【天涯の更なる果て】![]() 【イランのひとこぶラクダ。月の砂漠を〜♪という世界からほど遠い土漠と岩山が連綿と続く・・・】 1980年。ホメイニによる革命の翌年。そしてイラン・イラク戦争が始まった年。 私は首都テヘランから一千キロ以上離れたイラン東北部、ほとんどソ連国境 に近い山の中にいた。 イラン第二の都市マシャードの西の国道沿いにクーチ ャンという町がある。そこから北へ車で4時間ほど向かうとイマムゴリという 知る人ぞ知る町に行き着く。 ここに小さな祈りの場所があり、御参りすると子 供が授かる、というイスラム教というより土着信仰と思われる不思議な場所 だ。マシャードをはじめ遠くテヘランからやってくるご婦人達でいつもにぎわっ ている。 ここから現場へ通うには往 復5時間を要したため、最後の一ヶ月半は現場にテントをいくつか張り、現地 労働者約20名と2名の日本人とのキャンプ生活となった。 食料 及び水はジープで日に一度運んでもらったが、体を洗う水はなかった。そん なある日、遠くに人影が見えた。こんな所に一般人が入ってくるわけが無 い。 一瞬緊張感が漂う。向こうも時折立ち止まりこちらを伺っているようだ。現 れたのは一人の老人であった。背中に射止めた鹿の手足を器用に折りたた み、リュックの ように背負っている。 片手にはライフルをさげている。しかしそのライフルたる やどうみても第一次世界大戦で使っていたようなしろものだ。 我々と挨拶を 交わし、チャイでもどうだと誘うと嬉しそうな顔をして 座り込んだ。話しを聞くとかなり離れた村からやって来たプロのハンターとのこと。こんな古い銃でよくも仕留めたモンですね、というと一発で仕留めたと 胸をはった。 確かに鹿の群れを良く見かけたが、オオカミ もいるとのこと。でも我々が一番怖かったのは得たいの知れない人間であっ た。 夜になると山の向こう側から鉄道の汽笛とガタンゴトンという音がはっき り聞こえた。ここからソ連国境までほんのわずかだ。 工事は 雪が降る前日に奇跡的に完了した。もし一日遅れたら 翌年再びこの地でキャンプする運命であった。この一ヶ月半というもの、一度 も風呂に入れず、食べ物は アブグーシュトというイラン料理を三度三度毎日食べつづけた。昼寝はご覧の通りダイナマイトの詰まった箱の上で....。 ![]() 【キャンプ全景とテント内の昼寝(ダイナマイトの箱の上で)】 何故、送電線工事でダイナマイトが必要なの?と思われるかも知れない。当該工事でダイナマイトが使用されたのは1.にアクセス道路を造る際、邪魔になる岩の除去。2.としては送電線四角鉄塔の四脚の基礎工事での掘削作業時で岩盤にぶち当った場合。 ほとんど毎日発破作業が必要であった。特に道付けでの発破は大量にかけた。発破時は300mほど後退して物陰に退避するのだが、山の斜面に沿って仕掛けられたダイナマイトが一斉に爆発する様はまるで戦争映画をみているようだ。しかし、だまって見ているわけにはいかない。無数の石つぶてがヒューンといううなり音をあげて飛来するからだ。 そんなある日、一機の軽飛行機が飛んできて、我々の頭上を旋回している。イラン人人夫に聞くと『あれはショーラビの飛行機だよ』という。つまりソ連の国境警備隊の飛行機が偵察にやって来たというわけだ。 当時、イラン・イラク戦争が勃発して間もない頃で、ソ連側としては気になる“爆発音”であったらしい。 その他、かなり高空を飛ぶ輸送機を幾度も見かけたが、飛ぶ方向から察してこれらもソ連の軍用機らしい。同時期にソ連はアフガン戦争に介入していた経緯があり、人様の領土を勝手にショートカット飛行をしていたわけだ。どうせこの時期、イラン側には東北部での領空侵犯機に対し迎撃できる航空機が無いことを知ったうえでの狼藉ぶり。まさしく力は正義なり。 全ての工事が1981年の12月に終了した。革命、戦争をはさんでの5年を超える大工事であった。自分はこの最終部分(80年と81年)にしかかかわらなかったけれども、短い期間とはいえ今もう一度 同じ生活をしてみろと言われ ても二度と出来ないであろう。最後に完成した送電線路を眺めていると、とめ どなく涙が頬を伝って流れ落ちた。 |
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![]() 【中央右手の小山の麓にキャンプ設営・ソ連国境まで数キロ・右の写真はイラン人労働者と】 |
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【カスピ海のほとりにて】 ![]() 【カスピ海】 再びイランの地に足を踏み入れるのは一体いつのことであろうか?と思いつつ帰国したのが1981年の冬。 それから4年後の1985年、意外と早くその機会が訪れた。今回は全くの別プロジェクト。場所もイラン東北部の土沙漠から一転、カスピ海のほとりにほど近いGORGANという町であった。 今回は社員の数も少なく、もう1ヶ所AMOLという同じくカスピ海近くの町の作業所を合わせても5人ほどであった。翌’86年には私ひとりが日本人で以前マシャードで使ったイラン人とふたりでGORGANの町に借りた一軒家の2階に住んだ。 *米作地帯 首都テヘランを北上し、エルブス山脈を越えカスピ海に近づくと眼前に信じられない光景が広がる。 それは水田地帯である。 パスピ海地方はイランで唯一の米作地帯なのである。品種は“インディカ米”という細長い米粒の種類だ。 かなり以前に日本の技術協力で稲作技術を導入したようだ。道端のレストランに入ると富士山をバックにした妙なポスターがよく見られる。どうもこの頃の日本人の置き土産らしい。 *チャドルの下は ご存知のようにイスラム教世界では、女性は肌や毛髪を他人に見せてはいけない戒律になっている。 従って外出の際にはあの「チャドル」という黒いマント(イランの場合には黒以外の灰色系統も着用)を身につけている。 チャドルのほかにコートによく似た外套(正式名は失念)を着て、頭には「ヘジャブ」といわれるスカーフをかぶらねばならない。この酷暑の気候のもとでは酷な格好である。 下の大家さんには時々食事に招かれた。外国人に対しては前述のイスラム的戒律は適用されることが無く僕が降りて行っても奥さんは普通の格好をして迎えてくれる。 高校に通う女の子がひとりとふたりの息子の計5人家族なのであるが、2番目の息子はちょうど兵役で数ヶ月に一度くらいしか戻ってこなかった。 さて、この高校生の女の子であるが、学校から帰ってくると真っ先に頭をおおっている「ヘジャブ」をかなぐり棄てる。次ぎにさもいやそうにコートを脱ぎ捨てるのだ。 その下に着ているのはジーンズとTシャツ姿だ。僕と目を会わせるとニッと笑う。全く西欧のティーンエイジャーと寸分違わない雰囲気だ。Tシャツにはミッキーマウスのプリントがあってとても可愛らしい。 ちょっと先進的?な考えの家庭はこのような雰囲気なのだが、それでも外部から訪問者がやってくると、急いでチャドルをひっつかんで着込む。同国人同士の“目”は怖いのである。 |
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![]() 【夜の訪問者?けっしてその筋?の女性ではない!彼女の名誉の為記しておく。】 |
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| *日常生活 イランの朝は「ヌン」(イースト菌を使わない古来製法のパン。イラン以外では「ナン」と呼ばれている。)の買い出しから始まる。 近くのパン焼きショップに行くと多くの人々が焼き上がる「ヌン」を待って列を作っている。焼き方によっていくつかの種類(形、大きさ、厚み)があるのだが、それぞれの好みの焼き方により店を選択している。 いづれも専用の「ヌン焼き窯」を使用している。地方、特に山岳部などの田舎でヌン屋さんがないところでは自家製のヌンを焼いている。 焼き立てのヌンに「山羊のチーズ」や「ニンジン・ジャム」をつけて食べるととても美味しい。それともちろんチャイをすすりながら。ところでこのチャイであるが、イラン式チャイの飲み方はケニア式チャイ(というかインド式)とは違っている。ほとんど牛乳・ミルクを混ぜる事はない。また使用する砂糖が大いに異なる。 普通の砂糖を入れてかき混ぜることはせず、角砂糖を紅茶にちょっと浸して口の中に放り込んでからお茶をすするのである。ここの角砂糖は日本のそれとは違い、水分を含んでも崩れる事はない。また、ガンドと呼ばれる砲弾の形をした砂糖のカタマリを砕き使用する。地方によってはアメのようなものを代用する場合もある。 ゴルガンでの作業は以前とは違い、郊外に有る変電所の中での作業であった。昼は近くに有るレストランで済ます場合がほとんどであった。 2,3回入るとその後はメニューなんぞ不要になる。レパートリーはせいぜい5,6種類だけなのだから。 要は羊肉か鶏肉かだけの話しでその焼き方の種類が多少変るのみ。それぞれ代表的な料理名は、 チェロキャバブ・クビデ、チェロバルク、シシリキ、とかチェロモルク、アブグーシュトってな調子。飲み物もシャレたスープを出してくれるでもなく大抵はコーラ、ミリンダ(ペプシに限られる)が代用されることが多く、ドゥークというイラン式飲むヨーグルトがあるくらいか。これだけのことである。 どこのレストランへ行っても、昼夜を問わずこれだから「外食」の楽しみ何ぞはなきに等しい。したがって、時折御呼ばれになる「イラン家庭料理」は煮物などが加わるため嬉しいのだ。 夜ともなれば読書以外にすることもない。テレビは国営テレビが2局あるのみでいつつけてもニュースか宗教番組しかやっておらず見る気も起こらない。映画館はゴルガンには一軒もなかった。あったとしても西欧の映画は禁止されていたのでみるものもないだろうが。映画どころか音楽も禁止(イランのポップスすら禁止)であったからこれはもう一種の宗教的中世「暗黒世界」の中にほうり込まれたみたいだ。 人々の唯一の楽しみは休みの日に緑豊かな川辺の木陰で、家族総出のピクニックくらいなものか・・・。
*カスピの番屋 ある時現地作業員のひとりがチョーザメ漁を見てみないかと誘ってくれた。チョーザメはカスピ海に棲息する魚でメスからはかの有名な「キャビア」が獲れる。彼のオジサンが国営水産会社に務めておりカスピ沿岸に番屋小屋があってそこに泊りがけで見物するというものであった。 さっそく出かけてみると厳重に警護された敷地内に番屋が確かにあった。中へはいると漁師が一部屋に数名泊まっている。明朝早くに出漁するという。 夕食後なにすることもなく寝るのを待っていると、ひとりの漁師が「さて一服やるか」というなり立ち上がり窓を開けた。軒先に手を伸ばし隠し置いた何かの包みを取り出して再び窓を閉めた。 包みを開くとなんと「生阿片」ではないか!現地ではタルヤキと呼ばれる代物だ。 生の阿片はケシの実を傷つけてたらたら流れ落ちた汁を固めただけの黒いペースト状のかたまりだ。一見ハッシッシの塊のようだ。 これを少量削り取り、銀紙の上に置く。ろうそくの火で真っ赤に焼いたハリガネを押し付けると白い煙が立ち昇る。この煙をストローで吸い込むのだ。阿片の吸引はここイランでも厳重に禁止されている。 見つかれば「百叩き」の刑罰だけでは済まない。ただイランでは伝統的に「生阿片」を吸うだけではなく、腹痛止めの“薬”として子供にも飲ませると聞く。僕が試したかどうかは??にしておこう。 翌朝、彼らが乗り込む船を見たらとっても“その気”にならず、キャビアを持ち帰ることを期待して、陸釣りに出かけることにした。 *酒のこと ホメイニ革命によりイラン国内では全ての飲酒が禁止されている。当時ホテルに貯蔵されたワイン、ウイスキー等のボトルはことごとく割られ中身が棄てられた。したがってイランにはアルコール類は無い、はずだ。 ところがないはずの“酒”があるのである。 まず「ぶどう酒」は葡萄の実さえあれば簡単に造られる。出来上がった「ぶどう酒」を蒸留してウォトカのように強い酒を造るのも可能だ。この「密造酒」を造り、売りさばく人間もいる。ただし、これも見つかると大変なことになる。 家の大家のドラ息子は僕の住む2階に毎日入り浸りだ。そしてたまにはこの手造り葡萄酒をどこかから仕入れてくる。仕入先をこっそり聞くと友達のお母さんが「葡萄酒造りの名人」だという。 確かにコクがあって美味しいのだ。 ま、この程度の“違法行為”は見逃してほしいものだ。“禁断の味”は常に美味だ。 *イラン人は「浪花節だよ人生は」? 僕と同居していたイラン人は遠くマシャード出身の男であった。いわばこのプロジェクトのために「単身赴任」していたわけだ。 月に一度は故郷の家族の元に帰った。一度是非遊びに来いというその彼について彼の家、そして実家を訪れた。 1ヶ月ぶりに彼を迎える家族の“反応”はすごいものだ。アラブ世界でもよく見かける光景だが、男どうしでも両頬へのキスは欠かせない。そしてお互いの無事と家族の息災にかかわる挨拶の言葉が実に5分は延々と続くのではなかろうかと思うほどに交わされる。 傍らに立つ外人の僕にも同様にヒゲヅラの両頬挨拶攻撃?があるのだが、このタワシのようなヒゲにはいつも泣かされる。日本人同士のそっけないとも言える挨拶とは大違いだ。 そして妻や母親の料理攻勢が始まる。外国人が来るとうことで種類と量に拍車がかかる。 一般的にイラン人のホスピタリティーは豊かで、来客があると家財道具を売ってまでも、というくらいのもてなしをする。 僕が妻子を日本に残し一年近くも外国暮らしをしているという実情を知ると、異口同音に「そんなこと信じられない」という。イラン人にとって家族は離れて暮らすなどあり得ないことらしい。家族、親戚の「血の絆」は強烈だ。 さて、前回のプロジェクトの最終場面でイラン電力省と我が社の上に立つ商社の間で、ボンド金(契約事項の中で工事が最終的に終えるまで契約金額の数パーセントを押さえておく)の返還をめぐり紛糾した。 その商社の責任者はひとりマシャードに残り粘り強く交渉したがなかなかうまくいかない。時間だけがむなしく過ぎてゆく。 そして彼が最後にイラン人電力幹部に発した言葉がこの難局を解決に導いた。彼は居並ぶイラン人にむかって、 『私はこの国で長い間働くなかでひとりの娘を授かった。彼女が大きくなったら、お父さん、私が生まれたイランという国はどんな国?そして人々はどんな人達だったの?と聞くに違いない。 その時私はどう答えよう?もちろんイランの国と人々に関し誇りを持ってその素晴らしさを娘に言って聞かせたい。皆さん、私がそうできるように是非、この覚書にサインしていただきたい。』 と言った。 この発言を聞き終えた幹部達は次々とだまってサインをしたという。ああ、なんという浪花節か。 皆さんには信じられないかも知らないが、僕に言わせるとイラン人は日本人より“ベタベタにウェットな感情”に満ち溢れた人種だ。一度受けた恩義は忘れない。一度信じたら最後まで・・・というくちだ。こんな土沙漠のなかでかくも「浪花節だよ人生は」の人々がいようとは・・・・。 |
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【ペルセポリス神殿跡】 1986年、最終的に帰国する直前、念願のペルセポリス神殿跡を訪れる機会を得る事ができた。 いつ終えるとも知れないイラン・イラク戦争の影響か、この地を訪れる観光客は皆無であった。 それでも手持ち無沙汰のガイドらしき人間(本人は政府の人間だと言っていたが・・)が寄って来たが丁重にお断りした。 長い戦争が終えた今、ここを訪れる内外の観光客もきっと多い事だろう。 ひとつの懸念は現イスラム政権がこの遺跡の維持・修復を真剣に行っているかどうかだ。 |
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