ドメス出版『都市祝祭の100年』(日本生活学会叢書 第2巻)原稿
沖縄における尾類馬行列の歴史社会学的考察
−<都市祝祭とセクシュアリティ>研究に向けて−
塩月 亮子
はじめに
日本における様々な都市の祭りは、近代化を推進してきた明治から現在に至るまでの約100年間、その規模や担い手、内容にいたるまで、大きく変化を遂げてきたといえる。その多くは、観光化・商業化、あるいは伝統の再認識・再構築などによる従来の祭りの保存や拡大、または市民の交流の場としての新たな祭りの創造の結果、現在活気を呈しているようにみえる。しかしながら、一旦はこのような祭りの復興・拡大の波に乗りながら、再び縮小・中止に追い込まれた祭りもある。それは、セクシュアリティに触れる祭り、端的にいえば、「遊女」のまつりである。本稿では、そのような祭りのひとつである尾類馬行列を事例として取りあげ、なぜこの祭りが中止に至ったかを明らかにしていきたい。
沖縄の三大祭り1)のひとつといわれる尾類馬行列は、もともと沖縄の那覇にある辻遊郭で旧正月の二十日、尾類2)とよばれる遊女たちが着飾って町を練り歩く都市祝祭であった。「馬」といっても本当の馬に乗るのではなく、板で作った馬の首を前帯にはさんで手綱を持ち、華やかな打ち掛けを羽織った女性たちが歌三味線に合わせて「ユイユイユイユイ」と囃しながら行列を作って舞い踊る。この祭りはその起源として王女、あるいは貴女伝説をもち、様々な変遷を経ながらつい最近まで、少なくとも100年以上続けられてきた。しかし、その間コンスタントに祭りが行われてきたのではなく、明治から大正期にかけては公娼制度問題から肩身を狭くして未明にこっそりと行ったり、戦後はアメリカの統治下での娼婦廃止の軍布令や本土復帰後の婦人団体の批判などにより遊女にまつわる祭りとして非難を受け、たびたび中止に追い込まれたりした。
このように、尾類馬行列の祭りは、特に遊女の祭りだったということで、その時代のセクシュアリティに対する言説や態度が密接に絡んでくるという特徴をもつ。そこで、新聞資料を基に、特に変化の激しいと思われる明治から平成(現在)までの100年間にわたる尾類馬行列の歴史的変遷を明らかにし、セクシュアリティと係わる都市祝祭が近代になりどのように統制され、廃止され、復活し、現在は再び中止されているのかを、歴史社会学的に跡づけることを試みたい。
1.琉球王国時代の尾類馬行列
(1)辻の起こりと遊廓
辻は「チージ」といわれ、『琉球国旧記』によると村落ができたのは尚貞王時代の1672年で、当時の摂政向象賢が各地に分散していた遊女を辻と仲島にまとめてそこを遊廓として設置したのが始まりといわれる3)。これより約1世紀前、日本本土では豊臣秀吉の時代にはじめて遊廓(島原遊廓)が創設され4)、16世紀から17世紀は日本で公娼制度が成立した時代といえる。その後、18世紀中頃の尚敬王時代には尾類と士族との間に生まれた子どもは士族の系譜に入れてはならなず、もし破ったら士族の身分を取りあげ百姓にするという令や、士族が尾類になってはならないという令が出され5)、王府が士族と尾類の区別を厳格にしようとしたことがうかがえる。しかしながら、尾類は百姓には禁止されている銀のかんざしをつけてもよいなどの特権もあり、士族階級の男性たちとも関係が深かった。戦前までは尾類は首里や那覇の男性たちの妾(詰尾類;ひとりの男性とのみ関係を持つ意)になったり、結婚式の時に新郎と一緒に寝るニービチジュリ、あるいはミームクジュリとよばれる役目も果たし、馴染みとなればその旦那と生涯関係が続くことも多く、尾類は単なる女郎というより芸妓や妾のようなものでもあり、辻の遊廓は歌舞音曲を楽しむ芸妓家であり娼妓家、料理屋、旅館などを兼ねるところであった。
このような辻は、明治41(1908)年、隣接の遊廓地である渡地6)・仲島との合併がなされるまでは、沖縄の都市にある社交場の中心地として他の2カ所より客層がよく、粋人の行く場所という認識が人々にはあった。その辻の町は畳屋小路(タタンヤスージ)から上の角、森の下小路(ムイノシチャスージ)に至る一本の道路を境にして北が上村渠(ウィンダカリ)、南が前村渠(メーンダカリ)という2地区に分かれている。各々の地区にはウガン所(拝所)があり7)、上村渠は豊作の神であるミルク(弥勒)、前村渠は厄払いの神である獅子を祀ってい8))。これらの神は尾類馬行列の時はそれぞれの地区を守護する神としてその先頭を練り歩くことになる。
(2)祭祀組織と尾類馬行列の起源伝説
辻は他の村落とは異なり血縁関係のない集団からなっている。それは、本土の遊廓とは違い、金城朝永なども「女人政治」として論じているように9)、男性が管理するのではなく女性が一切の権限を持つ集団であった。沖縄各地から農漁村の貧しい娘が「美妓三千人」と謳われた「花ぬ島」(花の島の意で辻のこと)に売られてくると、その子どもと買い主(アンマー;お母さんの意)は擬制的親子関係を結び、買われた少女は性を売る尾類となってドゥシル(身代金)やその他の借金をアンマーに払っていくことになる。尾類が借金を返して自分も抱え子をおけるようになると、今度はアンマーとなって自立していく。これらアンマーのなかで財産もあり人柄など評判の高い50歳前後の者が盛前(ムイメー)としてその上の組織(パーパーとよばれる盛前を勤め終えた元老格の老妓たち)から任命される。盛前の役は年齢に従って姉盛前(シージャムイメー)、妹盛前(ウットゥムイメー)、盛前小(ムイメーグワー)の3階級があり、上村渠と前村渠両地区からそれぞれ3名ずつ、計6名出る10)。この盛前の最も重要な役割は辻に沢山あるウガン所(拝所)を祀ることと、辻の年中行事11)、なかでも旧の正月二十日に催される尾類馬行列を立派に行うことであった。
尾類馬行列の起源として、次のような伝説がある12)。むかし首里の身分ある娘(一説には王女、お姫様)が生活苦により(あるいは中国人と関係を持ち)遊女となって辻で生活をしていた。しかし、なんとかして彼女は遊女という汚れた身でも親兄弟(王たち)に会いたいという切なる願いから、辻の遊女を集めて華やかな尾類馬行列を催し、それを見に来る人々に紛れて親兄弟が自分の姿を見、また自分も彼らの姿を見ることができるようにしたという話である。
中国人に犯されて尾類になったという話も伝わっているように、早くも14世紀から中国と貿易を開始した琉球は、たびたび中国の冊封使を迎え、その接待に尾類もあたっていたといわれる。その後、17世紀に薩摩が中国にかわって琉球を支配下におくと、薩摩の在番奉行をもてなすのに辻遊廓は大きな役割を果たし、単身で赴任してきた薩摩の役人は尾類を現地妻とした。第二次世界大戦終了直後は、辻に料亭などができてアメリカ人の社交場となるなど、辻で働く女性たちはいつの時代も時の権力者である外国人の接待役としての役割も担わされてきた。また、尾類あるいは尾類馬行列を最初に始めたのは、実はウミナイビ(王女)あるいは首里の身分ある娘というように、位の大変高い女性であったという言い伝えも、遊女として社会的に卑しい身分とさげすまれた尾類たちの、穢れているけれども尊くもあるというアンビバレントさ、特殊性を表していると捉えることもできる。
(3)祭りのプロセス
300年の歴史を持つといわれている尾類馬行列は、綱引き、ハーリー(舟漕ぎ競争)と並ぶ沖縄を代表する都市祝祭のひとつとして、琉球王国時代、廃藩置県後、そして第二次世界大戦後も規模や担い手を少しずつ変化させながら継承されてきた。戦前、尾類馬は辻をあげての大きな祭りで、この日は那覇、首里はもちろん、沖縄各地の遠くの村からも大勢の見物人が押し掛けた。日頃は辻に足を踏み入れない女性や子どもも、華やかな行列を見に朝早くから見物に良い場所をとりに行ったという。戦後、尾類馬行列は辻はもちろん那覇市をあげての市民のため、あるいは観光客誘致のための都市祝祭となり、10年ほど前までは年々規模も大きくなり参加者も700人を超え、沢山の人出で賑わっていた。
祭りの歴史的変遷に関する記述は次章で行い、ここでは以前から伝わる尾類馬行列を含む二十日正月(ハチカショイーガチ)のプロセスを紹介する13)。
戦前、旧正月が済むと、辻遊廓は尾類馬の準備で忙しくなった。この日に備えて若い尾類たちは衣装集めに奔走した。旧1月18日に行われる十八夜の観音拝みが済むと、元老たちは盛前宅に集まり、尾類馬行列の花形である馬小(ウマグワー)になる美妓約50名を選出した。これに選ばれることは大変名誉なことで、美人として箔が付いた。行列には辻中の尾類が総出となり、参加しないものには罰金が課されたという。祭りの前夜には盛前宅の門に「辻」と書かれた提灯が灯され、翌日は朝早くから元老たちが盛前宅に集まり商売繁盛と遊廓の発展のお願を行った。その後、みなでお嶽や根所など辻の聖地を拝み、それが済むと午後からは、2地区に分かれた廓中総出の尾類馬行列が守護神を先頭に辻の町を練り歩いた。行列の先頭は「五穀豊穣」「祝豊年」とかいたのぼりを持ち、それに守護神が続き、その前後を紫色のはちまきをしめ盛装した盛前たちが護衛をしながら歩き、その後にお供、太鼓や囃子方、馬小たち、人力車に乗った「王」、各楼の若い尾類がそれぞれの踊りの衣装で舞いながら続き、その両側には盛装した踊らないアンマーたちがついていった。2つの地区の行列は境界の路上で会し、美や技を競い合ったという。なお、仲島と渡地にも盛前制度があり、二十日正月は辻と同様にお願い(祈願)と小規模な尾類馬行列を行っていたとのことである。
2.戦前(明治・大正・昭和初期)の尾類馬行列
ここでは、入手可能な明治期からの新聞資料を基に、尾類馬行列の変遷を大きく戦前と戦後という2つの時期に分け、それぞれの変化の特徴を追った。その際、明治期から今日までの100年余にわたる祭りの挙行の有無や内容の変遷、それらと密接に関連する社会的背景を表にまとめた(表1参照)。新聞は、明治31年の4月からしか現存しておらず、旧暦1月20日は新暦のほぼ2月中旬以降3月上旬までの期間にあたるため、翌年の明治32年から尾類馬行列の記事がないかをさがした。ただし、記事が見つかったのは明治34年からである。明治31年から昭和15年までは「琉球新報」、「沖縄毎日新聞」、「沖縄日報」の3社を調べ14)、その後の昭和23年から現在(平成11年)に至るまでは「沖縄タイムス」と「琉球新報」を調べた(ただし「琉球新報」は昭和30年からしかなかった)。なお、大正7年5月を境に、その後昭和22年までは、沖縄の新聞は残っていないか、たとえあっても断片的にしか残っていないようであることを断っておく。
(1)規模および時間帯の変化
第二次世界大戦前の明治30年代から大正7年までの新聞記事をみると、尾類馬行列はほぼ毎年挙行されていたことがわかる。その間約20年の流れをみると、尾類馬に関する記事が最初に出ている明治33年は、この祭りが次第に廃れていっており、まだ夜が明けない曙近くに小規模に行われていたことがわかる。その翌年も尾類馬行列は中止にして聖地で祈願のみ行うことになりそうだったのが、急遽予定を変更して辻遊廓だけは尾類馬行列を挙行した。当時は不景気で物価高騰も激しく、莫大な費用のかかる尾類馬行列は挙行が困難だったとみることができる。この時期はまた、娼妓取締規則15)に則り若狭病院が設立されて娼妓がみな性病の検査を受けることが義務づけられたため、娼妓の自由廃業も多く、さらに大火16)に見まわれたりコレラが流行するなど、辻町が混乱していたとも考えられる。ちなみに、赤札娼妓とは、性病を治療中で客の相手ができない尾類のことである。
明治36年になると遊廓も繁盛し、尾類馬を挙行することになるが、それでも午前4時から6時頃までというまだ夜の明けぬ未明にこっそりと行っていた。しかし、明治41年、同じく遊廓のあった仲島と渡地が辻に合併されて辻の範囲が広がって以降、尾類馬行列は次第に朝7時に始まって午前9時か10頃に終わるようになり、見物人も大勢集まるようになった。さらに、大正時代になると祭りが始まる時刻が午前11時、終了は午後2時か3時になり、大正6年には行列は午後の2時から5時半頃まで行われるなど、年々祭りの時間帯は遅くにずれ、見物にとっては日の光の下、見物しやすい時刻に変化してきていることがわかる。それと並行し、祭りの規模は大きくなり、見物人も増加して、祭りに賑やかさが増していった。
(2)中止の理由
祭りの挙行は大概が景気に左右されていた。特に砂糖の相場の具合はすぐに辻遊廓に影響するものであったらしい。戦前の新聞記事で尾類馬祭りがはっきりと中止されたことがわかるのは、明治43年と大正2年、大正7年の3回である。最初の明治43年は、不景気も関係してあるパーパー(元老格の老妓)の意見で取りやめとなったが、その後まだ余り日も経たないうちに遊廓の根所とよばれる聖所に黒牛が現れて角を向き、ひと騒動となった。この出来事は祟りであり、黒牛は祭りの中止を怒った神の使いであるという噂が流れ、厄払いのため時期が遅くなったが構わず尾類馬行列を行うべきという意見が出された。それには、祭りの中止を唱えたパーパーがその後すぐ重病になって病床についたことも大いに関係する。翌年、そのパーパーは死亡し、さらに追い打ちをかけるように「今年(明治44年)は祭りを簡素化する」と主張していた老妓も病気になっため、中止された翌年は祟りを恐れてむかし通り華やかに祭りを行ったというのは興味深い。
大正2年の中止に関しては、前年度の明治天皇崩御と不景気が重なって決定された。このような時でも尾類馬行列は中止するが、祭りの最も重要な部分である拝所への祈願の実施は怠らなかったことがわかる。3回目の中止も物価高騰によると説明されており、その後は新聞が現存していないので詳しいことはわからないが、おそらく第二次世界大戦前になると遊廓の粛正強化もなされ、祭りどころではなかったのではないかと推測される。
(3)二十日正月以外の尾類馬の挙行
新聞記事を読むと、明治から大正にかけては、尾類馬行列が辻の二十日正月行事としてだけでなく、色々な祝いの場で目出度さを示すものとして行われていたことがわかる。例えば、明治36年、若狭病院の移転式では尾類馬行列が行われることになっていた。しかし、この場合は「尾類馬を難ず」という記事も出、尾類が辻遊廓の外に出て町を練り歩くのは風紀上よくないとの声が人々からあがったため、結局は中止命令が下った。また、明治38年には日露戦争の祝賀行事として三遊廓が尾類馬行列を11月にも行って、那覇市内を練り歩いたとある。このときは沖縄県知事も殊勝だとして尾類馬行列のために寄付をしている。だが、大正2年に波之上祭りに尾類馬行列を出そうとしたところ、またもや「娼妓が辻から出て町を練り歩くことは風紀上けしからん」ということで、「尾類馬は取りやめて芸妓のみが参加する手踊り行列を催すことになった」という記事もある。第一次世界大戦が始まると、青島要塞祝勝のために臨時尾類馬の挙行が内議されたり、大正4年11月の御大礼記念(京都御所で大正天皇の即位の典の記念)に尾類馬行列を準備したりするなど、伝統的な正月行事を離れて国家的行事に沖縄の伝統的都市祝祭である尾類馬行列が係わるようになってきたことがうかがえる。
3.戦後(昭和後期・平成)の尾類馬行列
(1)祭りの復活
第二次世界大戦中の昭和19年、辻の町は米軍による那覇大空襲によって全焼し、遊廓も消滅した。終戦後しばらくはみな生きていくことに必死で、祭りを行なう余裕などない時期が続いた。ようやく戦後8年ほど経った昭和28年、もと尾類で戦後は料亭松の下を創設した上原栄子氏を中心として、辻の尾類馬行列が復活した。その時の状況は彼女の著書『辻の華 戦後篇』(1989)に詳しいが、彼女は「復活させるからには那覇の三大行事のひとつである尾類馬を古式通り復興させて辻をはじめ那覇市の歴史の再開を目指すこと」と元老たちから言われ、地域社会に報恩する気持ちで行ったという17)。当日は、沖縄の人をはじめ、米軍基地からは米兵も見物に来て大いに賑わった。また、同日、戦後しばらく米軍基地の街として栄えていたコザでも尾類馬行列を行ったと新聞記事にあり(コザでは既にその前年には尾類馬を復活させている)、これは辻の尾類馬が辻以外でも模倣された最初の例といえる。
戦後に復活した辻の尾類馬行列をみていくと、復活後昭和63年までは時々中止になりながらも、概ね続けられてきたことがわかる。この流れは大きく3つの時期に分けられる。まず復活の第一期は、アメリカ占領下において、料亭やバー組合など辻にゆかりのある人々がもう一度辻の二十日正月行事を復興させようとした時期である。復活第二期は、昭和43年から本土復帰直後までの約7年間で、主催者が料亭から辻町自治会というより公的な機関に移された時期である。第三期は、数年の中止を経て那覇市や市の観光局など行政が那覇市民の祭りとして支援をし、再度大々的に復活させた時期である。
主催者、すなわち祭りの担い手が変化するごとに、当然ながら祭りの意味づけが変化し、それに合わせて祭りの時間帯や規模などが悉く変化していく。最初の復活時期、主催者が辻の料亭を中心とした那覇料理店組合やバー組合、ホテル組合だった時には、尾類馬行列は旧1月20日、午前中に祈願が行われた後の1時か2時頃から始められ、夕方から夜にかけては劇団による余興が行われていた。この時期、祭りの参加者や見物人は年々増加していき、昭和40年には1万人以上の人出となったとある。第二期の始まりである昭和43年には、主催者が料亭から辻町自治会に移行し、翌昭和44年には沖縄観光連盟も共催となって「春の沖縄観光祭り」の一環として尾類馬行列が行われることになり、このとき戦後はじめて尾類馬が辻外の那覇市内を練り歩いた。この復活第二期、尾類馬行列は次第に都市の観光イベントとして人々の注目を集めるようになったが、その後予算不足で昭和50年から3年間中止となる。そして昭和53年、那覇市が市の観光客誘致政策として尾類馬行列を辻から那覇市全体の祭りである「舞踏カーニバル」として新たに位置づけたため、市の援助を受けた尾類馬行列は、辻自治会じゅり馬実行委員会主催により華々しく復活した。そのうち、辻の拝所の祈願は従来通り旧の1月20日に行われたが、尾類馬行列の方はより多くの観光客を呼び込むため、開催日が旧の1月20日後の最初の日曜日に変更され、行列開始時間も次第に3時過ぎと遅めになるなど、挙行日と挙行時間帯に変化がみられるようになった。この時期、祭りには婦人会をはじめ子供会、老人クラブ、青年会、OL、鼓笛隊など常時数百人が参加し、最盛時には参加者が700人を超えたこともあった。それに伴い見物人も年々増加し、昭和54年には延べ3万人の人出と報告された。さらに、前夜祭や後夜祭も行われるなど、祭りの規模は次第に拡大していった。また、昭和50年代はじめには、祭りの意義は観光客の誘致を目指す観光産業振興であったが、昭和55年頃には伝統行事の保存も開催理由としてあげられるようになり、さらに昭和60年代に入ると、尾類馬行列は地域住民の祭りとして地域の活性化と市民の融和をその目的として行うことが那覇市により提唱され、この祭りは那覇市三大祭りのひとつとして人々の間に定着していった。
(2)祭りの中止
戦後、辻の関係者がお願の阪(ウガンヌヒラ)を中心にお嶽、お願所、火の神、お墓(辻開祖の3人のウミナイビの墓)を復元し、昭和28年には尾類馬行列も復活させ、それが次第に辻を超えた市全体の祭りとして行政のバックアップを得て次第に大規模な行事として定着していったのに、なぜ平成になってからまた中止され、現在もその状態が続いているのだろうか。このことを論じる祭、戦後この祭りが復活してからおおよそ3回中止された経緯をそれぞれ検討することが必要となるだろう。まず、戦後になって祭り復活後に再び中止となった最初の時期は、昭和30年から31年にかけてである。これは、まだ当時アメリカの占領下にあった沖縄では、アメリカが軍布令を出したため戦後は売春が禁止されて娼婦がいなくなったとされ、売春に関係のある行事は廃止となったことによるようだ。しかし、このようなアメリカによる禁止もその数年後には効力がなくなり、またすぐ尾類馬行列は復活した。このような「売春禁止なのでそれと関連する尾類馬行列を廃止する」という言説は、このちょうどこの30年後、今度はアメリカ人からではなく自分たち自身のなかから再び唱えられるようになるのである。
第2回目の中止時期は昭和50年から52年の3年間と、それ以前の昭和48年である。これらはみな、予算不足と人手不足により中止されている。この時期は本土復帰直後ということもあり、県や那覇市もまだ補助をしない状態だったので、やむなく中止となったとある。その後、昭和53年には観光資源になるとして那覇市が援助した結果、市民の祭りとして尾類馬行列は新たに復活したのであるが、年々どんどん賑々しく行われていったにもかかわらず、平成1年、祭りは突然中止となった。これが祭り中止の第3回目である。そのきっかけは、女性団体や学校関係者などが「尾類馬行列は尾類という公娼制度の名残であり、その祭りを行うことは売買春のPRである」という反対の声をあげたからである。それに答え、祭りの主催者側は昭和62年から尾類馬行列という祭りの名称を「那覇旧二十日正月祭り」に変更し、その翌年の昭和63年まで祭りを挙行したが、その次の年の平成1年からは、市民の参加や寄付が少なくなったことを理由に中止している。この中止の背景には、「行政が売春に係わる行事を文化としてバックアップしてもいいのか」という女性団体等の非難を受け、那覇市が援助を取りやめて費用が不足したことも大きいといえる。
4.復活と中止をめぐる言説の考察
本稿では、明治から平成(現在)までの100年間にわたる尾類馬行列の歴史的変遷を新聞資料からたどってみた。その結果、戦前は祟りを恐れるなどの理由から、祭りはほ毎年行われていたことがわかった。たまに中止するときも、その理由は不景気など経済的なものだった。しかし、戦後は予算不足の他に、アメリカ統治下と平成前後の時期に「遊女の祭りだからよくない」とする女性の人権からみた批判が出て中止になったことがわかった。尾類馬行列は遊女の祭りだったということで、その時代のセクシュアリティに対する言説や態度がその挙行の有無に密接に関連し、それにより戦後はたびたび中止を余儀なくされてきたといえる。
このことには、遊女に対する穢れ観も関係してくるだろう。明治30年代、尾類馬行列は遊廓の祭りとして辻の中で未明のうちに密かに行われていたが、次第に時間帯が遅くなり、日が出てから見物人を前に盛大に行われるように推移していった。しかし、それでもなお一貫して遊女の穢れが問題視され、戦前はもちろん戦後のある時期まで祭りは辻の外には通常は出られなかった。しかし、これには例外があった。それは、戦前、本来の行事ではなく戦争の祝賀などで臨時に祭りを挙行したときと、戦後、辻の範囲を超えた那覇市民の祭りとして新たにこの祭りが位置づけられたときである。このようなときは、戦前戦後に関係なく辻外を練り歩くことが許された。現在でも、辻では旧来の祭りとしての尾類馬行列は中止されたままだが、何か別の催し物や祭りが那覇などの都市で開催されると、他地域の婦人会などは尾類馬行列を行うという18)。これは、尾類馬行列の臨時的な催しと捉えることができ、辻の伝統とされた尾類馬行列が他のグループに模倣され、辻の共同体を超えて普及していくことを表している。戦後のコザにおける尾類馬復活もその一例といえる。
従って、もし尾類馬行列が尾類という女性蔑視の文化を超えて存続していこうとするなら、本来の辻という共同体を超えた広がりのある新たな祭りとして尾類馬行列を位置づけ直していく必要があるかもしれない。都市祝祭は@従来の祭りの意味を離れ、A従来の共同体を超え、Bあらゆる場所であらゆる機会に行われ、C他地域や他団体に模倣されるという特色をもつと考えるならば19)、現在の様子から、この尾類馬行列も十分に都市祝祭として成り立ってきたということができる。
戦後の尾類馬行列に関する復活と中止をめぐる言説の分析を進めていくと、復活派の「尾類馬行列挙行は観光振興・伝統保存・市民の融合・地域活性化に繋がる」という主張には、市民や地域を重視するというモダン的発想と、自分たちのアイデンティティを表すものとして伝統行事を観光というかたちで復活し、保存継承していくというポストモダン的発想の両方がそのなかにあることがわかってくる。一方中止派においては、「祭りの存続は公娼制度の復活となる」という極めてモダン的発想がその発言の基底にあることがうかがえる。このような中止派の発想は、実はフーコーが批判した近代における性の特権化、すなわち性だけが特殊化されて人格と結びつけられるという考えに陥っているともとれる20)。なぜなら、以前の辻遊廓には歌舞や音楽、料理、酒など相手を歓待する沢山の技術、あるいは「性愛の術」(ars erotica)のうちのひとつとして性行為があったと考えられるのであり、戦後は芸や料理といった性のまわりに付随したものをすべて取り払って性だけを特権化したため、かえって性をめぐる文化が貧しくなったと考えられるからである。筆者はなにも公娼制度を賛美するつもりはないが、中止派は尾類の性の部分のみを特権化して問題を論じているきらいがあるといえるのではないだろうか。そして、こうした良心や良識を代表する世論というものもまた、フーコーのいうミクロな権力として祭りを中止する力を発揮すると捉えられるのである。このように、尾類馬行列の挙行をめぐる言説を考察することは、現在の沖縄がいかにモダンとポストモダン的考え方のはざまで葛藤を起こしているかを明らかにするのである。
おわりに
これまで、沖縄の都市祝祭である尾類馬行列の歴史的変遷を100年間にわたり考察してきた。その焦点は尾類馬行列といういわば祭りにとっては「俗」な部分にあった。しかし、この祭りの核にあたる部分は辻の開祖や神を祀り、辻のさらなる発展・繁盛を願う神事であり、それは行列の中止や復活にかかわらずいつも続いていた。この祭りは、従来のように地域共同体内のみで行われるなら、神事という「聖」の側面だけに縮小され継承されていくのかもしれない。しかし、都市の祝祭においては重要な要素となる「俗」、すなわち宗教的意味から離れた「お祭り」である尾類馬行列に関しては、「俗」なるがゆえに時代により異なった意味が付加され、担い手も変化し、復活したり中止したりとめまぐるしく変化していく可能性が高い。さらに、「俗」なる祭りがセクシュアリティと結びつくと、それをめぐる言説はなおさら混乱を極めると予想される。
現在、辻における尾類馬行列は中止されたままだが、今また辻町自治会などでは祭りの復活を望む声も聞かれる。復活派と中止派がさらにどのような言説を展開していくのか、それを詳細に分析して<都市祝祭とセクシュアリティ>に関する研究をより深めていくことが、今後の課題となるだろう。
付記)本論文を書くにあたり、和崎春日先生をはじめ、渋谷美芽氏、蛭川立氏、森田真也氏、谷部真吾氏から多大な協力を賜りました。ここに心より感謝の意を表します。
註
1)三大祭りとは、5月のハーリー(舟漕ぎ競争)、10月の大綱引き(那覇祭り)、そして2月の「尾類馬行列(尾類馬祭り)」を指す。
2)「尾類」という言葉は「女郎」が変化したものという説もあるが(折口 1966:64)、なぜ遊女のことを「ズリ」あるいは「ジュリ」とよぶかは不明。なお、「尾類」の字も漢字自体には意味がなく、単なる当て字という説がある(金城 1969:131)。
3)『琉球資料叢書』第三巻の「琉球国旧記」による。
4)『辻情史』p.53, 『琉球花街 辻情話史集』p.13
5)『那覇市史 資料篇 那覇の民俗』第2巻中の7、p.144
6)渡地遊廓の創設については不明。
7)上村渠の守護神は獅子「ウシーシ」で、拝所には、志良堂お嶽(唐旅の航海安全祈願所)、海蔵院(辻の開祖といわれるウミナイビ【王女】3人の位牌あり)、御願の阪(ウガンヌヒラ;辻発祥の地といわれ、現在はここが拝所の中心。ここにチージ全体の火の神がある)、真茅御殿(マカヤウドン、ウミナイビが住んでいた家)、井戸(ウミナイビが使ったカー)、チージの軸(辻を創った向象賢へのご恩報じのお願所で首里や普天間へのお通し)、お墓(辻遊廓開祖の墓と彫られた3基の石碑で近年貸座敷組合が開祖の遺骨を集めて作ったもの)、根所(第一太平楽のところで辻ができた頃の有力者の家)などがある。一方、前村渠の守護神はミルク(弥勒)であり、拝所にはシーサーヤーのお嶽、クバチカサのお嶽、根所(春風楼)などがあり、盛前(ムイメー)はこれら沢山の聖地を拝まなければならなかった。
8)『那覇市史 資料篇 那覇の民俗』によると、獅子や弥勒を祀るようになったのは廃藩置県前後からとのことである(1979:130)。
9)金城 1969:137。
10)『那覇市史 資料篇 那覇の民俗』p.20
11)辻の年中行事はほとんど神事であり、その主だった行事には以下のようなものがある(尾類馬行列の行われる二十日正月は除く)。
・初拝み、ヒーマチーのお願・・・旧1月13日頃正月の初拝みとヒーマチー(火災よけ) のお願を行う
・十八夜の拝み・・・旧1月18日、首里観音堂や海蔵院、志良堂のお嶽などで拝む
・屋敷のお願・・・旧2月15日以内に日を選び屋敷のお願をする
・清明祭・・・清明の節に入った初日、重箱にご馳走を詰めて御願の阪のウミナイビの墓 前で行う
・ヒーマチーの拝み、観音拝み・・・旧の5月の吉日に行う
・八月十五夜の月見
・ヒーマチーの拝み・・・旧9月13日以内の吉日に首里の観音道や御嶽を拝む
・チジワタイ・・・旧10月1日に、守護神や尾類馬の衣装など祭りの諸道具を新任者の 家に運び、前盛宅で前盛の新旧交代の儀式を行う
・普天間拝み・・・旧10月の吉日を選んで普天間宮とお寺を拝みに行く
・子(ね)の拝み・・・旧11月初めの子の日に向象賢がはじめて辻を設置したご恩報じ のお願をする
・お願ぶとち・・・旧12月20日以内の吉日を選んで一年間のご恩返しと辻の繁栄を願う
12)船越 p.26-27, 『辻情話史集』p.104
13)『那覇市史 資料篇 那覇の民俗』p.137-138
14)その際、『沖縄の遊廓−新聞資料集成−』(1984)も参照した。
15)明治33年には「娼妓取締規則」、明治43年には「貸座敷営業取締規則」、昭和3年「芸妓酌婦並芸妓置屋営業取締規則」が出され、娼妓は様々な拘束や義務が課されることとなった。そのひとつには、例えば尾類は自由に廓の外に出てはいけないという規則があった。廓外禁止は琉球王国時代にもあったことで、歴代の王府は尾類の外出禁止令を頻繁に出して他地域との隔離政策を行ていたが、廃藩置県以後もそれは続いた。また、娼妓である尾類は登録証(鑑札)が交付され、それをいつも携帯していなければならなかった。取締には警察が積極的に介入し、昭和8年まで許可がないと辻の外には出られなかった。また、廃藩置県後は13歳になると酌婦税、17以上は娼妓税、アンマーになると貸し屋敷税がそれぞれ課された。
16)その後、大正8年にも大火があり、辻村の大半が焼けた。それをきっかけに古い屋号が変わった。
17)上原 1989:93-97
18)現在、那覇のパレット久茂地をはじめ、首里城や名護でも辻とは関係なく尾類馬行列が行われている。
19)これらの特色に関連して、都市祭礼の動態性に注目した和崎春日は、祭礼の参加者が多種多様であったり、広い都市の民俗を祭礼に多様に取り込んでいくなど、都市祭礼は閉鎖性とともに多様性や解放性も包摂していると指摘している(1987:38-42,227-232)。また、祝祭の現代的変化に着目した松平誠は、伝統的共同認知とは無縁の、自由に選べる縁である「縁のネットワーク」を単位とした開放的な祝祭(「開放系祝祭」あるいは「合衆型祝祭」)が、現代祝祭のきわだった特徴と述べている(1990:343-347)。さらに同氏は、新たな都市祝祭として、関東の高円寺における阿波踊りを調査した結果、それが核分裂をくりかえし、多重化していくことによって他地域にもその外延を拡大していくという、都市祝祭の解放性・増殖性についても論じている(1990:299)。
20)フーコー 1986 :157
参考文献
M.フーコー 1986[1976] 『性の歴史T 知への意志』 渡辺守章訳 新潮社.
船越義彰 1992 「亀は翔んだ−上原栄子さんの想い出−」pp.22-28 『脈 特集 上原栄子(辻の文化)』第45号
伊波普猷・東恩納寛惇・横山重編纂 1941『琉球史叢書』第3巻 名取書店.
神山邦彦 1966 『辻情史』神山青巧舎.
金城朝永 1969[1933] 「異態習俗考」『沖縄女性物語』pp.109-156 風土記社.
来和雀・渡嘉敷錦水 1973[1934]『琉球花街 辻情話史集』集大成版 沖縄郷土文化研究会.
松平 誠 1990 『都市祝祭の社会学』 有斐閣.
那覇市企画部市史編集室編 1979 『那覇市史 資料篇 那覇の民俗』第2巻中の7.
折口信夫 1966 『折口信夫全集』第8巻 中央公論社.
太田良博・佐久田繁編 1984『沖縄の遊廓−新聞資料集成−』月刊沖縄社.
上原栄子 1989 『辻の華−戦後篇』下巻 時事通信社.
和崎春日 1987 『左大文字の都市人類学』 弘文堂.