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Mary Dunhill : “Our Family Business” (ダンヒルの歴史) |
Mary Dunhill : “Our Family Business” (ダンヒルの歴史) 1979年 Alfred Dunhill Ltd. 発行。 著者は初代アルフレッド・ダンヒルの娘で1906年生まれ。引退後、73歳の時の自伝である。17歳でダンヒル社の一員に加わり、1961年ダンヒルの社長に就任した女傑の伝記、波乱万丈の人生とダンヒル社の歩みを活写していて興味深い。 想像どおりパイプに関する技術的な話はほとんど出てこないが、通常理解されているダンヒルのイメージの裏側を知れば、結果としてダンヒルに限らずパイプの歴史の一面が浮かび上がる。 父アルフレッドの晩年の失踪、最初の夫や兄弟との死別、精神を病んだ娘の病死(自殺?)、といった特別な人生を淡々と、しかしポジティヴに振り返る筆致は一人の女性の自伝としても興味深いが、ここでは特にパイプ・喫煙具に絞って内容を紹介する。 (カッコ)内に私の感想を記す。 ***** アルフレッド・ダンヒルの祖先はノッティンガムの農民だったが、アルフレッドの曽祖父の代、19世紀の初めにロンドンに出て服地商を始めている。しかし当事のロンドンでは馬が多く使われていたことからすぐに馬具製造業に転進した。1872年生まれのアルフレッドは喋るのが下手なうえ、勘気が強い子供で8歳になるまで学校に行けなかった。成績は悪く、目が弱いので読書は苦手だった。他の兄弟が大学まで行ったにもかかわらずアルフレッドは15歳で家業を手伝うことになる。馬具の製造という職人仕事を仕込まれたことが、後年のクラフツマンシップへのこだわりの萌芽になった、と本人が語っている。 アルフレッドは父の商売が時代遅れであると感じ、そのうち自分で新しい商売を新しい方法で始める野心を秘めていた。時は19世紀の90年代中葉、ヨーロッパ大陸から全く新しい乗り物「自動車」が英国にもやって来た。この頃父親は引退し家督をアルフレッドに譲る。すぐに彼は自動車にとびつくのだが、多くの自動車マニアとは違い、メカニズムへの興味はなかった。彼の購入したフランスのド・ディオンは英国に輸入された三番目の車体であったと言われる。 馬具商のかたわら Motor Mart というクルマ屋を始めるが、当時のクルマはほとんどなんのアクセサリーも付属せずに売られていたことから、すぐに商売を自動車関連グッズに方向転換した。 Dunhill Motorities の誕生である。ゴムのマット、ホーン、ライト、ヘルメットやゴーグル、スピードメーターというのが商品だったがこのとき発明したウインド・シールドつきの「ドライブ用パイプ」が後年の喫煙具ビジネスのきっかけになっている。 この商売は大当たりして二年以内に英国での業界最大手にのし上がる。商売の拡張が必要だったがアルフレッドには大きな資本がない。そこで出資者を募り、株式会社にする。だが取締役など他人の意見に従うことができない彼はあっさりとこの商売から手をひいてしまうのだ。 次に彼が始めたのがパテント・オフィス。小さな発明の特許取得を手助けする商売である。カメラ、蓄音機、不思議なおもちゃから自転車のパンク修理パッチ、馬用の日傘にいたるまで多くのガラクタを自宅に持ち帰っては調べていた。この時期アルフレッドがなにかの技術的革新に関心を持ったのは確かなようである。そして彼が考えていた商売の案は菓子屋、おもちゃ屋、そしてタバコニストであった。 アルフレッドは郊外に土地を購入する。最近鉄道が延びてきた町の駅前に何エーカーもの土地を確保し、数軒の家を建てて自分たちはそのうちの一軒に住み、他は売ったのである。しかし不動産ビジネスには素人であった彼はこの取引ではたいしたお金を手にしたわけではない。ド・ディオンもこの時に手放しているが、娘(著者)のメアリーが生まれたのはこの頃だ。 再びロンドンの小さな家に移り、デューク・ストリート31番地にタバコ・スペシャリストを開業したのは1907年7月7日のことであった。面白い事に、アルフレッドはスモーカーではあったが、当初彼のタバコに関する専門知識は不動産の時と同様皆無であったという。だがその店舗は革新的なものだった。高級品を並べ、婦人用のおしゃれなシガレット・ホルダーなどはその目新しさからたちまち人気を博したのである。当時タバコとは一般的には雑貨屋で食品と並んで量り売りされているものに過ぎなかったのだが、ダンヒルはロンドンのウエストエンドにお洒落な喫煙具屋という前代未聞の店舗を開いたのだった。かつてワインがそうであったように、タバコもいずれ高度な嗜好品として喫されることを予見したのである。 (ここまでがアルフレッド・ダンヒルが煙草商売を始めるまでのいきさつである。興味深いのは、アルフレッドはクルマも不動産もディティールに入り込むことなく、大づかみにその時代の中での位置づけを見てとることに敏であった、ということだろう。そしてタバコニスト以前のさまざまな経験から、最高のものを作れば必ず売れる、というゆるぎない確信がダンヒルの経営哲学になったことがわかる。) ここで本書に登場するダンヒル・ファミリーを紹介しておこう。アルフレッドには彼を含め少なくとも3人の男の兄弟があった。(この辺記述が曖昧) アルフレッドのすぐ下の弟 Herbert はアルフレッドを助け、後年ダンヒル社の社長を務めている。下の弟 Thomas は音楽家で音楽教師でもあった。 メアリーの兄弟、すなわちアルフレッドの子供は Alfred Henry, Vernon, Jack, Mary の4人でメアリー以外は男、そして彼女は末っ子である。(本の表紙はこの四兄弟)長男は父の名前をもらっているが欧米ではよくあることだ。ジャック以外の3人はダンヒル社で働くことになる。(次男のヴァーノンは手先が器用、数学に秀でていた、とあるからクリッカー=ヴァーノン・フィットメントは彼の発明によるのだろう) さてダンヒルの煙草商売は最初の数年は苦戦を強いられる。アルフレッドはもうかっていた自動車アクセサリー業を手離したことをくやんでもいたようだ。このことから家庭では気難しい父親・夫であり、家族との交流は上手くいってはいなかった。夫婦喧嘩はしょっちゅうで、アルフレッドは何度か浮気をしている。 アルフレッドは特にタバコの調合の研究に熱心で、この仕事だけは他人に任せなかった。有名な My Mixture Blend を顧客の要望にあわせて調合し、レシピを保管したのである。商売を危機に陥れていたのは得意客への信用販売であった。多くの客は支払いを何ヶ月もしなかったのだが、これはロンドンの高級商店では常識だったのだ。倒産寸前まで追い込まれたダンヒルだったが、そのユニークな商法と将来性を買った債権者、アルフレッドの姉からの出資などで商売は上向きになってくる。なによりも利益をあげたのはダンヒル自社製のパイプだった。Absorbal と名づけられたフィルターつき紙巻タバコもよく売れた。そして1913年までに、一家は郊外に豪邸を買って移り住むまでになった。 第一次大戦ではアルフレッドの3人の息子は招集されている。すでに父の仕事を手伝っていたアルフレッド・ヘンリーとヴァーノンを欠き商売に支障をきたしたが、ここでアルフレッドの弟ハーバートの存在が大きくなる。ニューヨークで商売の経験のあったこの人物はダンヒルの経営にとって力強い味方になった。ハーバートの参画のすぐあと、まだ戦争中にアルフレッドはノッティング・ヒル・ゲイト(高級住宅地)に召使いつきの家と工場を購入している。この頃までにダンヒルのビジネスが成功をおさめていたことの証だ。
(ダンヒルが1910年まで自社製のパイプを作らなかったのは何故だろうか?本書の第五章は唯一パイプについて書かれた部分であり、初期の事情が多少詳しく説明されている。) アルフレッドはタバコニストを開業した当初から既存のパイプに不満を持っていた。そこでブライヤー・パイプについては3年間密かに研究を続けていたのである。これについて彼は従業員はおろか家族・兄弟にも話さなかった。デューク・ストリートの店の隣り、28番地に建物を借りてその二階でパイプの研究を行なったのである。 (この章によると、当初ダンヒルの店で売っていたのはクレイ、メアシャム、そして通常仕入れられる中堅グレードのブライヤーパイプであったように読める。BBB, Comoy’s、Barling、Loewe、Weingottなどはおそらく各自で店を持っており、新参者に卸すようなことはしなかったのではないか? ダンヒル以前に高級パイプがなかった筈もなく、ダンヒルが始めたのは「超高級パイプ」であった、と見るべきだろう。もしそうだとすれば、ダンヒルのパイプはフェラーリに対するランボルギーニのような存在であったのかもしれない。確立された既存の高級パイプメーカーへの挑戦、と見ても不自然ではないだろう。CharatanからBob Whiter とJoel Sasieniを引き抜いて工場長にするのは1910年以前という史実も思い出される。なおメアリーはダンヒルのライバルメーカーについては見くだすことなく、敬意を払っている、と述べている。) アルフレッドは1912年までには6人ほどの熟練パイプ職人をかかえ、新たに本店の近く Mason’s Yard に工場を構えた。ダンヒルのパイプは他の二倍近い値段で、業界内のだれもがそんな高価なパイプが売れるわけはない、と考えた。だがダンヒルは売れた。おそろしく手間をかけ、最高の材料で作られたパイプはたちまち上流階級、軍の将校たちのお気に入りになったのである。メールオーダーも成功し、多くがフランスに送られた。フランス行きの箱はトイレットペーパーでくるまれ、「植物油」などと表記された。輸送中に盗まれることが多かったから、というのが理由だがダンヒルの人気の高さを物語るエピソードである。 一次大戦終結までには、ダンヒルは成功を確かなものにしていた。だがアルフレッドと妻の仲は悪かった。彼のあまりに独断的で特異な人柄がそうさせたのだが、この頃購入したヨットがきっかけで決裂は決定的になる。妻がヨット嫌いのため一人でセイリングをしていたアルフレッドはヴェラという愛人を囲い、子供までつくったのだった。このことはすぐに妻と家族の知るところとなり、アルフレッドはますます家族の中で孤立してゆく。もともとメアリーと兄弟たちは、父よりもその浮気癖に悩む母の味方だったからだ。アルフレッドは酒におぼれるようになり、メアリと母は郊外の家で、アルフレッドと息子達はロンドンの家で過ごすようになる。 こうした状況は子供のためにならない、と考えたアルフレッドはメアリーを寄宿制の学校に入れた。だが彼女は厳格な教育になじむことが出来ず、学校を出て仕事をする道を選ぶ。 1923年、メアリー17歳のとき、彼女は父の会社に会計係として入社、以後半世紀以上をダンヒルとともに歩むことになるのである。 第一次大戦後の好景気は煙草ビジネスにも追い風を送った。シガー、パイプ、シガレットなどにおいて、ダンヒルは常に最高級品として人気を博した。海外へのメールオーダーも順調だったが、ここでダンヒル史上重要な人物が登場する。ニューヨークのD.A.Schulteだ。シュルツはすでに全米にシガーストアのチェーンをもち、その他の商売も成功させていた裕福なビジネスマンだった。彼はデューク・ストリートの店の常連であり、あるときダンヒルをアメリカで展開する話を持ちかけてきたのだ。 「ダンヒルはこれからも成長するだろうが、アルフレッドとハーバートの二人のボスだけでは人手が足りないだろうし、資金も不足だ。私が出資すれば商売を広げられる、またアメリカでの販売は自分に任せてくれないか?」 この話に乗り気だったのはアメリカ帰りのハーバートだった。だが、かつて他人の経営への干渉を嫌ってクルマのアクセサリー屋を手離した程のアルフレッドは乗り気になれない。干渉されることも嫌だったが、アメリカ流のビジネスが自分のパイプの品質を落とす可能性をも恐れたのである。 ハーバートは経営手腕に優れており、この面の才能を欠くアルフレッドをよく補完していた。だが顧客のクレーム処理をよく管理し、社員の教育にも厳しかったこの叔父は、その有能さのゆえに次第にアルフレッドとの間に溝が出来てくる。シュルツの提案に関してもハーバートはアルフレッドの説得に手間取った。 こうして1923年、シュルツの出資により325,000ポンドの資本金でロンドンに Alfred Dunhill Ltd. が創立される。社長はアルフレッドでハーバートが筆頭取締役、アルフレッド・ヘンリーとヴァーノンも取締役に名を連ねた。シュルツはこの会社の株の大半を所有、1924年にはニューヨークに Alfred Dunhill of London Inc. を、その他にトロントとパリにも同様の会社を設立した。 パリの店はフランス政府の煙草独占禁止の法令により、喫煙具以外の商品を売る必要があった。サイフなどの革製品、時計、紳士用品などである。また日本のナミキと組んで漆塗りの製品を売り出したのもパリであった。これらの展開は大成功で、以後ロンドンでもニューヨークでもダンヒルの紳士用品が売られることになる。喫煙具のみに留まっていたらその後のダンヒルの成長はなかったのである。 1924年、新たに重要な商品、ライターが加わる。戦争後にあちこちから発売され出したライターは粗末なものが多かったが、メカニズムに明るいヴァーノンの考案で優れた形式のダンヒル・ライターが作られたのだ。金、銀、エナメルといった贅沢な仕上げはダンヒルにふさわしく高価なものだったが、優れた着火性、耐久性をあわせ持っていたのでヒット商品となったのである。 この頃、アルフレッドは不機嫌だった。株式会社になった今、重役会議などで外部から入った取締役に意見をされ、自分の考えが通らず、弟のハーバートのほうが発言力を増していったからである。息子たちもますますアルフレッドのやりかたに反発を強めていた。気分転換のために、またもアルフレッドはウースター州に46エーカーの土地付きの豪邸を購入、家族で引っ越している。古い屋敷を改装・修理して住むことで気を紛らわそうとしたのだろう。今やガレージには3台のロールス・ロイスがあった。だがその屋敷の改修が済んでしまうとアルフレッドは以前にも増して酒におぼれ、気難しくなり、会社に行かず部屋に閉じこもっていることが多くなっていった。 だがアルフレッドは密かに別の商売を考えていたのである。 それは化粧品だった。当時女性の化粧は今ほど凝ったものではなかったが、戦争後の浮かれた世相は女性を大胆に、積極的にしており、ここに商機を見たのだろう。 1926年のある日、メアリーは父に呼び出される。 「美容院をやらないか? そこで化粧品も売ろう」 20歳のメアリーは飛びついた。アルフレッドにとっては、今や自分だけのものではなくなったデューク・ストリートの商売とは全然別の会社を興すという目的もあったのだ。こうして アルフレッドの出資によりMary Dunhill という新たな会社が誕生する。 メアリーは初めてひとつの店、事業を任された。それは彼女の経営センス、接客センスを磨くのに多いに役立った。いっぽう彼女はデューク・ストリートの事務職を完全に辞めたわけではなく、いわば兼任であった。美容院の仕事は一時的なものであって、将来は引き続き兄弟たちとダンヒル社で働きたいと考えていたからだ。ともあれ化粧品はよく売れ、彼女の店は5人のスタッフを雇うまでになった。 1927年、シュルツの招きでメアリーと母は三週間のニューヨーク旅行に行く。キュナードの豪華客船で訪れたニューヨークは世界経済の中心地であり、ロンドンとは別世界の賑やかな街だった。ニューヨーク、なかんずくアメリカというものを生で見たことは多いに刺激となり、29年にも再び訪れている。その頃までに不動産やレンタカー業などによって、巨万の富を築いていたシュルツに連れられて遊び歩いたニューヨークでのスーパーリッチの暮らしぶりは彼女に強い印象を残した。 しかし彼女が英国に帰ってまもなく、ウォール・ストリートの株の大暴落から始まる大恐慌でシュルツはほとんど一文なしになってしまうのだった。そしてアルフレッドも、その一族もシュルツに勧められて行なった投資が全て回収不能となり、大きな損害を被る。 1928年には、アルフレッドはダンヒル社を離れ引退生活に入っていた。そして1930年の夏のある日、アルフレッドはついに家族を捨てて家を出る。 ビジネスにも自邸の庭いじりにも飽きて自室に引きこもることの多かった彼が、数個のスーツケースを積んだロールス・ロイスで向かった先は愛人のヴェラだった。 以後、彼の亡くなる1959年までの30年間に、メアリーがアルフレッドに会ったのはわずかに3〜4回であったという。 (この本でアルフレッド・ダンヒルが登場するのはここまでである。家族から見ればアルフレッドは良き家庭人であったとは言えない。したがってメアリーの父への筆致は極めて乾いており、客観的である。父が家を出た年にメアリーは未来の夫に出会っているが、そのいきさつを詳しく述べているのに対して、父の件はほんの数行ですませているくらいだ。 だがここまで読んでくるとアルフレッドの商才がどれほど天才的であったかがよくわかる。 パイプ以外の紳士用品、つまりライター、革製品、化粧品など、現代のダンヒル商品ラインナップの多くはアルフレッドの時代に基礎が出来ていたとは意外であった。 彼のなかでパイプへの情熱はシュルツの登場するあたりで終わったのではないか? いや Shell Briar 発売の1917年くらいまでで既に情熱は他に移っていたのではないか、とすら思えてくる。となると真にダンヒルと呼べるパイプは Bruyere と Shell だけなのかもしれない。 もうひとつ気付いたのは、アルフレッド本人は馬具職人出身であり、職人仕事の価値はよく理解していたのにも拘わらず、パイプ造りにおいては当人は作る仕事は一切していないこと。この点英国に限らずビッグネームのパイプ・メーカーは、どれも創業者はほとんどがパイプ職人だったと言って良い。ユニークな視点でパイプを造り、売ったダンヒルの源流を見る時に逃してはならないポイントだろう。瞭かなのは、アルフレッドにとってパイプとは彼が人生で成し遂げたことの One of them に過ぎない、ということだ。 ところでアルフレッドの有名な著作 “The Pipe Book” の初版は1924年であることも、上記の伝記からすれば頷けるのである。ブライヤー・パイプの話は最後の6ページのみ、あとは世界中の民族に伝わる煙草喫煙の習慣とその道具、歴史と煙草伝播の考察といった、ほとんど民俗学・人類学の書である。英国人にありがちな博物学的総攬性を要するこのような書物は、書斎にでも籠もって幾多の学術書を渉猟しなければなし得るものではない。この時期これを著すことによってアルフレッドは自らのパイプ・メーカーとしての仕事の総決算としたのではないだろうか? それもまたアルフレッドがパイプ職人ではなかったからの思いきりであったとは言えないだろうか。 さて、以後のダンヒル社の歴史も順調な時ばかりではない。) この頃ダンヒル社を取り仕切っていたのはハーバート・ダンヒルだった。だが健康にすぐれない彼は療養を兼ねてイタリアに滞在しており、そこからロンドンのダンヒル・オフィスの全てをコントロールしていた。厳格で口うるさいハーバートは社員からは恐れられていたがメアリーとは仲が良かった。彼女はしばしばイタリアを訪れてはロンドンの現況を報告しがてら叔父と語りあったのである。 1938年頃からは戦争の暗雲がたちこめてくる。この年ヴァーノンが病気で急死、ダンヒル社には大きな損失となった。そして第二次大戦が始まると重大な困難に直面する。まずメアリーの美容院がドイツ軍の爆撃で直撃される。この時点で Mary Dunhill 社は解散を余技なくさせられた。そしてデューク・ストリートの店もまた爆撃で破壊された。だがハーバートはメアリーの美容院ビジネスが崩壊したことを知ると、その会社の残りの在庫を全てダンヒルが買うように取り計らってくれた。彼はアメリカでの化粧品ビジネスに備えたかったのである。こうしてメアリーは再びダンヒル社に専念し、1944年には取締役になっている。 戦争が終わり、ダンヒル社の熟練工がほとんど無事で仕事に戻ってきたのは幸運だった。 だが戦前と比べるとなにもかもが変わっていた。煙草税の上昇、金細工製作などに使う貴金属原料の払底、紙の不足によりカタログ類が作れないこと、ハヴァナ・シガーなどの入手難、などである。ブライヤーの供給もままならず、販売先を限定せざるを得なかった。 戦後の経済、物資の状況はぜいたく品を扱うダンヒルにとっては全てが逆風だったのだ。 さてハーバート・ダンヒルの老化により1948年までにはメアリーの兄、アルフレッド・ヘンリー・ダンヒルが社長に就任していた。だがハーバートの支配は続く。それはメアリー達の頭痛の種だった。外国に滞在しっぱなしで英国の事情に疎いハーバートを訪れたメアリーは、ダンヒル社の窮状、英国社会の戦後の倹約ぶりを訴えた。そのときハーバートがつぶやいた「もうすぐ全てがお前達のものになるから心配はいらない」という言葉どおり、この叔父は1951年に亡くなる。その言葉どおり、メアリー達は遺産を受け取り、ダンヒル社の株式の多くも引き継ぐ。これによってアルフレッド・ヘンリーとメアリー兄・妹の社内での発言権が増すのである。 ようやくダンヒルの新しい未来図を描けるようになってきた1953年、メアリーの夫が病気で急死する。最愛の夫を失ったメアリーだったが、このことが逆に彼女をビジネスの世界にのめりこませる。兄、アルフレッド・ヘンリーと協調して社内の古株の取締役連中の首を切ったり、古い考えを変えさせたのだった。 いっぽうアメリカでは厄介な問題が持ち上がっていた。1949年、シュルツが亡くなると二人の息子が財産を受け継ぐのだが、彼らはニューヨークの Dunhill International 社(アメリカのAlfred Dunhill of London Inc. などのホールディング・カンパニー)の株を叩き売ったのである。土地の転売を業とするペンシルヴァニアの投資家がこれを買い上げ、彼らの好きなやりかたで商売を始めたのだ。 むろんロンドンは反対だった。だが圧力をかけようにも全く別の会社であるアメリカ側をコントロールすることは出来ない。1954年、メアリーはアメリカに飛んで古くからのダンヒル取り扱い先と策を練ることになった。 ロンドンには多くの男性取締役がいたのに唯一女性のメアリーがこの大役を引き受けたのは何故か? それはメアリーがかつて運営していた化粧品ビジネスと関係がある。”Mary Dunhill” ブランドの化粧品はアメリカ だがメアリーの説得は成功しなかった。彼らはダンヒルの製品を哺乳瓶とか、テニスや野球のボールと一緒に売り出したのである。だがパイプも質を落として、安く大量に売っていこうとする企てだけはなんとか食い止めることが出来た。アメリカでのこの状態は1960年代後半まで続き、ロンドンは常にアメリカの状況に気が休まらなかったという。 しかし50年代は悪いことばかりではなかった。1957年に登場する Rollagas Lighter の成功である。フランスのダンヒルがスイス人と開発した、このガス・ライターの先駆けはそれまでのダンヒル製品のなかでは最大のヒットとなった。1959年このライターの最初の海外輸出先は日本だった。以来日本は最大のマーケットのひとつであり続けている。なおメアリーは1958年に幼なじみと再婚している。 1961年アルフレッド・ヘンリーはダンヒル・グループの総帥になり、同時にメアリーはダンヒルの社長に就任する。最初は数年での引退を考えたが、その後75年までその役を務める。ダンヒル家の直系として周囲からも期待され、自分からも家業継続の信念に燃え、その役割を続けたのだ。アメリカでの一件以来、部外者に経営を任せてダンヒル本来の道から外れることを恐れたのである。そのためにはどうしても資本が不足していた。第三者からの増資を求めて注意深く提携先を探った結果、67年に Carreras Ltd. (のちの RothmanInternational )と契約を交わす。彼らはダンヒルの株式の50%を所有することになった。 こうしてダンヒルは業績を上げていく。服飾、アクセサリー、化粧品などがより広く展開され輸出を伸ばした。売り上げの80%は輸出だが、72年頃の輸出の内訳は極東(日本がメイン)43%、ヨーロッパ39%、アメリカ15%となっている。好調な業績はアメリカでの問題を解決することにも役立った。1966年、アメリカでのダンヒル関連の会社を買い戻すことが出来たうえ、数年のうちにアメリカでのセールスを倍増させている。 アルフレッド・ヘンリーが亡くなったのは1971年だったが、メアリー引退後の76年、ボスになるのはリチャード・ダンヒル、早世したヴァーノンの長男である。こうしてダンヒル・ファミリーの経営継承によって創始者、アルフレッド・ダンヒルのエスプリは今日まで引き継がれている。
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以上、メアリーが父に冷たかったとしても、結局ダンヒルのブランドはパイプに限らず、多くをアルフレッドが道筋をつけた商品によって今日あることがわかる。アメリカ人の商売のやりかたに警戒心を持っていたのも正しかった。結局アルフレッドは常人には理解されざる天才肌の人間であったと言えるだろう。 ところでパイプ党として眺めると、1930年登場の Root Briar、50年代初期の Tanshell などの新ラインナップ導入についてのいきさつを是非とも知りたくなってくる。上述したように1928年より後は “Post Alfred Era” と呼んで差し支えなかろうからだ。 各年代のダンヒル・パイプのクオリティーもこの歴史書と対照してみれば興味深いことが多い。67年にロスマンズと提携することは、品質低下へのひとつのきっかけと見て良いだろうし、71年にアルフレッド・ヘンリーが亡くなっていることも、品質低下への影響なしとしないだろう。この人は “The Gentle Art of Smoking” の著者であり、自らもスモーカーであったと考えられるからだ。 1919年にサシエニがダンヒルを出て独立することなども、このコンテクストから見れば多少の新しい仮説が許されるであろう。例えば一次大戦後の好景気がそれを後押ししたのは確かだろうし、サシエニは大戦中に新たに上役として加わったハーバートとは上手く行かなかったのかもしれない。いずれにしても職人出身のサシエニがダンヒルよりひとつ格が下がるのは致しかたない、という思いを新たにした。 それにしても58歳にして愛人と駆け落ちとは、なかなか艶っぽい人生ではないか。失踪後のアルフレッド・ダンヒルが30年間ヨットに乗って遊んでいただけとは思えない。この天才がなにをして暮らしていたのか知りたいところである。 |
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