ルーツを訪ねて-番外編-


ルーツを訪ねて-番外編-田子の姥浦2003.8.12

2年程前から西伊豆の田子というところの月西区に「姥浦」という地名があることが分かっていた。伊豆も東側はけっこう交通の便が良いのだが西伊豆、それもかなり南部だと不便極まりない。行こう行こうと思いながら2年の月日が経ってしまった。
しかしこの西伊豆の「姥浦」については頭の中から消え去ることはなく、何かの拍子に浮かび上がってくる。そのきっかけになったのは今年読んだ後藤明先生の『海を渡ったモンゴロイド』である。
この本の中であったかあるいは前作『海の文化史』でか、熊野の鰹節のことが出てくるのだがこの鰹節の製法はカツオを追って遠く伊豆、更に千葉、茨城まで広まったと書かれている。そしてこの伝播の担い手は熊野の漁民であった、というくだりがある。
そもそも現在の鰹節に近い焙乾(燻乾)鰹節の創始者は紀州印南浦のカツオ漁民の角屋甚太郎親子とその一統といわれている。その製法を積極的に取入れ藩の貿易産品としたのが土佐藩であったらしい。
江戸の後期に、同じく紀州印南浦の住人で土佐与市という鰹節職人が、伊豆方面に改良土佐節を紹介した。伊豆の中でもここ田子地区と隣村の安良里村が中核となったようだ。
さて、西伊豆町役場に隣接する「教育委員会」の事務所を訪れると、郷土の文化資料としてこの「鰹節製法」に関わる研究資料がある。それによると製法が紹介されたのは1800年代初頭であった。
先の「ルーツを訪ねて」にて述べた石川県所口(現七尾市)の我が一族が「姥浦」という名前を使い始めた記録として残っているのは安政5年の寄進の際である。
同じく1800年代ということで「はぐれた一族の一部」が関わったかも知れないと想像するのはあまりにも強引すぎるだろうか。いつの時代にも、例えば200年後の現代でもそうした「はぐれ者」(私のことだが・・・)はいるものだ。

ところで現地に行って地元の人に聞いて初めて分かったことだが、現在「姥浦」という地名は行政上使われていないとのこと。全て西伊豆町田子〇〇〇〇-〇〇という表記になっているそうだ。しかし、土地の登記簿上にはいまだに「姥浦」として残っているそうである。
訪問したのは8月11日(月)、ちょっと早めの夏休みを利用して横浜・長津田の自宅を出たのは朝8時頃であった。
ルートは一番安上がりなルートを選択。長津田→町田→小田原→三島→修善寺(以上電車)→田子(バス)。約4時間の長旅であった。
帰りのルートは気分を一転して海上ルートを選択。田子の南の松崎と沼津を結ぶ高速船がある。途中、堂ヶ島、土肥、戸田に立ち寄り約1時間半の船旅である。

田子港
田子港の一番奥まったところが「姥浦」と呼ばれる


かっての「姥浦」地区。今は再開発され古い家並みは残っていない。
この建物は鰹節の削り節工場
姥浦のもっとも海側の様子。船宿と寿司の仕出し屋がある。


堂ヶ島に立ち寄る高速船「こばるとあろー号」沼津港まで1時間ちょっと。
沿岸部にそって航行するので伊豆の海岸景色を楽しめる。


海上からの富士山の眺めも良いものだ



伊豆半島の田子地区は、かつて伊豆水軍があったところで、詳しいところは分からないが「熊野水軍」とも何らかの関係があったのではなかろうか。西伊豆町の姉妹町が長野県は諏訪地方にある富士見町ということも興味深く、このあたり「住吉系海人」同士の繋がりを想像してしまうのは僕の“妄想”かしらん。







ルーツを訪ねて-番外編-ハンカクサイ2002.5.19

僕の故郷北海道にはいろんな方言があるが、その中に「ハンカクサイ」という言葉がある。この意味はバカ、アホの類で他人をののしる時に使用するのだが、じゃ北海道でどこでも使われるのか?といえばそうでもない。しかしながらこの言葉を割りと我が家及び親戚関係は頻繁に使用していた記憶がある。
その後内地に出てきてから気がついたのであるが、この「ハンカクサイ」は東北地方の一部でも通じるところがあるらしい、ということ。でも、依然としてその出所がわからない。
そのうち道産子でも若い世代になればなるほどこの方言は使われなくなり、今や幻の言葉となりつつある。このけったいな発音の方言「ハンカクサイ」は結局その起源が分からずじまいで終わるのか!と諦めかけていたところ、先日ある古本屋でなにげなく『全国アホ・バカ分布考』(松本修著)なる本を手にしてパラパラとページをめくった時目に飛び込んだのが「ハンカクサイ」は船に乗った、という見出し。『まさか!?』という思いでむさぼり読むとやはりあの方言「ハンカクサイ」の起源について記しているではないか!。
実はこの松本さん、大阪・朝日放送のプロデューサーであり、1990年代初頭に『探偵!ナイトスクープ』なる放送を始めたという。僕はまったくこの事実関係を知らなかった。で、番組の中で「アホとバカの境目はどのあたりにあるの?」という聴視者からの疑問に答えるべく調査が始まったわけだが、アホ・バカは別としてこの「ハンカクサイ」は著者をも長らく悩ませていた「謎の伝播コトバ」であったらしい。
著者は「ハンカクサイ」のハンカは「半可」であろうと考え、江戸時代の吉原で生まれたらしく最初は「ハンカ」のみ。そのうち「面倒クサイ」や水クサイ」の「クサイ」がくっついて「ハンカクサイ」という新語になったのでは?という推論。
しかしどうも吉原へ伝播する前のオリジナルは上方の色町で流行った言葉が後に江戸の吉原、新吉原へ伝播したにすぎないのでは?と考えた。実際、奈良県の一部には「半可」という言葉が残っているという。
では何故、「ハンカクサイ」が能登半島、東北、北海道の一部に伝播したのか?
この疑問の解答をズバリ与えてくれたのが国立国語研究所の大西先生。いわく「上方から日本海を北上したんですよ」と。
そう、あの北前船のルートそのものであったわけ。伝播したのは北前船の船員たちであろうことは想像に難くない。わけても能登半島の福浦あたりには日本海最大の色町が栄え、「今、上方で流行っていコトバ」として「ハンカクサイ」も伝わったのでは。そして福浦を出ると、蝦夷の松前の手前には能代や青森の鰺沢へ寄港したものと思われる。
かくして著者をまた僕をも長年悩まし続けてきた「ハンカクサイ」のルーツがわかった。そうすれば能登を出自とする我が家系が北海道にて「ハンカクサイ」を多用した理由がわかるというものだ。


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