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動物、とりわけカワウソの腑分けはたびたび行っていた山脇東洋にとって、人体解剖こそ、長年の大いなる夢であった。 宮中の医官で、蘭学とは直接関係のなかった東洋だが、当時の漢方医学が人間の骨格や内臓などに、無関心なことに疑問を抱いていた。 師の後藤艮山のすすめで動物実験をつづけているうち、いよいよ古来の五臓六腑説に疑惑がわく。 東洋五十歳の宝暦四年(1754)2月7日、京都所司代に願い出ていた形死者の腑分けが認められた。
六角獄舎(現在、京都市中京区六角通大宮西入ル因幡町)に出向いた東洋は、若狭候医官・小杉玄適とともに当時の被差別民の執刀する腑分けを検分し、剥胸腹図、九臓前面図、九臓背面図、脊骨側面図、の四つの解部図からなる『臓志』を著した。 これが日本人初の人体解部(観臓)、解部学書となるのである。
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