【飛行機機内に吊革?】 ビルマといったほうがミャンマーというよりピンと来る方が多いのではなかろうかと思う。僕が行った1984年当時はまだビルマと呼ばれていた。首都はラングーン(現ヤンゴン)。ビルマに入る主たるルートはタイのバンコクから空路で入るのが一般的。当時、ビルマ航空でも何便かこの間を飛ばしていたが、周囲の人間が、 「あの飛行機には吊り革が下がっているよ。」と言う。「ええ〜、どういうこと?」と僕。 「うん、定員オーバーで乗せるからあまった乗客は吊り革につかまるんだ」と真顔で言う。「うっそぉー!」 【税関が難関?】 ま、ウソに決まっているがとにかく使用機材がムチャクチャ古そうなので止めにした。代わりにタイ・エアーにする。空港に着いてからが大問題。というのも大抵僕らがこうした途上国に乗り込む時にはかなりの日常雑貨類を持ち込む。先行して入った会社の人々からの要望で僕一人で何箱ものダンボール箱を持って行くハメに。 税関の前で「ご開帳〜〜」となるのだが、いやー、手が、ビルマ人税関の人間のいくつもの手が伸びてくる。「これはナンだ、アレはなんだ」と言っては、目を離すとそれぞれのポケットへ突っ込んでしまう。 「待て、まてぇ〜〜〜〜!」と叫びながらそれらをひったくり返す。 「おまえらのオミヤゲはちゃんとこっちにあるんじゃい!」と別のダンボール箱を手渡す。中にはタバコ、酒、ボールペンなんかを適当に入れておく。こうでもしなければサンザン没収された後、更に関税を払わされるだけだ。こんなこと本当はしたくないのだが、当時のビルマの税関は完全に腐敗していた。今はどうか分からんが・・。聞きしにまさる情況だ。今後の展開がおもいやられる。前回もちょっと触れたのですが、国名のビルマはミャンマーに、首都ラングーンはヤンゴンにそれぞれ呼び名が現在変わっているが、ここでは昔の呼び方で記すことをお許しいただく。 【博物館行きの車?】 さて、首都ラングーン市内に入るとそこはまさしく仏教の国であることがわかる。市中で一番高い建物はシッタゴン・パゴダを始めとするお寺。近代的ビルディングはほとんど見受けない。 それとびっくりするのは朝晩のラッシュ時の車。とにかく走っている車が古いのに驚く。中には第一次世界大戦の頃走っていた記憶のあるドイツ車。ほとんど映画の中でしか見たことがないような代物。また、日本車だと例えばトヨペットの猛烈に古い型。トヨタ関係者が見たらさぞや感激するであろうと思われる年代もの。 ラッシュ時が過ぎると、あちらこちらにエンコした車が路肩に止まっている。でも数時間後には消えている。この国にはレッカー車なんていう気のきいた車はないので、とにかく直して?動かしたと思われる。 でも、何十年も前の車の部品をどのように調達するんだろう。これは後で知ったことであるが、ビルマ人は大抵の部品なら手作りで作ってしまうという。たとえそれが長もちしようがしまいが。。とにもかくにも“動く状態”にしてしまうという。 【闇市?】 ラングーンの真中にどでかいマーケットがあって朝からにぎわっている。この国はある種「鎖国」のような状態で、西欧の物品は通常まともには入ってこない。しかし、あるはずのない物がマーケットに氾濫している。こうした物品の半分以上が“密輸品”であるという。 タバコの種類もいたって豊富。日本の国内仕様のタバコが幾つか並んで売られているが、これは前回述べた税関での“戦利品”と思われる。その日のうちにマーケットに出回るようだ。 【アランミョー】 到着してからしばらくラングーン市内の会社事務所に足止めをくらった。当時ビルマ国内は外国人が自由に移動する事は許されなかった。観光だと「バーマ・ツーリスト」という国営旅行会社(旧ソ連のインツーリストのようなもの)を通じて旅行申請しなければ動けなかった。僕らは公的機間の業務のため来ていたので、この公的機関(電力公社)の職員と共に移動するという申請を行った。それでも許可が下りるまで何日か待たねばならなかった。 そして数日後、列車にてプロムというラングーンの北の町を目指した。しかしここは中継地でここにある電力公社の変電所から車で更に北にあるアンラン(別名アランミョーともいう)に向かった。途中イラワジ川が見え隠れする。そう、この道はかって日本軍がかの「インパール作戦」のため進撃して、そして敗走した道。日本軍の敗残兵が行き倒れになった、別名『白骨街道』といわれる道であった。 アランミョーは首都ラングーンから約300kmほどであろうか。イラワジ川河畔にある小さな町である。 この町にある電力公社の施設の建物の一角を我々は借りて寝泊りすることになった。日本の円借款で220kvの送電線を新設するプロジェクトである。コンサルタント業務をノルウェーのコンサルタントが担当し、日本勢が必要資機材を供給、そしてSV(SuperVision)業務つまり施工管理、技術指導を我が社が担当。実際の工事はビルマ電力公社が行うという内容であった。 コンサルタントからは3人が現地入りし同じ構内で彼らはキャンピングカーに寝泊りした。我が社からは5名の社員がやって来た。僕はプロジェクトが軌道に乗るまでの助っ人役で約2ヶ月滞在しただけで、工事自体は一年以上を予定した。 日本からの鉄塔材やら電線ドラムそして碍子金物の輸送が大問題であった。陸送するには十分なトレーラーが無く、結局イラワジ川をバージ船(ダルマ船)に積み込んで運ぶ事に決定。ところが荷役施設が全く無いときている。ここで我々の技術力がモノをいう。 その場で簡易ケーブル索道を設計し、架設。なんなく全ての資機材を荷揚げすることが出来た。ただしその後がいけない。河畔から資材置き場までの輸送に十分なトラックも無いときた。そこで登場したのがナント「牛車」。のら〜り、くら〜りと牛に牽かれた荷車を見て我々は苦笑するだけであった。
さて、基礎工事の模様も面白い。この辺りには日本では常識となっているバッチャープラント(生コン工場)が一切無い。したがって小型のミキサーを使った“現場練り”となるのであるが、砂、砂利、セメント、水等の運搬が全て人力であったこと。ほとんどの人夫は女性であった。頭にカゴを載せ、アリンコの行列のようにゾロゾロ運ぶ。一日の賃金が1U$程度であったから人海戦術が一番安かったみたいだ。
食事はバングラディシュ人の若いコックが作った。結構バングラディシュから出稼ぎに来るという。これ以上貧しい国があることに愕然とする。我々はハウスボーイをひとり雇っていたが、彼は我々のウィスキーが無くなりかける頃になるとじっと傍を離れない。彼の目的はウィスキーの空ボルト。最後の一滴をコップに空けたとたん、「マスター、これいいか?」と言ってボトルに手を伸ばす。彼らにとっては空き瓶は“宝物”なのだ。それとプラスティック容器、ビニール袋が貴重な順。まず、こういったモノはゴミではなく“お宝”となる。 店でくだものや野菜を買うとお店のひとは紙にくるもうとする。ところが良く見るとセメント袋ではないか。それも我々の工事で使った。まだ、セメントがこびり付いている。「ああー、包まなくっていいからぁ」とそのまま抱えて戻ることに。古新聞だって貴重なのだ。ここへ来ると“リサイクル”の意味を根源的に問い質すことになる。 休日に近くのパゴダを訪れてみた。土地の人からここに旧日本軍の兵隊の遺品の数々が展示されていると聞いたからだ。 展示室そのものは大きなものではなかった。展示されているものも軍刀とか軍帽、日の丸への寄せ書きとかいわゆる“定番”ものが中心である。その他彼らがこの土地の人々に売ったのか、あるいはこの地で力尽きて行き倒れたまま遺品がひきとられたのか、いろいろな身の回りの小物が展示されていた。実際のインパール作戦にともなうイラワジ川の渡河作戦は、ここアランミヨーより200km以上さらに北、マンダレーの付近であったようだ。 【インパール作戦】 インパール作戦は第二次世界大戦の中でも最も悲惨な、最も愚劣な作戦であったといわれる。 インパールは当時インド東北の辺境、マニプール土侯国の首都であった。そして当時中国の蒋介石軍の根拠地、重慶へのイギリスからの物資輸送の重要な中継地であった。大本営は1944年3月、この補給路を絶つ目的で第15、31,33の三個師団を投入した。当初1ヶ月以内に攻略できるものと安易に考えたが、5月の 本格的な雨期になっても攻略できなかった。 雨期の山地、ジャングルは泥沼と化し野砲の運搬は苛酷を極めた。そのうち弾薬、食料が尽き、その補給も不可能となった。敵の猛攻に加え、飢え、伝染病の蔓延により次々と日本兵は倒れていったのだが、前線の師団長の必死の撤退要請を軍指令は無視しつづけた。最後にやっと撤退命令を出したのは7月に入ってからである。 その後の退却は凄惨そのものであった。敵の猛追撃でバタバタと倒され、からくも脱出できた敗残兵たちを待っていたのは飢餓と疲労、そしてマラリヤやデング熱といった熱帯の伝染病であった。 ジャングル内の道は軍服を着たまま白骨となった屍が累々と横たわるという状況で、後に兵士達はこの道を『白骨街道』と呼んだという。三個師団の総数は8万数千人で、生き延びた兵の数はわずか1万数千人と言われる・・・・。
後日、私はラングーンにある英国軍の墓地を訪れる機会があった。ちょうど米国のアーリントン墓地のような所を想像されると良いだろう。見渡す限り連綿と墓石が並んでいる。私はしばらく墓石に張られた銘板を見て歩いた。そこには英国人の名前が続く。中にはインド系の名前も混じっているが。そしてその生年と没年の差引勘定をして胸が熱くなった。ほとんど二十歳前後の若者達なのだ。 いかに国家の命運の為とは言いながらも、極東の小さな島国日本と、大西洋にある島国英国の若者達がなんの因果で数千キロも離れたこんなところへやって来て、双方が殺し合わねばならなかったのであろう? こみ上げてくる感情に思わず頭上を仰いだら、南国の太陽の、強烈な陽光が容赦無く目に飛び込んできて固く瞼を閉じた。 現在、ビルマ人の手によってこの英兵墓地、また一方日本兵墓地も手厚くメンテインされている。 【ヒンドゥ寺院の東京音頭?】 毎日仕事が終わるとすることがない。娯楽というものが一切無いところなので、自然と酒を飲むことになる。これは日本人も前述のノルウェーのコンサルタントの3人も同様だ。特にコンサルの一人はアメリカ人の大男で大酒のみであった。名前をローズという。あと二人はノルウェー人である。 日本人の酒好き2,3人とローズと若いノルウェー人バスティヤンセンは大体毎晩、酒を飲みに外へ出かけた。 アランミョーに一軒だけ中華料理屋があった。店主一家はやはり中華系ビルマ人であった。漢字で筆談してなんとか通じた。 中華料理をツマミに飲み始めるのであるが、大酒のみばかりなのでテーブルの上にはビール瓶が林立する。さて、このビール1本の値段がビルマ人労働者の一周間分の値段がする。それを水のように飲むものだから周りのビルマ人がびっくりしてしまった。僕らがオダをあげて飲んでいると、店の窓やら戸口から僕らを覗く人々の 顔が見える。この風景は昔、ケニアの奥地でやはり欧米人と共にビールをくらって居た時に起きた情景と全く一緒であった。 たまに酒を飲まない日だってある。そんなある夜、隣にあるヒンドゥ寺院を訪れた。毎晩うら若きインド系のおねえちゃん達が出入りしているのが分かっていたし、その後歌声が聞こえてくる。これは是非一度覗いてみたいもんだなぁと思っていたのだが、家のボーイのお友達に話してみたら、ノープロブレムという。 行きましょう、行きましょうということでノコノコ行ったわけだ。 ヒンドゥ教なるものはハナから知識が無く、寺院の中に入るともうすでに何十人もの男女が集まっていた。何故か女性の方が圧倒的に多い。なにやら司祭というのか坊主というのか分からないお方の説教があり、その後“うた”のお時間となった。女性達のインド風歌声を聞いて楽しんでいたら、そこの日本人3人も何か歌え、と言われてしまった。突然何か歌ってくれいわれても困るのである。仲間のひとりが「しょうないや、東京音頭でも歌ったれ」てんで3人で東京音頭を歌い出した。ビルマのド田舎のヒンドゥ寺院から流れる東京音頭!。なんとも奇怪な風景であったであろうことよ。意外と好評であった。 【究極のリサイクル・ナベ】 ある日、街道にある一軒の食堂に同僚3人ほどで入った。メニューらしきものは無く、唯一、煮込み風の鍋があったのでそれにした。味はなんとか食べられる程度とはいえ、僕は半分ほど残してしまった。勘定を済ませ、店を出て行こうとして何気なく振り返った時である。女主人は僕の食べていたどんぶりを手にし、鍋のふたを開けて、ドドーと戻したではないか!僕が「ええ〜〜!」と声を発したので残りの2人もその光景をみた。互いに顔を見合わせ「ってことは俺らが食べた以前にもあまったものは・・・・・」 あとは絶句! 次ぎの日、またこの店に立ち寄った。他のふたりはもう鍋に見向きもしない。店頭に置いてある菓子パンらしきものを買い込んだ。僕は「ま、煮てるわけだから平気じゃない」ってんで再び昨日の食べ残しが入った?鍋料理をいただいた。 その夜、菓子パンを食べたふたりは猛烈な腹痛に襲われのたうち回った。どうも菓子パンにカビが発生していたみたいだ。「ほら、だから言ったでしょ。煮込んだやつは大丈夫だって」と僕。ふたりは僕の顔を恨めしげに睨んだものだ。ちなみにノルウェー人達は現地の店ではくだものしか買って食べなかった。 どこかの国のように食べ残しが大量に発生し、処理に困ることは絶対にない国なのだ。人々の暮らしぶりは「質素」という概念をはるかに越えているかも知れない。 このくらいの田舎になると、大抵の家は竹とニッパ椰子の葉でつくられた小屋程度の住まいだ。中に電化製品があるとは思えない。トランジスタ・ラジオ程度はあるかも知れないが、その他テレビ、冷蔵庫、洗濯機なんぞ皆無。辺りの景色からして、もしも電柱や送電線がなくて時折走り去る自動車をみかけなければ、ここは中世か?と思われる状況だ。なんたってゆっくりと牛車が通るのだから。 休日に皆でイラワジ川の対岸へフェリーで渡ってみた。この地区には一切自動車が入り込んでいないので、道の真中を気にせずぶらりぶらりと歩く事ができる。この時ノルウェー人の若い技師、バスティヤンセンと歩いていたのだが、ふたりの会話、 「なんか車が無いと気分がゆったりするねぇ」と僕。更に「僕らって、この国の電力事情を改善する為に派遣されてやって来たんだけど、この人達にとって本当に電気って必要なのかねぇ?」 すると、バ氏は「そりゃ、現代のビルマ人にとって電気を得て、みんなが文化的生活を送る権利があるんじゃない?」「だけど、ごらんの通り電気がなくたって伝統的な生活を送っていけば何も問題ないじゃない。今、ほとんど現金収入のない彼らに電気だけ与えたって、彼らにとって電化製品を買うなんて大変なことだよ。目の前にテレビやら、冷蔵庫その他いろんなもん見せつけられて手が出せないというのは、一種拷問じゃないのかね」と僕が言うと彼は黙り込んでしまった。
アフリカでもそうであったが、たった一台のラジオが購入できずに犯罪に走る青少年がいかに多いことか。そして一台のラジオを得るともっと素敵なラジカセへの渇望が涌いて出る。そしてその欲望はけっして満足することなく永遠に続く。 ある国の国民はこんな小さなラジオばかりか、ありとあらゆる“モノ”を所望した。希望したものがほとんど揃ったにもかかわらず“幸福感”なんて全然感じない。そして“得たもの”よりも何か“大切なもの”を失ってしまったことに気がついたが、“大切なもの”って一体なんだったのであろうかと思いをめぐらすが、もうそれすら何であったのか思い出せない。 そんな国の人々の後を追いなさい、などと僕には言えない。見た目は貧しそうだけど、僕ら日本人よりずっと幸せそうな顔をした人々。 ただ、これだけは言える。彼らにももちろんより良い生活を得る権利はあるんだ、と。それが電気とか、道路という基本的インフラだけじゃなく、もっと根源的なもの、人間として生きていく上での『自由』ではなかろうか。ものを自由に発言できてこそ、ラジオやテレビの意味があろうと思う次第。その『自由』に向けて是非努力していただきたい。 わが国の側面的支援が現政権への金渡しだけでは『民主化への逆行』へ肩入れする可能性があることを我々納税者は知らねばならない。 |
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