琵琶湖産トウヨシノボリ
Rhinogobius sp. (the orange form, Lake Biwa lacustrine population)
以前,といってもほんの何年か前までは琵琶湖にいるヨシノボリはトウヨシノボリだけだと考えられていました.しかし,今ではビワヨシノボリ(仮称)とトウヨシノボリの二種類がいることが知られています.基本的にビワヨシノボリは琵琶湖内とその周辺の用水路にのみ生息するのですが,トウヨシノボリのほうは湖内から流入河川のかなり上流まで分布しています.
しかし,河川と湖ではずいぶんと環境が異なっており,採集される個体も若干印象が異なる場合もあります.こうした異なる環境に生息する琵琶湖のトウヨシノボリ(以下,琵琶トウ)が,生態的に分化しているのかどうか,特に種分化の萌芽的な状態にあるのかどうかは非常に興味深い問題です.
2004年の5月に発行された日本魚類学会の英文誌Ichthyological Researchには,この問題に関連する二つの論文が掲載されていて,なかなか興味を引かれました.一方は,mtDNAの分析を行った研究で,ビワヨシノボリと琵琶トウは区別可能だが琵琶トウの河川個体群と湖内個体群は全く区別できないという内容でした(Takahashi and Ohara, 2004).したがって,その論文の著者らは,琵琶湖とその流入河川のトウヨシノボリは一つの遺伝的な集団であり生活史の違いは仔魚期の成長の程度などによって変化するのではないかと推測しています.ところが,もう一方の論文は河川個体群と湖内個体群の間で卵サイズに有意な差があり,それぞれの環境に適応した結果と論じていました(Maruyama et al., 2004).卵サイズが遺伝的に決定されているなら,この結果は琵琶トウに河川遡上型と湖内残留型に分化する傾向があることを示し,非常におもしろいと言えます.
では,こうした異なる結果をどのように解釈すればいいのでしょうか?
琵琶湖に行ってみるとわかるのですが,琵琶トウの河川と湖内の個体群は河口付近を介してかなり連続的に分布しています。ですから、均一な集団、という可能性も確かにあるように思えます.しかし、遺伝的マーカーで分化していない=一つの集団、と判断することはできません(逆に、遺伝的マーカーで明らかに区別できる=隔離された集団、と判断することは可能)。
例えば、ある河川本流とその周辺の溜め池(水路で結ばれておらず独立した水塊と仮定)に分布する魚種についてmtDNA分析をしたら、まったく違いがなかったとします。遺伝的マーカーで分化していない=一つの集団ということが常に成り立つのであれば,魚が地上(空中?)を移動して河川と溜め池を行き来している、ということになるわけですが,実際は溜め池の起源が新しいだけで現在は溜め池と河川の魚は交流していない,と考えるほうが自然です.つまり,集団が隔離されてからの時間が短い場合は,実際には集団間の交配が起きていなくても(あるいは限定されていても)検出できないこともありえるわけです.
しかし、琵琶湖と流入河川は水塊として連続しているので河川で生まれた子と湖内で生まれた子が、それぞれの生まれた環境に戻るのでなければ、分化することはないと考えられます。だからこそ、判断が難しいわけなんですが、数理的なモデルでは配偶者選択に関わる遺伝子座と適応に関わる遺伝子座の二つが関連していれば、同所的種分化が起きる可能性が示されています(Dieckmann and Doebeli, 1999; Higashi et al., 1999; Kondrashand Kondrashov, 1999)。
つまり,ここで「配偶者選択に関わる」というのを「河川の遡上に関わる」とした場合、河川に遡上する行動の遺伝子と卵を少し大きくする遺伝子をセットで持つ個体,および湖内に留まる行動の遺伝子と卵を少し小さくする遺伝子をセットで持つ個体はそれぞれ有利であるが,ちぐはぐな組み合わせの個体(遡上するのに卵が小さい,湖内にいるのに卵が大きい)は不利な場合,やや卵の大きい河川遡上個体群とそうではない湖内残留個体群という二型に分化する可能性もでてくるわけです.ここで,河川に遡上する性質を共有する個体同士,湖内に残留する個体同士で結果的に配偶相手が同じ遺伝子を持つ個体に偏るのがポイントですね.また,比較的新しい数理的モデルでも,環境勾配が一つの集団を分化させる可能性を示していますから(Doebeli and Dieckmann, 2003),河川と湖という異なる環境の狭間で琵琶トウが生態的に分化しつつある,ということもありえるでしょう.
ただし,この理屈は河川への遡上性と卵サイズのそれぞれが遺伝的に決定されていなければ成り立たないので,仔魚期の成長の度合いなどによってその両方の性質が後天的に変化するのであれば,同じ遺伝子を持った個体が成長過程の条件によって性質を変化させている,ということになります.よって,種分化の萌芽なのかどうかを検証するためのもっとも重要な論点は「河川遡上遺伝子」と「卵サイズ決定遺伝子」の存在ということになります.ヨシノボリの種ごとに遡上性の違いや卵サイズの違いが固定していることを考えれば,各種に固有の遡上性や卵サイズを支配する遺伝子があるような気はするのですが…
引用文献