| TanTan的 『新・中国武術』宣言 |
![]() 「BUGEI」2001年夏号 掲載文章 |
| ■ 技術の醗酵期へ |
| 日本における中国拳法修行者が現在あるレベルに到達しながらも、なぜか同じ場所での彷徨を繰り返しているように見受けられるのは、自分達が身に付けた武技が既にその醗酵期に至っていることを自覚できずに、それに見合った練習内容に移行していない点にあるのではないだろうか? この日本において、中国の武術が「中国拳法」の名称で紹介されてより久しい時が経つ。多くの門派とその套路が紹介され、使用法やそれに付随する推手等といった対人練習法も我々は学んできた。そして、その結果を試す場所として「散打競技大会」も日本で数多く開かれてきたのであるが「中国拳法」として学んだ技術の体現には、なぜか中々至らなかったといえよう。 「何が一体自分達に不足しているのか?」 この根本的な問いに答えを出していくことこそが、みずからの武技をより高みに押しやっていくことになるはずなのである。もちろん、このような問いに対する答えとして唯一絶対の方法が存在する訳ではなく、いくつもの方法論があると考える方が妥当である。 今回私が示すのも、そういった答えへの一つの方向性として各自の御参考にして頂けたらと思うものである。 さて、まずここで自覚をして頂きたいのが冒頭に書いた、「我々日本の中国拳法愛好者は知らぬ間に技術の醗酵期に突入している」という事実である。 これまで日本の中国武術愛好家は、本家中国&台湾からの「次の情報」を常に求めてきた。本誌を始め、こうした関係の情報誌もそれに応えるべく、次々と新しい中国人武術家を紹介し、また実力の噂の高い中国人の先生方を何度もアンコール掲載すると共に、その都度、門派独自の套路や練習方法などといった題材が繰り返し取り上げられてきた。 またインターンネットなどにおける通信上の情報量もここ一・二年で飛躍的に増え、大陸を始め台湾、香港等からも多くの武術の情報が発信されるようになってきた。 しかし、こういった情報の多さは、かえって我々に情報の消化不良を引き起こしているといえるのではないだろうか? これはインターネットにおける日本の中国武術関係者のサイトでの掲示板(個人の意見を交換するコーナー)の日本人どうしのやり取りなどみていると非常に強く感じられる部分である。 もちろん優良な「本家」情報に接し、自分達の知識を充足させながら、その方向が間違わないように修正していく作業は常時必要ではある。しかし、この知識過多のような状況において、本当の意味で求められているのは、日本の古武術界や空手道等で注目されつつある「身体の有効利用」と、それを使った「具体的な戦闘技法」だと考えらえないだろうか? そしてこういった疑問を持つに至る状態こそ、みずからの「技術の醗酵期」に到達している段階と捉えるべきだと私は考えるのである。 |
| ■ 秘伝とは・・・ |
| 「秘伝とは、睫の先のようなものである」 これはよく使われる比喩であるが、実際に錬拳の過程で幾つかの「秘伝」と呼ばれる技法に接してくると、まさにこの通りであると感じるようになる。 例えば、「寸勁」(この技自体、昔日は秘伝だった)が打てるようになった初期の頃というのは、まだまだ呼吸による爆発力が弱く、中々相手に浸透するような勁を発することはできない。これはスピードの不足から、つい相手を突き飛ばすような感じになってしまうのであるが、こういったレベルにおいても「打撃訣」を学ぶことにより、打撃としてそれなりに効かすことが可能となる。 この具体的な秘伝の「打撃訣」とは、寸勁を発するときに単純に真っ直ぐ相手のボディーを打つのではなく、やや斜め下方に向って発するというものである。こうすればフルコン空手系でいわれているローキックの効かせ方と同じような効果が得られ、相手を後方へ吹っ飛ばすことなく威力を浸透させられるようになる。 もちろん、これは秘伝といってもごく初歩的なものであり、教わらなくても対人経験豊富な人ならば無意識に行ったりしている部類のことであろう。しかし、そういった経験が乏しい者でも、こういった打撃訣を聞き、具体的に錬功を積めば「宴会芸」の域を越えた、ちゃんとした武術的な技法へと歩み始めるのである。 中国拳法に限ったことではないのだろうが、よく「何とかという技は古くて使えない!」といった類の話をよく耳にする。 私はこういった意見に対して「技そのものがこの時代に適合できないから使えないのか、それともあなた自身が使えないのか?」と質問したくなる。 以前、伝統空手を学ばれている方の演舞を拝見した際に、「この技は相手の髷を取って投げます。」という形(かた)の解説を聞いたことがあるが、髷を結わない現在においてこの技を有効利用するのは難しい。これは技自体が時代の流れに取り残された、現在では不適合な存在といえるであろう。(文化的な価値基準は別)このような例は中国拳法にも存在し、北派拳術では中国文化独特の長い袖を想定した技がいくつか残っている。 しかし、こういった文化的&時代的背景の変遷に伴い使えなくなった技とは異なり、ただ自分が上手にその技を使えないがために「この技は使えない」と断定してしまうのは、やはりいかがなものであろうか・・・・・。 10年ほど前、日本で散打大会が盛んに行われ始めた頃、中国拳法の看板技でもあった寸勁や化勁のような技術はそういった大会で上手に使えないという理由で私も省みない時期があった。 しかし、台湾の散打大会でチャンピオンにもなった方にご指導を受けた機会に、この方から「七つ星の打法」という技を見せて頂いた。ここでいう「星」とは間接の駆動部分であり、即ち「足首・膝・股関節・肩・肘・手首、そして頚(頭)」のことであり、これを一瞬に統合して威力を発揮するという形意拳の回身式を応用した寸勁(本当ならば秘伝)なのだが、これを相手の攻撃を具体的に躱しながら打つという方法を示されて、慣れれば簡単に使え、しかも意表を突ける実戦技法として示唆された。 この時、強く考えさせられたのは、どういった技でも「使えない」と最初から放り出してしまうのではなく、まず「どうしたら自分にとって有効な技法になるか?」ということを模索することの重要性であった。そして、ここで特に再考する必要があるのが、「秘伝」技法を現在の自分に合わせるための見直しなのである。 |
| ■ 基本にも秘伝が・・・・・ |
| さて、私の唱える「新中国拳法」とは『武術の体系を、先人の叡智の膨大なる蓄積、いわば宝庫ととらえ、そこからあらゆる武術(運動)に通底、通脈する身体の運用理念を学びとる』と定義して錬拳するものである。 そして、先の項迄で述べたように中国の武術は「秘伝」の名目で数多くの重要な身体運用法を隠しており、またそれは基本の段階で既に存在するともいえるのだ。今回ここにその具体的な部分を言及しようと思う。 まず北派中国拳法の基本練習といえば、やはり馬歩で立つ站椿功が上げられる。この馬歩功についての読者各位のご理解は、如何なものであろうか? 馬歩站椿の一般的な練習法は、適度に開いた足幅を保ちながら(門派によってその幅が異なる)中腰で立ち、「立身中正」等の各種拳訣に注意を払いつつ、深呼吸しながらできるだけ長時間その姿勢を維持し続ける、といったところであろう。 さて、これを実際続けて来られた方、あるいは経験者にお伺いしたいのであるが、この站椿功を行ってきて具体的にどのような効果が自分に得られたであろうか? 私自身は拳法に取り組んだ初期の頃からずいぶん長い期間に渡り、この站椿功に取り組んできたのであるが、ある種の脚力の増大以外に取りたてて武術的な効果を得たとは残念ながら感じられなかった。(気功&瞑想的な効果は別)そして、その練功により武術的に強くなったと思われる筋肉も、スクワットをゆっくりこなして付けるものと大差ないように感じた。このような自身の結果から、一時期は馬歩站椿そのものに懐疑的になったこともあったのだが、私はあることに気が付き、それまで行ってきた馬歩站椿功の内容を一変することに成功した。 それに気付くきっかけとなったのは、把式そのものの練習において「どうして最初に学ぶ変化が、馬歩から弓歩への変化なのか?」という素朴な疑問であった。 ご存知とは思うが、中国拳法において本来定式とは「過渡式(中間動作)」の間に存在するもので、実際の戦闘法として重要視されるべきはこの過渡式の方である。套路においても、一つ一つの型を分解して学ぶのは、あくまでも初心者の学習のためであり、「黙然師容」の口訣の通り、師匠の実際の動きにこそ学ぶべき全てが含まれている。 ということは、この馬歩站椿功も実はじっとして立っているように見えて、「本来は過渡式である」と断定し、それに見合った意念を込めることにこそ、本来の意味が見いだせるのではないかと解釈したのである。 そして、それを実践するようになったおかげで馬歩站椿において鍛える筋肉の部位は一変し、ただ身体の昇降を繰り返す筋肉群よりも、捻じりを伴った強く強靭な粘りのある連携した筋肉群が短時間に出来上がっていった。 現在この功法は、新中国拳法・九星会において把式の錬功法の第二段階として指導している。その具体的な方法は以下の通りである。 |
| ◆ 馬歩基本功第二錬法 |
| @ スクワットなどで鍛えられる筋肉は主に上下動を支える系統である。 A 馬歩もただ我慢して長時間立っているだけでは、@と大差ない。 B 一方、馬歩をより動的な錬法と考えて、馬歩から弓歩への移行を考えてみる。すると後脚の地面への蹴り込みが注目されることになる。この時に「纏絲勁」を意識すると脚全体の筋肉をまんべんなく使うことが可能となる。(筋肉とは真っ直ぐに人体に着いているのではなく、骨に絡むようにして筋繊維が着いているということを認識する) C 馬歩とは、この弓歩への移行する時の後ろ側になる脚の動き(過渡式)を両脚に封じ込めた定歩(把式)なのである。 ※余談 こういった系統の馬歩を如実に表現しているのは、李書文系八極拳を継ぐ台湾武壇の系統である。あの独特の腿を内側に閉めたような把式は、こういった発想から来ていると推察される。 また非常に興味深いのが、同じ李書文系の八極拳を継ぐ長春の系統である。長春系の八極拳は、武壇の馬歩と対極を成すようにがっしり外側に開いて固定しているように見えるが、これは弓歩への移行時における前脚をその両脚で再現したものではないかと考えられるのだ。 このように考えると一見異質に見える両者の馬歩も、その根本はあくまで同一の発想であり、修行者の個性や資質によって変化し現在に至ったと見る方が妥当であろう。(余談はあくまで私見) |
「BUGEI」2001年夏月号(BABジャパン):定価990円雑誌17637-6 |