『沖縄における生理用品の変遷−モノ・身体・意識の関係性をめぐって−』

                            塩月 亮子

 

 はじめに

 

 従来、文化人類学(民族学)では、女性の身体に自然におこる現象のひとつである月経を、主にそのタブー性やケガレ観といった観念の側面から捉えてきた。しかし、月経という現象を今一度「身体」という視点で捉え直してみると、そこには身体と「モノ」、すなわち「生理用品」との関係性が浮かび上ってくる。そして、その関係性は当然ながら時代により変化するもので、モノの変化はまず身体感覚の変化を、ひいては意識の変化をも引き起こしてきたと考えられる。このようなモノ・身体・意識の関係性にいち早く注目した研究者のひとりに、民俗学の祖、柳田国男がいる。彼は『明治大正史 世相篇』のなかで、明治・大正時代におこった変動のメカニズムを、制度やイデオロギーの変化においてではなく、衣食住に対する民衆の情動(感性・感覚)の移動において捉えることを目指した。つまり、庶民の日常性から日本の近代化の様相を明らかにしようとしたのである。例えば、麻の着物がその肌ざわりの良さと染色の容易さから木綿に移行することにより、人々の着ごこちに変化が起こり、それによって首が長くなったり撫で肩、柳腰になるという人の外形や輪郭の変化が生まれ、伏目がち、内足など身振りや仕草の変化をもたらし、さらには物事に感じやすくなるという意識の変化まで促したことを指摘した(1)。柳田のいうように、モノの変化は人々の身体の変化をもたらし、身体の変化は同時に意識の変化も引き起こす。従って、「モノと身体との関係性」とその変化を考察することは、人々の意識の変化の原因を探る上でも非常に重要となってくるのである。このような視点は、近年特に歴史学や社会学の分野で注目されるようになってきた。例えばフランスの歴史家、フェルナン・ブローデルは、小麦やたばこ、家具などの日用品の歴史を明らかにし、それらと身体と精神の関係を重視した研究を行っている(2)。また、社会学では天野正子や桜井厚が、「モノと女」との関連を論じたり(3)、上野千鶴子が衛生観念の変化を女性の下着と電化製品の普及との関係から論じたりしている(4)。このような動きに伴い、生理用品の変遷に関する研究も徐々に行われるようになってきた。しかし、それらは日本については日本本土の事例研究が中心であり、それ以外の地域での生理用品の変遷に関する体系的な研究は十分になされているとは言い難い。

 そこで、本稿では、日本本土とは異なる歴史・風土をもつ沖縄をひとつの事例としてとりあげ、そこにみられる生理用品の変遷と、それに伴う身体感覚の変化、さらにはそれらの変化が月経に対する女性の行動や意識の変化を促す原因となってきたことを、日本本土の場合と比較しながらみていきたい。

 

一 モノ(生理用品)の変化

 

 (一)日本本土の場合

 『アンネナプキンの社会史』[小野 一九九二]をはじめ、これまでの様々な研究をもとに、日本本土における月経処置法の変遷を江戸時代以前から現代に至るまでたどると、次のようになる(表1参照)。月経については古くは神話の中でも述べられているが(5)、いざその具体的な処置の仕方となると江戸時代以前の記述は残っていない。けれども、恐らくは以前から、やわかくした草の葉や木の繊維を膣内に入れるタンポン型と、草の葉をあてて何かで固定するナプキン型の二種類が存在したと考えられるという。江戸時代の末期になると、漸く女性たちの月経の処置法に触れた資料が出てくる。例えば、江戸後期の風俗誌『守貞漫稿』には、「手綱」や「お馬」とよばれる手製の月経帯である丁字体や、「もっこふんどし」とよばれる下帯の使用についての記述がみられる(6)。これらは<ひもで締める>型の月経帯といえる。また、あてものについては、当時は古布や粗悪な紙などがその中心であった。

 明治維新を経て明治中期頃になると、あてものに新しく脱脂綿の使用が開始された。脱脂綿は日清戦争(一九八四年)中、兵士の傷の手当て用に考案・生産されたもので、それを従軍看護婦が密かに転用したのが始まりといわれている。それが徐々に一般の女性の間にも普及していき、日本ではつい最近まで脱脂綿の使用が続いていた。脱脂綿は水で分解されないものであり、水洗トイレ以前のバキュームカー時代に適したものとみることもできる。さらに、明治末期から大正初期にかけては市販の月経帯(「安全帯」や「ビクトリヤ」など黒ゴム引き)が薬局に出回った。ただし、それらは大変高価で、一部の都市の裕福な女性のみ使用できたという。こうして、以前ひもで締めた月経帯ほ、市販された黒ゴム引きのように<穿く>型へと変化していったのである。

 やがて第二次世界大戦へと突入した昭和一○年代には、脱脂綿やゴムの不足が起こり、それらの代用品として黒ちり紙やワラ灰・米糠入りの布袋などが使用され、生理用品は昔の時代に逆行した。さらに、戦争末期の昭和一七年から昭和一八年にかけては、消毒液をしみこませた圧縮綿や綿球が、タンポン式生理用品として市販された。また、この時期自己流タンポン式の処置も増加したという。これは、物不足とあいまって、月経処置に余裕がなくなったためと思われる。戦争が終わっても物不足は解消されず、脱脂綿やゴムの入手は不可能に近かった。このような状況のもと、総同盟婦人対策部は政府に「一般成人女子への衛生用品配給確保」の陳情を重ね、脱脂綿や月経帯の配給確保を訴えた。その後、昭和二五年も過ぎると、再びパンティ式ゴム引き月経帯(「ローズバンド」や「シーズンバンド」など)の市販が再開された。ただし、この頃は手製の月経帯も多く使用されていた。

 昭和三六年、今までの月経帯や古紙などのあてものの使用を一気に塗り変える製品が発売された。紙製のナプキン、「アンネ」の登場である。これは防漏性が高く、簡単に水に流せるとあって、下水道や水洗式トイレの完備した都市型生活に適したものだった。また、職業婦人の増加もその発売に拍車をかけた。ちなみに、アメリカでは一九二○年代にはすでに水溶性のフェミニンナプキンとサニタリーベルトが使用されていたので、日本ではそのおよそ四○年後にナプキンの発売が行なわれたことになる。フェミニズムが全世界に波及したのと、日本でアンネナプキンが登場した時期とが一致するのは、重要なことである。続いて、アンネナプキン発売の二年後の昭和三八年、今度はタンポンが発売される。生理用品はこの時期を境に、新時代に入ったといわれている。そして現在、生理用品はますますその機能性が重視され、ナプキンに関しては横漏れやずれ防止のため、テープや両脇に羽の形をしたストッパーのついたもの、あるいは携帯に便利な超薄型のもの、はては香り付きのものまで、様々に工夫を凝らしたものが市販されている。

 

 (二)沖縄の場合

 沖縄においては、日本本土以上に月経処置に関する古い記録がないが、主に沖縄本島における現地調査から、月経処置法の変遷については日本本土のそれとほぼ同じ道をたどってきたことがわかった(表2および表3―1,3―2参照)。まず、あてもの(アッティー)に関しては、明治期まではもっぱらフクタとよばれるぼろ切れを重ねたものや古新聞を用いていたが、大正・昭和初期には脱脂綿、昭和三六年以降は生理用ナプキンという変遷を経ている。次に、あてものを固定する月経帯については、明治期まではメーチャーとよばれる褌が用いられた。これは、月経時以外にも下着として使用されていた(写真1)。大正・昭和初期に入ると「ビクトリヤ」とよばれる市販の黒いゴム引き月経バンドが普及し始め(写真2)、昭和四○年以降は生理用ショーツが使用されるようになった。戦時中、月経の処置法が以前に逆戻りしたことも、日本本土の状況と同じである。沖縄でも、戦時中は物資の不足により、それまで出回っていたビクトリヤや脱脂綿が入手できなくなったため、フクタ(ぼろ切れ)とメーチャー(褌)やパンツという以前の方法で処置を行った。当時、学校では、家庭科の授業で手作りの生理用品の作成を指導した。また、戦後のアメリカ統治下でも、アメリカ製生理用品は普及しなかったという事実が、日本本土と沖縄の生理用品の差異を少なくしている。これは、戦争直後はアメリカ製ナプキンを買うような金銭的ゆとりや機会がなく、その後も、アメリカ統治下の沖縄には日本製の薬品が輸入・売買されていた関係で、生理用品も日本製が輸入され、人々は馴染みがあり説明書きも理解できる日本製を使用したという理由によると考えられる。タンポンに関しても、沖縄では一部の月経の多い人と既婚者にその使用が限られるという認識が以前からあり、現在でも沖縄では日本本土と同じくタンポンの使用率はナプキンと比べて大変低い。

 だが、沖縄には日本本土とは異なる生理用品に関する文化もある。そのひとつが、ミジクブサー(水こぼし)とよばれる素焼きの鉢の使用である(写真3)。ミジクブサーとは、経血のついた生理用品の洗浄をはじめ、性交後や月経中における局部の洗浄を行う四○センチほどの赤い鉢で、いつもは井戸の裏に伏せて置かれていた(写真4)。ミジクブサーは、明治期以前の農村部で主に使用されていたものだが、大正期以後は次第に廃れていった。また、沖縄では、戦前の本土(女工)経験の有無と使用した生理用品の種類に関連があることも特徴的といえる。大正から昭和初期にかけ、沖縄の貧しい農村部に住む若い女性たちは、大阪や和歌山などの紡績工場に働きに出かけ、その多くがそこで初経を経験した。このような女性たちは、本土への持ち物リストや先輩女工のアドバイスから、ビクトリヤと脱脂綿の組み合わせという当時では進んだ処置法を採用した。それに対し、本土経験のない沖縄の女性はまだメーチャー(褌)を使用していたという。このことは、必ずしも経済的に恵まれない階層の人が伝統的な処置法を用い、裕福な階層が先進的な処置法を採用するとは限らないことや、年齢が上であれば伝統的で若ければ先進的な処置法を採用しているとは限らないことをあらわしている。

 

二 身体感覚の変化

 

 生理用品の変化が等しければ、それに伴う身体感覚の変化も沖縄と日本本土においてほぼ等しかったといえるだろう。身体感覚の変化は、沖縄でも日本本土でも生理用品の変遷史上、昭和三○年代以降のナプキンの登場が大きな転換期となった。ナプキン以前、あてものとして使用されていた木の葉や古布、紙などは、不快かつすぐ漏れて苦痛であったと推測される。また、後にそれと併用する形であらわれたゴム引き月経帯は、経血が外にもれにくくなった結果、生理用品を交換する頻度が減って身体が楽になったという意見がある一方で、ゴム製なので蒸れて不快だったという意見や、脱脂綿よりフクタの方が具合が良かったという話も聞いた。しかし、ナプキン市販後は、それまでの不快さや、うっとうしさから解放され、起きて行動しているときも、寝ているときもかなり快適に過ごせるようになったという。このように、生理用品の変化は、じめじめとした不快な感覚や、いつ漏れるかわからないといった不安感等を、さらっとしていて安心という身体感覚に変化させる役割を果たした。現在では、生理用ナプキンや生理用ショーツの通気性や肌触りが次第に改善され、生理痛を押さえる薬も手軽に入手できるようになったため、身体的にはかなり不快感が減少したといえる。

 

三 意識(ケガレ観)の変化

 

 沖縄・日本本土の双方で、月経時の行動、並びに月経に対する意識についても、やはりナプキン以前と以後とでは大きく変化することになる。ここでは両地域の月経に対する意識の文化差を視野に入れながら、モノの変化に伴う行動や意識の変化についてみていきたい。

 (一)日本本土の場合

 ナプキンの登場以前、日本本土では月経に対する不浄視(ケガレ観)が存在し、月経には大変暗いイメージが持たれていた。特に、近世社会以降、月経は忌みであり、汚れという意識が人々の間に定着した。これは、仏教的・儒教的女性観によるネガティブな意味付けがなされたためといわれている。このような不浄観は、「月経帯をお日様にあててはならない」等の母子伝承により母から娘へと伝えられていったり、あるいは月経中は自分の属する社会から厳しいタブーを課せられたり、隔離されるなどして強化されてきた。また、月経帯の黒という色やその置場、取り扱い方等も月経の意昧・位置に影響を与えてきた。

 しかしながら、近世期以前の時代には、女性が周期的に出産したり、出血したりすることは、崇拝の対象となったといわれている(7)。月経のタブーは生命を作り出す力に対するものであり、神聖なタブーであった。現在でも沖縄の一部の地域にみられるように、それは神からの知らせとみなされるものだった。ところが、平安時代に入ると、伊勢神宮で神事に血を忌避した記録があり、一○世紀の初頭には賀茂神社での皇族の女性による祭りの施行の際にも月事の忌避が行われていたという。その後、月経の不浄観は急速に貴族階級の女性に広まり、月径はケガレと認識されるようになった。さらに時代が下って鎌倉の頃は、月経への不浄観が庶民にも広まるとともに、女性そのものへの不浄視も浸透していったといわれている。このような不浄観のもと、ずっと現代に遡ってナプキンが発売されるまで、女性たちは長らく多くの規制を課されてきた。なかでも、信仰上の規制以外にも座り方・歩き方等の立ち振る舞いの規制があったり、白系の衣服やタイトスカートは着れないといった着るものの規制、もしくは月経を「アレ」、「コレ」等のあいまいな代名詞で示すという語りの規制があり、女性たちは絶えず粗相のないよう神経を使ってきた。月経は「秘すべき、恥ずべき、忌むべきもの」という意識があったのである。

 だが、ナプキンの出現は、そのような意識を一変させてしまう程の力を持っていた。それは行動・衣服の規制からの解放であり、語りの規制からの解放であった。ナブキンのお陰で女性は活発に動けるようになり、月経の日が「アンネの日」等、多少オープンに語られるようになったのである。また昭和二五年以降、月経処置の工夫の仕方などが婦人雑誌内でオープンに語られるようになったことも注目に値する。このように、ナプキンの普及は月経の不快さから女性を解放し、様々な規制を取り除き、その行動範囲を拡大させたのであり、そのような身体感覚の変化は、ひいては月経に対する積極的な意識を芽生えさせ、月経に対する暗いイメージを払拭し、その不浄観を稀薄化させたとみることができるのである。

 

 (二)沖縄の場合

 先述したように、沖縄では日本本土とは異なり、従来から月経に対する積極的な意味付けがなされてきた。例えば、沖縄本島南部に住むあるユタ(シャーマン)は、「沖縄の場合は女のケガレは全くない。チースンタダシ(血潮正し)といって、生理が1ケ月続く、あるいは全くなくなるのは実家からの(祖先の)呼び出し」だと説明する。また、瀬川清子の調査によれば、竹富島では月経はカミチ(神血)、つまり神の血筋を頂いた印として捉えられ、また石垣島では、月のものが続きすぎるときはカンサシブ(神女)になる前兆とみられるという(8)。

 しかし、沖縄の一部の階層(士族)や地域においては、月経あるいは女性自身に対してマイナスの意味付け(ケガレ視)がなされてきたことも事実である。例えば、源武雄は沖縄におけるシラ不浄、すなわち出産のケガレについて論じているが(9)、これは沖縄にも女性に関する不浄視が存在することを示唆している。また、一七世紀、琉球王朝時代に編まれた『球陽』の巻八にも、沖縄本島南部のある村に月経や赤帯など赤い色を大変嫌う神がいて、月経で汚れた着物の裾を洗った女性たちを大波がさらったと記されている。筆者が調査した沖縄本島北部の村落においても、女性に関する様々なタブー、ケガレが聞かれた。なかでも月経のケガレについては、「神行事中、月経の女性はたとえ神人(女性祭司)であってもウドゥン(お宮の奥の部屋)に入ってはならない」、「ナーグヌハシチ(女の強飯という神行事)中、月経中の女性は神人でも窯に触れてはならない」などの事例があり、神に対して月経は忌避すべきものとして捉えられている(表4参照)。また、沖縄本島南部の地域でも、「月経中の女性はたとえ神人でもウタキ(聖所)に入ってはならない」という事例があった。ここまで厳しく忌まないまでも、表3にあるように、明治以降、最近まで沖縄にも月経は恥ずかしくて隠すもので、普通の洗濯は井戸で洗うが、生理用品は浜でこっそり洗う、あるいは海の遠い地域は井戸裏に置いたそれ専用の洗い鉢、ミジクブサーにつけておき、夜になったら人目を忍んで洗い、そのあと家の後ろや豚小屋など人目に付かない所に干すというように、月経は恥ずかしくて隠すもの、憂鬱で気が滅入るものという意識があった。

 筆者は、沖縄におけるこのような月経のケガレ観の存在に注目して現地調査を行ってきたが、最近、これらの地域での月経に対する不浄視の弱まりが目に付くようになった。なぜなら、口では「月経は不浄で忌むへきもの」といってはいるが、実際にはこれらの地域で神人たちは月経中も神行事を遠慮したりしないからである。これは「理念と行動とのずれ」と考えられる。例えばある神人は「月経でもお風呂に入って儀式には行く」と言い、あるユタも「神人でも月経だったら塩で清めて行事に参加する」と言っている。これは、月経は一応忌むべきものだけれども、塩や風呂で清めれば許されるという、非常に合理的な解釈である。このような理念と行動とのずれは、ひとつには以前はそれ程月経が不浄視されなかったことによると推察できる。つまり、薩摩からの観念の流入や仏教観などの普及、あるいは明治時代以降の学校教育に伴い、沖縄の各地で次第に月経が本土のように不浄とみなされるようになったものの、それは借り物の観念であって、沖縄には月経の不浄観がそれほど深くは根付かなかったからと考えられる。

さらに、「昔はウバサーという上等でない着物だったし、神行事では月経は隠しきれなかったから、ウドゥン(アサギの奥の部屋)に入ってはいけないと言われていたと思う。でも、私の時は人には[月経と]わからないので気にしないで[神行事を]やった。」というあるノロ(村落最高女性祭司)の発言からもわかるように、月経は外からわからなければ忌む必要はないという考え方もある。従って、生理用品の普及もまた、ケガレ観の稀薄化に拍車をかけたといえる。月経を処理する用具のある時代とない時代とでは、月経に対する扱いや意識が必然的に異なってくるということができよう。

 

 おわりに

 

 本稿では、沖縄にみられる生理用品の変遷と、それに伴う身体感覚の変化、さらにそれらの変化が月経に対する女性の行動や意識の変化を促す原因となってきたことを、日本本土の事例と比較しながら考察してきた。その結果、沖縄でも月経処置法の変遷は日本本土とそれ程変わらなかったこと、しかしながら月経に対する意味づけが沖縄においては近年(主に明治以前)までは神聖視されていたのに対し、日本本土においてはもっと古く(平安時代)からケガレ視されてきたという相違があることがわかった。そして、日本本土と沖縄において、それぞれの地域で異なる時代に導入され普及した月経のケガレ観が、近年の生理用品の変化(特にナプキンの発明)により希薄化し、それに伴う行動規制も緩和されるようになったということも明らかとなった。これは、柳田の言葉を借りれば、生理用品の変化はモノのもつ「用」としての役割をこえ、内面的な女性の習慣と情動の世界に働きかけたといえる。明治生まれの沖縄の作家、金城芳子は、「大正五、六年頃ビクトリア月経帯というのが出て、脱脂綿が出まわった時には開放感を味わった。福音と感じたものだ。」とその時の感想を述べている(10)。生理用品の素材が変化することでより漏れにくくなり、その結果外から月経中であることがわかりにくくなったこと、あるいは黒い月経バンドからカラフルな生理用ショーツへと生理用品の色彩が変化することなどにより、日本本土や沖縄における月経のマイナスイメージ、すなわち暗さや後ろめたさ、羞恥心といったものが薄れてきた。このように、沖縄と日本本土における月経の処置法の変化を相互に概観することにより、モノの変化が身体感覚の変化を、さらには身体感覚の変化が意識の変化までも引き起こすということが明らかになったのである。

 

 

<注>

(1)柳田 一九七○(一九三一):一四六。

(2)F・ブローデル 一九八六(一九七九)。

(3)天野・桜井 一九九二。

(4)上野 一九八九。

(5)・(7)古事記に、ヤマトタケルノ命が東征の帰途、婚約者である姫に会い、「汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちにけり」とうたう箇所がある。これは、「あなたと寝たいと思うけれど、あなたの着物の裾に月経がついてしまったことよ。」という意味だが、その後、姫が「君待ちがたに 我が著せる 襲の裾に 月立たなむよ」(あなたのおいでを待ちきれなくて、私の着ている襲の裾に月が出てしまったのでしょう)と返歌し、ふたりは結婚したとあるので、古くは日本本土でも月経がそれ程不浄視されていなかった、あるいはそれどころか月経は一人前の女性となり結婚の能力を備えた印としてめでたいこととみなされていたのではないかということができる。

(6)天野、桜井 一九九三:六九 参照。

(8)瀬川 一九八○。

(9)例えば、「久高島では部落に誕生があると、三日間は村人がウタキ(御嶽)へ参拝するのを禁じた」、「宮古・八重山地方でほ産の忌をシラ不浄といい、不浄が晴れるまではお産のある家を神職関係者は訪間しない」(ともに一六五頁)とある。

(10)金城 一九七七:四七。

 

 

<参考文献>

天野正子・桜井厚 一九九二『「モノと女」の戦後史−身体性・家庭性・社会性を軸に−』有信堂高文社。

ブローデル、F. 一九八六(一九七九)『物質文明・経済・資本主義15-18世紀 T―1 日常性の構造T』村上光彦訳、みすず書房。

球陽研究会 一九七八(一九七四)『沖縄文化史料集成5 球陽 読み下し編』角川書店。

金城芳子 一九七七『なはをんな一代記』タイムス選書5。

源武雄 一九七六(一九二四)『日本の民俗沖縄』第四七巻 第一法規出版。

小野清美 一九九二 『アンネナプキンの社会史』JICC出版局。

瀬川清子 一九八○『女の民俗誌』東書選書。

上野千鶴子 一九八九『スカートの下の劇場―ひとはどうしてパンティにこだわるのか―』河出書房新社。

柳田国男 一九六九「木綿以前の事」(一九二四)『定本柳田国男集』第一四巻 筑摩書房。

――   一九七○「明治大正史世相篇」(一九三一)『定本柳田国男集』第二四巻 筑摩書房。

 

 

<付記>

 本稿の作成に際し、名嘉真宣勝氏と読谷村歴史民俗資料館のスタッフの方々、玉城千代氏、宮城晴美氏、宮平実氏、外間米子氏、壺屋焼物博物館、ユニ・チャーム株式会社から多大なご助言・ご協力を賜った。ここに感謝の意を表したい。