土佐清水からの便り
1月22日から
清水港は、遠洋・沖合漁業の基地です。入院している病院から隣一軒はさんで自動車道路があり、道路に面した2階建てのビルとその敷地の先に、清水港があります。100メートル足らず歩くと港です。すなわち、漁港の埠頭・コンクリート岸壁まで徒歩1分というところです。
この岸壁から3キロほど沖合に太平洋への出口があり、湾の中は幅1キロから2キロ足らずの入り江になっていて、その北西岸壁の多くが清水港です。
土佐清水にきて翌々日(24日)、はじめて清水港の岸壁沿いを、そしてその東端にある鹿島神社沿いを気功をしながら歩きました。港には、最大搭載人員4人―8人という小さな漁船―釣り舟が数十隻コンクリート岸壁に繋留されていますが、漁船から岸壁へ張られた、半ば水に浸かったロープ付近に4匹の草フグ―体長25センチ位で、フグ提灯の一歩手前くらいに膨らんだ姿のもの―が泳いでいるのをみました。佐世保の白岳町あたりの海で中学生の頃みて以来だから、50年ぶりの「再会」でしょうか。小さな川の川口付近では小さなボラが沢山泳いでいる姿や、岸壁のすぐ近くでイッサキが岸壁を離れることなく泳いでいる姿も見えました。郷里の海で遊んでいて、沈没した廃船のところへもぐるとイッサキを見つけ、捕りそこなった記憶と共にこの魚の記憶がよみがえって来ました。空には鳶(とんび)が4匹「ピーヒョロ」と鳴きながら羽を広げて風に乗って舞っていました。これも私の少年時代を思い出させる懐かしい風景です。
昨年8月中旬以後、ガス腹になったときなどに腹部にときどき痛み出るようになっていましたが、それは腫瘍によるのか、手術痕が痛むのかわからない、後者の可能性が高いのではないか、と推測していました。だから、自覚症状は何もないといっていました。しかし、11月中旬に放射線治療をはじめてからは、時々でていた痛みがでなくなったので、やはりその痛みは腫瘍が原因だったようです。放射線治療を受けてから放射線医師に聞くと、腫瘍がある場所は神経も多いところだから、腫瘍による傷みだったのだろうとのことでした。
1月16日のMRI検査の結果を20日に聞いたところでは、11月中旬から12月下旬へかけて25回ー50グレイの放射線照射治療は成功し、腹部の腫瘍は消えているとのことでした。PETでも見つからないような小さながん腫瘍の芽がリンパ節から血液を通して大腸、肺、肝臓などをはじめとした臓器にちらばっている可能性が極めて濃厚ですので、通常は抗がん剤を使います。しかし、私は、尿管がんには抗がん剤は無効という説が有力であり、たとえ効いたとしても効く前に残り一つになった腎臓をいためる可能性の方が高いので、抗がん剤治療を避けて、それに代わる治療を探し続けています。
土佐清水病院に入院したのは、この病院の院長・丹羽靱負医師による「丹羽療法」を試してみるためです。丹羽療法の特徴は、漢方薬の生薬を遠赤外線の放射熱をつかって炒るなどして加工し、それに水と酵素を加えて発酵させることによって生薬の薬効を活性化させ、その分子を吸収しやすいように加工して作られた「制がん薬」を使うというのが中心ですが、そのほかに、「天照石」風呂(砂風呂の代わりに仁丹玉大の丸い小石の風呂。小石が宮崎の山から産出する「天降石」なので、アマテラス石・「天照石」と丹羽医師が名づけたものだと思っていたら、天降石以上に有効な赤外線を出す石が発見され、それを使っているとのことでした)という遠赤外線治療、ビタミン剤点滴、飲尿療法(自分の尿200ccから有害成分を除去して10ccにし、それを飲む。がん患者や膠原病患者は、免疫力のある成分を尿から排出してしまうので、それを体に戻すための療法)などがあります。効果をみながら薬を変えるということもやるということでしたので、入院して治療を受けてみることにしました。
丹羽医師は、自分の子供が小学2年生のときに白血病にかかり、抗がん剤で地獄の苦しみの果てに死んでいったのに、何一つ力になってあげることができなかったと、それを契機として、抗がん剤に代わる副作用のない薬の開発に全力を集中し、漢方薬の生薬を元にして制癌剤をつくることに成功し、かなりな成績をあげることができるようになった、自分の薬でなおらないならば、他のどんな方法でもなおらないと豪語するような医者です。もともとSODという活性酸素を消去する体内の酵素―これは体内にあるが、40代から次第にその働きが鈍り、その結果、加齢とともにがん発生率が高くなるといわれている酵素―の研究者として国際的に著名な学者ですが、その著名な学者が、自分の子供の苦しむ様を見たことを転機として、SOD様食品というSODの働きを助ける食品を開発し、その方法を使って制癌剤を開発したということです。この病院の近くには、丹羽免疫研究所という丹羽靱負医師が私的に立てた研究所があり、数名の専属研究者がいて、これまで数億の資金を投じて制癌剤開発につながる研究をしているとのことです。その研究所があるためでしょうか、後述するように22日に採血し、24日には、検査結果がわかりました。
1月15日、新横浜駅前クリニックでの「出張診察」時に、尿管がんは難しいがんだから、自分の薬で腫瘍が大きくなるのを抑えることができる可能性は2割程度だろうが、入院すれば4割位の可能性があるという話でしたので、様子をみるつもりで入院しました。
放射線治療は成功し、腫瘍が消えているということでしたので、12月24日に8だった腫瘍マーカーSCCが1月22日この病院に来た日に採血したSCCの数値は、正常値である1.5近くに下がっていることを期待していました。しかし、24日夜、丹羽医師からは、8.5だったと伝えられました。
22日に入院する直前まで、入院するか、自宅で薬だけ飲むか、迷いました。入院した場合に生じるプラスとマイナスを見るために、まずメールで私の闘病生活の特徴などを伝えて、その返事をもらってから決めようと考えて、詳しい「手紙」(別添)を書いていました。しかし、丹羽医師からの返事を求めることは、入院の断りに通じるのでは、という心配もあり、電話で薬の種類などについて問い合わせなどをするだけで入院を決めたのでした。
この病院は、「自由診療」(保険医療ゼロ)だけれども、全国各地から、医者に見離された難病患者―アトピー、膠原病、末期がんなど―が押しかけてくるためにベッドが足らない、遠くからの患者で混み合う病院です。これはほぼ予想通りでした。60床ほどの小さな病院だということも予想通りでした。が、来てみると、驚くことばかりです。60人ほどの患者のうち、ほぼ40名は内科。内科の患者すべての主治医は丹羽医師であり、他の医師はすべて非常勤でした。主治医の診察時間は消灯時間の後になることが多いというのも変ですが、それも月2回です。主治医は殆ど不在で他県や国外に飛び回っていて、月10日足らずだけ「主治医」として病院に帰って「診療」。(このことは、『医は仁術』にも明記されています)。留守の期間、すべての患者情報が、ファックスで主治医に伝えられるという構造になっている。非常勤の医師は、全国各地から交代で来て診察するため、担当医というのもいないのです。
病院食は予想に反して、普通の病院の食事から、肉と乳製品を除いただけだという印象なので、食事療法面などについて、入院した方が、マイナスではないか、「B型肝炎保菌者」としての予防医学的な観点からの食事の延長線上でやってきたこれまでの食生活が乱れるということも心配だと非常勤の医師や看護婦に伝え、メールで送る予定だった「手紙」をある非常勤医師に渡しました。
まもなく、これらがすべて丹羽医師に伝わり、夜の8時過ぎに隣の部屋(看護婦詰め所)に丹羽先生から話があるということで呼ばれました。
丹羽先生の右手に坐っていたN医師(50歳位)を指しながら、彼ら(若い医師たち)は「ご主人」(私のこと)に理論で負かされるから私が答えると前置きした後、別記のようなことを私に力説したのでした。
追伸: 足摺岬や竜串などの観光地が
病院から早足で30分も歩くと尾浦崎の突端にある灯台に着きます。そこから灯台から10分ほど東方向に歩いて山道を下りると海岸にでます。広い、岩畳の東側に砂浜が広がる海岸に人影はありません。海岸についた後、岩陰の潮だまりで「ヤドカリ」を見つけたり、岩伝いに行けるところまで歩いて、小さ目の牡蠣が岩肌にびっしりくっついている様などを鑑賞したりして遊びました。その後、水平線に夕日が沈むまでの1時間半余りの時間、砂浜で郭林新気功。海の水平線に沈む太陽をはじめて見ました。太陽が水平線にかかる時、太陽がだるま状にみえると聞いていましたが、だるま状というより、太陽が水平線に接する直前、水平線と太陽との間に真っ赤な上弦の半円の台ができ、太陽がその上に乗ったかのような形に見えました。ぎらぎらとまぶしすぎた太陽の光が急速に大きく赤く美しい姿に変わり、夕映えの美しい空に溶け込んでゆく様は、海に沈む太陽ならではの光景でした。(2月26日)