ヤップ島からの報告・

  ヤップの島嶼関係

      −伝統と近代のはざまで−

                     塩月 亮子

 

「神から与えられた広大な海は、われわれを団結へと向かわせても、再び分断させることはない」

 ミクロネシア連邦の憲法前文にうたわれているこのような言葉は、アメリカ本土ほどもある広大な海原に点在するミクロネシア地域の島々の交流の歴史と、それが近代において列強により勝手に分断され、支配されてきた状況を端的にあらわしている。ミクロネシアには、文字どおり小さな島が三千ほどもあり、列強が支配する以前から、人々は巧みにカヌーをあやつって他の島々との交流を盛んにおこなってきた。まさに、海は人々を隔てるものではなく、人々をつなぐものだったのである。

 ミクロネシア連邦四州のひとつであるヤップ州もまた、海に散在する小さな島々の連合体である。その海域は百三○万平方キロにもおよび、そこに約七八の島々(うち二二が有人島)がある。その中心は面積のもっとも大きいヤップ本島である。ヤップ本島自体も四つの島からなり、短い橋でそれらはつながっている。ここに住む人々も、他のミクロネシアの人々と同様に、昔から広大な海を自分たちの世界の一部として認識してきた。これまで報告してきたように、島の男たちは前庭のようなリーフ内で魚撈を行い、女たちはタロイモ畑からの帰り道、海で手足についた泥を洗った。

 また、ヤップ本島の村々には、今でも村の集会所の前などにライといわれる石貨群が整然と並べられている。これらはその昔、先祖たちが遠くパラオからきらきら光る石を切り出してカヌーで運んできたものである。一説によると、石貨が円形なのは満月を模したからで、その真ん中には丸い穴があいている。大きさは大小さまざまで、大きいものになると両腕を広げても足りないほどである。しかし、その価値は大きさによるのではなく、どんな先祖がどれほど苦労をしてヤップまで運んできたか、そして、その石貨が誰の手に渡ってきたかという物語によって決まる。ヤップの人々は、命の危険を冒してまでも、石貨を求めてカヌーで海原へ出て行ったのである。

 このように、海は彼らの生活の一部だったし、現在もそれは変わらない。今回は、ヤップの人々と海との関係において、リーフという内海を超えた、より広範な外海との関係をみていきたいと思う。

 

1. 起源伝説にみられる海からの来訪者

 『ヤップの伝説的歴史(A Legendary History of Yap)』(1968)には、次のような起源伝説が収録されている(以下、本の要約)。

 むかし、むかし、西カロリン諸島が最初に形づくられたとき、ヤップには木と草と鳥しかいなかった。そこにはココナッツもマングローブもバナナの木もなく、人間も精霊もいなかった。また、ヤギもブタもニワトリもいなかった。ヤップという名前も何年も後につけられた。ヤップに最初に来た人は、五人の精霊たちで、そのうち二組は夫婦、一人は男性だった。彼らは新鮮な水のある井戸から来て、ヤップに家を建てて住み着いた。しばらくそうして生活するうち、独身の男性の精霊がいなくなってしまった。そこで、一組の夫婦が丸太にのって何カ月ものあいだ海を渡り、いろいろな島によって彼をさがしたが、とうとうみつからなかったのでヤップに戻った。ある日、見知らぬ一組の夫婦と子どもたちが、行方不明の精霊の知らせをもって、精霊たちの家を訪ねてきた。この訪問者たちは半分人間で、半分精霊という、いわばヤップで最初の人間で、マレー半島から来た人々だった。彼らはもっと大きな島に移りたいと望み、精霊たちの力を借りて巨大な丸太にのって別の島へ行ってしまった。だが、精霊の命令で、長女をヤップに残して行かなければならなかった。こうして、人間の娘と精霊たちが暮らしているところへ、ある日、一組の人間の夫婦がやってきた。その夫婦はインドから来たといい、ヤップに住み着いて赤ちゃんを産んだ。最初の人間の赤ちゃんがヤップで生まれた日、その誕生を祝って精霊たちはヤップではじめて踊りを踊った。その時、赤ちゃんの父親は妻がいるにもかかわらず、自分たちが来る以前からいた人間の娘を見初め、二番目の妻とした。最初の妻はそれを知ってとても怒ったが、そののち二人の妻は仲良くなり、ついに、それぞれの子どもたちが結婚することになった。その際、同じ父親のクラン(一族)では内婚になってしまうため、母方のクランに子どもは所属することに決めた。こうしてヤップには次々と人間が増えていった。

 この伝説にみられるように、ヤップで最初の人間はマレー半島やインドから来たといわれ、また、精霊や人間が丸太にのって別の島に行く話もでてくることから、ヤップの人々は昔から島内という閉じられた空間だけではなく、海の向こうに開かれたより広い空間を意識していたことがうかがえる。

 

2. サワイ交易

 今度は、実際のヤップ島嶼関係の歴史に目を向けてみよう。かつて、ヤップ本島から東方に点在する離島はすべてヤップ本島の支配下にあるとされ、ヤップは研究者の間でヤップ帝国ともいわれるヒエラルキーの定まった政治的・宗教的組織連合を発達させてきた。これは、サワイ交易という離島のヤップ本島への朝貢という関係であらわされている。牛島巌氏によると、この交易の特色は、火山島(ヤップ島)の方から遠征交易に出ず、物資が限定されている、離島民(珊瑚礁の島民)の方から交易を求めて来島したことであるという(牛島 1987:281)。

 これらヤップ本島の東方海上に連なる島々(ウリシー、ファイス、ウォレアイ、イファルク、ラモトレック、サタワル、プルワット、プルスク、ナモヌイトなど)は、ヤップ本島のガギール管区にあるガチャパル村とウォネアン村に直接結びついていた。私はウォネアン村にホームステイしていたので、幾度も白や青のふんどしをつけた離島の男たちを村でみかけた。彼らは集団で村のチーフ(首長)階級の家に行っては魚やヤシロープ、ファイスタバコ、ラバラバ(腰巻)などの土産をもってヤップに来た挨拶をし、かわりにコプラやタロイモ、ブタなど必要な物資の援助願いをおこなっていた。ヤップ州における大規模なサワイ交易は、第一次世界大戦前のドイツの占領下時代、島民の遠洋航海の禁止により衰退してしまったが、なお現在でもその関係の一部はこのように続いている。彼らは社会的にはヤップ島の下層民と同等の地位にあるとされるが、本島内の下層民とは違って養子関係を本島の上層民と結ぶことができるし、墓掘りや月経中の女性の世話などタアイ(ケガレ)とされる労働にも携わらないなど、特別な地位にあると考えられる。

 サワイ交易が発達した背景には、台風の影響があるという。カロリン群島では、ひとつの島が台風の被害を被っても、数十キロほど離れた島々はそれほど大きな被害は被らない場合も多い。このようなことから、カロリン群島内の幾つかの島々で種々の島嶼間の交換と互助協同の体系が発展してきた(牛島 1987:282)。そのひとつにサワイ交易があるのだが、この交換体系には宗教的な意味あいも含まれている。従来、ヤップ本島の神は強力な呪力をもつといわれ、その神が怒ると海が荒れ、人や作物に被害をもたらすと信じられていた。今でもウォネアン村にはこのような神が憑いているとされる人々がいて、彼らは呪術者として恐れられている。ただし、呪術には台風を起こすという、いわば黒呪術の側面の他に、パンの木の豊饒や魚の大漁、子孫繁栄をなどもたらすとされる白呪術の側面もある。離島の人々にとっては、ヤップ本島の呪力を恐れ、あるいはそれを島の繁栄に活用するということから、ヤップの人々と親子関係(離島民は子、ヤップ島民は親)を結んだといえる。

 

3. 離島は誰のものか?

 私は一年ほど前、たまたまヤップの離島のひとつであるファイス島を訪問する機会に恵まれた。ファイス島はヤップからプロペラ機で約一時間ほどいったところにある、周囲を荒海に囲まれた小さな島である。島には約三十世帯、二百人弱の人々が暮らしている。島内で目立って大きい建物は学校であり、あとはバラック建ての小さな家が並んでいるだけで、人々はヤップ本島民と比較すると、雨水をため、パンの実の石焼き料理をし、女性は月経小屋を使用するなど、いわゆる伝統的な生活を送っている。この島は、先ほど述べたサワイ交易関係において、ヤップ本島のウォネアン村のある屋敷に直接支配されてきた。このことが、実は私たちの訪問に際してある問題を生みだしたのである。

 私たちがファイス島に向けて出発する直前までもめた問題を一言でいえば、「離島は誰のものか?」ということである。ファイス島を案内してくれるウォネアン村のチーフ(首長)は、ファイスは自分たちの島なのだから、州政府に対しては何も手続きする必要はないという。しかし、ヤップ州では、州内の離島を外国人が訪問するときには政府に申請許可をとらなければならないという規則が定められている。私をはじめとする外国人たちは、トラブルに巻き込まれて二度とヤップに来られなくなる事態は避けたいと思い、チーフに是非申請書を提出するようにお願いしたのだが、彼は頑として拒んだ。

 「いったい、誰にことわって役人たちは離島へ行くときの申請書や入島税を決めたのだ。集めたお金はどうするのか。私はファイス島民の親で、彼らは子どもだ。どうして、親が子のところへ行くのにお金を払ったり、許可を得たりするのか。役人は一度も私のところに相談に来なかった。私は役人とけんかしてでも申請しない。」

 怒りに震えたチーフの言葉の背景には、彼の信じるサワイ交易という伝統的な価値体系と、政府側の「離島は離島民自身のものであり、離島民たちは(国家以外の)誰にも従属しない」という民主主義的な近代的価値観との葛藤がある。事実、ヤップ州には政府の最終決定機構として、慣習的チーフたちにより構成されるピルン(ヤップ語で首長のこと)会議が以前から存在するが、それに対抗する形で、最近、離島のチーフ同士からなるタモン会議が結成された。このことは、離島民がチーフという伝統的枠組みを借りつつも、近代国家の理念に基づいて国民のひとりとしての権利を主張し、ヤップ本島の支配から抜け出す意志を示したものといえる。また、離島の方が本島より教育熱心で高校のレベルも高く、アメリカに留学して高学歴を得る人が多いといわれる。政府機関の高官も離島の人が多い。彼らは今やヤップ本島を通さずに、直接アメリカや世界と交流している。このような動きは、従来では地位が低くヤップ本島に従属するとされた離島民にとって、自らの主体性を獲得する際の戦略とみなせるだろう。 

 

 現在、ヤップは伝統的価値観と近代的価値観の間で揺れている。それは、これまでみてきたような離島と本島との関係のみならず、土地の登記簿の作成や、医療のあり方、政治体制、人口センサスなど、さまざまな場面において顕在化している。近代国家体制を整えていくときの国家側の意識と、首長制制度など、いわば伝統的なものに基づく意識のずれは、程度の差こそあれ、どの地域でも近代化の波を受容するにあたって避けて通れない道かもしれない。しかし、ミクロネシアではそのような状況にあるからこそ、冒頭に述べた憲法の前文、「海は人を分断するのではなく、団結させるもの」という言葉が重要になってくるのではないだろうか。今後は、離島民と本島民、あるいは国家と伝統的権威の対立の図式を超えるためにも、海に点在する島々に暮らす人々の叡智を結集させて、何らかの解決をはかっていくことが望まれるのである。

 

参考文献

1968 Raphael Uag and Frank Molinski

A Legendary History of Yap. Yap Good News Press.

 

1987 牛島 巌

『ヤップ島の社会と交換』 弘文堂.