「publicなケガレ」から「privateなケガレ」へ

−ミクロネシア・ヤップ島における女性に関するケガレ観の動態的研究−

       

                      塩月亮子

 

はじめに

 

 これから述べるヤップ島は、ミクロネシアのなかでもケガレ観が大変発達した社会といわれている。従来のヤップ研究においても、ヤップ社会には海や村の中央を神聖視する観念がある一方、死や出産、月経をケガレ視する観念があり、また、カースト制に似た浄/不浄を軸とする社会階層が形成されているなど、多くのものが<神聖・浄(tabugul)>と<ケガレ・不浄(taay)>の観念(1)により秩序づけられていることが指摘されてきた(2)。実際、ヤップ島にある様々な事物や場所、人などは、すべてこの<神聖>と<ケガレ>の分類指標に基づき分類されてきた。

 しかし、近年になってこのような観念、特にケガレ観に対する人々の行動や態度に変化がみられるようになった。その最たるものが、月経小屋の消滅にみられるような、月経・出産をめぐるケガレ観の希薄化(3)である。だが一方で、下位村民や死に対するケガレ観など、以前とあまり変わらずに社会的・公的にケガレ視されているものもある。

 なぜ、従来ケガレ視されてきたもののなかで、そのケガレ観が希薄化するものと、希薄化しないものとがあるのだろうか。このような問いに対しては、ケガレとされるものを固定化して捉えてきたヤップ研究を含めた従来の文化人類学における静態的ケガレ論の見方は、ほとんど有効性をもたない(4)。また、日本で議論されてきたケとケガレの二者関連やハレ・ケ・ハライ・ケガレの四者の関係性、ハレ・ケ・ケガレの三極対置、ケガレの二面性などの概念は、ケガレをケの枯れた状態、あるいはハレからケへの移行状態とみなしたり、ケガレたものがコンテクストにより神聖なものに変換するなど、ケガレの移行性や変換性に目を向けているものの、あるものに対するケガレ視が徐々に弱まり消滅していく(あるいはその逆にあるものが徐々にケガレ視されていく)というケガレ観の通時的・動態的変化についてはあまり触れられていない(5)。そこで、本稿ではケガレ観の動態的研究を目指し、ヤップ社会における女性に関するケガレ観に着目して、その変化を考察する。その際、これまで文化人類学におけるジェンダー研究で主に提唱されてきたpublicとdomesticという対立概念を援用・発展させ、新たにpublicとprivateという概念を用いてケガレ観の変化を考察することを試みたい(6)。

 

1.調査地の概況

 

 グアムの南方に位置するミクロネシア連邦ヤップ州は、約130万平方キロメートルという広大な海域に点在する約78の島々からなっている(図1参照)。そのうち西方にあるヤップ島は、リーダーとして他の島々を離島として従え、いわゆる「ヤップ帝国」を形成してきた(7)。ヤップ島の総面積は約100平方キロメートルで、珊瑚礁で囲まれた4つの島で構成され、それぞれの島は道路で結ばれている。島の大部分の海岸線は豊かなマングローブにおおわれ、所々に砂浜のビーチがある。ヤップ島の中心地はコロニアとよばれる町で、州の政治経済の中心地として整備されている。1989年現在、ヤップ州の総人口は10,465人、そのうちヤップ島は6,865人、離島は3,600人となっている(8)。気候に関しては、平均気温が27度で多湿、断続的な貿易風とモンスーンがあり、雨は7月から11月にかけて毎日のように降る。伝統的な生業は、女性によるタロイモ・ヤムイモなどの農耕と、男性による魚撈だったが、現在はコプラ栽培を中心とした農業や遠洋漁業、観光業などが主な産業となっている。

 このような地理的背景をもつヤップには、他国に統治され続けてきたという歴史がある。まず、1874年にスペインがヤップに対して主権を宣言し、その後1889年にスペインはドイツにヤップ等のスペイン領ミクロネシアを売却。第一次世界大戦後は日本がドイツにかわってミクロネシアを占領し、第二次大戦後はアメリカ(国連信託統治)領となった。こうして次々と他国に統治された後、ミクロネシアは1990年に独立国となり、ヤップはその一州となったのである。

 他国に支配され続けてきたにもかかわらず、ヤップには今日に至るまで伝統的な社会組織が存続している。政治組織に関しては、ヤップの10管区129村は10人の首長により統治され、全村はbaan pag獲とbaan pilungという2つの対立するbaan(連盟)のどちらかに帰属している。基礎的な社会集団はtabn学とよばれる父系出自集団で、土地や位階・財物などは父系相続となる。一方、ganongとよばれる非地縁化した外婚単位としての母系範疇も存在する。なお、居住規制は夫方居住である。また、儀礼的交換はヤップ社会を特徴づけるもののひとつであり、人々は石貨や貝貨等の宝物を儀礼的に交換することで、社会関係の維持を保っているといえる。

 以上のような調査地の概況を踏まえ、次にヤップ社会では何がケガレとされているのか、また、それらにどのような特徴があるのかをみていきたい。                                      

2.ケガレ観の諸相

 

 ヤップ語のtaayという言葉は、「ケガレた(もの)」という意味にほぼあたると考えられる。従来、taayとみなされてきたもののなかでも特に絶対的なケガレとされるものには、月経・出産・死・ある種の食物があげられる。より具体的には、月経血、出産時の分娩血、サメ、エイ、イカ、タロイモ・ヤムイモやバナナの一部、死者、葬式などである。これらは、別に対立概念がなくとも、それ自体のみでケガレとされるものである。一方、社会的格付けとしての相対的なケガレの観念もヤップには存在する。それらは、村落間、村落内、屋敷内の各レベルであらわれてくる。従来、ヤップ研究においては後者のケガレ観の研究が盛んにおこなわれ、社会的格付けにおさまりきらないコスモロジーとしての絶対的ケガレの研究は十分になされてこなかったといえる(9)。ここでは、絶対的なケガレ観と相対的なケガレ観の双方を視野に入れ、最終的には、それらが同じ空間構造のなかにどのように表出してくるのかを、具体的に捉えていくことにする。

 

(1)社会的格付けとしてのケガレ観

 まず、ヤップ社会にみられるケガレ観のなかでも、研究が進んでいる社会的な格付けとしての相対的なケガレ観に関して、先述した3つのレベルごとに考察していく。最初に、村落間のレベルにおけるケガレ観に関しては、ヤップ島の村落はすべてth獲とよばれる位階によって5ないしは6、7の段階に格付けされている(10)。そして、上位3つの位階に属する村落はpilungとよばれ、神聖な村と認識されるが、その他の下位に位置づけられた村落は(pi)milingayといわれ、ケガレ視される。この区分はまた、村落間の庇護と奉仕の関係をあらわしており、上位村は下位村民の土地保有を認めるかわりに、下位村民は上位村民のために葬式時の穴掘り・棺担ぎ・墓地管理、月経や妊娠時における女性の世話、道普請、屋根葺き、土器製作など、いわゆるtaayとされる仕事をおこない、奉仕することを義務づけられていた。また、両村民間には相互に通婚の禁止が課せられ、上位村民には下位村民が採取した食物摂取や下位村民の所持品への接触の禁止、下位村民には上位村民の前での通行や頭に櫛をさすこと、大きな石貨を所有することなどの禁止、さらに歩く道や漁業、舞踏などに対する制限が課されていた。

 次に、村落内のレベルでの浄/不浄の分類には、yogumとよばれる年齢・食物分配階梯が大きく係わり、pumo'on(一人前の男)とpag獲(若者)がそれぞれ神聖とケガレに二分され、同じ階梯の仲間同士でしか共食してはいけないという規則が設けられている。同様の区分は女性の年齢階梯にも存在した。女性は月経を基準として5段階に区分されており、同じ階梯仲間としか共食できないことになっていた。女性の場合、13歳頃までの月経のない子どもはburiyalとよばれてケガレとはみなされないが、初経を迎えると最もケガレた存在とされるrugod-ni-t'aayの範疇に入り、上位村の少女たちは半年から1 年間自分の村から出なければならないことになっていた。その後、村に戻ってきた少女たちのうち1年以内の女性はlukan-arow、1年以上の女性はpuwelwolとよばれて徐々にケガレ観が弱まり、50歳前後で閉経するとpilbithir(老人)といわれ、神聖な存在とみなされ尊敬を受け、村内でも男性と同等に振る舞えるようになった。

 第三番目のレベルである屋敷内での相対的なケガレ観には、性を基準とした格付け、すなわち神聖なpumo'on(男)とケガレたpin(女)という区分がある。ケガレ観に基づいたこのような男女の区分は、食糧がとれる土地や食物、水差し、調理の火、村落内の道などあらゆるものに拡張され、女性には夫の食糧調達や調理時には体を洗浄して特別な腰蓑をつけたり、男性の前では腰をかがめて歩かなければならないなど、数多くの行動規制が課されていた。もし、これらの区分や禁忌を犯すと夫が病気になったり、村落に災いが起こるなどといわれて大変恐れられていた。

 以上、社会的格付けに関する相対的ケガレ観を概観したが、ここで注意しなければならないのは、これらのケガレ観も決して固定的なものではないということである。例えば、村落間のランキングはドイツの統治期以前は戦争により変動したし、男性の年齢・食物分配階梯に関しても、男性たちは年齢が上がったり神聖な土地を入手するなどしてdowachとよばれる儀礼をおこない、社会的地位を上位に移行させていった。同様に、女性の年齢階梯についても、女性の男性に対する社会的劣位性はヤップ社会に普遍的にあるものの、女性自体は月経が始まって最もケガレた存在とみなされるが、次第に子どもを産み、年をとって閉経すると、もはやケガレた存在ではなく尊敬されるpilbithirとして遇せられるようになる。このように、ケガレは決して固定的なものではなく、通時的に変化していくものなのである。

 

(2)コスモロジーとしてのケガレ観−月経・出産に関するケガレ観を中心に−

 絶対的なケガレには月経・出産・死・ある種の食物があると述べたが、食物に関しては、サメやエイなどは下位村民が食すから上位村民にとってtaay(ケガレ)であるとされたり、太くて大きいある種のバナナはtabugul(神聖)だからやはりtabugulな年長の男性しか食べてはならないなど、格付けのケガレ観と重なってくる部分が多い。けれども、月経血や出産時の分娩血、死者や葬式に関しては、それ自体が大変なケガレとみなされ、忌み嫌われると同時に強力な力をもつと恐れられ、沢山のタブーが課せられている。ここでは、女性に関わるケガレ観の変遷に注目しているため、特に月経と出産にまつわるケガレ観の以前の様子をみていくことにする。これらのケガレ観は、第二次世界大戦以降、消滅の一途をたどっている。以下に述べることは、現在60歳以上の女性たちから聞き取りをして再構成したものである(11)。

 まず、月経のケガレをめぐる女性の生活を詳しく説明する。先述のように、下位村民を支配する村の女性は、初経になったら自分の村から出て、下位村の屋敷地に小屋を建て、半年から1年間そこに住まなければならなかった。また、下位村民を所有しない村の少女たちは、自分の村落内にある月経小屋に1年間ほど行って生活した。上位村の娘が初経を迎えたことがわかると、その少女の両親は下位村に行ってそこの村人たちと相談し、年寄りや男ばかりの家ではなく、少女が寂しくないような同じ年代の子どもが沢山いる家を選び、その屋敷地に家を建てた。親は心配で最初は1日おき、次第に1週間、1ヶ月おきに魚などをもって会いに行く。最初、少女は不安がって皆泣いたという。村の女性は全員交替で少女と一緒に泊まった。ご飯を炊く薪も、村の女性たちがみんなで集めた。村の男性たちは少女が飲むヤシの実や、魚をとってこなければならなかった。少女はこの村では自由に振る舞えるものの、あまりあちらこちらに出歩かなかった。少女は畑にも行かず、何もせず、ただ屋敷で遊んでいた。そして、毎朝毎晩、川に水浴びに行った(海の近くの村では海水を浴びた)。また、朝暗いうちから特別な道を通って自分の村に下り、海水を浴び、コプラの油を体につけて帰ることもした。これは、他村で生活を始めたばかりの人は2、3日おきに、1年近く経った人は1〜2ヶ月おきに行った。他村で生活している期間中、少女はいつもヤシの葉で編んだ帽子をかぶっていた。これは4日で新しいものと交換した。また、ココナツのカップをつけ、母親からもらった黒い紐を首にかけた。服は腰蓑を着、その上から紐付きゴザをつけた。これは就寝時は外した。また、9日目にお歯黒をつける慣習もあった。

 このような生活をしている間、少女たちは様々なタブーを課せられた。例えば、頭と肩は手でかいて良いが、腰から下は2本の小さい棒でかかなければならない、自分の村で何があってもそこに行くことはできない、水浴びに行く途中で世話になっている村の女性以外の人に会ったら、腰蓑の上につけている3尺ほどのゴザをかぶって隠れなければならない、期間を終えて自分の村に帰るときは決められた道以外は通ってはならず、その後1年間は村の中央道を歩けない、また、家に戻った女性は祖父母の前では膝をまげて歩かなければならないなどである。もしこれらの禁忌を破れば、神が怒って月経が止まるといわれていた(写真参照)。

  初経以降、村落に戻ってきてから月経になったときは、村はずれにある月経小屋へ行き、そこで月経期間中(3〜7日間ほど)生活をした。月経小屋は6人ほどしか入れず、もしそこに入りきらないときは、taanとよばれる炊事小屋の壁を草で編んで仮小屋とし、そこに寝た。最初に来た人と後から来た人は協力してtaanに壁を作った。同年代なら先着順に月経小屋に入るが、年長者と年少者の場合、前者は月経小屋のなか、後者はtaanに寝た。炊事場も、同じ位の人同士で一緒のものを使用した。月経中の女性が使用する田畑は月経小屋の近くにある特別なもので、年齢により異なる田畑を使用した。食事も年齢階梯に従って、一緒に食べたり別々に食べたりした。時には、夫がとった魚を夫の母が月経小屋にいる妻に届けたりした。夫の母のように、月経中以外の人で月経小屋に行った人は皆、帰りに海水で足を洗って帰ったという。

 月経小屋での女性の服装は、ongとよばれる腰蓑をつけ、その上からゴザのようなものを前につけたのだが、男性用の篭を編むときは、その上にさらにもう1枚ゴザをのせた。なお、この篭は青年の使う篭で、年をとった男性は使えなかった。腰蓑は、普段村の中でははかないものを交換のために沢山持っていき、月経小屋近くの川や海水で洗った。腰蓑の下には何もつけないが、編んだ葉の上に座っているし、腰蓑も分厚いので、座っていればあまり経血は外に出なかったとのことである。

 初経を終えた女性に関するタブーには、夫は漁に行くときには妻が月経小屋にいても近づいてはならない、性交をしてはならない(12)、月経中の女性はmitmiitの儀礼(夫方と妻方間での男財と女財の儀礼的交換)には参加してはならない、月経の済んだ女性は月経小屋から自分の屋敷地へ戻るときは、まず海水を浴び、特別な道を通って帰らなければならないなどがあった。

このように、ヤップ社会では月経血がタブー視され、特に月経中の女性には公的に沢山の行動規制が課されていたが、それは単に汚いものというより、危険な力をもつものとして忌避されていたと考えられる。なぜなら、ヤップには、月経期間が短い人は体が弱いが長い人は丈夫で、血が沢山ある人は子どもが沢山産めるという、月経に対する肯定的な見方も存在したからである。 

 次に、出産についてみていくことにする。産婦は親戚の女性の助けを借りて、母屋とは別の屋敷内にあるtaan(小屋)で子どもを産んだ後、出産が夜なら夜明け前に、昼なら夜になる前に子どもを抱いてすぐ月経小屋へ行き、そこで3日間過ごした。その間、夫たちは同じ敷地内に仮小屋を作り、下位村の既婚女性をよんできて妻の世話をさせた。世話係の女性は火をおこして手を温め、2枚のビンロウの皮にくるんだ子どもを温めたり、母親の食事の世話をしたりした。食糧は夫や夫の母親が届けた。そして、産婦は夫の作った仮小屋に移って3日間過ごした後、同じく夫の手による別の仮小屋で3日間生活し、特別な道を通って帰宅した。帰宅後は屋敷地のtaan(小屋)でまた3日間泊まった後にようやく母屋に入れた。

このように、女性の出産にも月経時と同じように月経小屋にこもるなど様々なタブーが課せられたが、ヤップでは今でも子どもは大切なものとみなされ、子どもを産むこと自体は喜ばしいこととされる。さらに、女性は月経や出産を繰り返すことで体内の血を外に出し、その結果、月経が減少したとみなされて位階が上がり、閉経時には男性と同じくらいtabugul(神聖)な存在へと変化すると考えられていた。従って、出産もまた月経と同じく単に忌み嫌う汚いものとして認識されていたのではなく、そこには強力な力が内包されるという見方も存在していたといえる。すなわち、ヤップ社会における月経や出産などのコスモロジー的ケガレ観は、両義的な意味をもつものとして人々に捉えられていたのである。そして、このようなケガレ観もまた、時代が変遷するにつれて次第に消滅していく場合があることを見過ごしてはならないだろう。

 

3.村落空間構造からみたケガレ観

 

 前章でみてきたように、格付けとしてあらわれる相対的なケガレ観と、月経血のように他に対立項が存在しない独立したケガレ観との間にはそれぞれ異なった特徴がある一方で、双方には時間の経過とともにそのケガレ観が変化していくという共通性があることも明らかとなった。また、便宜的にケガレ観を相対的なものと絶対的なものに二分したとしても、月経や出産のケガレが女性に対するケガレ視と不可分であるように、それらは単純に分離して考えることが困難であるという問題も出てきた。そこで、ここでは、絶対的なケガレと相対的なケガレの双方が、具体的な村落空間構造においてどのような形で表出するのかをみていくことで、双方のケガレ観の関連性を考察する(図2参照)。

 モデル村落となった海沿いのFanif管区A村は、人口約120人、tabn学数16軒のtabugul(清浄)な上位村として位置づけられている。一方、その東方の山中にあるB村は下位村でtaay、つまりケガレとみなされ、A村の支配下にある。このB村の土地はtaayなので、そこから流れてくるTanaaw川もtaayとされ、以前、A村の人々は、この川を使用しなかった。ちなみに、川の名前はAluche川やMulan川のように、上流にある清浄な土地の名を付けるのが普通だが、Tanaaw川は上流がケガレた土地のため、下流のA村内のTanaawという清浄な土地の名で呼ぶという。このように、村落内の川も土地も、村落間の格付けである浄/不浄などの観念に基づき区分されている。

 また、村内のみに目を移すと、そこにはyogumと呼ばれる男性のeating gradeがあり、年齢と、所有する屋敷やそれに付随する田畑の清浄さが高まるほど、その人はtabgulとされるシステムがある。先ほどのAlucheなどは、年寄りの男性だけが食べられる田畑のある、神聖な土地である。さらに、村内や屋敷内においては年齢や性による格付けがなされ、若者はtaayで老人はtabugul、女性はtaayで男性はtabugulという区分がある。これらの区分に基づいて、A村にある家屋やその内部、田畑などは分類されている。例えば、K氏の屋敷地や家屋は、男女のいるべき場所や使用すべき炊事小屋が明確に区分されている(図3参照)。 

 次に、絶対的なケガレに関しては、初潮を除く月経や出産時には、この村落内の月経小屋に行き、そこから山側の、ケガレた田畑とされる所から作物をとってきて生活したという。最もケガレた存在と見なされる初潮を迎えた少女はrugodと呼ばれ、A村で生活できず、半年から1年の間、B村へ小屋を作って移住した。B村の男女はそれぞれ少女たちの面倒をみ、少女たちは数日おきに、朝まだ暗いうちから決まった道を通って、A村まで海水を浴びに来た。この道はB村民がA村に行く道と同じでtaayとみなされ、月経小屋の脇を通ることになっていた。少女たちがB村での暮らしを終えてA村に戻ってくるときの道は、taayとされるTanaaw川の両側を通り、村に入ったら決して男の道とされる自動車道は歩かず、山づたいや海岸線を通って自分の屋敷に戻った。そして、その女性はまた半年から1年間は、このような裏道を通ることが決められていた。このようにケガレとされ、行動をいろいろ規制される女性も、年齢階梯をすすむにつれ、次第にtobugulなものへと変化し、閉経を迎えてpilbithirと呼ばれるようになると、男性と同じ道を歩くこができるようになった。

 死に関するケガレについては、村外の病院から死者が自宅に運ばれる時、村内では以前月経の人が通ったのと同じケガレた道を使用しなければならない。例えば、自宅で葬儀をおこなうため、病院で亡くなったG氏の遺体は、おわびの印に村に貝貨を支払い特別に途中までは車で自動車道を通ってきたのだが、人々は家の手前付近で車をおり、遺体は人の手で裏道を通って家まで運びこまれた。村人は、死人は初潮になった女性と同じくtaayだと説明する。従って、初経を迎えた少女を世話するのと同じように、以前はB村の人々が、A村の人の葬式時には、棺担ぎや穴掘りなどの労働奉仕をしていた。

 このように、道だけをみても、そこには男の道や月経に関する女の道、下位村民の道、葬式の道などさまざまな道があり、なかでもケガレとされるものが通る道が、空間上ほぼ重なるということがわかってきた。相対的なケガレとしての下位村民や若者の通る道や居場所が、絶対的なケガレをもつとされる死人や月経時の女性の通る道や居場所と重複するということは、これら双方のケガレ観が、空間構造においては類似した観念として同じ置点に位置づけられていることを示すと考えられる。換言すれば、ケガレとされる道を通らなければならないという、死者や下位村民、月経中の女性にとって共通に課される行動規制は、これらのケガレ観がある同一のカテゴリーのものとして認識されていることをあらわしているのである。

 

4. ケガレ観の変化

 

 これまでみてきたように、ヤップ社会では、道や家屋、田畑、人などが、tabgul/taayすなわち浄/不浄の観念によりすべて分類され、それに基づいて空間構造が形成されてきた。このような空間的segregationは人々の行動を規制し、またその規制により、その空間に付与された社会的意味づけが強化されてきたといえる。しかしながら、月経小屋の消滅や下位村の人口流出による消滅などにより、以前はケガレとみなされた川を現在は使用するようになるなど、人々の空間に対する認識が少しずつ変化してきている。なかでも、繰り返し述べるように、月経や出産に対するケガレ観の希薄化は特に顕著であり、現在のヤップ島には月経小屋はまったく存在せず、裏道を通るなどの行動規制もごく一部の村落にしか残っていないのが現状である(13)。先に述べた格付けのためのケガレ観は、その相対的性格のために変化することが予測できるが、いわゆる当該社会のコスモロジーと密接に関わってくる絶対的ケガレもまた、時が経るに従い変化するものなのである(表参照)。

 月経・出産に対するケガレ観の希薄化の根拠としては、1950年頃まではあったdap獲(月経小屋)の使用中止、女性の道の消滅とそれに伴う行動規制の解除、女性の年齢階梯の消滅などがあげられる。これら希薄化の主な要因は、戦後の平等主義に根ざした学校教育やキリスト教布教の強化、生理用品(主にナプキン)の普及、病院の開設とそれに伴う病院出産の増加などが考えられる。また、月経・出産に関わるケガレ以外では、今では老人以外は食物禁忌の知識をあまり持たず、自由に何でも食べるようになるなど、ある種の食べ物に対するケガレ観も希薄化している(14)。これは、下位村民の海外移住や学校教育などと密接に関連すると考えられる。

 一方、これら通時的に変化をとげているケガレに対し、現在でもあまり変化がみられないケガレ観もある。そのひとつが、死に対するケガレ観である。村落空間構造の箇所でみてきたように、月経中の女性はもはやケガレた道を通る必要はないのに、G氏の葬儀においてはゲガレとされる道の使用と、中央道(男の道)使用の際のお詫び(村長に対する貝貨の支払い)の行為がみられた。さらに、ヤップでは下位村民に対するケガレ観が依然として強くみられ、いまだに雇用機会や昇進の差別が存在し、漁業権の制限や労働奉仕等が課されている。そのため、下級階層村民は次々とアメリカやグアムに海外移住をし、下位村の過疎化・消滅が進行している。また、年少者に対するケガレ視に関しても、食物分配階梯の存続や年長者に対する礼儀の厳しさをみる限り、あまり変化してはいないといえる。このような一部のケガレ観の存続は、ヤップ社会では一方的に西洋近代の影響を受けてケガレ観が消滅しているというより、ヤップの人々が主体的にどのケガレ観を存続させ、どのケガレ観を消滅させていくのかという選択をおこなっていることを示していると考えることもできる。

 また、女性そのものに対するケガレ観については、ケガレ視の存続とその希薄化の両面があり、今のところ明確なことはいえない。なぜなら、事物や空間においては現在も明確な男女の区分(gender segregation)が存在し、依然として女性は男性に対して社会的に劣位におかれる反面、月経や出産のケガレが希薄化していることにより、女性へのケガレ視が弱まったとも考えられるからである。              

 

5. 考察

 

 ここでは、文頭で提示したpublicとprivateという概念を用いて、これまでみてきたヤップ社会におけるケガレ観の変化の諸相に関する若干の考察を試みたい。ミクロネシアに限らず、アフリカやインドなどを対象にした文化人類学的研究では、以前から男女の社会的・空間的segregationが研究され、女性は家事や子供の世話、家の管理というdomesticな領域で活躍し、一方男性は政治や経済的活動といったpubulicな領域を司るという明確な領域区分がみられることが指摘されてきた。このようなニ項対立的な見方に加え、近代化が浸透するにつれてより細かい領域の出現がおこった。すなわち、domesticな次元よりも狭い範囲としてのprivateな領域の出現である(15)。殊に月経を考える上では、個人のみがそれを把握しているというケガレのprivate化を想定することが可能となる。従って、一口にケガレといっても、それらは公開され、知れ渡っているという意味での「publicなケガレ」と、非公開で個人だけが知る密かなケガレとしての「privateなケガレ」に分類することができるのではないだろうか。そうすると、従来のケガレはそのすべてが「publicなケガレ」だったが、現在は従来ケガレ視されていたものの一部がprivate化する方向へ向かったため、ケガレの希薄化がおこっていると考えられる。すなわち、ヤップ社会にみられるような月経に対するケガレ観の変化は、生理用品をつけていない腰蓑姿の伝統的スタイルでは月経は人目につき、月経小屋へ行くことを通じてそれは周知の公的なケガレとされたが、今では腰蓑を着用する女性はほとんどみられず、ナプキンや脱脂綿等を使用する人が増えたため、月経は人目につかない、個人のみが知るケガレとなったのである。このような月経処置の変化は、「publicなケガレ」から「privateなケガレ」への変化を促し、ひいては月経に対するケガレ観の希薄化をもたらす一因となったと推察できる。

一方、死や下層階級村民に対するケガレ視など、近代化が進行してもあまり影響を受けずにそのケガレ観が希薄化しないものについては、希薄化させないという人々の主体的な選択が働いているためと考えられると同時に、そのケガレが周知なものであることを逃れることができず、現在でも「publicなケガレ」として認識されるので存続しているといえるのではないだろうか。今後、もし下位村が過疎化で消滅し、出身地による社会的な差別構造が周知のものとして機能し得なくなるときがくるならば、このようなケガレ観も消滅するかもしれない。しかし、葬式や死人など死に関するケガレ観については、それが周囲に知られないものとなる可能性は薄い。それは、近代化により共同体が崩壊したと言われる日本の都市においても、葬式が社会的・公的なものとして執りおこなわれることを考えれば明白であろう。

 

おわりに

 本稿では、ヤップ社会におけるケガレ観の動態性について、希薄化の有無ということを中心に論じてきた。その際、分析概念としてpublic/privateという区分を提示し、「publicなケガレ」は存続して行くけれども、「private化したケガレ」は消滅していくという仮説をたてた。今後は、ヤップ社会における動態的なケガレ観のより詳細なデータを収集し、ケガレをpublic/privateに分類することにどのくらいの妥当性があるのかを慎重に検討していかなければならない。また、ケガレ観の変化に伴い、女性の社会的地位がどのように変化しているのかをあわせて調査することも必要となる。その上で、ヤップ以外の地域におけるケガレ観の動態的比較研究をおこなうことや、筆者がこれまで継続しておこなってきた、近年に成立したと考えられる沖縄における女性のケガレ観の分析(16)の有効性をさぐっていくことが新たな課題となるだろう。

 

 

(1)本稿では、D.Labby のtabugul:sacred,high,pure,clean、taay:profane, low, impure, dirty ( Labby,1976:69)という説明を基に、tabgulを<神聖・浄>、taayを<ケガレ・不浄>という言葉であらわした。従って、「神聖」と「浄」、および「ケガレ」と「不浄」はほぼ同義語として使用している。ただし、「ケガレ」と「不浄」を厳格に区別して使用する研究者もいる。例えば、関根康正は、ヒンドゥ社会におけるケガレ研究には、カースト社会の構造を解明するためのものと、ケガレそのものの解明に目的を置くものという2つの流れが見いだせると述べ、前者の社会的イデオロギーの中で規定される不浄を「不浄」(デュモン的意味)とし、後者の社会的イデオロギーでは律しきれない、社会的空間から溢れ出すケガレを「ケガレ」としている(関根 1985)。このような意見は大変参考になるものの、ヤップ語のtaayという語には社会的格付けと結びつくイデオロギーとしての「不浄」の観念と、それ自身が絶対的ケガレとみなされるコスモロジー的「ケガレ」の双方の意味が内包されており、両者の厳格な区分は難しいといえる。 

(2)松岡 1943, Schneider 1962, Lingenfelter 1975, Labby 1976, 吉田 1986, 牛島 1987, 板橋 1988など。

(3)ここでいう「希薄化」とは、第一義的には表面にあらわれる観察可能な事物(月経小屋や行動規制)の消滅ないしは脆弱化をさす。そして、このような変化は、人々の意識の変化と密接に係わっていると考えられる。

(4)註(2)で示した研究者たちによるヤップ社会のケガレ観の報告は、そのいずれもがケガレを固定した普遍なものとして捉えており、動態的な視点はみいだせない。また、ヤップ研究以外で、分類されない曖昧な境界区域がケガレとしてタブー視され、パワーをもつものとされるというM.DouglasやE.Leachらの象徴主義的説明や(M.douglas 1969, E.Leach 1981[1976])、男女の性差を文化と自然に分けて説明することの妥当性を問うE.ArdenrやS.B.Ortnerなどのフェミニスト人類学におけるケガレ研究などに関しても(E.Ardner 1987[1972], S.B.Ortner 1987[1974])、ケガレとされるものの通時的変化についてはあまり言及されていないといえる。

(5)日本民俗学におけるケガレについての議論を概観すると、まず、桜井徳太郎は、ケガレをケの概念と結びつけ、ケ(稲作に関する霊力)が枯れた状態をケガレとみなし(桜井 1969)、宮田登も生命を持続させる気が止まった状態がケガレであるとした(宮田 1996)。また、波平恵美子は日本の民間信仰の研究にはハレとケ以外にもケガレが重要な概念となるというハレ・ケ・ケガレの三項対立(三極対置)を提示し、ケガレのもつ両義的な力について論じた(波平 1984)。さらに、近藤直也はケガレとハライの関係性に注目し、動的対立関係にある両者はハレとケを仲介するパイプ役を果たし、ケガレはハレからケへの傾斜である説明した(近藤 1997)。

(6)public/domestic、およびpublic/privateという分析概念は、それぞれ、「公的」/「家族的(家内的・家庭的)」、「公的」/「私的」と訳される。これらの用語は主にフェミニスト人類学で使用され、威信構造が形づくられる公的な領域は男によって支配され、女子はそこからは排除され、家族的領域に押し込められていると説かれた。(山崎 1987)。また、「個人的なことは政治的である」というスローガンにみられるように、フェミニズム研究では近代における私的領域に注目し、その領域における男女の支配/従属関係を問題とした(K. Milet 1985[1970])。人類学的研究においても、近代社会を捉えるうえで、「家内的」/「公的」というニ項対立を超えた「私的」な領域を想定した研究が散見される(例えば小馬 1996)。

(7)「ヤップ帝国」という呼称は、ヤップ島の東方にある離島群がヤップ島の傘下に組み込まれて定期的に貢納物を献上するという、政治的地位の主従関係および宗教的信仰に基づくsawaiとよばれる交易体系が形成されていたことに注目した研究者たちによる呼び方である(牛島 1987 )。

(8) Yap State Statistical Bulletin 1990(1990)による。

(9)ヤップ研究におけるケガレのコスモロジー的研究については、板橋作美が「状況、条件、場所などに左右されず、常にケガレたものとされるものがある」と述べ(板橋1988:238)、絶対的なケガレについて論じているものがみられる程度である。

(10)位階の区分については、研究者や研究対象地ごとに多少の差異がみられる。例えばD.Labbyは7段階(Labby 1976:88)、牛島巌は6段階に区分している(牛島 1987:46)。また、日本統治時代には1島民から5島民までの5段階の区分がなされていた。

(11)ここにまとめたデータは、1994〜1995年の延べ10ヶ月の現地調査に基づくものである。

(12)ケガレた場所とされる月経小屋にはMalilanという男性の神がいて、月経になった女性の夫になるので、もし男性が月経小屋に来れば、Malilanが取り殺すといわれていた。一方、漁に行く男性には、Madayという海の女神がついていて、もし夫婦で寝たらその神が怒って、どちらかを殺すといわれていた。今後はこのような神観念との関連も視野に入れた、コスモロジーとしてのケガレ観の探究が必要と思われる。

(13)筆者の知る限り、ヤップ本島のGagil管区Wanyan村にはいまだに若い女性が、神聖視されている石貨の並ぶ村の集会所の前の道を通らず、裏道を通る慣習が残っているが、その他の村落ではこのような習慣はほとんど消滅している。

(14)食べ物のケガレ視の希薄化については、板橋作美と白川琢磨も、「食物についても、このタブーは、特に若者の間では、ほとんど忘れられている」と報告している(板橋・白川 1986:57)。

(15)ラディカル・フェミニズムでは、参政権の獲得などという社会的・公的な領域にのみ男女の差別があるのではなく、性行為など個人的な領域にこそ男女差別の構造の本質があると指摘し、privateな領域に注目した(野田 他 1995)。しかし、本稿では男女差別がprivateな領域でもみられるという視点ではなく、近代化によるprivateな領域の出現とそれによるケガレ観の希薄化に注目している。

(16)従来の沖縄研究では、沖縄は日本本土とは異なり月経や女性に対するケガレ視がないといわれてきたが(波平 1984)、筆者の調査から、沖縄本島本部半島に位置する備瀬という村落では、神行事中や出漁前など特殊な場面においては月経や女性がケガレとみなされ忌み嫌われていることがわかった。筆者は特殊な場面でしかケガレ観が顕在化しないことに注目し、コンテクストによりあるものがケガレ視されたり神聖視されたりするという、ケガレの転換性を指摘した。そして、女性や月経がケガレ視されるようになったのは、ユタなどによる首里(中央)を模範とした父系概念の徹底化により、男性中心の見方が形成された近年になってからであると推察した(塩月 1992)。このようなケガレ観の形成過程に対する視点は、ケガレ観の消滅過程の視点と同様に、ケガレ観の動態的研究に欠かせないものといえる。

 

参考文献

 

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 1996 「父系の逆説と「女の知恵」としての私的領域−キプシギスの「家財産制」と     近代化」『アフリカ女性の民族誌−伝統と近代化のはざまで』pp.281-332,

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 1987 『ヤップ島の社会と交換』東京:弘文堂.

吉田禎吾

 1986 「ミクロネシアへの旅」『みすず』第311号,pp.2-9.

 

From “Public Pollution”to“Private Pollution”:

A Study on Dynamics of Pollution about Women on Yap Islands,   Micronesia

 

Ryoko Shiotsuki

 

Abstract: The aim of this paper is to clarify dynamics of pollution about women on Yap Islands in Micronesia. Though ideas of pollution to menstruation and childbirth are presently disappearing among Yapese,few researchers pay attention to such dynamic movement, because ideas of pollution are thought as fixed and unchange. To analyze this phenomenon, I propose concepts of“public pollution”and “private pollution” borrowing from opposite concepts of public/private or public/domestic of feminism anthropology. “Public pollution”means pollution known and opened to all people,on the other hand “private pollution”means pollution unopened and vailed to the public and known only to the person concerned. Consequetly I set up a hypothesis that “public pollution”remains but “private pollution”vanishes, for an idea of pollution to the dead keeps public meaning throughout the present, meanwhile pollution about women like menstration or childbirth is loosing the meaning of public and becoming private matter. One of the causes of the change from “public pollution”to “private pollution”is modernization−diffusion of sanitary napkins,education of equallity,provision of a hospital and so on−, but Yapese are not only influenced by modern societies but also choose by themselves and work out their strategy about continuity or discontinuity of ideas of pollution.