聖なる狂気−沖縄シャマニズムにおける憑依現象−
塩月 亮子
はじめに
沖縄では、気が狂うことをフリユンといい、狂人をフラーやフリムン(何かに触れた者)、あるいはターリングヮー、ターリムン(何かが垂れた者)とよぶ。このような言葉は精神異常者として気が触れた者や、その派生として、いわゆる馬鹿や不良という、より広範囲な否定的意味で用いられることが多い。しかし、その触れるものや垂れる(憑依する)ものが人々によりいったん<神>と認識されると、それはカミブリ(神触れ)やカミダーリ(神垂れ)といわれ、カミンチュ(1)(神人、祭司)やユタ(2)(シャマン)など、宗教的職能者になるときに起こる神聖な憑依現象とみなされる。
だが一方で、このような<神聖な狂気>は、近代化を推進する権力者側には弾圧すべきものとして捉えられてきた。特に、系譜よりもその憑依能力を重視されたユタは、17世紀の琉球王朝時代から今日に至るまで、時の為政者や警察権力、新聞から厳しい弾圧を受けてきた。なぜなら、<聖なる狂気>は、それがもつカリスマ性と統御不可能性により、為政者を脅かす危険な力とみなされてきたからである。このような弾圧に対するユタの対処法は、成立宗教や民間信仰、科学用語などあらゆる手近な要素を組み合わせて柔軟に世界観を構築し、クライアントの支持を得るという、<ブリコラージュ的戦術>であった。この戦術が効を奏してか、沖縄ではいまでもユタの需要が衰えることなく、<医者半分ユタ半分>、すなわちクライアントは癒しと救いを求め、症状によっては西洋近代医学を修めた医者のところにも、シャマンであるユタのところにも両方行くという、近代と伝統の共存状況がみられるのである。
本稿では、以上のような、沖縄における<聖なる狂気>としての憑依現象に着目し、現地調査で収集した事例をはじめ、明治期以降のユタ弾圧の新聞記事や沖縄の精神病院史に関する資料を基に、フーコーが明らかにしたような近代において狂気が隔離・監禁・排除されていくという見方(3)に対し、それとは異なる狂気の歴史が沖縄にはあり、それが癒しや救いと繋がっているではないかということを示していきたい。
一 沖縄におけるシャマンの憑依体験
前述したように、フリムン(触れ者)のなかでも、神に触れた者はカミブリ(神触れ)、ターリムン(垂れ者)のなかでも、神が降りた者はカミダーリ(神垂れ)をしたといわれ、それはカミンチュやユタなど宗教的職能者になるために必要不可欠な憑依体験、すなわち巫病として肯定的に捉えられている。筆者が一○数年前から調査をしている沖縄本島北部のある村落は、ユタを多く輩出する地域のひとつといわれるが(4)、ここで得たユタの巫病体験を、ライフヒストリーに沿って数例挙げてみる。
事例1 T・M(明治二六年生まれ、女性)
一七、八歳までは普通の人と同じで、結婚はしていなかったが、三、四名の子供がいた。だが、二七、八歳で子どもたちを相次いで亡くし、その時、天から白髭の人が降りてきて「自分の言うことをきかないのか。」と言って杖で突かれた。それ以後おかしくなってニーヤー(根家)やアサギ(お宮)に行って大声で歌を歌ったりなどの奇行を重ねた。それから一年後、親戚に「三日たってから自分を捜せ。」と言い残して家を出、名護へ行った。名護に着いた後、そこで天理教と出会い、心の落着きを取り戻した。ちょうど、約束の三日がたったということて、明日から捜そうと親戚が集まったとき、天埋教の人たち二名を連れて(自分の家に)帰ってきた。その二名の女性は、「この人はタダビト(ただの人)ではないから。」と説明し、それから神の道を勉強して自分の生まれ年の観音様を拝み、三○余歳から人助け(ユタ)を始めた。その後三七から四○歳の時には娘二人にも恵まれ、この村の神人の大半を選出したりして、ユタとしても有名になり、クライアントは速く那覇からも来た。九○歳頃までユタを続けた。
事例2 N・K(昭和七年生まれ、女性)
四歳の時父親を鉱山の事故で亡くし、その後、恩納村に再婚した母親も第二次世界大戦で亡くし、親がいなかったので祖父母に育てられた。四歳からユタなどに普通の子ではないと言われていたが、一三歳で神の印が出、二○歳で村のカミングヮー(神人、祭司)としてアサギ(お宮)に座った。その後、カミダーリがひどくなり、それから二○年間は、学校の校長だった夫は教え子と一緒になり自分を捨て、また一人娘には三歳から小四までの間、神がひっかかって神の言葉を話すなど、悲惨な状況だった。自分も痩せ細って苦しんで、お金もなく、備瀬の共同売店に二○年勤めたが、止めて那覇に行って易者に占ってもらい、自分も拝む人(ユタ)になろうと決心した。若い頃は髪を長くしており、朝から洗い髪をしてそれを結んで裾まで垂らし、白い布の上に東を向いて座っていた。すると、髪に霊感がずっと降りてきた。ある日、海から世界を照らす太陽である金の玉が流れてきて、それを拾った夢を見た。それから現在信仰しているリュウグ(龍宮)の神、別名スク神から語りが入るようになった。三五歳の時初めて占い師(ユタ)として出たが、それ以来、娘はすっかり治った。
事例3 T・A(昭和一三年生まれ、女性)
幼少時、体は健康だったが顔に異常があたったため、親がいじめられると思い小学校に行かせてもらえなかった。だから字が読めない。一五歳位から暗い所にいろんなものが見えた。カミダーリは三七、八年前、普天間でバスに乗っていて突然起こり、はずし方が分らなくて大変だった。そのとき、神がお盆前で生まれ故郷のことを知らせてきたので、苦しく不安な気持ちがした。結婚は二回した。二度目の夫とこの村に引っ越してきたら神が憑き始めたので、千手観音を祀って拝み(ユタ)をするようになった。神は夢でいろいろなことを教えてくれる。
事例4 T・C(大正八年生まれ、女性)
独身で、娘が二人いる。幼少から具合が悪く門中ウクリー(父系親族組織の祭司)といわれていたが、門中の拝みを始めたのは昭和三○年から。一八、九歳の時は大阪にいたが体調が思わしくなく、昭和一四年、沖縄に帰ってきた。戦争中は二四、五歳で古仁屋湾で軍の炊事係りをやっていた。カミダーリには三○歳をこえてからなり、夜はうなされて眠れず、昼は箒を持って踊ったり、大声て歌いながら泣き続けたりした。四○歳の時、あるユタが祈願してくれ、毎朝ヒヌカン(火の神)を拝むようになって一時具合が良くなったこともあった。しかし、五○代までは生活のためパイン工場をはじめ、工事の仕事や農業等をおこなっていて、その間どんどん病気をして痩せた。六八、九歳になり、畑仕事をしていて体調が悪く、病院に行ったりしてもう自分の命が危ないと思っていた頃、ある朝、神棚のある一番座で二人の女神が自分の前に座った。後で考えると、一人はヒヌカン(火の神)で体を助けてくれた神、もう一人はクニムトゥ(国元、お宮の神様)で、シニグ(海神祭)の時の歌を教え徳をくれた神だった。それ以前にも、白分は頼まれたらウグヮンムチ(御願持ち、儀礼)をしてあげていたが、この二人の神を見てノロ(村落最高女性祭司)にも相談し、人を助ける決心をしてユタになった。
事例5 A・T(昭和五年生まれ、女性)
三○年程前からカミダーリがひどかったが、子供が六人もいて皆小さかったので(ユタとして)出なかったところ、子供のうち一人が三回も車にひかれ、夫は三八歳で病死した。カミダーリ中の三ケ月間は水しか飲めず、夫も病院にいて貧しさに苦しんだ。このとき歌を歌ったり、神様がかかってきていろんなことを言わせた。それから三年間、病気で入院した。三○年前に門中(父系親族組織)が集まり相談した結果、門中ウクリー(父系親族組織の祭司)として出て門中の繁栄を拝んでいたが、神から「村の道開き(村全体の拝み)をしなさい。」と言われ、村行事にも参加するようになった。最近ようやく子どもも結婚し、「神の布を櫛でさばけ(祖先を正せ)。」という神の教えがあったため、観音を飾り、ユタを始めた。
以上の事例から、ユタの多くが子どもを亡くしたり、家が貧乏になるなどの不幸を契機として、神が憑依して踊り狂ったり、神の言葉を話したり、神の声や姿を見聞きするなどのカミダーリを体験したことがわかる。彼女たちは、水さえも取れない状態で、痩せ細って意識が朦朧とし、その間に神の教えを聞いたり聖地や地獄を見せられるなどの経験もしている(5)。そのような状態になると、彼女たちはユタに相談に行き、ハンジ(判示、託宜)をしてもらう。そして自分もユタになる決心をして、健康や家庭的幸福を取り戻すのである。
このような成巫過程での憑依とは違い、一人前のユタとしてクライアントにハンジ(判示、託宜)を出すことが職業となると、それまで自分でも統御できなかった激烈な憑依は、必要なときにのみ体験できるよう統御されるようになる。あるいは、憑依を統御する力がなければ、ユタとして活躍できないともいえる。ユタは、ハンジ中に神や死者が憑依することでクライアントの依頼に答えることもあるが、それよりも自宅の神棚に線香をともし、心で神を念じることによって霊感を得てハンジを行う方が多くなるのである。
二 憑依に対する弾圧史
前節の事例からもわかるように、憑依中、人は日常とは異なる精神状態となるのであって、それを神聖視して肯定すること自体、個人の一貫性や日常的意識状態を保持することで社会的秩序を維持しようとする権力者を脅かすこととなる。特に、憑依能力が系譜の正統性よりも評価されてきたユタは、琉球王府や明治政府などから公認される形をとって為政者側により統御されてきたカミンチュ(神人、村落祭司)たちと較べると、近世や近代において厳しく弾圧され続けてきた(6)。ただし、カミダーリ(カミブリ)をはじめとする一連の憑依現象は、沖縄ではいわゆる西洋近代的な「病気」とはみなされなかったことには注意しなければならない。憑依をおこなうユタを弾圧するのは、時の為政者や警察権力であったり、新聞や世論であったりした。これらはみな、いわゆる「近代化」を押し進める側であった。
ユタは、嘘をつき人を騙すといわれ、差別される対象として長らく社会の底辺に位置づけられてきた。このような見方は、近世(薩摩の侵入した一六○九年)以降、沖縄の「近代」的な政策が始まったことに端を発すると考えられる。一七世紀の政治家、向象賢(羽地朝秀)が発布した文書『羽地仕置』には、政治改革の妨げとして沖縄史上はじめて巫女の統制、禁止が登場する(7)。その後、一八世紀の代表的な政治家、蔡温も向象賢の政策を継承し、ユタに関する厳重な取締りをおこなった(8)。
明治になって廃藩置県がなされ、琉球王府時代が終焉を迎えた後も、王府時代の政策は明治政府により受け継がれ、ユタに対する統制・弾圧政策はますます強化されていく。また、明治政府のこのような態度に影響を受けた新聞も、明治三○年代の初刊以来、ことあるごとにユタの取締りの強化を世間に訴えた(9)。当時、ユタをめぐる弾圧行為は、沖縄の日本への同化政策と、戦時下の思想統制という時代背景からおこなわれ、ユタは日本の近代化を阻む遅れた旧慣であり、風俗を乱し流言飛語をとばす反国家的な者として厳しく取り締まられた。
明治期以降、第二次世界大戦終了までのユタ弾圧の歴史を、大橋英寿は@一九世紀末、知事の通達や間切・村の内法にもりこまれたユタ禁止、A二○世紀初頭、大正初年の近代化推進下での「ユタ征伐」、B昭和一○年代、戦時体制下の「ユタ狩り」という三つの時代に区分している(10)。この区分に沿って、ユタの弾圧の状況をもう少し詳しくみていくことにする(表1参照)。廃藩置県から二年後の一八八一(明治一四)年、二代目県令となった上杉茂憲は、旧慣温存下の初期県政のもと、琉球王府の方針を踏襲した巫覡禁止を間切(現在の町や村)や村(現在の集落)役場へ通達し、それが間切村内法にもりこまれた(11)。その後、新聞が沖縄で発刊されてからは、風俗を乱し財産を貪取するという理由から、ユタを非難する記事がたびたび掲載されることになる。大正時代に入ると、一九一三(大正二)年の辻の大火を契機に、流言飛語をとばすものとしてユタの検挙・裁判が集中しておこなわれるようになった。その影響で、ユタ禁圧は首里や那覇に限らず地方でも徹底されることとなり、新聞紙上でも五年間断続的なユタ征伐キャンペーンがなされ、ユタ全滅が唱えられた。例えば、同年二月二○日の琉球新報の記事には、「ユタの首魁捕はる」という見出しで「流言浮説の醸生者にして区内頑迷婦人の間に魔力を張り、意外の甘汁を吸ふて空嘘ぶいて居たユタの首魁たる区内字東一七○七仲地カマド(四四)は昨日遂に那覇署の手に捕縛され警察犯處罰令により二十日の拘留に處せられたり[後略]」と書かれ、仲地カマドというユタが捕縛されたことが報じられている。彼女はこれを不服として後に弁護士をつけて裁判を二度起こしたが、いずれも有罪判決となった(12)。この事件を皮切りに、他のユタたちも次々と警察によって捕縛され、拘留処分を受けることとなった。こうして毎日のようにユタの捕縛や拘留、裁判のことが紙面を賑わせるようになり、同年二月二五日の記事の見出し「ユタの捕縛−ユタ類全滅の方針−」にみられるように、新聞はユタの勢力は侮るべからざるもので、迷信は県民の恥辱であり、打破されなけねばならないという理由から、警察によるユタ征伐に積極的に協力していった。そして、一九一七(大正六)年二月一○日の記事では、あるユタが信徒から恐喝的に神社建立費用を集金したという理由により検挙されたことを報じたり、その翌年の一九一八(大正七)年二月七日の記事では、沖縄婦人のユタ道楽を非難し、今やユタ撲滅が急務であり、警察でもユタ検挙に努力せよといったことを唱えたりしている。これらの記事から、大正時代には次第にユタへの刑罰が重くなり、それに従って新聞によるユタ弾圧の声も日増しに強くなっていったことが読みとれる。
大正後半期の新聞には、ユタに関する記事はあまり掲載されていないが、昭和一○年代になると、ユタは再び糾弾される対象として現れてくる。明治・大正期、ユタは沖縄の近代化、日本への同化政策を妨げる者として弾圧されたが、昭和になるとそれは戦争に向けて政府がおこなう宗教統制や世論統一、情報操作を邪魔する者として、内務省の特高警察により以前にもまして厳しく処分されるようになった。この時代、ユタの弾圧は「ユタ狩り」とよばれ、それは従来の県の範囲から国家的範囲での弾圧・統制への移行を意味していた。当時の大阪朝日新聞(鹿児島・沖縄版)の記事をみると、例えば一九三六(昭和一一)年、「邪教ユタを厳重取締る−横田沖縄特高課長語る−」という見出しで、「[前略]本県関係の分として邪教取締に関連しユタ取締を答申したところ、内務省の諒解を得たので、今後は従来の手温い方針を変へ、濫りに吉凶を占い、神をかつぎ出す本県特有の邪教ユタ取締を一層徹底させることとなった[後略]」とあり、ユタは他の新宗教同様、邪教として内務省の了解で容赦なく弾圧されることとなる。それは、数年後の一九三九(昭和一四)年四月一一日の「出鱈目なユタ−沖縄各署で処分−」という記事で、「沖縄県特高課が先月十七日未明、県下各署に手配、寝込みを襲って槍玉に挙げたユタ(巫子)は男女合せて百五十二名[後略]」という内容からもわかるように、大規模な弾圧となっていった。そして、密告などで検挙されたユタの多くは、徴兵推進を妨害し、デマを飛ばす反国分子として拘留され、あるいは罰金を払い訓戒を受けたりした。このように、戦時下では、ユタはいたずらに社会を動揺・混乱させ、体制を崩壊させる者として、国家から危険視されたのである(13)。
では、戦前、ユタはなぜこれほどまでに為政者から弾圧されなければならなかったのか。ユタは、時の権力者を飛び越して己の信じる神を信奉し、その神の言うことにのみ従うという傾向がある。それは、われわれが普段一般良識として了解している「この世」の理論を超越した、神や先祖を含めた「あの世」的な理論にユタが従うということである。ユタは「あの世」的な視点から、権力者が用意した「この世」的な価値観や制度に縛られることなく自由に発言・行動する。それゆえ、ユタは既存の社会体制や秩序を混乱・崩壊させる恐れがあるのであり、このことが時の権力者をして厳しい弾圧・統制に走らせたと捉えることができる(14)。
三 ユタの<ブリコラージュ的戦術>
以上のような弾圧に対するユタの生き残りの方法は、ひとことでいえば<ブリコラージュ的戦術>であろう。ここでいう「戦術」とは、ミシェル・ド・セルトーのいう「戦術」
を指す。彼は、「戦略」が「意志と権力の主体(所有者、企業、都市、学術制度など)が周囲の「環境」から身をひきはなし、独立を保ってはじめて可能になるような力関係の計算のこと」であるのに対し、「戦術」とは「相手の全体を見おさめ、自分とは区別できるような境界線があるわけでもないのに、計算をはかること」であり、それは自分の外にある力をたえず利用するという弱者の知恵であるという(15)。
これまで、沖縄の民俗宗教の特徴はシンクレティズムであるといわれてきた。ユタも仏教や神道、キリスト教という成立宗教をはじめ、水子供養など本土の民間信仰まで取り入れながら、個人の占いや病気治療、口寄せなどをおこなってきた。それに加え、現在は、ユタの宗教的世界観の語りのなかで、科学的用語の使用が顕著になってきている(16)。これは、成立宗教もさることながら、いま最も権威的とされていることが「科学」であり、われわれの間に科学信奉がいきわたったため、その権威を拒絶せずに活用するという「戦術」をユタたちがとったとみなすことができる。次の事例は、ユタがどのような説明をおこなっているかを示すものである。
・「女は染色体を四八持っているが、男は四七でひとつぬけているので、女は強い。だから女は神に近く、子どもを産み、亭主をよくする。」
・「キジムナーやカッパは人間の電磁波が弱いところでは物質化できたので昔は見えた。でも、いまは人口が増えて人間の電磁波が強くなったので見えなくなった。」
・「果物などお盆の供物はその微粒子・元素を(先祖が)持っていって、向こうでコピーし直す。微粒子があの世では大切。」
・「○○さんはヒヤデス星団のアルデバラン星の生まれで、地球を救いに来た人のひとり。いつも円盤が上空であなたを守護しています。」
・「○○さんは水平波動で考えすぎる。そうでなく、垂直波動で、宇宙の七、三五サイクルがわかる。」
・「○○さんの体、DNAはこの世のものだが、魂は別の星のもの。」
これらの事例にあるように、ユタは物事の説明をおこなう際に、「染色体」、「電磁波」、「微粒子」、「元素」、「ヒヤデス星団のアルデバラン星」、「波動」、「DNA」といった、科学的とされる多彩な用語を使う。そして、科学的用語の他にも、スピリチュアリズムや「精神世界」(17)ブームの影響を受け、神や先祖のことを「宇宙人」、先祖や神と交流することを「コンタクト」、あるいは「霊界交信」、神や霊の言葉を「メッセージ」、それを受け取り紙に書くことを「自動口述」と言い換えるなど、さらに新たな用語を用いるユタも出てきた。
ユタたちはこのような<ブリコラージュ的戦術>、すなわち、「体制の変革や維持などといった特定の計画とは無関係に、ありあわせのものを臨機応変に取り入れてつなぎ合わす」(18)という民衆文化の受け身の抵抗を用いて、時代に沿った世界観の再構築・体系化をはかり、クライアントの支持を確保すると考えられるのである。
四 精神医学と憑依
ユタの人気がいまでも衰えないのは、先述した<医者半分ユタ半分>という言い方にもあらわれている。クライアントは、西洋近代医学を修めた医者のところにも、シャマンであるユタのところにも行く。また、症状によってはクライアントに対してユタが病院に行くことを勧めたり、逆に医者がユタの所へ行くよう勧めることもある。特に、西洋近代医学は心の病に関して万能ではないといわれる。ここでは、西洋近代医学の一部である精神医学が、ユタなど宗教的職能者のカミダーリ(あるいはカミブリ)現象をどのように扱ってきたのかについて論じてみたい。
精神医学では、カミダーリは「カミグトゥ(神事)を中心にした内容の精神異常状態」(19)、あるいは「ある個人に、幻覚性や夢遊性を伴う心身異常がみられ、それが神・先祖などの超自然的存在と何らかの関係を有していると判断される場合」(20)などと定義され、症状としては自立神経症状、行動の異常・朦朧状態、人格変換(憑依)、心身の衰弱、食欲不振、痺れ、目眩、徘徊、不眠、幻視、幻聴、妄想などがみられ(21)、その原因は不明だが、いずれはその状態から脱却するといわれてきた(22)。このような症状は、いわゆる国際疾病分類では分類できない沖縄独自の「文化結合症候群」であり、その一過性やコミュニケーション能力の高さから、精神分裂病とも異なるという意見もあり、精神分裂病圏や神経症、心因反応領域、祈祷性精神病、あるいはカミダーリ症候群というそのままを指す名で診断されてきた。治療に関しては、薬物その他の近代医療はあまり効を奏しないことが多く(23)、病院に来ても治らなければ、先輩ユタの所へ藁をもつかむ思いで出かけていくことになる。しかし、従来の西洋近代医療からみれば、このような症状も「異常」、「狂気」の一部として治療されるべき対象となってしまう。まさに、「カミダーリを狂気として排除するのかそれとも日常に連続した体験として受容していくのか」の「狂気への二つの在り方」(24)が沖縄には存在することになる。ただし、最近の精神医学ではカミダーリに対する評価も変わり、「カミダーリとみなされることが患者の精神的安定や家族関係の改善にもつながるなど、治療的に有効な場合もある」という肯定的な見方もなされるようになってきた(25)。
近代化が進む中で、狂気を囲い込み、治療の対象としてきたといわれる精神医学が沖縄にも普及していく過程は、精神病院の設立状況とも大いに関係するだろう。表2を参照しながら精神病院史を概観すると、戦前、沖縄には精神病院がなく、精神科医療の普及は戦後しばらく経ってからということがわかる。一方、日本本土においては、一八七五(明治八)年に京都に私立の癲狂病院が設立されたのを皮切りに、 一八七八(明治一一)年には東京に私立の瘋癲病院設立が設立されている。また、警視庁による座敷牢(監禁)もこの時期公認され、一九○○(明治三三)年には精神病者の面倒は親族でみるという精神病者監護法が制定されている。その後、一九一九(大正八)年になると精神病院法が制定され、各都道府県に精神病院設立案が出されることとなったが、その実態は強制隔離収容所としての私立病院のみしか設立されなかった。この間、沖縄では精神病者に対しては届け出があれば警察による取締りがあったが、一般には家族にその対策が委任されたという(26)。
沖縄における最初の精神医療は一九四五(昭和二○)年、米軍政府病院において精神科が開設されたときとされる(27)。その後、一九四八(昭和二三)年には沖縄初の精神病床が宜野座病院に併設され、一九五○(昭和二五)年に精神衛生法が公布されて精神医療に対する国の責任が確認される頃、金武の結核療養所に隣接して府立琉球政府精神病院(後に国立琉球精神病院と改称)が設立された。一九五三(昭和二八)年には私立の島医院設立が設立されるなど、その後は日本本土と同様に私立精神病院の設立が相次ぐこととなる。
このような沖縄における精神病院の設立史を顧みると、沖縄では戦前まで精神病院がなかったため、ユタは治療される対象として病院に隔離・監禁すべきという西洋近代的な考えが十分に定着しなかったとみることができる。それゆえ、カミダーリなどの憑依は、沖縄ではいわゆる西洋近代でいうような「病気」とみなされることがほとんどなかったのである。また、戦後になって精神病院が設立されても、現在は、カミダーリなどの憑依を「狂気」という枠にはめて治療すべきものとすることに疑問がなげかけられ、いわゆる、「憑依(狂気)の有用性」(28)が精神科医により指摘されている状況がある。これらのことから、沖縄にはフーコーのいうような、狂気の不当な抑圧の歴史があったという見方は当てはまらないといえる。
おわりに
これまで述べてきたように、沖縄では、憑依は必ずしも西洋近代医学のいう隔離して治すべき病気、すなわち<否定される狂気>とはみなされず、それどころかその一部は神聖視され、社会的に受容されるという土壌があった。さらに、沖縄には戦前は精神病院がなかったことから、ユタなど憑依体験をする者が治療される対象として病院に隔離・監禁されることもなかった。それは精神病院が設立された戦後もほぼ同じ状況であり、巫病としてのカミダーリは精神解体ではなく、「人間の示す積極的な営為の一つ」(29)として排除されずに社会に受け入れられている。このことは、沖縄にはヨーロッパや日本本土とは異なる<肯定される狂気>という構造が、近代化の進んだ現在でも存在することをあらわしているのである。
確かに、非日常的精神状態は苦しみや死を伴うこともあれば、社会を混乱させる危険性もある。しかし、単に危険だからという理由で完全に排除するならば、社会の淀みに警鐘を鳴らし、個人の心を解放する可能性も同時に捨て去ることになる。「狂わなければ救われない」として『<狂い>と信仰』を著した町田宗鳳は、<狂い>の危険性を認めつつも、「<狂い>が、すっかり形式化してしまった伝統宗教を蘇生させ、教科書的ではない新しい道徳を誕生させる原動力にすらなり得るのではないか」(30)と、その意義を唱えている。このようなプラスとマイナスの両面を合わせ持つ「狂気」というものを、社会が排除せずに<神聖な狂気>として受容する。そのことにより、沖縄ではいまでもユタという宗教的職能者が、基本的には沖縄の祖先崇拝のコスモロジーにのっとりながら、自らのカミダーリ体験を活かして、人々の悩みに対処するカウンセラー的役割を果たしている。このような沖縄の文化は、ユタとなった人自身に憑依能力の統御とその活用による健康回復・生き甲斐の創出という癒しと救いを与え、さらに、さまざまな悩みを抱えるクライアントに対しても、同じ痛みに「共振」(31)できるというユタの存在を認め、その力を借りることで、癒しと救いを与えているとみなすことができるのである。
注
(1)沖縄本島において、カミンチュ(神人)とは、主に村落の繁栄や豊作を祈る神事を司る宗教的職能者のことを指す。琉球王府時代は王の姉妹など女性親族が聞得大君として琉球王国の神事を司り、その統括のもと、各村落や地域にはノロ(祝女)とよばれる王府から任命された神女たちがいた。各村落や地域では、このノロを頂点としたカミンチュたちの神役ヒレラルキーか構成されていた。
(2)沖縄本島では、ユタは人々の病気治療や占いなど私的領域を扱う宗教的職能者とされる。ユタは侮蔑語にもなっているため、ムヌシリ(もの知り)やウガンサー(祈願する人)など、婉曲な言い方がなされることも多い。
(3)フーコー 一九七五
(4)この村落は「ユタのメッカ」といわれ、ユタの多いところとして知られている。戦後、この村落では急激にユタのなり手が増え、これまで既に他界したユタを合せると計一一名のユタが誕生した。現在、村落人口約六○○人中、ユタ名九人いる。この割合は、一九六一年にリーブラがいくつかの地域でおこなったシャーマンセンサスによる「六○○人に対して一人のシャマンという結果(Lebra 一九六六、八○頁)の九倍もの人数である。このようなユタの増加は、沖縄全体の傾向でもある(石垣 一九八三、塩月 一九九二)。
(5)ユタがカミダーリ中に夢うつつの状態で、神からさまざまなことを教わる体験については、塩月 一九九五を参照。
(6)ユタもカミンチュも、薩摩侵攻以降はそれぞれ禁制政策により取締りを受けてきたものの、ノロをはじめとするカミンチュの方は、琉球王府時代は薩摩の禁制政策にもかかわらず王府の庇護を、そして廃藩置県後の昭和のはじめには、国家神道に組み込まれる方針により、政府から神社の神子としての認可を受けたため、そのような庇護や認可の全くないユタとは異なる統制の歴史を辿るという違いがあった。
(7)沖縄県沖縄史料編集所 一九八一
(8)沖縄県沖縄史料編集所 一九八一
(9)沖縄最初の新聞は『琉球新報』で、一八九三(明治26)年、首里を中心とした旧士族階級の人々により発刊された(大田 一九九六[一九九五]、九二頁参照)。
(10)大橋 一九九八、七五〜一一四頁
(11)上杉 一九六五 参照。
(12)詳しくは、宮城 一九九六、八七〜九○頁参照。
(13)ここでは主に明治・大正から昭和初期の時代にかけてのユタ弾圧をみてきたが、戦後におけるユタ関連の記事は、一九四五(昭和二○)年から約三○年間はほとんどみられない。しかし、一九七二(昭和四七)年に沖縄が本土復帰した後、一九八○年代にはトートーメ問題が社会問題として新聞に取りあげられ、トートーメとよばれる位牌とそれに付随する財産は女性でも継げるとする運動が繰り広げられるようになり、女性はトートーメを継げないという男尊女卑の旧習を推進するユタが再び批判されるようになった。だが、この運動も女性たちの根強いユタ信仰などにより、運動が始まった当初のようなパワーを無くして現在に至っている。その一因には、ユタの持つ柔軟性が関係していると考えられる。なぜならユタは、「社会の支配的イデオロギーを、遅れて担うもの」(堀場 一九九○、二三九頁)であり、もし沖縄でも少子化が進んで女性しか適当な相続者がいなくなった場合には、ユタの唱える基準が嫡子継承から女性継承に変化することも十分に考えられるため、ユタの唱えることを一元的に捉えて批判することが難しいからである。
(14)当時の為政者たちが社会の秩序や体制を揺るがす者として同じように恐れていたのは「遊女」であり、なかでも非公認であった私娼は政府が統御できない分、特に厳しく弾圧された(詳しくは、塩月・渋谷 二○○○参照)。
(15)ド・セルトー 一九九九[一九八七]、二五〜二七頁
(16)詳しくは、塩月 一九九九参照。
(17)中牧弘允によれば、「精神世界」とは、オカルト、心霊科学、神秘主義、神智学、瞑想法、ヨーガ、ニュー・サイエンス、超心理学、心理療法、トランスパーソナル心理学などを漠然とさす新用語であり、日本ではこうした傾向は一九八○年代に顕著となった(中牧 一九九五[一九九○]四六頁)。
(18)小田 一九九八、二一○頁
(19)島袋 一九九三、八○頁
(20)高石 一九七八、七八頁
(21)名嘉他 一九九三、八三頁
(22)島袋 一九九三、八○頁
(23)名嘉他 一九九三、八三頁
(24)高江洲 一九九八、四○○頁
(25)吉永・佐々木 一九九八、一六○頁
(26)高石 一九九四、二二○〜二二四頁
(27)小椋 一九九八、一六頁
(28)高畑他 一九九四、三二○〜三二三頁
(29)高畑他 一九九四、三二○頁
(30)町田 一九九九、一一頁
(31)ユタ的宗教者による「救済」に注目した池上良正は、「共振」という用語を用いて「共感」以上の身体をも含んだユタとクライアントの一体感・相互理解をあらわした(池上 一九九九)。
参考文献
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