我が輩は猫である。
名前はまだ無い。
――とは甚だ不正確な話だ。
事実、我が輩にはれっきとした名前があった。
しかし、それはまったく違った高次生命体としての我が輩であって、決してこのような仮の姿に似つかわしいものとは到底思えぬのである。
よって、今ここにある我が輩には名など無いのだ。
そもそもこの<猫>という生物は言語というものを持ち合わせぬ。ならば、いっそう名など不要だ。
ここにいる間、我が輩は他の猫と区別される必要などないのであるから。
我が輩はただ、これら下等な生物が蠢く地上で、どれだけ我が輩の腹を満たしてくれる謎が生まれるのであるか、それだけを確認できればいい(少なくとも今は)
「あ、お帰りなさい」
人間というものは、本当に愚かだ。
己の力量というものを全く弁えていない。己以外の生物が常に施しを求めていると考えるなど笑止千万。
人間が思うよりもずっと本能に突出した生物共は、奴等のことなど眼中にないと言うのに。
「外は寒かったでしょう?」
なかでも、この女は群を抜いて愚か者だと我が輩は思う。
こじんまりとした、窮屈としか言いようの無い部屋には空いているスペースなど無い。小さな冷蔵庫には必要最低限のものしか入っておらず、毛布も一枚しか用意は無い。
他者に施す余裕など、この女には微塵も無いのである。
にもかかわらず、この愚か者は、どこから来たのかも分からぬ猫を狭い部屋へと招き入れ、ミルクと温かな寝床を与えたのだ。しかも、あまつさえ、その猫は猫では無いのである。それは女よりも高次元に生きる生物であり、気さえ向けば忽ちのうちに女の生命を奪い取ることも弄ぶことも可能な力を持つ危険因子なのだ。
――そう。
我が輩は猫ではない。
我が輩は魔人である。
「今日は冷えるからね。お風呂に入って、温かくして寝ようね」
女は人間が己が愛玩動物にするように、我が輩を抱き上げて屈託無く笑う。
――その笑顔の、なんと滑稽なことか。
上機嫌な女に、我が輩は為すがままにされながら、腹の中でほくそ笑む。次にこの世界に降りる時には、人間の形を取ることにしよう。
そしてその時は、我が輩の方がこの女を遥か高みから見下ろし、
この細い身体を我が輩の腕で抱き上げてやるのだ。
2008.11.02.再掲