夕焼けが街全体を覆い、窓からの眺めは真っ赤に染めあげられている。
「リーデルや」
窓際の椅子に腰掛けていた老婦人が、編み物をしていた手を休めて口を開いた。
さほど広くはない部屋は、ほぼすべてが白系の色で包まれている。壁は淡いクリーム色で統一されていて、どこかの風景を取り込んだカレンダーが一つだけ貼られていた。部屋の中心あたりにベッドが一つ、その枕元に移動式の台が一つあり、上には時計が置かれている。他に調度品といえるようなものは、老婦人が座っている揺り椅子と、ベッドの脇に置かれているパイプ椅子、それと窓際に置かれた花瓶くらいのものだ。
そして簡素なベッドの上では、一人の少女が上体を起こして座っていた。淡いピンクのパジャマに身を包んだ少女は、目をつむりながら手にした本のページに手を這わせていた。
「なぁに、おばあさま」
窓の方を向いた瞬間に、少女の胸まである長い髪がさらりと流れた。夕焼けを反射して、一瞬だが少女のつややかな黒い髪が金色に染まる。
「リーデルや、夕焼けがきれいだよ。わかるかい」
「うん。とっても、温かい……」
少女は目を開けることなくそう答えた。すでに少女と呼べる歳ではないのだが、その様子がとてもあどけなく見えるので、彼女には少女という呼び方が一番似合っていた。
少女の名は、リーデリュート・メイノス。二年と半年ほど前の高校卒業を控えたある日、彼女の身体を原因不明の高熱が襲った。三日三晩生死の境をさまよった彼女は、生を得た代わりに健康な身体と光とを同時に失った。それ以来、彼女は祖母であるマリエラと二人で、一日のほとんどをこの白い部屋で暮らすようになっていた。
しばらくマリエラは窓の外の夕焼けを眺めていたが、やがて老眼鏡をはずし、再び編み棒を鳴らし始めた。定期的に繰り返される編み棒同士のぶつかり合う音が、窓の外の騒音にかき消されそうになりながらも、ゆるやかに室内に響いていた。
リーデリュートは手にしていた本にしおりをはさむと、枕元に置いてある時計に手を伸ばした。表面をさわり、時間を確認する。
「おばあさま……」
やや時間をおいて、マリエラが老眼鏡をかけながらベッドの方を振り向いた。
「どうしましたか」
「今日は、ロームは来ないのかしら……」
リーデリュートは時計を弄びながら、子供の頃はよく遊んだ幼なじみの名前を口にした。
「そういえば、今日はこのくらいの時間に来ると言っていましたねぇ」
二人が噂を始めた時、突然部屋の扉がノックされる。扉の向こうから、遠慮がちな声がかけられてきた。
「こんにちは、ロームですけど」
「おや、噂をすればなんとやらだねぇ」
リーデリュートはその声に笑みを浮かべると、枕元のスイッチに手を伸ばし、それを押した。部屋の扉が、かちりと音を立てて少しだけ内側に開く。それを待っていたように、すぐに扉が大きく開いた。
「リーデル、こんにちは」
「いらっしゃい、ローム」
そこには、試合をしていたスタジアムから直接ここにやってきたロームが立っていた。途中まで走ってきたのか、少し息を切らせている。リーデリュートはその息づかいを感じ取り、首を傾げた。
「どうしたの、疲れてるみたいだけど?」
「あ、いや、なんでもないんだ」
そう言って後ろ手に扉を閉めながら、ロームは部屋の中に視線をめぐらせた。窓際にいるマリエラと視線があう。
「あ、どうもこんにちは」
ロームがお辞儀をすると、マリエラも椅子に座ったまま目を細めて会釈をした。
「よく来てくれたわ。あなたが来ない来ないと、リーデルがうるさかったところなのよ」
「もうっ、おばあさまったら」
ふくよかな笑みをたたえたマリエラの言葉を聞いて、リーデリュートが頬を赤くしながら声をあらげた。
「もう、ごめんね、おばあさまったら冗談ばかり言うんだもの」
「だ、大丈夫、気にしてないから」
そう言いながらも、ロームの顔は真っ赤になっていた。だがリーデリュートの目は閉じられたままなので、それを見られる心配はない。
「ねぇローム、今日、試合だったんでしょ? どうだったの?」
ロームがパイプ椅子に腰を下ろしたのを確認するかのように、リーデリュートが口を開く。それを聞いて、思わずロームは手を打った。
「そうそう、それを言いに来たんだ」
忘れていたと言うようなロームの言葉を聞いて、リーデリュートは手を口に当てて笑った。
「やだ、ロームったら。最近物忘れが激しいんじゃないの?」
「そ、それはひどいよ……」
ロームは苦笑して答えた。だがすぐにまじめな表情になると、ゆっくりと口を開く。
「実は、……勝てたんだ」
「本当に? おめでとう!」
リーデリュートは手を叩いて喜んだ。
「ありがとう。これも、リーデルが僕にドーリングを勧めてくれたおかげだよ」
「もう、またそう言うのね。何度も言っているじゃない、確かに勧めたのは私かもしれないけど、実際に頑張っているのはロームなんだから」
今から約二年半前、ロームは高校卒業後の進路をどうしようか、迷い悩んでいた。
その当時は太っていたということもあって運動は得意ではなく、かといって勉強ができるわけでもなかった彼は、進路を決められないままずるずると卒業を間近に控えていた。そんな彼にドーラーという道を勧めてくれたのが、幼なじみのリーデリュートだった。
多少迷ったものの結局ドーラーになったロームは、最近になってやっとそこそこの成績を上げられるようになった。だが、その当時すでに短大行きが決定していたリーデリュートは、結局高校の卒業式にも出席できず、ずっとこの部屋で刻を過ごしているのだ。
「でも本当に、あの泣き虫だったロームがね……ごめんね、応援に行けなくて」
幼き日のことを思い出したように、リーデリュートが口を開いた。
「ううん、そんなことないって」
ロームは首を思いきり振った。
「ほんと、僕はここで応援してもらってるだけで十分だから」
「うん、がんばってね」
リーデリュートはにっこりとほほえんだ。ロームの好きな、その笑顔で。
「ところで……」
会話が一段落しかけたとき、リーデリュートが遠慮がちに口を開いた。ロームには彼女が何を言いたいのかはわかっていた。
「あ、そうそう、ケニングのやつだけど、あいつも勝ったよ」
ロームはわざと、今ちょうど思いだしたように口を開いた。本当は言いたくないことだったのだが、ロームが来てリーデリュートが喜ぶ理由は、このことが聞けるからなのだ。言わないわけにはいかない。
「本当に? じゃあ、あと三つ勝てば初優勝ね!」
自分の時と微妙に違う反応に、ロームはいらだちを覚えた。
その男の名は、ケニング・ブリッズボードと言う。ロームやリーデリュートと同級生で、ロームと同様ドーラーである。そして、リーデリュートの好きな相手でもあった。
「あ、ああ、僕とケニング、そろって初の準々決勝進出さ」
ロームはなんとかそれだけを口にしたが、残念ながらリーデリュートには聞こえていないようだった。
「ね、ケニングさんがどうやって勝ったのか、教えて」
笑みをたたえたまま、リーデリュートは無邪気にそう聞いた。その質問がどれだけロームを傷つけているかも知らずに。
ロームは一瞬だけ悲しそうな表情を見せたが、すぐにもとの調子に戻ると、まるでこれが自分の仕事だといわんばかりに話し始めた。
「ケニングのやつ、今日は剣で戦ってたな。ダブルソードって言うんだけど……」
リーデリュートの表情は、今日の今までのどんな表情よりも喜んでいるように見えた。そしてロームは、その笑顔が大好きなのであった。
いつのまにか日はとっぷりと暮れ、人工の明かりが至るところで街を照らしていた。
帰り道、忘れ物をしたロームがスタジアムまで戻ってくると、入り口の辺りに若い男女の姿がいくつもあった。何か大声で楽しそうに騒いでいる。
「まったく、わざわざ出入り口で騒ぐこと無いのに……」
そう小さくつぶやきながら脇を通り抜けようとしたとき、突然ロームに向かって声が飛んできた。
「おい、お前……ロームか?」
名前を呼ばれて、ロームが驚いて顔を上げる。そこには、知らない女の肩を抱いた、赤毛の男――ケニング・ブリッズボードが立っていた。
「ケ、ケニング……」
「ねぇ、こいつだーれ?」
ケニングに抱かれている女が、ロームを指さしながらそう言った。
「ちょっと黙ってろ」
ケニングはうるさそうに一括すると、腕を放して女を突き放した。突き放された女は、ぼやきながら他の仲間の輪に加わっていった。
「ようローム、お前もベストエイトなんだって?」
ロームは黙ってうなずく。
「なかなかやるじゃんか、正直言って見直したぜ」
「あ、ありがとう……」
予想外のケニングの言葉に、ロームは動揺しながらも返事をした。
「ケニングも同じだろ、さすがだよ」
「俺の場合はようやくって感じだけどな」
悪びれもせずに、ケニングはうなずいた。
「で、お前こんな時間に何やってんだ?」
「ちょっと、忘れ物を取りに……」
自分のことを棚に上げた質問に、毒気を抜かれたロームは正直に答えた。
「ふーん……ま、明日、お互い頑張ろうぜ」
「あ、ああ」
そう言ってケニングは、仲間のところに戻ろうとした。ロームは意を決して、その背中に話しかける。
「あ、あのさっ!」
「ん?」
「あのさ、ケニング……リーデリュートのこと、どう思ってるの?」
ロームは身体中のすべての勇気を総動員して、やっとそれだけ口にした。だが、ケニングの返事はそっけないものだった。
「リーデリュート?」
ケニングが首を傾げたのを見て、ロームの頭に一気に血がのぼる。
「リーデリュート・メイノス! ……高三の時、つきあってたんじゃないの?」
「ああ、あいつね」
ケニングはやっと思い出したようにうなずくと、口を開いた。
「ちょっと可愛かったからつきあうのオーケーしたのに、そのとたん病気だかなんだかで入院だろ。しかも目、見えなくなったって言うし。それじゃつまんねーよな」
ケニングはいとも簡単にそう言った。一瞬腹が立ったロームだったが、すぐにその怒りは収まった。リーデリュートのことをないがしろにした事実よりも、ケニングにその気がないことがわかったことの方が、彼にとっては重要だったからだ。
「そういや時々手紙来てたみたいだな……」
ケニングは髪をかき上げるように頭に手を当てて、思いだしたように言った。
「手紙?」
驚いてロームが尋ねると、ケニングはまたもつまらなそうに言った。
「ああ、ドーリングがんばってくれとかそんなことだったかな。……あいつがどうかしたのか? 目、見えるようになったとか?」
「あ、いや、そうじゃないんだ」
手紙の内容が気になったが、慌ててロームは言葉を取り繕った。
「こないだ、まだ寝たきりだって話を聞いてさ、そういやリーデルとケニングってつきあってたんじゃなかったっけな、って思ってね」
言葉を続ける度に言い訳がましく聞こえるのは、ロームにはよくわかっていた。だからロームは、ケニングが話し出すより早くもう一度口を開いた。
「それだけ。じゃあ僕、忘れ物取り行くから」
「そうか……もしリーデリュートの目が治ったんだったら、俺にも教えてくれよ」
「う、うん」
てっきりロームは本心を見透かされているんじゃないかと思っていたのだったが、今のケニングの返事を聞いて、ほっと胸をなで下ろした。
「ケニング、あいつだれ?」
スタジアムに入ろうとしたロームの耳に、ケニングの仲間の声が聞こえた。
「ただの高校んときの同級生だよ」
スタジアムの中は明かりはついているものの、人の気配はまったくない。
「そっか、ケニングは別にリーデルのことはどうとも思ってないのか……」
通路を歩きながら、ロームはそうつぶやいた。そしてそのことを考えるたびに、彼の心は弾んでいくのだった。
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