動に打って出なければならないほどに、時代が大きな曲がり角に来ている。文化戦争の様相は、甚だしい。
SGI→ HVCS運動につながる社会運動が、本格的に組織化されねばならない。アメリカには、SUA、Bostonセンター、フロリダ自然文化センター等を築かれた。全青年部の活動として、「暴力に対する勝利」運動をしている。危険きわまりないアメリカ文明や、市民運動の成熟が、前提にある。香港には、幼稚園があり、本部でもUNICF支援活動をしている。九州からの支援でカンボジアにできた「創価小学校」。インド、そしてSGI運動も、ガンジー主義と、深い友情で結ばれている。それぞれ会員が、真剣に方向性を考えてできたことだと感じる。日本こそ、見習わねばならない。
3.学会の存在意義の変化(学会員の自覚の変化)
第二の七つの鐘もスタートし、創価学会の存在意義そのものが、質的に変化してきている。学会員の自覚も高まっている。それは、以下のように要約できる。
個人的苦悩の救済 → 社会的苦悩の救済、地球的問題群へ対処
宗教的使命 → プラス人間的・社会的使命
宗教団体としての学会 → 社会的存在としてオピニオンリーダーとなる
対治悉檀、第一義悉檀 → 他ならぬ、日蓮正宗を相手にも対治悉檀を展開し、
世界悉檀、為人悉檀を表に、仏法理解を推進
宗教の違いは、現代でも戦争の原因となっている。ご本尊の中に、法華経には説かれない日本の神々があるのは、仏教の寛容の精神の賜である。モーゼや、キリスト、マホメットも、含まれているに違いない。ソクラテス、ベートーベン、マーチン・ルーサー・キングが含まれないことがあろうか?
思想・信条の違いを乗り越えて、人々の幸福、平和にいかに貢献できるか? 社会に開く運動なしには、具体的には現れてこない。寛容の精神を強調し、社会に開く運動によってのみ、真の民衆救済も、布教も進む。「平和行動」を、いかに後継できるか?
新千年紀社会後継の、責任感を問わねばならない。
人材はいないわけではなく、見逃されている。留学生や、外部の有識者と組むこと、もちろん大変有益である。少なくとも、このままでは、意識の高いボランティア活動家などは、学会には糾合できない。SGIの社会活動は、今後急速に消滅しかねない。
4.青年部(卒業生)の使命
青年部、その卒業生の使命は、以下の2点に要約できる。
創価後継 創価学会の後継ぎ (宗教的使命)
千年紀(ミレニアム)社会を責任を持って後継 (人間的、社会的使命)
広宣流布の方向付けは、会員誰しもの課題である。又、社会的存在としての学会にとって、後者の活動が、今後益々重要になる。
5.日本社会の課題
日本社会が行き詰まってきた昨今、学会としての真の社会貢献を考えねばならないのは、自然の流れと言える。世界の知的リーダーは、宗教団体としての学会よりも、社会的存在としての役割に注目してきた。SGIも、国連支援を柱に、各種の意識啓蒙活動を展開し、国連は、NGO登録で答えた。ところが、実質的には、SGI会長お一人の、優れたリーダーシップにのみ負うところが大きかった。
社会的存在として、創価学会を見る時、多様な人材の顔が、見えてくる。種々の音楽活動、文化本部各部はあるが、単に人材育成機関にとどまっているのは、宝の持ち腐れではないか?学会活動は、最高のボランティア活動ともとらえられるが、社会貢献の運動を、再組織化する事によって、信仰で磨かれた人格の発露としての、ボランティア活動も、真の人材育成も達成されると信ずる。
学会として、社会運動に、打って出る時期は来ている。そのかなめ要(かなめ)の機関として、意識変革の象徴として、平和会議は、各人の中に存在すべきである。「平和会議」も必要であるし、運動形態としても、平和運動を提案する。平和会議の中心となって担う人材は、一、二人でよいが、イベント指向や、事務的・官僚的な「上からの流れ」には左右されない、独立性・恒常性を持つべきである。
コモンセンス2 Common Sense 2
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