ヤップ島からの報告・

  日本・ヤップ関係小史

      −南洋群島からダイビング・スポットへ−

                     塩月 亮子

 

 ちょうど私がヤップと日本の歴史的関係を今回のテーマにしようと考えていた去年の暮、「回想の南洋群島−記録映画『海の生命線』より」と題する特別番組がテレビで放映された。ご覧になられた方もいらっしゃるかと思う。昭和八年に海軍省の監修で作成されたこの記録映画のフル・タイトルは「海の生命線、わが南洋群島」で、このほど新潟県上越市の元新聞店の倉庫から六三年ぶりに発見されたという。昭和八年といえば社会不安を背景に軍部が台頭し、満州事変や上海事変などを起こした後、日本が国際連盟を脱退した年である。従って、この映画は植民地政策を推し進める軍部の宣伝といった側面があるものの、現在はアメリカナイズされてあまり残っていない当時のミクロネシアの自然・風俗・生活を知ることができる貴重な記録となっている。

 ヤップの人々によれば、戦前このような記録映画は沢山制作されたという。ある古老は、映画の一シーンで夜恋人を木の下で待つ間、ヤップ語で恋歌を歌うという青年役をやったと懐かしそうに語ってくれた。他にも結婚式や葬式、呪術師などの様子を再現し、ヤップの風習を記録した映画があるという話で、今後それらが日の目をみることを願っている。

 

1. 各国に統治されてきたミクロネシア

 「海の生命線、わが南洋群島」の中でも説明があったように、今のサイパンやパラオ、ヤップなどのミクロネシアの島々は戦前「南洋群島」とよばれ、第一次世界大戦後から第二次世界大戦までの約三○年間、日本がドイツにかわって統治していた。日本統治が始まると、私が調査したヤップ島にも当時多くの日本人が移住してきて、コロニアとよばれる中心街に郵便局や病院、学校、タバコ屋、雑貨屋などを建設していった。また、沖縄の人たちは沿岸で漁業活動を、朝鮮の人たちはコプラ採集をおこなうなどして村落内に入り込み、街にいる本土の人たちとは別の独自のコミュニティーを形成していたという。

 日本の支配以前、ミクロネシアはまずスペインによって十六世紀に「発見」され、主に宣教師が来島してキリスト教を布教したが、それ以外のスペイン人による大規模な移住はなされなかった。十九世紀に入ると、コプラやナマコを求めて西洋の商人がミクロネシアの海域に登場し、特に著しい活動をおこなったドイツがスペインと対立した。その結果、スペインがカロリン諸島、ドイツがマーシャル諸島、イギリスがギルバート諸島をそれぞれ領有することになった。

 その後、一八九八年に米西戦争が勃発し、スペインはグアムをアメリカに割譲、その他のマリアナ諸島とカロリン諸島をドイツに売却した。ドイツの統治政策のもと、ミクロネシアは経済発展の基地としてコプラと燐鉱石の生産・輸出をおこなったが、それは主に島民の労働力によるもので、在住ドイツ人の数は最高でも二五○人ほどであった(中山 一九八七:四四五)。これは日本統治時代の日本人在住者数[昭和一五年当時、軍隊を含まず約八万人(小林 一九八二:一六)]と比べると、大変少ない。

 そして、先述したように、第一次世界大戦後の一九二○年、国際連盟は旧ドイツ領のミクロネシアを日本の委任統治領とし、ここに日本人の南洋との密接な係わりが始まった。さらに第二次世界大戦後、ミクロネシアは一九七○年代末の自治政府設立までの間、国際連合の太平洋諸島信託統治領としてアメリカの統治下におかれ、それまでいた日本人はほとんど日本へ引きあげ、アメリカによる日本色の払拭がなされることとなった。このように、ミクロネシアはスペイン、ドイツ、日本、アメリカにより次々と統治されてきたのである。

 

2. ヤップにみられる日本統治時代の名残り

 (1)神社、トロッコ、兵器

 現在ヤップ島にみられる日本時代の遺物は、コロニアにある鳥居とその奥の小高い場所にある灯篭、飛行場近くの零戦や機関砲の残骸ぐらいであろうか。その他のものは戦争による爆撃で、跡形もなく破壊されてしまったと聞く。鳥居のある場所は、以前ヤップ神社があったところで、灯篭のある丘の階段をのぼっていくと、今はヤップ州会議のオフィスがある。

 また、ヤップの離島であるファイス島へ行ったときは、草が生い茂るジャングルの中に神社跡を示す手水鉢をみつけた。さらに現地の人がナイフで草を切って道を切り開いてくれる後についていくと、燐鉱石採掘場の跡が急に現れた。その先を歩いていくと、真下に海のみえる岸壁に到達した。そこには、潮風に浸食されてさびれたトロッコのレールと切り替えポイントなどが残っていて、はるか崖下には大型船が入港できるように人工的にえぐられた港跡が臨める。このような遺物は、現地の人口を上回る日本人の移住の痕跡を知るよすがとなっているが、それらが風雨にさらされ、熱帯の植物におおわれて自然消滅していくのも時間の問題といえよう。

 (2)言葉

 形あるものは早く失われるかもしれないが、目にみえないものは案外と残るものがあるようである。そのひとつが、言葉である。台湾や韓国など、かつて日本の統治下にあった地域で、現地の高齢者が日本語を話せることはよく知られている。南洋群島とよばれたミクロネシアでも、日本人が公学校をつくって島民に日本語教育を施行したため、今でも七○歳以上の高齢者は日本語を話せる人が多い。彼らの話す丁寧な日本語を聞いていると、自分の話す崩れた言い方が少々恥ずかしくなるくらいである。日本語教育はヤップ島各地の公学校で三年間、初等教育としておこなわれ、その後、優秀な生徒は男子は建築技術を教える木工学校、女子は看護婦見習いになる学校で講習生として二年間学んだ。

 当時の学校の様子を語るおじいさんやおばあさんが、共通して今でもよく覚えていることは、学校で練習した歌や芝居についてである。ある七八歳のおばあさんは、白髪のおかっぱ頭をふりふり、「蛍の光」、「仰げば尊し」、「とんぼとんぼ」、「蛙の学校」などを次々と歌ってくれた。また、別の八○歳をこえるおばあさんは、公学校の学芸会で、日本人の前で「浦島太郎」の乙姫役を演じたことを楽しそうに話し、その時歌った歌を教えてくれた。おじいさんたちも、負けずに「てるてる坊主」や「桃太郎さん」、「軍艦」などの歌を聴かせてくれた。なかでも「桃太郎さん」は有名で、今の小さい子どもたちにも意味はわからず歌い継がれている。

 歌以外にも、今のヤップの若い人が、日本語とは知らずに使っている言葉がヤップには沢山ある。これらはもともとヤップにはなかった物や概念で、今はすっかり現地語化した。それらは、例えば「ヒコーキ」、「デンキ」、「デンチ」、「デンワ」、「シケン」、「サイバン」、「サカダチ」、「ジャンケンポン」、「ハナフダ」、「スイトウ(ポット)」、「センコウ(香取線香)」、「カマ(鎌)」、「セン(線)」、「マナイタ」、「オカシ」、「キュウリ」、「ナッパ」、「ネギ」、「コメイ(米)」、「ワサビ」、「サシミ」、「ラーメン」、「アジノモト」、「テンプラ(沖縄のドーナツ)」、「カエル(蛙)」、「バイキン」、「センタク」、「タライ」などである。

 言葉があるということは物も導入されたわけで、ヤップの人たちは現在、「マナイタ」を使って「キュウリ」を切り、「サシミ」に醤油をかけて「コメイ(米)」と一緒に食べている。インスタントラーメンもまた、彼らの好物である。これらが普及した理由として、ヤップの人々は伝統食であるタロイモの料理に時間がかかることを挙げる。また、漁師も減ったため、タロイモのおかずとされてきた魚は缶詰にとって変わってきている。

 

3. 日本統治時代の生活

 戦前、新天地を求めてヤップ島に移住してきた日本人は、主に街であるコロニアに住みついた。彼らはそこでコプラの輸出や製糖業、水産業、商業などに携わり、その子弟は現地の子どもたちとは別の邦人のための学校に通い、内地と変わらない教育を受けた。夜になればヤップ橋には灯がともり、「名月館」や「パラオ館」という名の料亭(兼売春宿)が賑わった。

 このような影響を受け、ヤップの人たちの間にも、村落でコプラやサトウキビを生産したり、ファイスやアンガウルといった離島に燐鉱掘りの出稼ぎに行くなどして、労働により現金を得る生活が浸透していった。時には政府から各村に人夫を一定数供出せよといった命令が出て、一日五○銭程度の安い賃金で働かされることもあったという。村人はしばしばカヌーに乗ってコロニアへ行き、バスケットの中に必要な品物を買ってつめて帰ってきた。主な品物は、たばこ(ゴールデンバッドやメイプルが一箱七銭)、鮭の缶詰(三五銭)、鯨の缶詰(二五銭)、ビール(五○銭)、蛸(三○銭)、米(南京米か日本米)、ビスケット(一○銭)などであった。公学校の生徒たちも日本人の家事手伝いなどのアルバイトをしてお金を稼いだ。優秀な成績で学校を卒業すると、「巡警」という警官助手にもなれた。

 当時、日本へ行ったヤップの人もいる。昭和初期に「南洋博覧会」が国技館で開催されると、ヤップの女性八人、男性四人が踊りを披露するために船で何日間もかけて出かけていったという。その時の様子を語るおばあさんの顔は、初々しい娘のようだった。

 以上のようなヤップの人の生活は、戦争になると一変する。物価上昇がおこり、大勢の日本兵がヤップに上陸して食糧が底をつき、人々は厳しい生活を余儀なくされた。村人は男女とも兵隊のために魚撈班や農耕班にふり分けられ、日本の戦争遂行に協力させられた。辛い労働の最中でも、歌好きのヤップの人たちは、「テンプラ歌」という日本語とヤップ語の混じった歌を作った。それは、「司令部の勤めは楽しい〜畝が曲がっている、空襲中、だからできないよー。」「眠いよ。夜は兵隊のこと考えてるから。夜は魚とりで〜。」といった内容であったという。戦局が悪化するにつれ、こんなユーモアも功を奏さないぐらい大変な労働が次第に増えていった。若者たちはみなコロニア近く(現在の旧飛行場跡)に集められ、七ヶ月間もの間、海軍の飛行場を道具もなしに造らされた。朝六時に集合、国旗を掲揚し、君が代を歌ってから仕事を始める毎日だったという。空襲で家を焼かれたり、命を落とした人もいた。

 

4. 日本・ヤップ関係の今後

 第二次世界大戦が終了し、アメリカ統治期に入ると、ヤップにいた日本人はみな内地に引きあげた。ヤップの人々は今度はアメリカ式教育を受けるようになり、英語教育が徹底しておこなわれるようになった。また、ミクロネシア地域はアメリカにとって軍事基地としての重要性があるとされ、ヤップ島にも最近まで海兵隊が駐屯していた。

 しかし、最近になってミクロネシアの海に対する認識が変化してきたように思われる。それは、「海の生命線」としての日本時代と「戦略区域」のアメリカ時代に共通してみられたミクロネシアの軍事的価値づけから、新たな産業的価値づけへの転換である。産業的価値づけには、ダイビングをはじめとする観光地としての海、もうひとつはマグロ漁など漁場としての海という二つの視点があるといえる。ヤップ島には私立の漁業学校が設立され、将来大型船に乗って漁業をおこなう専門家の育成にあたっている。また、コロニアには魚の冷凍収納庫があり、マグロをのせたヤップ−日本間の直行便が定期的に飛んでいる。街にはヨットハーバーが造られ、毎日いろいろな国のヨットが立ち寄り、ダイビング会社も観光客で賑わっている。日本の観光客の多くは、ダイビングが目当でヤップを訪れるようだ。

 このような動きのなか、今後ヤップと日本に求められることは、ミクロネシアの海の環境保全と人々の交流であろう。魚介類の捕獲と保護、観光開発とラグーンの維持の両立を考えながら、日本としてはミクロネシアの人々との交流を通して統治時代を含む彼らの歴史・文化を知り、それに基づき経済的自立の支援をおこなっていくことが必要となるだろう。

 

参考文献

 小林 泉 「ミクロネシアの小さな国々」 一九八二年、中公新書

 中山和芳 「歴史時代のミクロネシア」 石川栄吉編『オセアニア社会の伝統と変貌』

      四三八−四六五頁、一九八七年、山川出版社