◆「巫女と遊女の統制史−明治期から昭和初期までの沖縄近代化政策をめぐって−」
A History of Controls over Shamans(Yuta) and Prostitutes(Juri) : About a Policy
of Okinawan Modernization from the Meiji until the Early Showa Period.
塩月 亮子 Ryoko Shiotsuki
渋谷 美芽 Mime Shibuya
The aim of this paper is to examin the history of ruler's controls over yuta(shamans) and juri(prostitutes) in Okinawa from the Meiji until the early Showa period(before the World WarU). Yuta and juri were controlled and suppressed under the policy of modernization, the most severe contols were done in Meiji, Taisyo and the early Showa period. In these periods, we compared the way of controls over yuta with juri according to the newspapers (mainly Ryukyu Shinpo), and realized that the ways and reasons of controls over them were very similar. Then we tried to examine such controls related to the other modernization movements such as the prohibition against Hajichi(tatto), mo-ashibi(the association of young couples in a field) and bare feet. As a result, we pointed out that Noro(the highest priestesses) who manage the village festivals, and licenced prostitutes who are permitted by the government are well controlled, while yuta(shamans) and unlicenced prostitutes are not be able to controlled by rulers. This uncontrollableness means danger power for rulers because uncontrable women have freedom of thought and behavior against the government and it's value or rules, therefore yuta and some juri(unlicenced prostitutes)were feared and supressed by the government, and their character who connect "This world" and "Another world" is also a great menance to rulers who live only in "This World"
はじめに
沖縄では、憑依などを通じて神と直接交流し、その過程で占いや口寄せ、病気治療を行う巫女たちをユタとよんでいる1)。一方、戦前まで那覇の辻町で娼妓として働いていた女性たちをジュリ、またはズリとよんでいた。この両者は異なる職業に属しながら、実は同じような範疇内にいる女性たちとして、以前から人々に認識されてきた2)。それは、「ズリぬもーきとユタぬもーきや一代(ズリの儲けとユタの儲けは一代)」、「ゐなぐぬ みっちゃいするりば ユタぐとぅ いゅん、ゐきがぬ みっちゃい するりば ズリゆびばなし(女が三人揃えばユタ事を言い、男が三人揃えばズリ呼び話)」3)のような沖縄のことわざに、対概念として出てくることからもうかがえる。また、「ユタぬ ゆくしむぬいいとぅ いんぬ くすくいしとぅや のーらん(ユタの嘘つきと犬の糞食いとは直らぬ)」、「ジュリぬ ゆくしむにーとぅ いんぬ くすくゎいしとぅや のーらん(ジュリの嘘つきと犬の糞食いとは直らぬ)」といわれるように、ユタもジュリ(ズリ)も、嘘をつき人を騙すというマイナスイメージを付与され、侮蔑を受け差別される対象として長らく社会的底辺に位置付けられてきた。
このような見方は、近世(薩摩の侵入した1609年)以降、沖縄の「近代」的な政策が始まったことに端を発すると考えられる。ユタもジュリも、17世紀の政治家、向象賢(羽地朝秀)が発布した文書『羽地仕置』の中で、共に政治改革の妨げとして沖縄史上初めて統制、あるいは禁止を命じられている(詳しい内容は後述する)。その後、18世紀の代表的な政治家、蔡温も向象賢の政策を継承し、ユタとジュリに対する統制政策を行った。明治になって廃藩置県がなされ、琉球王府時代が終焉を迎えた後も、このような政策は明治政府により受け継がれ、ユタとジュリに対する統制・弾圧政策は益々強化されていく。また、明治政府のこのような態度に影響を受けた新聞も、明治30年代の初刊以来、ことあるごとにユタとジュリの取締りの強化を世間に訴えた。そしてそれは、特にユタに関しては一貫して容赦のない弾圧思想を掲げることとなった。例えば、明治39年2月23日の琉球新報の記事をみると、「遊廓と丙午の歳」という見出しで、丙午のためユタ買いに走るジュリやその抱え親(アンマー)たちの行動を迷信として非難し、さらに「(買ト者や巫女が)人心を惑乱する其罪や決して軽ならすして、其流す所の弊害は警察か常に注目しつつある無鑑札娼妓の密淫売に優るとも決して劣らさるを想ふなり」と述べ、ユタと、政府の許可を受けていない一部のジュリについての取締りを、同じ記事の中で並列させて論じている。さらに同記事は、「無鑑札娼妓の密淫売駆りに熱中するよりハ寧ろ上記の買ト者巫女なとの取締を厳重にして人心惑乱するの行為を禁止するに如かさるなり」と言って、両者のうちでも特にユタの処罰を強く望んでいる。
本稿では、以上のような巫女(ユタ)と遊女(ジュリ)が17世紀以降、共に時の為政者により統制・禁止を受けてきたという歴史を踏まえ、その中でも特に国家による統制政策が強化されていった明治から昭和初期に焦点を当て、当時を如実に物語る資料として新聞記事4)を参照しながら、両者の国家による統制の歴史と、なぜ彼らが統制されなければならない存在だったのかを、同時期に行われた他の近代化政策との関連において考察することを試みる。
1.ユタ統制の歴史
(1)琉球王府時代のユタ禁圧
ここでは、明治の廃藩置県以降のユタ弾圧について述べる前に、それ以前のユタに対する琉球王府の政策はどのようなものであったのかを簡単に概観する。先述したように、最初のユタの禁止令は1673年、尚貞王の摂政であった向象賢(羽地朝秀)が発布した『羽地仕置』の中に出てくる。彼は、「国中には前々から女性でユタをしている者が多数いるから、その偽わり言に惑わされないよう改むべきである」と述べ5)、ユタに対する強硬政策をとった。当時、琉球王国は薩摩の侵略を受けてから約50年経っていたが、まだ世情は不安が続いていた。その建て直しを目指した向象賢は、王府機能の合理化、固有祭祀の統制、地頭・役人の刷新、生産の増進など従来の慣例を改革し、合理的な「近代」的政策を推進した。その一環としてユタの取締りが行われたのである。しかし、このような法令をいくら発布しても、人々のユタ信仰は少しも衰えず、18世紀に入ってからも、王府は巫術禁止令(1718年)や巫術禁絶の法律(1728年)を次々と制定しなければならなかった6)。
さらに、三司官蔡温の時代になると、彼は一般市民の守るべき道徳や儀礼を示した『御教条』で、「トキ(易者)・ユタは、自分の営利を第一にしていろいろ虚言を申し立てて、人を誑かすことをしているから、厳重に禁止することとなった」と説いた(1732年)7)。また、その後も彼は評定所から、「近頃トキ(易者)・ユタがまた跋扈してきた。それにだまされていろいろの祭りをおこなったり、田舎廻りをするやらで、迷信が非常に盛んになってきた。<中略>横目(警官)にいい付けて、トキ・ユタはもちろん、それを雇う者は、貴賤を分たず重罪に処するように」という令達を出している(1795年)8)。ついで、彼は『新集科律』という法典で、「時よた(ユタ)邪術禁止」と題し、「邪術を行った者で罪の重い者は死罪や斬罪、流罪。邪術ではないが財物をだまし取った者は所払い三百日。また時よたを用いる者は寺入三百日。これらのことを知っていながら申し出ない者は寺入り三十日」という処罰を定めている(1831年)9)。だが、このような政治改革に伴うユタ禁圧は、頻繁に法令が出されていることからもわかるように、一向に効果が上がらなかったことがうかがえる。しかしながら、人々の必要性に矛盾するようなユタへの蔑視のまなざしが、これらの政策を通じて社会的に植え付けられる効果は十分にあったということができる。
(2)明治〜昭和初期におけるユタ弾圧
廃藩置県以降、第二次世界大戦までの国家によるユタ対策は、琉球王府時代の禁圧政策をさらに徹底化する厳しいものであった。ユタをめぐる行為は、沖縄の日本への同化政策と戦時下の思想統制という時代背景から、日本の近代化を阻む遅れた旧慣であり、風俗を乱し流言飛語をとばす反国家的なものとして徹底的に弾圧されることとなった。この時期におけるユタ弾圧の歴史を、大橋英寿は@19世紀末、置県後の知事通達や間切・村内法にもりこまれたユタ禁止、A20世紀初頭、大正初年の近代化推進下での「ユタ征伐」、B昭和10年代、戦時体制下の「ユタ狩り」という3つの時代に区分している10)。ここではそれらの区分に則し、各時代の動きを映すものとして当時の新聞記事を参照しながら、ユタに対する政府の政策についてみていきたい(表1参照)。
まず、ユタが風俗を乱す者であり、禁止令を出して取締まらなければならないとする考え方は、琉球王府から明治政府へと時の為政者が交代しても変わることはなかった。1879(明治12)年の廃藩置県から2年後の1881(明治14)年、2代目県令であった上杉茂憲は、旧慣温存下の初期県政のもと、琉球王府の方針を踏襲した巫覡禁止を間切(現在の町や村)や村(現在の集落)役場へ通達し、それが間切村内法にもりこまれた11)。その後、新聞が沖縄で発刊されてからは、風俗を乱し財産を貪取するという理由から、ユタを非難する記事がたびたび掲載されることになる12)。例えば、1898(明治31)年12月27日の琉球新報には、ユタと無許可のジュリ双方を排撃する記事が載っている。それをみると、「煤はらひ−巫女と淫売婦の巣窟−」という見出しで、「巫女は誣妄の虚言を吐ひて愚夫愚婦の懐中を絞ぼり、淫売婦は遊治郎を欺きて其金を奪ふ。業異なりと雖も其風俗を壊乱し人の財産を貪取する一点に於ては彼れ是れ同一なり。イデヤ此等風俗壊乱の基たる賤業婦の巣窟を摘発して、当局者の取締の便利に供し本年の厄払いをなさむ。先ず巫女の巣窟と聞えたるは、辻端道西ン門渡口の屋敷内裏屋に住み平田のアヤーと云へる年齢四十四、五計の中老婆にして・・・・<後略>」と書かれている。このように、政府の統制からはみ出すようなユタや私娼は、政府はもちろん、新聞からも非難されたのである。ただし、この時代の罰則としては、以前琉球王府時代に行われたような日晒しの刑などはなく、あくまで警察署にて説諭・放還される程度のものであった。
だが、大正時代に入ると、1913(大正2)年の辻の大火を契機に、流言飛語をとばすものとしてユタの検挙・裁判が集中して行われるようになった。その影響で、ユタ禁圧は首里や那覇に限らず地方でも徹底されることとなり、新聞紙上でも5年間断続的なユタ征伐キャンペーンが行われ、ユタ全滅が唱えられた。例えば同年2月20日の琉球新報の記事には「ユタの首魁捕はる」という見出しで、「流言浮説の醸生者にして区内頑迷婦人の間に魔力を張り、意外の甘汁を吸ふて空嘘ぶいて居たユタの首魁たる区内字東一七○七仲地カマド(四四)は昨日遂に那覇署の手に捕縛され警察犯處罰令により二十日の拘留に處せられたり<後略>」と書かれ、仲地カマドというユタが捕縛されたことが報じられている。彼女はこれを不服として後に弁護士をつけて裁判を2度起こしたが、いずれも有罪判決となった13)。この事件を皮切りに、他のユタたちも次々と警察によって捕縛され、拘留処分を受けることとなった。こうして毎日のようにユタの捕縛や拘留、裁判のことが紙面を賑わせるようになり、同年2月25日の記事の見出し「ユタの捕縛−ユタ類全滅の方針−」にみられるように、新聞はユタの勢力は侮るべからざるもので、迷信は県民の恥辱であり、打破されなけねばならないという理由から、警察によるユタ征伐に積極的に協力していった。そして、1917(大正6)年2月10日の記事では、あるユタが信徒から恐喝的に神社建立費用を集金したという理由により検挙されたことを報じたり、その翌年の1918(大正7)年2月7日の記事では、沖縄婦人のユタ道楽を非難し、今やユタ撲滅が急務であり、警察でもユタ検挙に努力せよといったことを唱えたりしている。これらの記事から、大正時代には次第にユタへの刑罰が重くなり、それに従って新聞によるユタ弾圧の声も日増しに強くなっていったことが読みとれるのである。
大正後半期の新聞には、ユタに関する記事があまり見あたらないが、昭和10年代になると、ユタは再び糾弾される対象として現れてくる。明治・大正期、ユタは沖縄の近代化、日本への同化政策を妨げる者として捉えられ、弾圧されたが、昭和になるとそれは戦争に向けて政府が行う宗教統制や世論統一、情報操作を邪魔する者として、内務省の特高警察により以前にもまして厳しく処分されるようになった。この時代、ユタの弾圧は「ユタ狩り」とよばれ、それは従来の県の範囲から国家的範囲での弾圧・統制への移行を意味していた。当時の大阪朝日新聞(鹿児島・沖縄版)の記事をみると、例えば1936(昭和11)年、「邪教ユタを厳重取締る−横田沖縄特高課長語る−」という見出しで、「<前略>本県関係の分として邪教取締に関連しユタ取締を答申したところ、内務省の諒解を得たので、今後は従来の手温い方針を変へ、濫りに吉凶を占い、神をかつぎ出す本県特有の邪教ユタ取締を一層徹底させることとなった<後略>」とあり、ユタは他の新宗教同様、邪教として内務省の了解で容赦なく弾圧されることとなる。それは、数年後の1939(昭和14)年4月11日の「出鱈目なユタ−沖縄各署で処分−」という記事で、「沖縄県特高課が先月十七日未明、県下各署に手配、寝込みを襲って槍玉に挙げたユタ(巫子)は男女合せて百五十二名<後略>」という内容からもわかるように、大規模な弾圧となっていった。そして、密告などで検挙されたユタの多くは、徴兵推進を妨害し、デマを飛ばす反国分子として拘留され、あるいは罰金を払い訓戒を受けたりした。このように、戦時下では、ユタはいたずらに社会を動揺・混乱させ、体制を崩壊させる者として、国家から危険視されたのである14)。
2.ジュリ(ズリ)統制の歴史
(1)琉球王府時代のジュリ統制
ジュリとよばれる遊女が那覇の辻と仲島に集められ、沖縄で初めて遊廓が創設されたのは、1672年、向象賢(羽地朝秀)の時代であった。その当時、「風俗が著しく敗頽し、自然遊女の跋扈甚だしく、其の取締の必要を痛感」しての創設という15)。時の摂政向象賢は、1667年の『羽地仕置』の中で、主として士族階級のジュリ買いについての達しを出している。それによると、近年はジュリを囲う者が多く、年々禁止しても聞くどころかかえって流行っていて、なかにはジュリのため財産を使い果たしたり、ジュリに領地を治めさせたりしている者がいるが、このようなことは言語道断である、と強い口調で戒めている。ジュリの全廃は難しいと睨んだ向象賢は、その後先述したように各地に散らばっていた私娼を集めて公娼制度を認め、そのかわり監督を厳重にすることにした。彼の意思を継いだ18世紀の政治家、蔡温もまた風紀の維持からジュリを黙認したが、士族階級の娘がジュリになるのは国の乱れとなるので厳禁するという三司官令を1746年に出している。
このように、ジュリは本来ならばよくないものだが、風紀を統制するための必要悪とみなされ、社会的に蔑まれながらもその制度は戦前まで存続した。琉球王府時代から、ジュリが外を徘徊することは風紀を乱すこととして厳しく取り締まられ、処罰される対象だった。また、この時代、士族のジュリ買いは建前上は許されず、毎年十月朔日にジュリ買いをしないことを誓う傾城証文を首里や那覇の士族は出すことが義務づけられていたという。ただし、これらは時の為政者の意図を裏切って有名無実のこととなり、ジュリ買いはその後明治期に入っても益々盛んに行われたのである。
(2)明治〜昭和初期におけるジュリ統制
1898(明治31)年以降見ることのできる沖縄在地の新聞紙上において、大正初期まで、遊廓関連の記事は、量の多少はあってもほぼ毎日のように社会面の一角を占めている。沖縄の慣習16)により 、遊廓の話題が人々の関心を集めていたからであるが、中でも、ジュリの統制に関する記事はたびたび取り上げられ、大きな比重が置かれていることが見てとれる。すなわち、実施された統制政策をめぐる悲喜こもごもが活写され、さながら世情の代弁者たる態である17)。表2には、このように遊廓を揺るがした統制政策をまとめた。
概観すると、「本県の娼妓取締りについては、自ら順序あり。機会によりて動きたる歴史上の事実あり」18)とされる通り、統制意識の高まりを導く必然的な経緯を読みとることができる。以下、表を参照しながら考察する。
日本では、1871(明治4)年の廃藩置県以降、本格化した近代化政策のもとで、その翌年、娼妓開放令と人身売買年季奉公禁止令<太政官達>が出された。これらはすぐには奏功せず、結局、疾病の蔓延という現実的な問題におされて、強制検診実行のため、1873(明治6)年には公娼制度を行うに至っている19)。しかしながら、ひとたび「娼妓廃止・人身売買禁止」という方針が厳然たる近代的思想として示されたこと自体は、大いに意義のあることと考えられよう。事実、1881(明治14)年には、沖縄でもこの太政官達を援用して娼妓の転業が云々されている。20)また本土でも、1880年代に入ると、各地で廃娼運動が起こるようになり、各道府県では貸座敷娼妓芸妓取締規則が制定された。ただし、廃娼運動に対しては業者による反対運動が起こり、規則に対しては、現在に至るまで人権擁護的配慮に欠けた内容であるとの評価もなされている。21)
沖縄では、1879(明治12)年、琉球処分により沖縄県が設置され、本土の近代化政策が及ぶことになる。まず、翌1880(明治13)年に行われた戸籍編成では、ジュリの養育者であるアンマー(抱親)とジュリとの関係を養母と養女とする旧習が破られ、ジュリは遊廓では寄留者とされた。またその翌年1881(明治14)年には、沖縄でも貸座敷並娼妓規則が制定され、娼妓の廃業を奨励したり、不備ながら、外泊届や、疾病保有者の医院診察を義務付けたりした。さらに1882(明治15)年、人身売買禁止令が出され、これを受けて辻遊廓柳香々小の娼妓が自由廃業を申し出て大騒動となり、廃娼反対陳情運動が繰り広げられた。22)
1896(明治29)年には娼妓身体検査規則が実施され、これによりいわゆる赤札が始まった。つまり、娼妓全員を対象に定期的な身体検査が強制されたが、罹患が発覚しても患者を収容する病室がなかったので、そのまま廓へ帰り、部屋の入口にかけてある札を裏返して赤い面を出したのである。しかし、この4年後1900(明治33)年、全国平均に比しても罹患率の高かった沖縄において、必要に迫られて設立された県立若狭病院が、疾病検査と患者の収容を行うようになって以降、赤札という方法はとられなくなった。
この規則について、アンマーたちは県庁・警察署・区役所などに検査の取止めを嘆願した。すなわち、検査に対する羞恥心から廃業を申し出るジュリが出たからである。
同年、沖縄県下で自由廃業第1号が出ることになろう、という情報が驚きをもって報告され、23)また、遊客の姓名を帳簿に記載することが規則に加えられた。
1908(明治41)年には、那覇区の渡地・仲島二遊廓地を辻に合併、さらに娼妓の廓外への自由外出を禁止した。これらの大きな変革は、翌1909(明治42)年の府県制(特例)の施行、すなわち県議会の設置を目前に、にわかに近代化が意識された結果である。
以上のように概観すると、ジュリの統制には3つの目的があることがわかる。すなわち、疾病の防止、綱紀の粛清、そして人権の擁護、である。しかし、これらを目的とする統制が、順を追って粛々と展開されたわけではなく、少なくとも廃藩置県後は、統制の背景には常に、比重は大きく偏りつつも、3つの目的が鼎立して存在した。
まず、疾病はより現実的で深刻な問題としてもっとも頻繁に取り上げられている。
綱紀に関しては、「一廉の地位あり名誉あるものにして、此処に出入するは人情の弱点に支配せらるるものとして、あながちに之を咎めず」24) という記述に象徴されるように、利用する客に対して粛清を求めるというよりは、ジュリに対する取り締まりを強めるという方向に論調は集中している。
そして人権意識については、その比重の軽さが、戦後、もっとも問題視され、非難にさらされている点である。県立若狭病院が設立され、娼妓身体検査規則が実質的に機能し始めて、検査に対する羞恥心から自主廃業したジュリは、本人に検査は人権蹂躙、という意識があったわけではない25)、とされるが 、大きく言えば羞恥心を持つことも人権の一部であり、直接的に人権が理由ではないにせよ、娼妓規則を行使してこれを全うすることができた点においては、価値観の近代化の一端として考えてもよいであろう。また、1908(明治41)年の外出禁止に関しても、明確に人権をうたい、ジュリに同情を寄せている26)。
さらに、「他府県で、目下大騒ぎ中の娼妓自由廃業の余波は、まさか沖縄にはおよぶまいと思われていたが」沖縄県最初の自由廃業が出るであろう27) 、という記事は、一方で願望とも受け取れる論調であるが、ジュリ自身の人権意識の芽生えを示し、それ以降は頻繁に自主廃業のニュースが掲載されるようになる。
大正期後半から昭和初期においては、新聞自体が断片的であるうえ、遊廓関連記事も少なく、戦時色の強い記述となっている。ただ、遊廓の統制強化については言及され、さらに徹底された事実は正確に伝えられているものの、明治期のように世情を伺い知ることはできない内容となっている。
3.近代化政策における風俗改良運動
これまで、主に明治から昭和初期という期間における、県や国によるユタ(巫女)とジュリ(遊女)の統制をみてきた。ユタには、時の権力者を飛び越して己の信じる神を信奉し、その神の言うことにのみ従うという傾向があり、当時の国家にとってユタは風俗を乱し、体制や威信を揺るがす大変危険な存在と映った。一方、ジュリは政府が統制下に置く限りにおいては必要悪とされ、身体検査を義務づけられながらも厳しく弾圧されることはそれ程なかった28)。しかし、統制下に置かれない私娼(無鑑札娼妓)に関しては、淫売と罵られ、風紀を乱し国家に刃向かう犯罪者として厳重に取り締まられた。このように、いずれも社会的底辺に位置づけられ、自由な活動を許されなかったユタとジュリは、その政策に違いはあるものの、共に国家の近代化政策上、常に問題視されてきた存在であった。
明治・大正・昭和初期という期間は、沖縄をはじめ、日本が最も急激に近代化政策を推し進めた時期であり、ユタとジュリに対する統制・弾圧政策はまた、当時の日本語教育や皇民化政策など一連の近代化政策の流れの中で把握されなければならないだろう。国家による近代化政策は、ユタやジュリの統制に留まらず、ハジチ(女性が成人の印に手に入れた入れ墨)の禁止やモーアシビ(毛遊びといって若い男女がモーとよばれる野原で夜歌ったり踊ったりして遊ぶこと)の禁止、裸足の禁止、結髪の禁止、和装の奨励、火葬奨励、標準語の励行、衛生観念の普及などを掲げ、それまでみられた多くの慣習が弾圧されるべき悪習として取締りの対象となっていった。例えば、1886(明治19)年、県知事大迫貞清はハジチの弊風をなげき、これを改めさせようと説諭した29)。その後、1899(明治32)年、沖縄で「入墨禁止令」が施行され、それを破った者は1日の拘留か十銭以上一円以下の科料に処すとされた。また、モーアシビ(毛遊び)に関しては、これは集落のグループ交際としての機能を果たしていたが、1890(明治30)年代になると不純なものとして槍玉に挙げられるようになった。当時の新聞には、それが風紀上よくないことであり、警察による取締まりを訴える記事がしばしば出るようになる。例えば、1902(明治35)年3月7日の琉球新報には、「島尻郡大里間切與那原村付近の後原及ひ黄金森邊にては、毎夜数十名の男女打混して盛に毛遊ひをなし、三味線を弾くやら太鼓を叩くやら馬鹿騒きに遊び興じ、夫れか為め近郷近住の民家ハ可惜春寝の夢を破られ大に閉口し居る由なれは、今後其筋に於ても相當の御取締あらまほしきことにこそ」という記事を載せ、其の筋、すなわち警察に取締りの強化を促している。裸足の禁止については、もう少し時代の下った昭和初期、県の保安課を中心に、県のイメージダウンに繋がる裸足の取締りに乗り出すことが話し合われた結果、1941(昭和16)年に「裸足禁止令」が施行され、那覇市内では警察の厳しい取締りがなされたという30)。
こうしてハジチ(入れ墨)やモーアシビ(毛遊び)、裸足、その他諸々の習慣も、全て日本人としての自覚をもつという沖縄の近代化を推進する上で、邪魔な野蛮なものとして政府により禁止されることとなった。このような見方はユタやジュリにもなされたが、他のものに比べ、両者は特にその取締りが厳重で、違反した場合の処罰が厳しかったことが特徴的である。また、近代化政策がさらに進んだ昭和の戦時下になると、ユタもジュリも戦意を喪失させ風紀を乱すものとして、国家により「ユタ狩り」、あるいは「売春狩り」としてさらに厳しい統制・弾圧を受けることになったのである。
4.考察
では、なぜユタやジュリに対してはその統制政策が例外的に厳しかったのであろうか。このことを考えるには、まず時の為政者が、統御可能なものとそうでないものに全てを二分し、そのうちの統御不可能なものを統御可能なものに変換しようとしていたと捉えることが必要となってくる。すなわち、沖縄の巫女は、琉球王府時代に王府の辞令書を受け、正式なカミンチュ(神人)として神行事を行った統御可能なノロ(村落最高女性祭祀)と、系譜や任命を無視し、自分勝手に己の霊力を頼って神の遣い、あるいは神そのものとなった統御不可能なユタ(シャーマン)に分けられるが、そのうち後者であるユタは、向象賢(羽地朝秀)の活躍した17世紀以降、為政者にとってはいつの時代においても弾圧・壊滅すべき存在であった。かたや、ジュリとよばれる沖縄特有の遊女に関しても、向象賢(羽地朝秀)が私娼を禁止し、ジュリを辻に参集させるという政策を打ち出して以来、ジュリは辻の中で管理可能な公娼と、神出鬼没で統制不可能な私娼とに分けられ、特に無許可で営業している後者に対しては、為政者は厳罰をもって臨んできた。つまり、ノロと公娼は、為政者にとっては統御可能な範疇に、ユタと私娼は統御不可能な範疇に属することとなる。そして、統御不可能ということは、彼女たちが為政者をおびやかす危険な「力」をもつ女性として立ち現れてくることを意味する。なぜなら、統制されない女性たちは、為政者ではなく神を崇める、あるいは政治や戦争を遂行するよりも遊び重視の風潮を作る、また、身体検査を受けないため性病に冒されているかもしれないといったような、権力者が用意した価値観や制度に縛られない自由な発言・行動ができるという理由で、権力者の作った体制・秩序を崩壊させる力をもつと考えられるからである。
笹本正治はその著『辻の世界−歴史民俗学的考察−』の中で、巫女と遊女は共に神と関係し、「あの世」と「この世」をつなぐ存在であると述べている31)。確かに、ユタは神や死霊のいるとされる「あの世」と直接交流するといわれる。一方、ジュリも非日常的世界であり「あの世」に繋がるとされる辻、別名「花ぬ島(花の島)」に住んでいた。なぜ時の為政者があれほどまで必死になってユタや私娼をはじめとするジュリを取り締まったのか、その理由を考察していくには、彼女たちのこのような「この世」の理論を超越する「あの世」的な性格に着目することが必要となるのではないだろうか。
おわりに
本稿では、沖縄において17世紀以降、巫女(ユタ)と遊女(ジュリ)が共に時の為政者により統制・禁止を受けてきた歴史を概観し、中でも特に近代化政策が徹底的に推進された明治から昭和初期、彼女たちがどのように国家による統制を受けてきたのかを新聞資料を基に比較検討し、それを同時期に行われた他の近代化政策との関連において考察することを試みた。その結果、国家から公認されたノロ(村落最高女性祭司)と公娼は、為政者にとっては統御可能な範疇に入るが、ユタと私娼は統御不可能な範疇に入ることを指摘し、その統御不可能性が為政者をおびやかす危険な「力」となることを結論づけた。すなわち、統制されないこのような女性たちは、「この世」を超越した「あの世」的性格をもっており、権力者が用意した「この世」的な価値観や制度に縛られることなく自由に発言・行動する。それゆえ、ユタやジュリは既存の社会体制や秩序を崩壊させる恐れがあり、このことが時の権力者をして厳しい弾圧・統制に走らせたとみることができるのである。最後に、以上のようなユタとジュリの戦前までの統制史を踏まえ、今回言及できなかった戦後におけるユタとジュリのその後の変遷を比較・分析することが、今後の課題であることを記しておく。
注
1)ユタという呼称は主に沖縄本島で使用されるが、そこに侮蔑的意味が含まれてしまうので、ムヌシリ(もの知り)など婉曲な言い方がなされることも多い。沖縄本島では、巫女はユタと、ノロをはじめとするカミンチュ(神人)とに二分され、前者は主に人々の病気治療や占いなど私的領域を扱い、後者は主に村落の繁栄や豊作を祈る神事の際の祭司として公的領域を扱うという違いがある。ユタもカミンチュも、薩摩侵攻以降はそれぞれ禁制政策により取締りを受けてきたものの、ノロをはじめとするカミンチュの方は、琉球王府時代は薩摩の禁制政策にもかかわらず王府の庇護を、そして廃藩置県後の昭和の初めには、政府から国家神道に組み込まれる方針により神社の神子としての認可を受けたため、そのような庇護や認可の全くないユタとは異なる統制の歴史を辿った。従って、ここでは時の為政者により絶えず厳しい弾圧・統制を受けてきたユタに焦点を当てて論じた。
2)従来の巫女と遊女を関連させた研究の中には、日本本土の近世の遊行巫女や白拍子研究などを基に、遊女は巫女の零落した姿とする説が散見される。例えば中山太郎や柳田国男などはこのような遊女の巫女起源説を主張したが(中山 1927, 柳田 1980[1969] )、一方では滝川政次郎などは両者は全く関係ないとして、この説を批判している(滝川 1975[1965])。本稿では、そのような遊女と巫女が同源か否かということを論じるのではなく、両者の時の政府による統制のされ方に共通性があるという視点から、両者を比較して論じることを試みた。
3)別の言い方に、「 ゐなぐぬ みっちゃいゆりば ユタぐとぅ いゅん、ゐきがぬ みっちゃい ゆりば ジュリゆび はなしゅん(女が三人寄ればユタ事を言い、男が三人寄ればジュリ呼び話をする)」、「ゐなぐぬ ユタこーやーとぅ ゐきがぬ ジュリあしびや くちるんのーらん(女のユタ買いと男のジュリ遊びは殺されても直らない)」などがある。
4)当時の新聞に関しては、多くの研究者が「日本同化政策の片棒を担ぐ、近代化推進の急先鋒」のような位置づけを行っているが、新聞内容の変遷を詳細に追えば、特に遊女に関しては人権意識から廃止論を唱える者は当初はごく少数で、その存在すら問題視しない記者が多かったことがわかるはずである。このことは、当時の新聞が必ずしも近代化を促進してきただけとは言い切れず、例えば琉球新報はコラム記事で「廓だより」を面白おかしく伝えることで大衆におもねっているとみることができる。このように、新聞も保守的な面を持っていたことに注意しなければならない。
5)宮城 1975[1967]:90。
6)宮城 1975[1967]:92参照。
7)大橋 1998:67参照。
8)宮城 1975[1967]:92-93。
9)宮城 1975[1967]:93、大橋 1998:71-72参照。
10)大橋 1998:75-114。
11)『上杉県令巡回日誌』1881 参照。
12)沖縄最初の新聞は『琉球新報』で、1993(明治26)年、首里を中心とした旧士族階級の人々により発刊された(大田 1996[1995]:92参照)。
13)詳しくは、宮城 1996:87-90 参照。
14)ここでは主に明治・大正から昭和初期の時代にかけてのユタ弾圧をみてきたが、戦後におけるユタ関連の記事は、1945(昭和20)年から約30年間はほとんどみられない。しかし、1972(昭和47)年に沖縄が本土復帰した後、1980年代にはトートーメ問題が社会問題として新聞に取りあげられ、トートーメとよばれる位牌とそれに付随する財産は女性でも継げるとする運動が繰り広げられるようになり、女性はトートーメを継げないという男尊女卑の旧習を推進するユタが再び批判されるようになった。だが、この運動も女性たちの根強いユタ信仰などにより、運動が始まった当初のようなパワーを無くして現在に至っている。その一因には、ユタの持つ柔軟性が関係していると考えられる。なぜならユタは、社会の支配的イデオロギーを、遅れて担うもの(堀場 1990:239)であり、もし沖縄でも少子化が進んで女性しか適当な相続者がいなくなった場合には、ユタの唱える基準が嫡子継承から女性継承に変化することも十分に考えられるため、ユタの唱えることを一元的に捉えて批判することが難しいからである。
15) 来和 1973[1934]:21
16) 慣習として沖縄の男性のジュリ買いは広く行われていた。たとえば新婚の初夜に遊廓に出向いたまま数日も居続ける、などのことが実際におこなわれていた(由井 1998:52-53)。
17) 来和 1973[1934]:157-162。新聞記者であった筆者が遊廓に足繁く出入りし、相当の事情通であったことがわかる。
18)『琉球新報』1908(明治41)年3月1日
19)由井 1998:52-53。
20)大橋 1998:75-114。
21)由井 1998:52-53。
22)大橋 1998:75-114。
23)『琉球新報』1900(明治33)年10月3日
24) 大田1995:284頁。
25)由井 1998:52-53。
26)『琉球新報』1909(明治42)年10月10日
27)『琉球新報』1909(明治42)年10月10日
28)宮城栄昌によれば、第二次世界大戦が始まる以前の1939(昭和14)年頃、無鑑札だけでなく鑑札をもつジュリや酌婦などに対し、政府が「売春狩り」を行ったことがあったという。その理由は、戦争が苛烈になろうとするのに、遊廓に入り浸っている官吏や一般男子が多く、国民の士気高揚に影響を及ぼすと考えられたからという(宮城 1975[1967]:302-303)。従って、ユタもジュリも、共に戦時下において風紀を乱し、戦意を喪失させる危険なものという認識がなされていたといえる。
29)古塚 1998:349-352 参照。
30)宮城 1998:359-360。
31)笹本 1991:257-275。
参考文献
阿部達彦
1996 『沖縄の遊女について−宗教社会学論集』近代文芸社.
上杉茂憲
1881 『上杉県令巡回日誌』
大田昌秀
1996[1995] 『新版 沖縄の民衆意識』新泉社.
大橋英寿
1998 『沖縄シャーマニズムの社会心理学的研究』 弘文堂.
来和雀
1973[1934] 『琉球花街 辻情話史私集』沖縄郷土文化研究会.
笹本正治
1991 『辻の世界−歴史民俗学的考察−』名著出版.
滝川政次郎
1975[1965] 『遊女の歴史』 至文堂.
田端千秋
1997 『奄美・沖縄 女のことわざ』 第一書房.
仲井真元櫂
1992[1971] 『沖縄ことわざ事典』月刊沖縄社.
中山太郎
1988[1927] 『賣笑三千年史』中山太郎日本歴史民俗シリーズ第五巻 パルトス社.
古塚達朗・宮城晴美・由井晶子
1998 「風俗改良」『那覇女性史(近代編) なは・女性のあしあと』pp.328-361, 那覇市 総務部女性室・那覇女性史編集委員会編 ドメス出版.
堀場清子
1990 『イナグヤ ナナバチ−沖縄女性史を探る』ドメス出版.
宮城栄昌
1975[1967] 『沖縄女性史』 沖縄タイムス社.
宮城晴美
1996 「仲地カマド 裁判を起こしたユタ」『日本を彩った女たち 近代沖縄女性史』 外間米子監修・琉球新報社編 pp.87-90 ニライ社.
柳田国男
1980[1969] 「巫女考」『定本柳田國男全集』第九巻, pp.223-301, 筑摩書房.