中国・地球の環境危機とクルマ社会化

   ―日中欧の文化比較の視点から―

山口 勇(経営システム学科)

 

 

中国は「2000年に小康水準」という目標を達成し、すでに二輪自動車生産量世界一、自動車(含二輪)の生産量世界一を誇るまでになった。中国では所得増を基礎として乗用車購入希望者が激増しており、乗用車生産量の急拡大は不可避である。だが、中国は大衆車時代に入る前に大気汚染、自動車事故死亡者数ともに世界一となった。その結果、「脱クルマ」志向派が台頭する兆しもあり、中国の交通政策は、日本式「自動車優先と新幹線網整備重視との二本立て交通政策」と欧州式「自動車規制・公共交通優先の交通政策」とのあいだで揺れることになるであろう。本稿では、中国が「クルマ社会」化することの意味を「地球環境危機」、日欧中の文化比較の観点から考察し、そのオールタナティブの可能性を究明してゆきたい。

 


はじめに

.「中国、大衆車時代」の現段階

  トヨタの中国進出と「大衆車時代」    

2 中国における自動車の激増の特徴とクルマ社会化の現況

3 中国の道路運輸と道路建設の急速な進展

.環境危機、「交通戦争」のグローバル化

 1 クルマによる大気汚染と中国的対策

 2 「交通戦争」化の現状と対策の特徴

.「脱クルマ社会」の課題とライフスタイルの転換 

1 「公共交通優先政策」と脱クルマ社会志向

 2 交通政策の日欧比較と中国  

3 欧州の「脱クルマ社会」志向とその可能根拠

4 私有車が氾濫する「虚飾の豊かさ」からの決別と中国

むすび


 

 

はじめに

 


都市環境だけではなく、地球環境そのものが、氾濫するクルマに耐えることができないことが明らかになり、EU諸国における脱クルマ社会志向の都市づくりの動きが、いま注目されはじめている。他方、欧米日の自動車産業界は競って旧ソ連・東欧諸国や、「発展途上国」への自動車商品―資本輸出に血道をあげ、クルマ社会のグローバル化の流れを加速させている。こうして「クルマによる地球環境破壊」の度合いが今後ますます高まることは必至である。急激なクルマ社会化は、大気汚染、騒音などの環境破壊だけではなく、自動車事故の年間死亡者8.4万人の中国を頂点に、インド6万人、ロシア5万人(99年。以上は事故後7日以内の死亡者数)に見られるような大量の人命破壊を伴っている。中国のクルマ保有数は、アメリカ2億台の三分の一の7千万台であるのに対し、事故死亡者数はアメリカ4万人の二倍強の8.4万人という数値である。また、地球環境危機は、クルマ社会のグローバル化によって急速に進展している。

地球温暖化問題におけるEUと日米との対立は、クルマ社会化による地球温暖化問題に対する取組みの違いにおいて典型的に表現されている。97年の京都会議に出席したヨーロッパNGOの活動家たちは、日本に大型乗用車が氾濫していることに驚いたといわれている。だが、3年後、日本政府は、その傾向を放置したままで、「気候変動に関する国際連合枠組条約の締約国 第六回会議」(以下、COP6)に臨んだのであった。

「乗りものによるエネルギー消費原単位」を「旅客」(乗車率、アクセスなどを含む実績)で比較すると、乗用車の実績値(単位輸送量:一人・km)は、大都市で714キロカロリーであり、この値は、大都市通勤電車52キロカロリーの13.7倍である。乗用車は全国平均値の644キロカロリーをとってみても新幹線ひかり号116キロカロリーの5.6倍であって、航空機530キロカロリーよりも多くのエネルギーを消費する(上岡96、42-3頁、補注も参照)。

クルマ社会化やこれまでの浪費的なライフスタイルを根本的に見直すことなくしては、京都会議におけるCO2排出量の対90年比6%削減という目標は達成不可能であろう。クルマ社会化を前にして、中国は、アメリカや日本のクルマ社会化路線を反面教師として別の道を設定することができるし、その兆しも僅かながらみえはじめている。本稿の副題を「―日中欧文化比較の視点から―」としたのは、クルマ社会的なライフスタイルの定着と反比例して文化が貧困化してきた日本を批判する観点から、日本の「豊かさの中の貧しさ」を摘出し、日本的な「豊かさ」を批判し、それをのりこえる道を中国が探し出す一助にしたいからである。

.「中国、大衆車時代」の現段階

.環境危機、「交通戦争」のグローバル化(省略)

.「脱クルマ社会」の課題とライフスタイルの転換 

1 「公共交通優先政策」と脱クルマ社会志向

 2 交通政策の日欧比較と中国 (省略)

2 交通政策の日欧比較と中国 


先に見たように、王炬・深副市長は、日本もヨーロッパと同様に政府が軌道交通を主とした総合的な都市交通体系に力をいれているかのように紹介している。王副市長は、深市に軌道交通や「園林化した交通空間」をこれから作るという観点から、日本に地下鉄が多いことや道路沿に「園林」(草木地)があることに注目しており、そのような観点からの日本評価であろう。だが、中国の関係者には、道路の絶えざる拡張とクルマ増加との悪循環、車道偏重の歩車非分離道路ゆえの後進国型交通事故多発、騒音と排気ガスによる健康な生活の破壊といった日本の現実を直視し、日本を反面教師とする観点から交通体系を構想してほしいものである。自動車産業と土建業に支配された日本の交通政策は、「脱クルマ」社会志向の世界の流れに逆行するものであることを明らかにし、日本の交通政策を批判し、根本的な転換を求めることが必要である。このような問題意識のもとに、「脱クルマ社会」志向の欧州の交通政策との対比において、日本の交通政策の構造的な問題性をみてゆくとしよう。


 

(1)「自動車交通抑制政策」(欧州)VS「自動車交通優先政策」(日本) 


1980年代には自動車交通抑制政策が欧米の多くの都市に広がった。ところが、日本ではそれとは反対に、1980年代後半になって大規模な道路建設が計画され、推進された。反面、鉄道交通は国鉄の民営、分割によって通勤、通学などの日常生活を支えたローカル路線網は赤字を理由に廃止、縮小された。もっと奇妙なことは、オイルショックの後あれほど政府、財界が一致して叫んでいた省エネルギー政策が、自動車道路建設計画では消えてなくなったことである。エネルギー効果のもっとも低い自動車交通のため、道路建設が交通政策の中心となった。代わりにエネルギー効率の高い鉄道を次々に廃止して、鉄道輸送を廃止していった。(白石、152

97年の京都議定書では、日本は2008年〜12年までに90年比6%の温室効果ガス削減に合意した。この目標を達成するための方策として、議定書第二条七項には、運輸部門における温室効果ガスの排出を抑制し又は削減する措置が明記された。だが、日本では自動車交通の部門でのCO2排出量大幅増大も原因となって、99年度におけるCO2国内排出量は前年度比4.0%増、90年比9.8%増になった。200011月、「京都議定書」の合意事項を実行するためのルールを決めることを目的としてハーグで開催されたCOP6では、「CO削減案合意できず」、「政府、露骨に産業を優先」、「京都議定書 2002年発効絶望的」という『朝日新聞』11.26)見出しに見られるように、日本政府はCO排出削減問題に対して無責任な態度に終始した。日本政府は97年以後の日本の現実を直視し、環境政策、とりわけ交通政策の転換をはかる姿勢をつゆほども見せず、産業界における省エネの進展を強調して「森林管理によるCO吸収」を強調したり、途上国での「原発(施設建設)で温暖化防止」などという方針を出したりして、EUや途上国からの憤激をかったのであった。

 ところで、運輸部門におけるCO2増は、二大要因からなっている。第一の要因は、自動車の排出ガス量の増大であり、それは、自動車購入者と使用(運転)者を優遇する税制(自動車への環境税導入の見送り、消費税導入時における自動車物品税廃止による自動車購入者への大幅減税措置等)による乗用車販売量の増大、乗用車の大型化、鉄道貨物輸送に代わる宅急便小貨物の増加、等々の結果である。

第二の要因は、公共事業費の3割にのぼる莫大な資金とエネルギーが道路建設事業に投じられたことによるものである。 @自動車の増大と道路の拡張とは正比例関係にあり、A自動車の増大と渋滞によるクルマの速度とは反比例関係にあるということは、誰もが指摘し、日本の国土建設省自身も認めているところである。だが、不思議なことに、建設省は、自動車の増加に道路建設が追いつかないために渋滞している、渋滞解消のために道路整備が必要だということを最重点課題として、限りなく道路予算を増やしてきた。道路と自動車とは正比例関係にあるのだから、自動車を増やし、新たな渋滞を生み出すことは、はじめから分かっている。にもかかわらず、いまだに渋滞解消のためを主要な名目として道路整備のために平成13年度「事業費」から7・5兆円、国債費から3・6兆円弱、計11・2兆円が予算要求されているのである。

 欧米における「自動車交通抑制政策」と対照的な「大規模な道路建設」を推進するという日本政府の交通政策は、どこから、なぜ導きだされてくるのか。その構造的な根拠は、以下のところにある。


 

(2)「政・財・官」界による日本の交通政策支配とその構造  


政治家は財界に弱く、財界は官僚に弱く、官僚は政治家に弱いという三者相互のもたれあいと癒着の構造において、日本の産業政策と交通政策に支配的な影響力を持っているのが、日本自動車工業会(自工会)である。トヨタ会長=自工会会長=経団連会長という人事構造に現代日本の支配構造が端的に表現されている。現代日本の財界を支配しているのは自動車産業であり、その力を組織的に表現するのが自工会である。自工会は、「世界生産台数の31%を占める日本車」「世界の自動車供給国、日本」などの見出しのホームページを作り「自動車産業が日本経済を支える基幹産業として重要な役割を果たしている」と宣伝している。

  日本の産業・流通構造が鉄を産業の米とする重厚長大型から、半導体を産業の米とする軽薄短小型へと1980年代に転換する過程において、自動車産業界は、路面電車や地方鉄道を衰退に追い込んだり、各種情報機器をクルマに搭載したりすることによって軽薄短小型社会に適応したりして、日本の産業界に君臨する地位を築いてきた。自動車産業の基幹産業としての確立は、自動車商品の大量購入と大量消費に支えられ、大量消費は道路整備に支えられてきた。

自動車がある程度以上増えれば、道路拡張による渋滞解消策を基本とするという方法が無意味だということは、国土面積あたりの道路面積世界一の日本が実証済みである。道路密度は、ドイツの2倍、アメリカの4倍、中国の23倍、まさに世界一である(「我国交通運輸業発展現状分析」HP参照)。日本は、山が多く平地が少ない土地柄であることを考えると、この密度は異常に高い。にもかかわらず、それでも渋滞解消はできなかった。

北京では通勤通学者の4.7%が軌道交通を使っているに過ぎないのに対して、東京では8割が軌道交通を使っているという(「北京軽軌鉄路夢園在即」:「光明日報」99.11.15)。中国では、都市部の渋滞を解消するために軌道鉄道を増やす必要があることが強調され始めている。東京が北京に比べて渋滞度が低い理由は、山手線や12種に及ぶ地下鉄があり、山手線の内側では10分歩けば鉄道駅に着くことが出来るというほどになっているからである。

都心部への出・退勤者のたとえ一割でも電車や地下鉄から自家用車に転換すれば、どれほど道路を拡張したとしても、勤務地に夕刻までに到着することも不可能になるほどの渋滞が不可避になるだろう。このことを考えただけでも、道路拡張による渋滞解消を基本に据える策が基本的に間違っていることは明らかである。にもかかわらず、国と地方自治体は、財政破綻状況にあってもなお大規模な資金を「渋滞解消」を口実にした道路拡張のための「公共事業費」に充てるという交通政策をとりつづけている。日本は、「西欧諸国の平均投資額の5-6倍、イギリスの10倍を超える」投資を道路に注ぎ込んでいるという(白石、138頁)。面積が日本の25倍、財政規模も日本の二倍余のアメリカよりも日本の道路予算のほうが3割五分も多い。日本は、国家破綻状況といわれるほどに赤字を累積させ、平成12年度歳出約85兆円のうち国債費22兆円である。その財政赤字も公共投資、とりわけその3割を占める道路建設費によるところが大きい。

この異常な道路予算投入構造は、「日本列島改造論と建設業界との汚職構造を作り上げた」田中角栄が、自動車税を道路建設にだけ投入する目的税にして道路建設優遇の特別会計制度を作ったことによって成立した。『日本列島改造論』には「くるまが増えれば道路の維持補修費がうなぎのぼりに高くなる。現在我が国の道路の維持補修費は国民一人当たり五〇万円である。ところが東京では一、五〇〇万円もかかるという計算もある。・・これが現実であることを認識してもらいたい」と書いてあるという(「技術評論家・近藤完一さんの話」参考文献H61頁)。こうして「自動車が増えれば〔ガソリン税、自動車重量税などの〕自動車税収が増える。しかし、これは道路整備の財源に特定されているから、道路建設予算が増える。それを使って舗装道路を増やし整備をよくすれば、自動車が使いやすくなるからふえる」(白石、139頁)という構造ができあがった。これは、自動車産業と土建業にとって理想的な循環構造だといえよう。自動車産業国家日本、土建国家日本の骨格的構造がここにできあがったのである。


 

(3)自動車メーカーによるRV車販売、ディーゼル車志向誘導、大型化推進 


トヨタ、日産、ホンダの各自動車メーカーは、「環境に優しいクルマ」を自動車宣伝のキーワードとし、環境問題に熱心な企業のイメージを売り出している。だが、このような宣伝とは裏腹に自然環境破壊、生活環境破壊、地球環境破壊に最大限度貢献してきたことは明らかである。

 白石忠夫は、上記『世界は脱クルマ社会へ』において、以下に列挙するような諸点を指摘して「環境にやさしく」とは矛盾する自動車業界の動きを明らかにしている。すなわち、@乗用車保有台数一家族一台という飽和状態のなかで乗用車を売り込むためにRV車販売戦略を作り、膨大な宣伝費を使って大型のディーゼル乗用車を享楽的な使用目的のもとに保有するように煽り、RV車を乗用車販売台数の52%(99年)にふやしたこと。 ARV車だけではなく、自動車のディーゼル車志向を誘導し、乗用車のディーゼル車比率の増加(99年11%)をもたらし、「NOx削減法」の目的に反する行動に走ったこと。B大型乗用車の増加、乗用車の小型車から大型車への転換をもたらし、車一台が一人を運ぶに要するエネルギーを550キロカロリー(80年代末)から643キロカロリー(93年)へと増大させ、「自動車単体の燃費の改善によってCO2の排出を削減すると言ってきた運輸省の主張は乗用車の大型化によって簡単に覆された」(126頁)こと。

 このような日本自動車業界の「実績」が、「環境にやさしい」自動車という宣伝文句に反していることは明らかである。


 

(4)日本の交通政策と会社本位主義 


日米欧の環境問題に対する取組み姿勢の違いは、COP6において明瞭に表明されている。日本政府は、通産官僚出身の環境庁長官が代表を務め、日本の環境政策が財界に支配され、その意向に従うものであることを明確に表明した。

日本の財界が環境問題に無関心だとか、取組みが弱いというのではない。日本には、「循環型社会への転換」構想を打ち出し、ゼロエミッション工場を増やしている企業が多い。産業公害を克服する技術を代表する排煙脱硫技術、ガス溶融炉によるゴミ焼却技術、太陽光発電技術、ソーラーハウス建造技術、エコカー開発技術などにおいて、日本の企業は世界的に高い水準にあることは間違いない。そのような日本企業の環境への取組み姿勢を象徴するのが、日本企業や事業所のISO14001認証登録数の多さであろう。ISO14001は、企・事業体における環境に対する取組み状況を詳細に検討し、認証する国際的に権威のある認証機構であり、その企・事業体が、省資源・省エネ、リサイクルなどに熱心に取組み、認められたことを証明するものではある。

2000年11月の日本の認証登録数4,636はダントツの世界一であり、二位ドイツの二倍弱、四位アメリカの四倍である。環境問題に対する日本の取組み姿勢は、まさにここに象徴的に表現されている。すなわち、97年の京都会議においてCO2排出量6%削減を約束していながら、99年度におけるCO2国内排出量は前年度比4.0%増、90年比9.8%増という状況を作ることに見られるように、その環境問題への取組み総体をみると環境後進国的な状況であるにもかかわらず、それとは対照的に企業は次々にISO14001認証の登録をとって、登録数において世界一になっているのである。

ここに露呈している矛盾は何を意味しているのか。

まず、ISO14001の認証は、アメリカで開発され、日本で開花した製品品質管理(QC)に類似した手法を駆使するとき、日本企業は比較的容易に取得することができるということである。日本的な会社本位主義的集団主義が、QC運動やISO認証取得の取組みに最も適しているからである。日本は「会社本位主義」(参考文献D)社会であり、個々人は、会社という組織に「家人」のように帰属させられており、その根深さは「うちの会社」という一般社員の言語表現にも表れている。

ISO認証は、企業イメージを良くし、無駄な支出を削減して経費節減になるなど、企業業績の改良に良いから、会社本位主義の本領を発揮して企業は競って認証をえているのであって、地域の環境や地球環境という観点から企業はなにをなすべきか、その観点から浪費的ライフスタイルをどこに求めるべきか、浪費的なライフスタイルを改めようとする消費者の欲求にどのように応えるべきか、等々を真剣に検討しつつ取り組んでいるのではない。したがって、会社は、道路建設の縮小、公共交通機関の育成というようなCO削減に最も効果的な方法にまったく無関心であるだけではなく、それらは日本を支える基幹産業にとって好ましくない方法という感覚であらかじめ退けられてしまうのである。

したがって、会社の社員たちは一方では「環境保護のために」過労死するほどに苦労してISOの認証をえているにもかかわらず、他方では、環境保護に有効なライフスタイルをみづから探すという問題意識や主体性をつくっているわけではない。したがって、仕事としてのISO認証取得のための活動とをふまえ、環境保護の観点から通勤・通学や遊びに乗用車を使うことと電車やバスを使うことを比べてみるとか、自動車を使うことが公共交通機関を衰退させるという関係にあることや交通事故の危険性、騒音問題等々を検討するというような意識が生れるということはありえない。ISOの認証取得の活動とその担い手たちのライフスタイルの見直し、変革とは無関係なのである。したがって、ISO認証のために過労になり、その過労を癒す手段として乗用車を乗り回すということになったとしてもいかなる矛盾を感じることもない。ISO認証を指導監督する会社の責任者を含め、日本の会社人間の全体がこのような姿勢でISO認証に臨んでいるからである。


 

(5)車道優先交通政策と途上国並みの歩行者・自転車事故発生率


日本の自動車優先政策は、公共交通に対する自動車優先だけではない。安全な歩道や自転車道建設を軽視して、車道偏重の道路建設するという意味における自動車優先政策でもある。とくに地方都市では、安全な自転車道はもとより、歩車分離の歩道さえ少なく、いつ自動車にひき殺されても不思議ではない状態である。これは、日本の交通事故死亡者のうちで自動車乗車中の事故死亡者数が死者全体の27%弱であるのに対し、歩行者と自転車を合わせた事故死亡率44.1であるという数値98年)に端的に表現されている。これを欧米主要国の自動車事故死亡者数に比べてみると、日本が著しく歩行者の危険性を放置する国だということが明らかになる。欧米では、自動車乗車中の死亡率が、自動車による一方的な被害者である歩行者と自転車を合わせた事故死亡率よりもかなり高い。それぞれの数値を各国別に列挙すれば、以下の通りである。アメリカ52%対15%、カナダ54%対15%、オーストラリア69%対21%、ドイツ61%対22%、フランス65%対15%、イタリア45%対19%、オランダ52%対29(参考資料D、441)。これに日本27%対44%という比率を並べるとき、国家破産を導くほどの道路建設費が、歩行者や自転車運転者の命を軽視する車道偏重の道路整備費として浪費されているということは明らかである。

国土交通省も交通事故の多さと「歩行者や自転車」の事故死亡者数の多さを無視することができず「我が国の交通事故発生の特徴」の(1)「負傷者が依然として百万人を突破するなど厳しい状況」、(2)「我が国において歩行者や自転車など交通弱者の事故が多い」という表題のもとに以下のような表を掲示している。

 


3 欧州の「脱クルマ社会」志向とその可能根拠


日本と違って「環境先進国・ドイツ」をはじめとしたヨーロッパでは、自動車交通の削減、軽快電車などの公共交通新設とそこへの交通需要の吸収、自動車交通重視から軌道交通重視へと政策が転換されつつある。クルマ社会の枠を出るものではないが、日本とは違うことに注目すべきだろう。それは、道路建設計画の縮小と道路建設から鉄道建設へのシフト、自転車専用道路の創設・拡大などの交通インフラ建設の路線転換と並行して進められており、自動車利用者へのコスト負担増、炭素税創設などによる自動車利用抑制、自動車税収資金の鉄道建設・経営への投入による援助、等々をともなうものである(上掲、白石編著等参照)。

 ところで、では、ヨーロッパ、とくにドイツにおける交通政策転換の可能根拠はどこにあるのか。まず、白石忠夫が「転換の要因」として挙げていることを「政策転換の可能根拠」という観点からとらえかえしてまとめると、以下のようなものである。@政策転換の物質的な基礎要因:「転換を促した要因は自動車排ガスによる大気汚染・騒音の深刻化などの環境問題と交通渋滞である」(39頁)。A内外の環境優先政策の影響:「ドイツの交通政策の転換のきっかけとなったのは、国内ではフライブルグ市、国外ではオランダ、北欧諸国の環境優先の交通政策の実施であろう」(40頁)〔オランダ、デンマークにおける「環境優先の交通政策の実施」とは、CO2排出の大幅な削減による「持続可能な社会の維持」を基本理念とした総合的な交通計画と、年度ごと、部門ごとの行動計画の策定によるもの。同上4142頁〕。B危機意識、基礎的認識の高まり:「アジェンダ21」(92年ブラジル国連環境開発会議で決議された行動計画)等を受けとめての「温暖化の危険に対する国民的危機意識」の高まり、「温暖化の発生原因である現代の経済システムに対する基礎的認識」の深まり(6465頁)。C「住民運動」の強さ、「住民運動の思想からEU共通の環境政策へ」というルートの形成:「ドイツの環境政策全体はまず市民運動が口火を切り、緑の党や社会民主党が市議会、州議会で取り上げて州の政策となり、それがさらに連邦議会を動かし、法制度化して行政当局に実施するよう義務づけていく。それらの積み重ねが連邦議会の幾つかの環境法制定として結実してきた。」(208〜9頁)。

 以上の四つの要因をみるとき、第一に注目すべきことは、日本よりもはるかに強力な住民運動があり、〈住民運動→政党の政策化→法制化〉というルートが強固に作り上げられていることである。日本でも高度経済成長時代における公害反対の住民運動が1968年に公害対策基本法を成立させたし、20001月にも、「自動車の排ガスなどによる大気汚染に苦しむ兵庫県尼崎市の公害認定患者と遺族」を原告とする「排ガス有害物質の差し止め」を求める尼崎公害訴訟において「完全勝訴」を勝ち取った。また、1996年から「自動車排ガスによる喘息などの健康被害患者」を原告とする「東京大気汚染公害裁判闘争」も展開されている。大気汚染公害反対闘争に見られる日本の運動は、裁判において勝訴するところまで進みつつある。だが、残念ながら汚染地域の交通量を減らす抜本策の実現へと進む力を持つことができていない。公害被害患者を主体とした各地方の運動を他の地域や関連の深いその他の団体の運動とつなげていくとか、それらの運動を地区、地方から全国レベルの政党議員が受けとめて自動車交通量の削減をもたらす交通政策へと反映させるというようなルートが作られていない、あるいはそれが弱い。これは、一方では住民運動の大衆的基盤が薄いために政党を動かす力がないという側面と、他方では、既存の政党が自動車による大気汚染公害問題や、日本の交通政策に対する関心や意識が弱いという側面とが相互補完関係にあると思われる。

 このように見てくると、住民運動の弱さ、大衆的基盤の薄さは、国民大衆の大気汚染、騒音などの自動車公害問題や地球温暖化に対する危機意識の弱さ、公害や地球温暖化の基礎に横たわる日本の交通政策や日本の支配構造についての構造的な認識の弱さの問題と不可分だと思われる。欧州における地球温暖化に対する危機意識の高さは、「永久凍土の融解、アルプスを脅かす」という見出しのもとに「多くのヨーロッパ人に最も有名なスキーリゾート地、温暖化によって山の表層とともに永久凍土溶解、地すべりの危険性が増大」20011.4BBC NewsBBC HPと伝えられているように、身近なところに地球温暖化の危機が迫っていると感じられることも大きいであろう。

だが、日本人が欧州の人々に比べて危機意識が弱いのは、客観的な要因だけに還元することはできない。地球環境危機に対する責任感の弱さと深い関係があるのではないかと思われる。というのは、フロンガスの大気放出に対してヨーロッパでは高額の罰金刑が課されているのに対し、日本は、フロンガスを内蔵する電気機器や自動車の大量生産国であり、冷蔵庫やクルマの解体時を含む大量のフロンガス放出に対して重大な管理責任があるにもかかわらず、いまだに放出禁止の法律一つ作らず、フロンガスの大半放出するに任せているからである。この状態を作り出し、支配しているのも自工会を中心とした日本の産業界である。

住民運動の弱さは、危機意識の弱さや日本社会の構造に対する認識の弱さとの関連が深いが、大衆的基盤の薄さは、住民運動が〈政党の政策化→法制化〉というルートを作り出すところまで進み得ない弱さとして現れている。この弱さの社会的、精神的な基礎、基盤はどこにあり、それはどう打開されるべきか。「ニッポン株式会社」、「法人資本主義」、「会社本位主義」などと呼ばれてきた日本資本主義の特殊性とどのように関連しているのか、などを検討することが必要であろう。

環境問題と主体的に取り組むためには、環境破壊行為の責任を各自の行為主体に即して自己対決し、解決主体としての自己を確立することが原点となる。現代におけるあらゆる消費生活行動は、多かれ少なかれ希少資源を消耗し、環境を破壊することを免れえない。ライフスタイルを見直すことが重要な意味を持つ。だが、個々人のライフスタイルは、経済・社会システムに規定されており、資源浪費的、環境破壊的な経済・社会システム、流通・交通システムそのものを改変することなしに、個々人の「ライフスタイル改善」の努力を量的に積み重ねることによって得られる成果は、小さなものにとどまる。ここでも、経済・社会システム、交通政策の転換という課題の重要性が確認できるのである。


(以下、省略)