アジア・太平洋篇

台 灣 (1989)
【中央山脈横断行】



【台灣の東西を分ける中央山脈3千m級の山々が連なる。最高鋒玉山は標高3952m】

1989年夏、首都台北は35度を越える猛暑であった。
台灣電力から将来の345kv東西線の調査行のお誘いを受けた。この東西線は台灣の西部から東部へ大容量の電力を送り、工業化の遅れた東部の活性化を計る計画の一環であった。ルートをどのように取るかが今回の大きな課題であった。一番高いところで標高2700を越える地点を通過せねばならず、風雪による被害も想定されるルートであった。
調査行はまず、林務局の入山許可を得る必要があった。当時中央山脈一帯は一般には立ち入りが許可されていなかった。調査隊は電力会社の各セクションから選ばれた18名プラス我々日本人2名の20名にのぼる大部隊であった。
台北から特急列車自強號で花蓮へ向かった。ここで電力会社の何台かの4駆に乗り換え30kmほど南下。
今回登山の登り口になる萬榮村に到着。ここで3泊4日の山中泊に必要な食料・装備関係を運ぶ“強力”=ポーターを山地原住民の中からを10人ほど雇った。



【中央山脈を示す地図。登山口は花蓮の南約30kmの萬榮村・右写真】


萬榮村からは直ぐに林道に入る。林道入り口にはポリス・チェックがある。ここから45Kという地点まで約3時間のデコボコ道を揺られて標高1千メートル近くにある廃棄された山小屋まで行く。途中崖崩れで車を放棄。数キロほど林道を歩く。第一日目はここで泊まり、明日朝早く出発することに。
山地原住民の強力達もここに泊まったのだが、彼らの夕餉の“味噌汁”と見事に黄色いダイコン一本まんまのタクアンにはびっくりした。全て日本統治時代の食文化の伝統を受け継いでいるわけだ。両方おすそわけしていただいたが、まぎれもなく日本の味であった。
翌朝、川を越えていきなり急勾配の斜面を登り出す。両手で木の枝に掴まって身体を引き上げないと登れない勾配だ。我々日本人を含め電力会社の一行のほとんどが普段山登りなどしたことが無いものが多く、しだいに休む回数が増えてくる。そんな我々を尻目に強力達は50kgにも及ぶ荷物を背負って追い越して行く。700mほど急なケモノ道みたいな道を登り切る頃には彼らに随分差をつけられてしまった。




【標高2300m付近を走る森林軌道・橋梁跡及び駅舎跡】

へとへとになった我々の眼前に出現したのは森林鉄道の軌道跡であった。一体だれがこんな標高にこのような設備を作ったのであろう?
後になって判明したのであるが、村田山森林鉄道と呼ばれたもので戦前・戦中、日本人の手によって大規模な森林伐採が行われた。この森林鉄道によって集材され、その先は索道によって搬出されたようだ。戦後も何年間か台灣人によって事業は継続されたようであるが、その後環境保護の意識の高まりの中、同事業は完全に打ち切られた模様。まさしく“つわものどもが夢の跡”か。
この日は駅舎跡に宿泊した。夕食の前に近くの沢の滝に出かけ、汗だらけになった身体を滝の水で洗い流して生き返った心地がした。


【写真左;七彩湖湖畔にて調査隊一行と。写真右:1998年、東西線、最後の架線作業をする台灣電力施工部隊】

翌日は更に400m登った。ここまで登ると低潅木しか生えていない。頂上には『七彩湖』と呼ばれる雨水が貯まって出来あがった湖がある。周囲数百メートルの小さな池のようであるが、こんな2700mで湖に出会おうとは。辺りは静謐につつまれ空の蒼さを写す湖水が美しい。しばしうっとりと時を過ごす。強力達は休む間もなく引き返していった。
この夜は始めてテントを張って寝たが、外気温が10度を切り、とても寒かった。下界の35度を越える熱さが信じられない世界だ。星空が美しい。その満天の星の下で誰かが持ち込んだ“高粱酒”をしこたま飲んで酔っ払い、シュラフに入り死んだように眠ってしまった。
翌日は登ってきた時と反対の西側(水里庫側)に向かって一気に駆け降りた。登りにあんなに苦労したのがうそみたいなスピードで午後の早い時間には麓の「林班区事務所」に着いてしまった。

この送電線工事はその後3年多をかけ1998年に無事完成した。


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