『アフリカの水を飲んだものは必ず再びアフリカに戻ってくる』という、誰が言ったかは知らない「格言」が昔からアフリカを旅する者達の間で語られる。 これは大抵当っており僕の周囲にもかなり居る。そして僕の場合は5度目のアフリカ。そして4度目のケニア行となり、最後に訪れてから17年ぶりの訪問となる。と言ってもサファリ(動物を見る為のツァー)が目的ではない。そう言えば前回も業務であった。 <エール・フランス> 2月12日(土)、成田発パリ行きのエールフランスはほぼ定刻通り午後10時に離陸。客は定員の3分の一も乗っているだろうかのガラガラ状態だ。以前はビジネスクラスで出張できたが、経費削減の昨今、自主的にエコノミークラスにする。ここでmin-minの旅行術をちょっと。 1.座席はトイレ付近を避ける。 トイレ後方5メートルくらいの席がベスト。理由は、トイレに近いと夜中じゅう乗客が出入りしうるさくて眠られない。叉、トイレの壁を利用してスクリーンがある場合が多く、映画を見る為には良い位置だ。 2.通路側の座席を選ぶ これは夜中、スチュワーデスは呼んでも来ない場合が多く、酒をねだりにギャレーへ行くために便利。そして飲めば飲むほどトイレに行く回数が 増える。その度に通路側のひとを起こすわけにはいかない。 さっそく遅い晩飯の機内食が配られる。スチュワーデスは仏、日ともかなりのお姉さんばかりだ。皆たくましそう。14時間強のノンストップ・フライトの寝ずの「サービス」にあたるわけだから、か弱いお嬢さんではとうてい務まらないだろうが・・・。 それにしてもさきほどの機内アナウンスが気にかかる。「後ほどクラスごとにスモーキング・セクションを設置致します」。「えっ、タバコを吸えるの?」 今時は『全面禁煙』なんでは???? これは夕食後に判明。中央ギャレーの両側をカーテンで仕切り、臨時の喫煙処をつくってしまった。これは知らなんだ。この辺りアメリカ系の飛行機会社とは一味違う。「ダメと決めたら絶対ダメ」というアングロサクソンの片意地的な発想ではなく、やはりラテンの血が入っているフランス人。「嫌煙権」を認めるとともに、今や旗色の悪い「喫煙権」をも認めてくれるのだ。 さすが個人の権利を尊重するお国柄。これで14時間禁煙しようと覚悟した意志もあっさりと崩れ去る。あ”〜〜、やっぱり食後の一服はうまいのだ。ビバ!フランス。ビバ!トリコロール(^^)/ さっそく一服の後は読書の時間だ。A.J.クィネルの『ブルーリング』を読み始める。途中、機内映画が始まる。なんと高倉健主演の『鉄道員』じゃありませんか!でも大きな壁掛けスクリーンではなく小さなテレビ画面での上映。良く見えない。それより『ブルーリング』のほうが面白いのでそのまま読書を続行。途中睡魔におそわれる。もう日本時間で午前1時だ。 3席並んだ座席の通路側の席に座っている。隣席2つは誰もいない。アームレストを上げ横になる。頭を通路側にし足を窓にのっけるという行儀の悪さを許してもらう。4時間ほど睡眠。再び目覚めて読書。 小腹が減る。そういえばギャレーにサンドイッチとカップヌードルが置いてあ る、と言ったいたっけ。カップヌードルを選ぶ。横文字ばかり書かれた製品でどこかで現地生産されたものらしいが、味は一緒。これが美味い! また眠くなる。今度は背もたれを倒して眠る。2時間ほど寝たであろうか。突然機内に明かりがともる。日本時間で午前11時だ。あと1時間ちょっとでパリ到着のアナウンスがあり、朝食の時間となる。食べたくないのに配膳される。こうなるとブロイラーみたいなもんだ。 パリ現地時間午前4時半、機はほぼ定刻通りパリ・シャルル・ドゴール空港に着く。外気温は摂氏8度。 ケニアへの乗り継ぎ便は現地時間午前11時10分、まだ6時間強ある。日中ならいざ知らず、日曜日の午前5時、たとえパリ市内に行く時間があったとしても何処が開いているというのか?悪あがきは止めにする。 トランジットのCafe Barに行って見ると日本人客でごった返している。この人達は更にエール・フランスでロンドンへ向かう予定だ。コーヒーを飲もうとして列に並び順番がやっときた時にはもうほとんど尽きかけており、紙コップに3分の一しか注いでもらえない。 そうそうに日本人の群れから離脱。ケニア便が出るというHall Cへ移動。 ここまで来るともう日本人観光客の姿は見えない。かわって黒人と英語を話すインド人ばかりだ。このインド人達はケニアを目指す人々に違いない。ケニアには数万人のインド社会があるからだ。 <ケニアのインド人> 第一次大戦後(だったと思うが)旧宗主国である英国はケニアのモンバサからナイロビそしてキスム、更にウガンダの首都カンパラまで鉄道建設を行った。この時起用されたのがインド人労働者であった。数年に及ぶ苛酷な労働の後、彼らは遠い故郷にもどることなくなかば遺棄されたものと想像する。 インド人特有の才気、とくに商売における才能がこのアフリカの大地で花開き、ケニア、ウガンダ双方においてまたたくまに経済の大方を押さえてしまった。これを不満に思い強引に「追い出し」を行ったのがかのウガンダの『人食いアミン』ことアミン大統領で、ウガンダ在住のインド人達は着の身着のまま隣国ケニアになだれ込んだ。1970年代初めの頃と記憶する。 こうしてケニアには数万人規模のインド人社会が形成されており、今では陰の経済(小さな商店でも一見ケニア人が経営しているように見えるが、資本はインド人が出していることが多い)を取り仕切っている。 もちろんナイロビ市内にはインド料理店が数多くあり、本場のカレーが味わえる。またインド映画専門館も何軒かあり、『踊るマハラジャ』風の映画が常時上映されている。この手の映画は言葉がわからなくとも楽しめる、という点で昔からケニア人にも受け入れられており、関連のインド・ミュージックのテープも大量に売られている。僕もケニアに住んでいた当時(1977-1979)、よく“お姉さん”にせがまれてインド映画をよく観た(観せられた?)が、後年この手のインド映画が日本でヒットしようなんぞ夢にも思わなかった。 <再びエール・フランス> さてパリ発ナイロビ行きAF980便はフランス現地時間11:40(日本時間13日19:40)シャルル・ドゴール空港を離陸。当初待合室にいた乗客は大した数ではなく「こりゃ、ガラガラだな」と思っていたが離陸間際になってからドドーっと団体客が搭乗してきた。どこかヨーロッパの都市からの乗り継ぎ客達で、結局8割かた座席は埋まってしまった。 機は順調に南下している。2時間ほどして機内に取り付けられたスクリーンを見るとGPS装置がイタリー半島の南端を通過中であることを示している。良く見るとMALTAという字が見える。マルタ島といえば『ゴッツォ』じゃないか!ウォー、いまゴッツォ島の上を飛んでいるぞ!とひとり感慨にふけっている。そして死ぬまでに一度訪れてみたい、と強烈に想う。そう、この島こそA.J.クィネルの代表作『燃える男』の舞台となった島なのである。 機はイタリー半島を離れ、スクリーンにはいよいよアフリカの地図が映し出される。リビア領空をかすめスーダン領に入ったようだ。更にエチオピアのアジスアベバの文字が見える。もう直ぐだ。 ケニア現地時間13日21時頃、機体は降下し始める。窓外にぽつぽつと灯り が見え始めるがいわゆる都会の「光の海」は見えない。はるか遠くに比較的にまとまって光っているところがナイロビと思われる。 <ケニアだぁー!> 現地時間21:15(日本時間14日午前3:15)、やっとジョモケニヤッタ国際空港へ着陸。実に約28時間強に及ぶ空の旅であった。さぁー、アフリカだ! 「ジャンボ!ハバリガーニ?」=「こんにちは!お元気ですか?」とスワヒリ語(ケニアの国語)で税関の係官に応じる。スーツケースを開けろ、とは言わなかったがダンボール箱の中身は何?と聞くので自ら開けることに。中には書類の他ナイロビ在住の関係先の邦人用におみやげとして買ってきたソバ、ウドン類がびっしり詰め込まれている。 「これ、なぁ〜に?」と興味津々のご様子。ということは「ちょっと欲しいんだけど」を意味する。そこで一言。「これはね、日本人だけ食べられる特殊な食べ物なんですよ。だからあなた方が食べてもちっとも美味しくないのです。ソーリー」と言いすぐにフタを閉めてしまった。係官は苦笑(いかにもみれんがましかったが)して、「どうぞ、行っていいですよ」と開放してくれた。 入国審査、税関を通過後外へ出ると僕と僕の同僚2名の名前を書いたカードを持ったケニア人がいた。挨拶すると現地に有る日本のM社のドライバーとのこと。 ナイロビ市内まで約15kmほど。車で20分くらい。途中真っ暗で周囲の風景は見えない。ナイロビ市内に入るとコンファレンス・センター、インター・コンチ・ホテルなど見覚えの有る建物が見えてくる。今夜宿泊予定の680ホテルに到着。 シングルの部屋にチェックインしたものの、猛烈なディスコ・サウンドがする。窓から下を覗くとなんと対面に野外ビア・ガーデンがあり、生バンドが演奏している。「これじゃ眠れたもんじゃない!」と思い、フロントにかけあい反対側の部屋に移る。これは後で現地のM社の方に聞いたのだが、ここ680ホテルの前で最近路上強盗がでたばかりで「大丈夫かな?」、「でも、以前ケニアに住んでいてこのホテルの名前もご自分で指定されたわけだから、ま、いいかな?」と判断し予約を入れたとの事。「おいおい、早く言ってちょうだいよ、そういうことは!」と言ってみても後の祭。 翌朝時差ぼけのせいか夜明け前に目が覚め、ホテルのテラスに座り朝のナイロビの様子を眺めているとじわじわと「あ〜、また戻ってきたぁ〜〜〜」という実感が涌いてきた。そして始めてケニアに訪れた昔の思い出がよみがえってくる。 <ナイロビの治安> 朝食後M社の日本人が昨夜のドライバーの運転するランドクルーザーで出迎えてくれ、ホテルから程近い彼のオフィスへ向かう。ここで所長より最近のケニア事情を聞く。彼自身ここに赴任してきてまだ2ヶ月とのことで前任者よりとことん「治安の悪さ」について吹き込まれているようで、日中と言えども全て車で移動している、とのこと。 「みなさんお泊まりのホテルから夜食事等で出かけられる時には300mでも必ずタクシーで移動して下さい。」とまで言う。「う〜〜ん、そこまで必要かな?」と想うのだが、相手に心配かけると悪いので「はい。わかりました。」と素直に答えておく。 しかしここで昨夜のホテル到着から今朝の様子を思い起こしてみると確かに以前とは違う点にきずく。 まず、ホテルの各フロアーにアスカリ(ガードマンの意)が一人ずつ配置されフロアーへの不審者の侵入を厳しく監視している。これは以前に無かったことだ。次ぎに、今朝ランクルに乗りこんだ時、どこから現れたのか“ストリート・チュルドレン”が何人かサイドガラスをコツコツと叩いて手を差し出してきた。その表情がすさんでいる。20年以上前から彼らは居たことは居たが、朝っぱらから外人にまとわり付くことはしなかった。 統計によるとこの20数年間でケニアの人口は約2倍に増加したという。これといった産業はないわけだから(最大の外貨収入源は依然として観光産業だ)、必然的に失業者で溢れることになる。そして職を求めて今も尚地方から都市部、特に首都ナイロビを目指し集まってくる。彼らの多くは住む家もなくナイロビ周辺のスラムにダンボールとトタンでできた家とは言えない「家」の住民となる。 一握りの「幸運な人間」=職を探し当てたものを除き、おおかたブラブラしている。そしていよいよ「飢えた」者達の一部は犯罪をも辞さない境遇に落ちて行く。男であればスリ、カッパライ。最悪の場合強盗をも行うようになる。女は、特に若い女達は「夜の街」へ足を踏み出す。ちなみにこの「世界最古の商売」のことをスワヒリ語で「カジ・ヤ・テンベーヤ」=歩く商売という。 それにしても貧富の差が著しいようだ。上記のようなスラムがあると思えばナイロビ市内を颯爽と歩くネクタイをしたビジネスマン、キャリアウーマン風の女性だってみかける。 1978年「建国の父」とも言うべき初代大統領ジョモケニヤッタが死去した時、この国に非常な緊迫感が走った。というのも、ケニヤッタは最大部族のキクユ族出身であったがキクユに次ぐルオ族との対立が懸念されたからだ。以前このルオ族出身の代表的政治家が暗殺されたこともあり、次期大統領の選出の如何によっては「内乱」発生も想定される状況下にあった。 そこでKANU(当時唯一の合法政党、もちろん与党)の長老会議は現在のダニエル・アラップ・モイを指名した。彼はカレンジーンという少数部族の出身であり、誰もが予測し得ない「次期大統領」となった。完全にパワーバランスのなせる技であった。 山崎豊子著『沈まぬ太陽・アフリカ篇』では商務大臣時代のモイ大統領が登場している。ところが、「権力」というものはそれ自体一旦手に入ると往々にして一人歩きを始める。このモイ大統領の場合もその典型で、その後クーデター未遂も含めたいくつかの危機を乗り越え、20年間の長がきに渡り大統領におさまっている。 <ケニアの食物> ウガリ(海岸地方ではシマともいう)がケニア人の主食。メイズ・フラワー(とうもろこしを粉状にしたもの、ただしとうもろこしの種類が違う。アメリカのスウィートコーンみたいに黄色ではなくかなり白っぽい色をしている)をお湯でとかし、沸騰させてから粘りがでるまでかき混ぜる。ほどよい水加減が必要。その後“蒸す”行程が肝要。味はほとんどなく、手で握りながら「舟形」に形成しスープをすくいながら食べるのが“通の食べ方”。これはケニアでも農耕民族の主食であって、マサイ族をはじめ遊牧民族はあまり食べない。 その他料理としては、ケニア独特の野菜を使って煮込んだ「イリオ」とか「スクマウキ」という料理が有る。 コースト(海岸地方)地区はアラブの影響が強く残り、食べ物も「アラブ風」のビリヤーニ(羊肉、鶏肉を入れた炊き込み御飯。香木など入れかなりスパイシー)などの米を使った料理が多い。 その他、インド式の「サモサ(サンブーサ)」も一般化された食べ物で、朝食には手頃。これとケニア式チャイ(牛乳を沸かし、それに紅茶の葉を入れさらに砂糖とジンジャーなどの香料を加える)を飲むと最高の朝食となる。 首都ナイロビは近代的大都市(周辺には一大スラム街があるにしても)で、西欧・オリエント・インド・アラブ等の各国料理店がありほぼ何でも食べられる。日本料理屋だけでも5軒以上あるようだ。それ以上に中華料理屋の数が多い。今回実質5日間の滞在で食べた料理(ホテル内の朝食とバイキング式夕食を除き外食したもの)は中華料理3回、インド料理1回、韓国料理1回、イタリア料理1回、ウガリ1回で、日本料理は食べなかった。 本当は上述ケニアの「アラブ風」料理を一番食べたかったのだが、これらのレストランが多く集まるダウンタウンの治安状態が著しく悪いため、足を踏み入れなかった。残念なことである。
<ナイトライフ> 一般のケニア人はそうそう外で飲めるものではない。しかしナイロビはもちろんちょっとした町にも必ず食堂兼バーのような所があり、ジュークボックスから単調ではあるが強烈なコンゴ風(アフリカン・ビートの源流ともいわれる)ミュージックがガンガン流れてくる。そのリズムに合わせ酔った男女が腰を振って踊っているが、それが非常にサマになっている。 首都のナイロビやコーストのケニア第2の都市モンバサなどには観光客目当ての豪華なナイト・クラブ、ディスコ(とは今は言わないのだっけ、クラブかな?)がある。ナイロビだと市の中心部にある円形のクラブ『ニューフロリダ』が白人観光客の間で人気がある。 以前ここには地元のライブ・バンドが朝方近くまで演奏していたが今は生演奏はないようだ。17年ぶりに訪れてみた。入り口で入場料150KSH(500円程度)を払い3階へ上がる。 場内は未だ早い時間(9時半ころ)のせいかお客はあまり入っていない。客の大半が地元女性である。が、実はこの女性達は「客」ではない。この店に雇われているわけではないのだが、いわば「自由恋愛」の出会いの場として使用しているその筋の女性達だ。彼女達も一応入場料(割引料金だが)を払って入っている。 外国人の客(男、あるいは男達)が席に着くと彼女達の出動とあいなる。会話をし、客に飲み物をねだり、一緒にダンスを踊り、そして一時の「恋愛状況」になると手に手を携えてクラブを後にする。店側は一切関知せず、と割り切っている。 1980年代半ばWHO(世界保健機構)が緊急警告を発表した。それはエイズに関する警告で第三世界で2箇所都市名を名指したものであった。エイズがもっとも蔓延している都市として。それがケニアのナイロビとタイのバンコクであった。2年も経ることなく“つぶれた”と風の便りで聞いたのだが今もこうして営業しているのを見るとつくづく人間とは「喉元過ぎれば・・・」なんとやらのおめでたい動物であるのが分かる。 そして前述の「客」を装った女性達であるが、出身地を聞くとエチオピアありソマリアありルワンダあり、要はボーダーレスの世界なのだ。その時代の周辺諸国の事情が反映され“金”のより有る所に自然と集まってくる。同じケニア人でも時々なにも知らない外人観光客に向かって『私はマサイよ』などとウソをつくのがいる。『お前さんはカンバ族だろ。なんでそんなウソを言うの?』 と聞くと、『マサイというと珍しがられてチップが多いの』という正しく市場経済論理を展開した?お答えが返ってきた。 <最後に> かくして中味5日間の駆け足出張で、観光地には一切無縁の旅であったが、一観光客としてこの国を訪れるとまた違った世界がある。 ケニアといえば『サファリ』を想起されるのが普通だと思う。マサイマラやツァボ自然動物公園へは今も多くの外国からの観光客が押しかけている。 しかし、ほとんどのケニア人がこれらの動物を見たことがない事実を皆さんに知ってほしい。『サファリ』は外人のためだけのとてつもなく金のかかる「道楽」なのだ。ここを生活の場とするマサイ族を除いて・・・・。 2月19日の深夜、再びエール・フランス機で来たときと同じルートで無事帰国した。やはりアフリカは遠かった!! |
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