*海域アジア史研究会例会報告要旨(2001年2月24日報告。於大阪大学)*

『モンスーン文書』にみられる17世紀前半ポルトガル船のアジア交易
―日本・マカオ・マニラの経済リンク―

報告者:岡 美穂子

1.はじめに−史料の性格

『モンスーン文書』は17世紀にポルトガルの支配下にあったアジア地域に関する公文史料の集成であり、交易に関する重要かつ具体的な内容の史料はほとんどこの文書集に収められているといってよい。この文書は正式には“Livro das Monções ou Docunmentos Remetidos da Índia ”と名付けられてリスボンのトレ・ド・トンボ国立文書館に保管されている。現在は全62巻がマイクロフィルム化され、閲覧が比較的容易になっている。日本では諸先学によって『モンスーン文書』と呼ばれ1、17世紀のポルトガル船交易地区のアジア関係を考察する上で、欠かせない史料として扱われている。原文書の写真版が財団法人東洋文庫内に第1巻から第61巻まで保管されているが2、ページが飛んでいる文書が多数あり、完全なものとは言い難い。

第1巻の最初の文書は1607年の日付をもち、最終巻の最終文書の日付は1651年3月31日である。したがって『モンスーン文書』に含まれる文書はちょうど17世紀前半のマカオを中心としたポルトガル人の極東貿易の実体を示すにあたって、最大の情報源であることは間違いない。これらの文書はかつてゴアのインド州歴史文書館に保管されていた。しかしながら1774年2月10日付けの訓令によってポルトガル本国への移管が決定された3

内容は主にポルトガル国王―インド副王間の通信記録であるが、両者からの各地域責任者、とくにマカオ政庁へ宛てた書簡・訓令、それに対するマカオ政庁からの返信などが含まれる。マカオと本国あるいはインド副王政府とのやりとりは、1620年代後半以降1640年頃まで非常に盛んにおこなわれた。

この原因は後に詳細に述べるところであるが、まず第一に1623年にマカオに初代総司令官(Capitao Geral)として、フランシスコ・マスカレーニャスがゴア政庁より派遣され、それまでポルトガル本国からは遠く離れ、ゴアの副王政府からも実質上商人らによる自治を認められてきたマカオの政治形態に、王国の一部としての規律・統治形態が導入されたことに起因していると考えられる4。マカオは1550年頃にポルトガル人が定住しはじめてから、豪商らによって構成される議会政治のもとに自治的政治形態を保ってきたが、この総司令官の赴任によって正式にポルトガルのインド州(Estado da Índia)の一部に組み込まれたといえる。

さらなる要因としてこの期間に、マカオにとって死活問題である日本との交易がきわめて危険な状態に陥っていったことがあげられる。徳川幕府によって寛永年間にとられた海禁政策がマカオに致命的なダメージをあたえたことは周知の事実である。この事態に際して、マカオ政府は中国との交易を維持するべく、ポルトガル本国およびインド副王宛てに交易の縮小および断絶に際しての惨状を訴えるとともに、日本に代わって銀を多く獲得しうる他の交易地域への派船許可を請願している5。当時世界でも有数の銀の産出国であった日本に代わる地域とはすなわち、スペイン領マニラだったのである。

2.ポルトガル領インド州とスペイン領マニラの成立

マカオとマニラ、さらには日本との関係を銀のサイクルを中心に考察していく前に、ポルトガルによるアジア支配のはじまりの歴史とスペイン領マニラの成り立ちについて若干触れておくべきであろう。

1498年5月20日にヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに到着して以降、1500年のペドロ・アルヴァレス・カブラルによる商館設置をはじめとして、ポルトガル人の勢力はインドのマラバール海岸を中心に、破竹の勢いで増大していった。当時のインド洋、東南アジア海域はイスラム商人ならびに在地のムーア人の交易圏であったため、ポルトガル人の勢力拡張には常にイスラム勢力との対峙がつきまとった。1505年にポルトガル国王マヌエルI世がコーチンにインド出張政府を設置し、初代インド副王にフランシスコ・デ・アルメイダを就任させるが、エジプトのスルタンであるミール・フセインからの援軍を受けたムーア人勢力はポルトガル人への攻撃の手を休めることはなかった。北アフリカのエジプトとインドでは距離的にかなり隔たったイメージがあるが、海域を中心に地図をみれば、紅海を出発したエジプトの水軍がインド洋に到着するのはそれほど困難ではないことがわかる。

“O Leão dos Mares da Ásia(アジアの海の獅子)”とのちに呼ばれ、現在でもポルトガルの英雄の一人として数えられるアフォンソ・デ・アルブケルキが、1510年にビジャプール王国とヴィジャヤナガール王国との領土争いに乗じてゴアを占拠した。二度にわたる闘争を経て完全にゴアを掌握した日を記念して建立された聖カタリーナ教会は、現在でもオールドゴア地区の聖フランシスコ教会のわき、熱帯性植物の茂みの中にひっそりとたたずんでいる。ゴアにはインド副王政府が移設され、今後この地はポルトガル人によるアジア交易の中枢都市として発展していくことになる6

東南アジアにおけるポルトガル人の交易拠点はムラカにおかれた。スペイン人による西回りでのマルク諸島への到着計画を阻止するため、ポルトガルはムラカの征服を1505年以降、再三計画している7。当時ムラカはイスラム教を信奉する王が支配するマラッカ王国の首都であり、インド−東南アジア・中国交易の一拠点としてすでに繁栄を我がものにしていた。とくに鄭和による遠征後、国際貿易港としての活路が開かれ、マルク諸島で産出されるクローブやナツメグの集散地として重要な役割を果たしていた。

アルブケルキは1508年以降、三度にわたる遠征ののち、1511年ついにムラカを攻略し、国王マフムード・シャーを追放した。ムラカをその領地に組み込み、近隣のテルナテやティドーレとの友好関係のもと、ポルトガルの勢力は東南アジアの海域ネットワークに巧妙に身を乗じていった。

さらに進路を東へと進め、中国との直接交易を願ったポルトガル人はその沿岸へと接近した。1517年にはトメ・ピレスの使節が北京を訪問し、直接通商を明朝に願い出たが、これを拒否されている8。公式の通商は断念したものの、ポルトガル人は寧波沖合の双嶼島に本拠地を築き中国人商人との私貿易を盛んにおこなっていた。しかしながら1548年に明朝の軍隊により駆逐され、中国との貿易拠点を上川島・ランパカウ島へと移している9

広州の対岸に位置し、ふたつの小高い丘に囲まれた半島にあり、中国の漁村特有の信仰体とみられる天后を祀った地域にポルトガル人は1550年頃定住をはじめた。その形状から「澳門」と呼ばれていたマカオである。ポルトガル人はこの地域で海賊討伐に功をあげ、広州総督から毎年500両の租借料と高額な関税とを条件に、定住を許可される10。公式に定住権を得たことで、この地はマルク諸島からの香辛料、中国産生糸、日本銀をもたらす船の停泊地として、またそれらの交換市場あるいは窓口として繁栄することになる。1575年以降広州で年に二回開かれていた市場では、毎年莫大な量の日本銀と中国産生糸が交換され続けた。

さらにマカオはイエズス会東方伝道の本拠地としての役割を果たすようになり、1602年には現在もその壁面彫刻の華麗さから往時の姿を伝える聖パウロ学院教会の建築がはじまり、内部にはコレジオ、セミナリオのみならず日本やマニラへの商業航海で得られる収入を保管する金庫が設置された11。これはこの学院が宗教施設としての聖的役割に加えて、マカオの政治・商業との密接なつながり、つまり「共同体を維持するための基盤」としての俗的な面をもつものであったことを示唆していると考えられる。

さてスペインとアジアの関係についてであるが、マゼランが1521年に現在のフィリピン諸島に数えられるオモンオン島に上陸し、続いてセブ島の首長フマボンと手を結び、アジア進出の礎を築いた後も、住民のキリスト教徒化を進行させるにとどまっていた。スペインとポルトガルは東経130度線をめぐって1529年にサラゴサ条約を結び、ポルトガル国王ジョアンIII世がスペイン国王カルロスV世に35万ドュカドを支払うことによりモルッカ領有権をおさえた。その際フィリピンはスペイン領として認められている。しかしながらスペインはフィリピンへの四度の遠征隊派遣にもかかわらず、1565年まで植民地化には着手しなかった。この理由は原住民勢力による抵抗があったのみならず、スペインは中南米の征服・統治に集中せざるをえない事態にあり、さらにはメキシコから太平洋を横断するための安全な航路発見に思いの外時間がかかったことが考えられる。

しかしながら1571年にレガスピによってマニラ総督府が設置され、マニラ−アカプルコ間のガレオン貿易がはじまると、それまでにも中国人町が形成されるほど海上交通の要であったマニラは、中南米スペイン領から産出される銀と中国産の生糸が集積する市場として繁栄を迎えることになる12

17世紀のスペイン・ポルトガルとアジアの関係を考察する際に注意すべきことは、1580年から1640年までスペイン・ポルトガルは同君連合統治であったという事実である。ポルトガルはリスボン王宮内のCasa da Índia(インド商務院)で貿易を統括おり、当然スペイン人官吏の監視下におかれたが、インド州における実際の統治権はゴア政庁にあり、同君連合以後もスペイン王はインド副王にほぼ全面的に統治権を委ねていたため、アジアにおいてポルトガルとスペインは分立した商業活動をおこなっていたと考えられる。

マカオはこうしたポルトガル領インド州の中でも、西と東からの資源が一所に集積され、マニラとの交易にも地理的利便性を活かして、際立った繁栄を手中に収めることになった。

3.マカオの貿易管理

マカオはポルトガル人の定住が始まった当初は有力商人らによる自治的共同体であった。1556年に中国・日本との交易の総責任者としてカピタン・モールが任命されるようになり、マカオの統治責任者としての役割が与えられた。16世紀後半以降、ポルトガル王室による貿易独占権は一部が貴族や有力商人に売却されるようになり、カピタン・モールの職も軍事などで功をあげた人物に与えられていたものから、競売制で落札されるものに変化した13。これはすなわちマカオにおいて金権政治が蔓延する契機となった。1576年頃の統治形態としては、最高職にカピタン・モール、さらに首席治安判事であるオウヴィドール、司教、議会議員などによる分権的なものが確認されるが、この中でも前述したように教会権力がもつ力は増大していったと考えられる。日本へ赴くカピタン・モールが不在になるとある期間マカオは最高権力者を失うことになり、以前カピタン・モールを務めた者や有力商人らの議員が政庁内で権力をもった。

インドのゴア政庁は交通の要であり、最も重要な財源をうみだすマカオをその統制下におさめる必要が生じた。1623年にゴア政庁より直接カピタン・ジェラル(総司令官)が任命され、初代フランシスコ・マスカレーニャスがマカオに赴任してきた。マスカレーニャスの任務はマカオ政庁内での政商分離を図ることであったため、政庁内の有力商人らによって排斥運動がおこった14。1625年にこの運動は鎮圧されるが、参加した有力商人の中には、ロドリゴ・サンチェス・デ・パレデスやペドロ・フェルナンデス・デ・カルヴァーリョのように、その後の日本への商業航海にフェイトール(カピタン・モール次席)などの地位で参加している者が含まれるため、とりたてて咎めは受けなかったものと考えられる。

このようにゴア政庁の意を汲んだ総司令官と有力商人らとの対立はにらみ合いのまま、1635年まで持ち越される。この年、ゴア政庁よりアドミニストラドール(マニラ・日本航海総責任者兼任王室国庫管理官)として、マヌエル・ラモスが派遣される15。これによって総司令官が政治を統括し、アドミニストラドールが商業面での責任者となることで、マカオにおけるインド州による直接管理が浸透することになる。すなわちそれはマカオの自治都市としての性格が衰え、ポルトガル領インド州の一部としての機能が期待されることを意味した。

4.日本の銀とマニラの銀

16世紀中葉に石見銀山・生野銀山などの開発がはじまり、灰吹き製法の導入によって日本は膨大な銀の産出量をあげるようになる。これらの日本銀の海外流通経路としては主に二通りの方法が考えられる。ひとつは生糸・絹織物をはじめとする中国産の品々や東南アジアからの香薬などの代価として長崎で支払われたり、買い付けを目的としてヨーロッパ船や朱印船などで各地に持ち運ばれる方法である。二つ目は「投銀」として知られる投資手法で、「言伝銀(ことづてぎん)」と呼ばれるある特定の商品を購入するためにその投資がおこなわれる例をのぞき、一般には元金回収時に高額な利子分が付加されて投資者に返還されることが見込まれる金融方法においてであると考えられる16

この「投銀」は朱印船や外国船(ポルトガル船・唐船)へ、博多や長崎、平戸などの商人が二割から三割の利率を条件に銀を投資するもので、ポルトガル語では“respondência”の名で知られている。投銀証文は債務支払いが完了すると破棄されるのが通常であると考えられるので、博多の『島井家文書』・『末次家文書』17などに含まれる投銀証文(和文・欧文・漢文を含む)はその返還が完了しなかったものと考えられている。これらの証文には一定の書式があり、日付・貸し主・借り主・貸付高・利率・「かこひ」18の有無・返済方法などの記載が必要とされる。

ポルトガル船への投資は『末次家文書』に残る6通のポルトガル語証文からその形態が明らかとなる。とくに注目すべきは、借り主であるポルトガル人が一船員ではなく、マカオから日本への航海に幹部として参加したと思われる人物であるということである。マカオ政庁内において日本への航海で高位にあった者がもつ影響力は甚大であったため、オランダ商船の日本進出によって次第に衰退していくマカオ−日本間の交易は、ポルトガル人の返済能力をも衰えさせ、この問題はマカオ政庁内で憂慮すべきものとして大きく取り扱われはじめる。『モンスーン文書』に含まれる1630年代以降の日本銀についての記述の多くはこれらのポルトガル人による負債に関連するものであるといえる。

高利の貸付銀を受け取ることは、1610年以降19、インド副王やマカオ総司令官からの訓令によって禁じられている。にもかかわらず銀が受け取られ続けたのは、いかなる理由によるものであろうか。

周知のことであるが、世界規模でみて中国は異質なほどに銀の取引価値が高かったことがあげられる。この場合の中国とはシャム・マラッカ・ヴェトナム・ジャワ・フィリピン・朝鮮などを含む広義のそれを指す。17世紀初頭の日本の金銀交換率はおよそ1対13前後であったのに対し、中国ではその比率が1対10以下であったと考えられる20。つまり中国で品物を買いつけるにあたって銀を用いることは、現代のように為替レートが統一されないこの時代にあっては、想像以上の利益を生み出すものであった。

マニラの銀も同様にマカオへ重要な資源として搬入された。マニラの銀とはアカプルコからガレオン船でもたらされる中南米産の銀であった。1550年代に現在のボリビアにあるポトシ銀山の開発に水銀を利用したアマルガム精錬技術が導入され、メキシコのサカテカス・グアナファトも含め、16世紀末までに年間250トンの銀産出量をあげるようになった。銀山開発の労働力としてインディオが酷使されたことはいうまでもない。豊富な労働力によって産出されたこの資源は太平洋をわたりマニラへと運ばれた。マニラへ到着した銀は東南アジアの香薬、中国産の生糸などの購入に消費された。スペイン王室はフィリピン・新大陸在住のスペイン人に貿易に投資する権利を付与し21、ガレオン船貿易は王室の手を離れ、中国における銀の価値も手伝って、個人の富を増殖させる手段として隆盛を極めた。

広州に接し、中国との交易にうってつけの場所であったマカオにはマニラからの大量の銀が運び込まれた。『モンスーン文書』では日本やマニラから運び込まれた銀はさらなる利率で東南アジアや広東の市場へ投資されたことを示す内容がみられる22。つまりこれらのことから考えれば、マカオというまちは中継貿易地としての資金調達における恒常的な不安定さを覆い隠すために投資という手段を用い、まちの維持そのものに投機性を加えていったといえる。独立した収入源をもたない、全くの商業都市としての性格から、その依存する交易を失うということは、すなわちまちの存在自体を極度の危険にさらすということを意味していたのである。

5.おわりに

1630年代の後半、江戸幕府による海禁政策はいよいよ進行し、オランダ商船による荷揚げ高が増長するにつけ、マカオとの交易が終焉に向かっているという噂が五カ所を中心とした都市商人間に広まっていく23。また同時期にポルトガルはスペイン王室から独立し、スペイン領であるマニラとマカオの交易は禁じられる。マカオは日本との交易終焉に対する危機感を背景に、この通商において最も重要視されるカピタン・モールの人選に細心の注意を払うことになる。1630年にカピタン・モールとして来日したゴンサロ・ダ・シルヴェイラは3年間の抑留のあとマカオに帰国し、1635年に使節として来日、さらに翌年には再度カピタン・モールとして赴任している。シルヴェイラはインド洋におけるイスラム勢力との戦闘に功績をたてた貴族である。つまり関係修繕のために、商業利益を第一とする人物ではなく、幕閣との交渉を潤滑にすすめうる人物が選任されたと考えられるのである24

しかしながらシルヴェイラの交渉は順調には運ばず、1636年にポルトガル人は出嶋に収容されることになる。さらに翌年に島原・天草地方でキリシタン関係者を首脳に多数含む一揆が勃発した影響で、この年使節として来日していたフランシスコ・カステロブランコを含むポルトガル人は全員監禁状態におかれた。1638年にジョアン・ペレイラをカピタンとする船団が来日したが、この際ペレイラは前年から抑留されていたカステロブランコ同様に帰港が許可されなかった。そしてよく年1639年、ついに囚われていたカステロブランコ、ペレイラ、この年のカピタンであったヴァスコ・パリャ・デ・アルメイダは長崎奉行に連行され、太田備中守資宗より交易断絶を言い渡される。

日本との交易断絶後、マカオ存続の救済策はマニラ交易のみとなる。しかしながらマカオとマニラの交易は禁じられていたため、マカオ政庁はポルトガル国王宛にマニラとの交易を再開する許可を再三求めねばならなかった25。銀の入手が困難になるとともに、中国人がフォルモーザ島(台湾)に拠するオランダ人との交易に興味を示しはじめたことから、マカオはさらに弱体化への道をたどることになる26

これまで述べたことがらの多くは、『モンスーン文書』のマカオ関連記事から明らかになる、あるいは裏付けを得られるところのものである。非常に明白なことは、マカオというまちの盛衰はすべて他地域との交易に依存していたということである。その中でもとりわけ日本とマニラは銀を流出させるという意味で最も重要な地域であった。またこれらの銀がマカオに集積されて、東南アジア他地域やインド、ヨーロッパにおいて利用されていた事実を考えれば、マカオのまちが17世紀世界において果たした役割は計り知れないように思われる。ただマカオは現代の香港やシンガポールのように、限られた国土ゆえに独立した産業を擁さず、貿易業務に依存して繁栄してきたと思われる地域とは全く異なる歴史的経過・運命をたどったといえる。歴史というものが過去から現在への時代の潮流であると考えるならば、1999年末に中国へ返還され、近隣の香港や広州の影響をさらに受け続けていくであろうマカオが、今後いかなる変化を遂げていくのかを観察することもまた、甚だ興味深いことのように思われる。

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