アフリカ・中近東篇

ケニア (1977-1979)
異なる時間軸】   
  私の任地は首都ナイロビから500km以上離れたケニア北東部にあるHola というタナリバー沿いの町の近くのキャンプ地であった。
ケニア労働省の下 部機関であるN.Y.S.(National Youth Service)がオランダの無償援助のも と大規模な灌漑プロジェクトに取り組んでいた。 そこへ欧米、日本6カ国から 技術援助で10名のボランティアーが加わった国際的キャンプだ。
キャンプ地はHolaの町外れに設置され、電気・水道の無いキャンプ生活であった。

                  
白い骨は象の大腿骨。キャンプ周辺で拾ったもの
トタン小屋の内部・台所。右のボックスはガス式冷蔵庫


キャンプは約100名のケニア人と上述の各国ボランティアーで構成され、Holaキャンプにはアメリカ人3名、ドイツ人3名、日本人1名が働いていた。30kmほど離れたBulaキャンプには更にオランダ人2名、デンマーク人1名がいた。1ヶ月のうち3週間、日曜日を除いてフルに働き、4週目の週末に約5日間の休みをまとめて取った。
我々はNYS所有のランドローバー等で首都ナイロビやインド洋沿 いのモンバサに出かけたが、一般人の移動はバスに限られる。
東部のマリ ンディと北部のガリッサ間に週に1,2便バスが通うが時たま故障し立ち往 生する。部品交換が必要な場合は車掌を残し、運転手はモンバサまで戻 る。時には一週間も戻らない場合がありその間車掌はバスの傍で自炊しな がらひたすら待つ。
我々のキャンプ付近には遊牧民であるオルマ族が住む が、ある日この故障したバスを一家で待ち続けていた。
我々があなたの待つ バスは故障して来ないよ、と告げても動じることなく立ち去らない。
3日後そ の場所を通りかかったら一家の姿が消えていた。バスが来たのか歩き始 めたのかは分からない。

巨大な真っ赤な夕陽がアフリカの大地に沈んで行く。一日のうちで最も至福 の瞬間だ。
その後漆黒の闇が訪れる。電気は無い。テレビなんぞ無縁の世界。
ビール片手に夜空を見上げるとまさに降るような星空。天の川が本当に 流れる川のようだ。天空は巨大なプラレタニューム。ここには現代社会と は異なる時間軸のもと、時が流れる。
こんなところで、バスが2,3日来ないこ となど何の意味を持つのであろうか?

忘れ物

Holaキャンプに入って一年後、Bulaと Holaの中間地点に New Bulaキャンプが設置され、Holaから全員が移動した。
ここは辺りに何もないサバンナの真っ只中。我々の住居も度重なる“陳情”の結果、やっと波型トタン小屋から木製住宅(天井に断熱材が入っているのだ)になった。
これで日中でも中に入っていられる。実際波板トタン小屋は“人間オーブン”以外の何物でもなかった。

New Bulaキャンプに移った当初、トイレがまだ整備されておらず、毎朝スコップを片手にキャンプ周辺でナニを済ませた。隣のドイツ人が南へ行けば僕は北ってな具合。
ある朝エアーストリップ(簡易飛行場)の建設現場に到着すると、数頭のワイルド・ドック(ハイエナを小型にした感じ)がちょうどイボイノシシを一頭仕留めたところであった。
ランドローバーで彼らを蹴散らしてイボイノシシが倒れているところへ行った。 そいつは尻を食いちぎられ虫の息状態だが、まだ鮮血が流れ続けている。
ワイルド・ドックの群れは我々を遠巻きにして未練がましく立ち去らない。我々は彼らの獲物を返してやることにし、その場を立ち去った。

翌朝から僕はブッシュの陰で、剥き出しになった自分の尻が不安でしょうがなく、傍らに停めたオートバイのエンジンをかけっぱなしにして、時折周囲をうかがった。一週間後トイレが出来あがりこんな心配も無用になった。

ある晩、数人のアメリカ人、ドイツ人のボランティアー連中とHolaの食堂で大量のビールを空けた。
店の窓越しに現地人がもの珍しいのか、鈴なりになって僕らの飲みっぷりを見学している。僕らはこの辺りでは「珍獣」のようなもんだろう。
キャンプへ帰る途中「小便タイム」で停車した。全員路肩で一斉に放水してキャンプに戻った。
するとドイツ人のフレディーが、
『おい、アルがいないぞ!』と言いだした。みんなお互いの顔をながめて、確かにアメピー(American Peace Corps)のアル(こいつは本当の名前なのだが期せずしてアル中であった)が居ないことに気が付いた。
『ヤバイ!さっき小便したところで置いてきたんだ』
全員もう一度ランドローバーに飛び乗り走り出した途端、キャンプのゲートから一台の車が入って来た。
たまたまHolaの町に買い出しに行っていたNYSの車であった。 するとアルが助手席から飛び出し、握りこぶしを振り上げながら我々のランドローバーに駆けよってきた。
『You mother F**kers!』と喚きながら・・・。
僕らはランドローバーを急発進して逃げ去った。

このあたりでは夜になるとライオンの遠吠えがよく聞かれる。

【ムシのはなし】

1.ボーフラとその成虫、蚊
Holla Campの飲料水はだいたい週に一度、NYSのタンクローリーがHollaの水道局(と言うのだが僕はそういう施設は見たことがなかった)から消毒済みの水道水?をもらって来てCampの各事務所、家のタンク、ドラム缶に給水して行く。僕の家の前にも普通サイズのドラム缶が置いてありここへ給水してもらう。
もちろんこの水をそのまま飲む勇気は僕にはない。
薬缶で沸騰させ濾過装置を使ってビン詰めにしてガス式冷蔵庫で冷やしてからいただく。しかし、日々顔を洗ったり歯を磨いたりの水はドラム缶から直接使う。
ところが3日も経つとこのドラム缶にはボーフラが涌いてしまう。一説によるとボーフラが涌いているうちの水は大丈夫とのことだ。さて、歯を磨く時うっかりこのドラム缶の水を上からすくうとこのボーフラが入ってくる。
いくら無害とは言え、ボーフラを飲み込みかねないので、ある作業を事前に行うのである。それは何か?
そう、ドラム缶の淵を棒でコツンと叩くのである。するとボーフラは驚いて一旦水中へ潜る。その隙をついて表面から水をカップで掬い上げるのである。
ボーフラのままなら良いのだが、やがてこのボーフラは成虫となり蚊と変身する。ただの蚊ならまだしもマラリアを運ぶマダラカ蚊だと困ったもんだ。
最初の内こそ予防薬の「MP錠」を飲んでいたのだがだんだん慣れるに従いさぼってしまう。というか、なんか副作用が心配になる薬なのだ。で、大抵の外国人はマラリアに罹患することになる。
これを仲間内では「マラリア友の会」会員になる、と表現する。マラリアになると正直辛い。特にアフリカの熱帯熱マラリアの症状は激烈である。熱が出る前には大体予感がする。「あ、そろそろ来るかな」と思うと、バナナや飲料水を枕元に用意しておく。そうすると数時間後には高熱と寒さに震え出す。
一瞬正気に戻る時、枕元に手を伸ばし飲料水とバナナなんかで栄養を補給する。これが2,3日は続くことになる。最後は体力勝負だ。

2.羽アリ
ケニア全土での話らしいのだが、年のうちある時期(何月のことかは失念)になると大量発生するのがこの羽アリと呼ばれるアリ。
僕らの住んでいたサバンナでも雨が降った後、夕暮れ時になるとどこからともなく、この羽アリがやって来る。彼らは家の灯りを目指して飛んでくる。その数は半端ではない。
現地人はこの襲来を心待ちにしている。彼らはちょっとした「羽アリ採集装置」を用意している。ブリキ缶を加工して羽アリが貯まるようにするのだ。
この羽アリは地上に着地してしばらくするとその羽が抜け落ちる。どうやら飛行して移動する時のみの羽根らしい。アリのサイズは普通のアリなんかよりもかなり大型で、3,4倍はあろうか。

さて、この羽アリは食用となるのだ。現地人にとっては重要なタンパク源とのことだ。現地の子供達は捕まえるなり羽根をむしり取って口にする。しかしやはりこれは調理していただくのが良いという。フライパンで煎ると香ばしくて美味だそうである。もちろん僕は食したことがない。
僕の場合、部屋に入ってくる羽アリをせっせとホウキで掃き出して退室いただくだけだ。
首都ナイロビでも人々が街灯の下で先を争って捕獲する光景をよくみかけたものだ。

3.軍隊アリ
羽アリはまだ歓迎すべきアリだと言えるが絶対に来てほしくないのが軍隊アリだ。よくテレビの「動物なんとか・・・」でやっているがあのライオンをも食ってしまうという獰猛なアリンコである。
最初のHollaキャンプにいた時のこと。何人かでドイツ人のフレディーの家に集まり夕食をとっていた。
あたりでケニア人達が騒がしい。そのうち「ザワザワザワー」という何とも奇妙な音が近づいて来る。
なんだ、なんだ〜!と思ううちにケニア人のスタッフのひとりが駆け込んできた。『Here come, Army ants!』
ぬぁにお〜っ!軍隊アリだぁ〜?全員蹴っ飛ばされたように立ち上がった。
フレディーが燃料貯蔵所に走る。ジェリカン(予備用ガソリンタンク)を二つ持って走ってかえる。手分けして家の周りにガソリンを撒き始めた。
ザワザワ音はすぐそこまで近づいて来る。『OK、Fire!』のかけ声と共にガソリンにマッチで点火した。フレディーの家の周りは一瞬のうちに火がまわる。我々は固唾を飲んで軍隊アリの動向を見守る。そして真っ黒い逆巻く川の流れのような軍隊アリの群れがフレディーの家の約20メートルほど手前でその流れの方向を変へたのが見えた。
通り過ぎるのに2,3分かかったのだろうか。だんだんザワザワ音が遠ざかる。やれやれだ。だけれども僕らが寝ている時にやって来たら一体どうなったことだろう?

4.タランチェラ
これもHollaでの話。(ホラばなし、ではない、念のため。)
僕の裏に住むピースコーのデイヴの家が騒がしい。何を騒いでいるのかと思い覗いてみると他に2人のピースコーがいてキャーキャー騒いでいる。僕が顔を出すとひとりが興奮して言った。
「Aki(当時僕はこう呼ばれていた)さん、ちょっとこのバケツの中を見て!」
どれどれ、と覗いてみると中には体長10cmを越えるのでは、と思われるタランチェラがうごめいているではないか。
あの体全体が体毛でぎっしり覆われている奴だ、絶句。『なんでこんなもんがいるのぉー?』と僕。
『さっきこいつが家の中に入ってきたんだ』とデイヴが言う。
『タランチェラって南米にしか棲息しないんじゃないの?』と聞くと『いやいや、ケニアにもいるんだぜ』という答え。
『うわぁ、知らんかったぁー』と僕。一体全体なんなのここは!!!
後日猛烈な悪臭がして文句を言うと、例のタランチェラをビンの中で飼っていたのが死んでしまって悪臭を放っていたのだ。
あ”−、やだやだ。

5.さそり
New Bura campでのこと。この時はケニア在住2年目になっていた。最初日本を発つ前から「君の任地はサソリが多いから朝、靴を履く前には必ず逆さに振ってから履きなさいよ」とアドバイスを受けていた。
Holla camp に居たときはドアーの取り付け具合が悪く、ドアーと床の間で1、2cmの隙間が空いていた。夜、肘掛け椅子に座って本などを読んでいると視界の隅になにやらうごめくものを捕らえる。「ああ、また入ってきやがったな」とひとりごちて傍らに置いた「Johnson it 」という殺虫スプレーを取り上げる。入って来たさそりに向け、シューっとスプレーしてやる。
さそりは一瞬ビクっとし、しばらくすると悶え苦しみだす。数分後にはコロリと死んでしまう。この強力無比な「Johnson it 」(アメリカのメーカー)はスプレーする量をひかえねばならない。新聞を読むと年に2、3件はこの殺虫剤で事故死する記事が載っている。
ようするに締め切った室内で使用すると、気がつけば室内にいた人間も蚊やハエとともに死んでいた、というぐらい強力無比な殺虫剤(殺人剤?)なのだ。

さて、New Bura campの家にはさすがに自由にさそりが出入りする事はなかったが、問題は意外なところにあった。それはシャワールームである。シャワール−ムは共同で使用するように戸外に設置されていた。
中は土間コンクリートがうたれており外履きは入り口で脱ぐようになっている。電灯は無いことはここもHolla時代と変わりはない。
僕はスリッパを脱いでシャワールームに一歩足を踏み入れた。そのとき鋭い痛みが左足裏に走り、持っていた懐中電灯で足下を照らした。白いさそりがスス、スーと逃げていくのが見えた。「ありゃー、やられてもうた」と愕然とする。いつもは必ず入る前に懐中電灯でチェックするのが習慣になっていたのが、この日は魔が差したとでも言おうかその手順を省いてしまった。
そしてさそりをもろに踏んづけてしまったのだ。家の玄関まで約15mをケンケンしながら戻った。そして家の中に入って椅子に腰掛けたときにはもう毒が膝の辺りまで上がってきた。
「さあ、どうしよう?今の時間は真夜中の12時すぎだなぁ。もうみんな寝ている時間だ。ここで騒いでもどうしようもないな。それに日本男児たるものぎゃぎゃー騒ぐのもみっともないしー。あいつは白いさそりだったから死ぬわけでもないわな。よし、ここは朝までガマンすっか・・・。」
と覚悟を決めたものの、毒がだんだん上に登り続ける。とうとう左足の付け根まで到達。猛烈な痛みだ。
「このまま毒がまわり心臓まで達すればどーなるんじゃ〜!」という恐怖感に襲われる。毒は今や足の付け根、すなわち「ふぐり」まで入ってきた。
「あ”〜〜、これでもう子供のできない体?になっちゃうんか」と青ざめる。ところがである、毒の進行は「ふぐり」の左部分でぴたりと止まったではないか。だが、左足全体の痛みは耐え難いものがある。
人間というもんは本当によく出来たつくりになっている。あまりの痛みに襲われると自動的に「失神」してしまうのだ。失神によって脳が狂うのを防ぐわけだ。ところがあまりの痛さに途中で「失神」状態が解けてしまう。そしてまた激痛に耐えられなくなると「失神」。これを朝方まで3回くらい繰り返したであろうか。
朝、6時。いつもの通りに隣に住むドイツのお兄ちゃんが顔を洗いに出てきた。『お〜い。助けてくれぇ〜!』と叫ぶ僕。
それから何人ものボランティアーやらNYSのケニア人スタッフが駆けつけて来た。さっそく車を手配してくれて約15km離れたHollaの町の診療所に担ぎ込まれた。診療所といっても家畜病院程度の外観と設備である。ケニア人の医者が只ひとりいるだけだ。
医者は開口一番『刺したさそりは何色だったですか?』と聞いてきた。僕が『はぁ、白色でした。』と答えると
『ああ、よかったねぇ。もしも茶色いやつだと3倍は毒が強いから死なないまでももっと痛い思いをしたはずですよ。良かったですねぇ』と慰めてくれた。ははは。そうですか、そうですか。
それでは痛み止めを打とうということで麻酔薬のアンプルを取り出し、注射器で吸い上げた。注射針をみると赤錆がういているではないか。(当時はまだエイズは知られていなかった)それを我が刺された足の裏にブスリブスリと注射するのだが、その痛いこと痛いこと。
まるで何匹ものさそりに再び刺されているみたいで耐えられない痛さだ!
『ドクター、痛いっす。たのむから止めてくれぇ〜』と言って途中で逃げ出してしまった。

その後痛みは日ごとに薄れ、一週間後には完全に無くなった。それと懸案の「子作り能力」であるが、現在一男一女の父である。ふたりとも頭のデキは悪いがこれはさそりのせいではなさそうだ。
それとあれ以来「ナニ」が強くなった、という“噂”も聞かない。

さらにムシのはなし
アフリカ住血吸虫の恐怖

例によってHolaのプロジェクトの金が尽きた。これでしばらく作業は止まってしまう。金が付いたら知らせてくれと言い残し、Holaを後にする。
JOCVナイロビ事務所に顔を出すと、ちょうどキスム(ヴィクトリア湖畔の町)の農業省で働いているボランティアーからアヘロ地区にあるスワンプ(湿地帯)地形測量の応援要請が入っていた。
さっそく測量機材一式を用意しJOCV所有の小型ピックアップ車に積み込んだ。事務所からついでに途中ナクールの近くのセカンダリースクール(日本の中学と高校の中間くらいか)で理数科教師をしているメンバーに自転車を持って行くよう頼まれた。
彼女の住む家は学校構内にあり、家の前にはヤリを持ったオッサン「マサイ族」が門番として立っていた。
なんて大げさなやっちゃなぁ、と内心あきれたのだがこれが縁で彼女と結婚することにあいなった。
話しが横道にそれてしまった。

キスムまでナイロビから車で約5時間。キスムの少し手前にケリチョという町がある。このあたりは標高が千メートルを越える高原地帯でケニアティーの一大生産地だ。見渡す限りのお茶畑が続く。
摘み取りシーズンになると「茶摘娘」だけではなく「茶摘男」も加わりお茶を摘む姿がみられる。

  
【見渡す限りお茶畑が続く高原地帯】


キスムではボランティアーの家に寝泊りし、毎日農業省キスム事務所の技師2人をピックアップに乗せ約15km離れたアヘロのスワンプへ通い測量作業を行った。> スワンプはアシのような植物が茂り、長靴を履いても股下までズブズブともぐってしまう。それととにかく暑い。
疲れるとあたり一面に生えているサトウキビの茎を切ってかじった。甘い液がジュワーっと口中にひろがり疲れが和らぐ気がする。
約1ヶ月かけフィールド作業を終えた。もともとこの測量を要請したのはキスムの農業省に派遣されたFAO(国連食料機構)のオランダ人専門家で、彼曰くこの地区は将来稲作地帯に変える計画だという。
僕の測量成果図はSURVEY OF KENYAに登録されるとのことであった。

測量成果図及び計算書を彼に提出した日の晩、彼の家に夕食に招かれた。オランダ人の奥さんとまだ小さい子供が二人いる。いろんな話しが出てアフリカの病気の話題になった時、彼の口から衝撃的な事実が語られた。
彼は長いことアフリカで灌漑プロジェクトに携わり、職業がら「沼地」「湿地帯」での作業が多かったという。
そして最近『アフリカ住血吸虫』が体内に入り込んでいるのが分かったという。
このアフリカ住血吸虫は傷口がなくとも足の爪の間からでも入り込み、血管内に入ると自由に身体中をかけめぐる。最悪の場合、脳細胞の血管に入り込んだりすると血管を食い破ることがあるという。
この場合、その人間は激痛で気が触れたようにのたうちまわり悶え死ぬ。アヘロのようなスワンプでは最も多く棲息している、とのこと。
『ひゃ〜。なんでそれを早く言ってくれないのぉ!!』

この時2年間の任期をあと1ヶ月残すのみであった。帰国後この話しを思い起こす度に身体中ムズムズする恐怖感が去らず、意を決して東京女子医大に検査を受けに行った。
日本で『アフリカ住血吸虫』を研究している学者はほんの一握りでその中のひとりがこの大学にいると紹介されてやって来た。
この学者先生に会い状況を話すと、とたんに目が期待で輝き出した。書棚から専門書を取り出し嬉々とて僕に吸虫について写真を見せながら「講義」してくれる。
やおら大きなガラス容器を取り出して『全尿を入れてきてください』と言う。僕はと言えば先生の「講義」にすっかりビビってしまい、トイレに行ってもナニが縮みあがって思うように出てこない。なんとか三分の一ほど溜めて持って行くと『ああ、足りません。もっとたっぷりと必要です』ときた。
僕がガックリと肩を落としトボトボとトイレに戻る姿を見て研究室の女子大生達がクスクスと笑っている。
一旦外へ出て喫茶店に入った。ジュースやら水をがぶがぶと飲み一時間後やっと満タンにして持って行くと学者先生は僕から容器を奪い取るようにしてラボラトリーに消えた。
しばらくしてラボから出て来た先生はいかにも無念そうに『え〜、吸虫はですね、いなかったです。』
あまりにもがっくりと落胆した先生の姿が気の毒に思えるくらいであったが、僕は一応神妙な顔をして礼を言い研究室を出た。大学病院の正面玄関を出たところで、
『やったぁ〜!万歳!』と叫んだのは言うまでも無い。

ところで最近僕の取引先の知人で、なんと奇特にもこの『アフリカ住血吸虫』を持ち帰った人がいたという。
最初どこの病院で検査しても原因が分からずだんだん痩せ細っていったらしい。
かの学者先生のところへ行ったかどうかは分からないがとにかく無事発見されて駆除したとのこと。
さぞかし貴重な「学術的標本」を持ち帰ったことで喜ばれたであろうと想像する。
脳細胞の血管に突き刺さる前でラッキーなことである。尚、仕入先は「ハート・オブ・アフリカ」と呼ばれるマラウイのマラウイ湖とのこと。めでたしめでたし。




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