紀 州 ヨ ッ ト 少 年 団
・・・ 過 去 の お 話
紀州ヨット少年団は、1992年に伊勢奥志摩にて産声を上げました。
発足当時のメンバーは、二宮隆雄師匠、小山内正人、白山陽一、中嶋祐二。いわゆるアメリカスカップ挑戦チームとして生まれたはずの「BBCチャレンジ」のメンバーが中核となりました。それに、1号艇を寄贈してくれた若松徳雄さんの娘さんである若松千賀子を加えた5人が、最初のメンバー構成です。
1号艇が手に入る前は、ビーブルオーシャンクラブでJ/24を借りて、基本練習をこなしていました。また、1号艇が手に入ってからは、1艇のみで相手艇を想像しながら、マッチ練習を行っていました。
1992年9月。
紀州ヨット少年団としては公式戦の初戦となった「鳥羽カップマッチレース」で優勝!。 その時にバウマンを勤めた今津浩平(コウタン)が、その後、筋力トレーニングを継続することを条件に、二宮師匠から入団を認められました。
1992年は、ニッポンチャレンジが初めてアメリカスカップに挑戦してきた年です。アメリカスカップ帰りのクルーが国内に戻り、世界レベルの本物のセーリングクルーが、日本国内に登場した年でもあります。
いわば、日本におけるマッチレース元年だったと言えましょう。
そのようなエポックメーキングな年に、日本で唯一のマッチレースクラブチームたる、紀州ヨット少年団が発足したのです。
左から、若杉氏、二宮師匠、白山陽一
二宮隆雄師匠の語っていた「紀州ヨット少年団」の理想の姿を簡単に紹介しておきましょう。
なによりも、理想として描いていたのは、『日本におけるクラブ組織の創設』でした。
「日本にはヨットのクラブ組織がなく、ヨットレースを行うものは、高校、大学の学連でヨットを続けていくしかない。高校では、FJクラスのヨットで小さな選手を有利に扱い、また、優秀な選手が育ちあがる受け皿もない。また、大学では、時として優秀な選手を育てきれずに、だめにしていくことがある。
紀州ヨット少年団は、若い芽に練習の機会を与え、学連からはみだしてきた天才たちの受け皿になっていく。そのために、伊勢奥志摩にヨット基地を構え、それを維持していくのだ。」
多少の異なりはあるかも知れませんが、そのような抱負を語っていたように記憶しています。
素晴らしい理想像です。今でも、あの熱い思いが伝わってきます。
また、あの情熱がなければ、今の紀州ヨット少年団の母体はできあがらなかったでしょう。
紀州ヨット少年団の発足
師匠が描く ヨットの理想郷
紀州ヨット少年団にとって、最もエポックメイキングな出来事が、2号艇の入手でした。それまで相手艇を想像しながら行っていたマッチレース練習が、実際に2艇でできるようになったのです。 「これは、楽しい!」
紀州ヨット少年団のメンバーの誰もが、笑顔でそう叫びました。
1993年の夏。当時の「ラル」をみんなで購入。この艇で西宮開催のJ/24全日本に出場した後、現在の伊勢奥志摩に1号艇とともに、もやうことになりました。
待望の2号艇
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いつまでも少年の心をもち続けることができる人を「少年」と呼ぶ。
その意味において、70歳の少年もいれば、17歳の老人もいる。
「紀州ヨット少年団」とは、
ヨットの上達に意欲を持ち続ける少年たちの集まりだ。(二宮師匠)