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| 管理番号 | 書 名 | メ モ | |
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| M063-003・004 | 戦艦大和誕生(上・下) | 西島技術大佐の未公開記録 | |
| M063-006 | マン・マシンの昭和伝説(上) | 日本軍用機開発の終焉と自動車の黎明 | |
| M063-007 | マン・マシンの昭和伝説(下) | 戦後の日本自動車業界の光と影 | |
| M063-008 | 亜細亜新幹線 | 新幹線に先駆けた戦前の「弾丸列車」構想の全貌 | |
| M063-009・010 | 戦艦大和の遺産(上・下) | 真藤恒と戦後造船史 | |
| M063-011・012 | 富嶽(上・下) | 超巨大爆撃機を開発した航空技術者の苦闘 | |
| M063-013 | 名機 YS-11 | 国産旅客機YS-11奮闘記 | |
| M063-014 | 技術者たちの敗戦 | 戦争と技術者たちの戦後物語 | |
| M063-015 | 技術開発のエースたち | 雑誌「機械設計」での連載コラム | |
| M063-016 | 戦闘機屋人生 | 零戦の時代から日本の国防を見てきた技術士官の物語 | |
| M063-017 | 悲劇の発動機 「誉」 | 中島飛行機と天才技術者の夢と挫折 | |
| 管理番号:M063-003・004 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:講談社 | |
| 書名:戦艦大和誕生(上) | 西島技術大佐の未公開記録 | 発行 1997年9月 | |
| 講談社+α文庫 G36-3 | 価格:¥940 | ページ数:451P | 装丁:文庫 |
| 初版発行:99/12/20 第二版:00/7/25 | 購入:03/11/15 | ||
| 書名:戦艦大和誕生(下) | 「生産大国日本」の源流 | 発行 1997年9月 | |
| 講談社+α文庫 G36-4 | 価格:¥940 | ページ数:461P | 装丁:文庫 |
| 初版発行:99/12/20 | 購入:03/11/15 | ||
![]() かつて単なる軍ヲタだったころ、「大和」とはスペックで語るべきものでした。46サンチ砲、7万トン、27ノット。DS装甲板、蜂の巣鋼鈑。15メートル測距儀、22型電探。バルバス・バウ、傾斜装甲。技術屋の端くれとして社会でもまれているうち、「工数」という言葉を覚えました。いわゆるマンアワー。かかった時間のことと思えばいい。一人が一時間、二人が30分働いて、一工数です。 「大和」の船体部の工数は約201万工数だそうです。 これは、数十年前に生産された、「大和」のほぼ半分の排水量を持つ戦艦「長門」(約196万)、「陸奥」(約206万)とほぼ同等なのです。 ああ、日本の技術が進歩したせいだな、と単純に考えていました。 しかし、「大和」から数ヶ月遅れで竣工した戦艦「武蔵」の工数が、大型船舶の老舗である三菱長崎造船所で作られたにもかかわらず、船体部だけで300万工数を超えることを知りました。 なぜ? 後から作ったのに? むろん、「武蔵」には「大和」では間に合わなかった設備や改良点などが装備された点など、ハンディはいろいろあります。しかし、この差は大きすぎる。 この本を読んで、納得しました。 そして技術とは、設計だけではなく生産技術が大事であることを、再確認しました。 この本は、機械と技術とちょっぴり兵器に興味のある技術屋、物作りの現場にいる人、設計技術・生産技術・製造技術に携わる人、ものを作るための技術に関わる人すべてが一度は読んでほしい内容があります。 かつて世界を席巻した日本の物作りの技法、トヨタ生産方式などの原点がここにあります。 この、もの作り大国の伝統は失われていない、「かつて」ではない「今」そして「明日」も、日本人が世界に誇れる財産なのだ、ぼくはそう信じています。 「大和」の建造に当たっては、設計者、なかんずく設計の総本山にあった人の名前がクローズアップされます。まず、平賀譲造船中将。藤本造船大佐。牧野技術中佐。 しかし、ものを作るためには、図面を元にどのように作るかの段取りを考える頭脳が必要です。日本では、いや世界でも、設計者は脚光を浴びますが、その先進的な設計を製品化するために苦闘した人物はあまり目立ちません。 西島亮二(にしじま・りょうじ)元海軍技術大佐は、1902(明治35)年2月23日に生まれ、1995(平成7)年1月2日になくなりました。享年93歳。荼毘に付された遺骨は太く、大理石にようにきれいに透き通り、故人の頑健な体を彷彿とさせたそうな。 西島造船中佐(当時)は、設計図があがってきた「大和」の船体を作り上げる段取りを建てた人、そういって差し支えない。 その豪腕で、もの作りを基本から考え直し、ほとんど独力で日本が世界に誇る「ブロック工法」(これは日本語としてできた言葉です)を考案し、一種の職人仕事だった造船業界に、ベルトコンベア方式による低コスト・短納期・高品質生産を導入した人、簡単に言うとそういうことです。 人となりは、真面目、熟慮断行、歯に衣をきせない、大事なことからは決して目を離さない。 「上官とぶつかることもしばしばで、気の合う人間はよいが、あわない人間からはとことん嫌われた」 西島の部下だった木下技術少佐・談。 地方の海軍工廠に顔を出す予定を出すと、工廠の将官クラスが血相を変えて「明日、西島が来るそうだ、問題ないようにちゃんと準備しておけ」と指示を出す。 マスコミ嫌いで目立つことが嫌い。派手なことが嫌いで観念的な文章など書かない。 上司としては気の重い、しかしめいっぱいこき使ってくれる人のようです。 この方が回想録をようやく書いてくれました。 重い口を開いたわけは、自分以外には日本海軍の造船部の功績を網羅できる人がおらず、忘れられてしまうにはあまりに重い過去の遺産だから。 この本は、この回想録を中心に据え、より高いレベルのもの作りのために生きた一人の技術者を、戦争という不幸な時代の中で描いています。 人(工場)は、能力いっぱいの仕事を与えられたとき、最高能率を発揮する。 人(工場)は、仕事量が安定しているとき、最高能率を発揮する。 現代の製造ラインでも、常識でありながらなかなか実践できない金言です。これを追求し、常にそのレベルを目指すのが西島式生産方式でした。日本が戦後世界に飛躍できる「もの作り大国」になった礎(いしずえ)が、ここにあります。 (05/9/10) |
| Ver. 2.5 |
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| 管理番号:M063-006 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:講談社 | ||||
| 書名:マン・マシンの昭和伝説(上) | 航空機から自動車へ | 発行:1993年7月 | ||||
| 講談社文庫 ま25-5 | 価格:¥900 | ページ数:754P | 本のサイズ:文庫 | |||
| 初版発行:96/2/15 | 購入:05/11/2 | 表紙イラスト:ワークステーション(西野佳高) | ||||
戦争嫌いの方、申し訳ありません。これは技術史ですが、戦争の時代から始まります。 WW2の前夜、日本の最先端技術であった航空機産業とは、軍用機でしたから。 そして歴史は動き、世界に名だたる高性能の軍用機を作った技術者たちは、自動車産業へ身を投じます。その歴史を、戦前から昭和30年代まで描いたのがこの本の上巻です。 あまりに内容が詰まった重厚な本ですので、上下巻別々に書きます。 昭和36年(1961年)のベルギー、スパ・フランコルシャン・サーキットから始まります。6月22日にここで行われたF1グランプリ会場に現れたのは二人の男。プリンス自動車の技術部長・中川良一と、設計主任の桜井真一郎。 プリンスのちのニッサン・スカイラインの、レースにおける50連勝という未曾有の記録を打ち立てたときの、総指揮官と設計者です。そして、いわゆるスカイライン神話の立役者です。 ちなみにぼくの最初の車は、父から譲り受けた三代目スカイライン2000GTでした。 今考えると、すごいです。 彼らがここに至るまでの軌跡は、1918年(大正7年)に生まれた中村良夫という技術者の生い立ちから語られます。少年の頃は模型が好きで、学生時代は水泳でオリンピックを目指したという青年は、一時ドイツ文学を志しますが、やがて東京帝国大学工学部航空学科を経て昭和17年に中島飛行機に入社するのです。ここで中山良一とも出会います。 中島飛行機とは、三菱重工と並んで日本の航空業界の二大巨頭であり、中島の開発した発動機(エンジン)「栄(さかえ)」は零式艦上戦闘機(ゼロ戦)、一式戦闘機(隼)などの搭載された名機であり、そのあとに開発された「誉(ほまれ)」発動機は、奇跡のエンジンとしてもてはやされ、戦後の連合軍の技術陣を驚嘆させました。しかし、結局はその性能を満足に発揮できないままで終わっています。 なぜか。 理由はたくさんあります。しかしその視点を、単なる技術的なスペックから追うのではなく、設計した若きエンジニアたちの視点で描いたことが、この本のエポックメイキングなところではないかな。 なぜ日本の兵器、機械技術は欧米にに劣っていたのか。 いろいろな要因があります。 基礎理論が浅かった。技術的蓄積が不十分だった。資材・人材が乏しかった。工作技術が甘かった。生産技術が未成熟だった。 発注者たる軍関係者の無定見・無計画・無責任・事なかれもあります。 なぜ劣っていたのかはいくらでも言える。 しかし、なぜ劣っていて、なおかつ歪んだ形態だった我が国の航空産業が、当時の世界最大の工業国アメリカに対して、正面切って殴り合いの喧嘩ができたのか。この説明にはなりません。 むろん、根性や大和魂などで勝ち取ったものではありません。 認めるべきなのです、我が国にはかつて、拙いながらも世界に伍して胸を張る事ができる研究があり、技術があり、愚直に物作りをする人々がいたことを。なんの技術基盤もないながら、ジェットエンジンまで作り上げた技能があったことを。 戦争が終わり、軍需産業と航空産業がGHQの命令によって凍結されたとき、その技術者たちは目標を失いました。 そして彼らは、自動車という、当時航空機より遙かに低レベルのマシンに身過ぎ世過ぎの道を選ばざるを得なくなったのです。 「立川飛行機」は当時もてはやされた電気自動車を選び、「たま電気自動車」から「たま自動車」となり、1954年に「中島飛行機」系列の「富士精密工業」と合併し、のちに1961年「プリンス自動車工業」となります。スカイライン、グロリアの製造も始まります。 一方「中島飛行機」が12社に解体されたあと、1953年にその6社が合併し、「富士重工業」を設立します。 「中島飛行機」を飛び出して「トヨタ」の屋台骨を支えた技術者もいます。 新進気鋭の「ホンダ」の門を叩いた技術者もいます。 かつての老舗、「日産」もいます。「いすゞ」、「三菱重工」、「ダイハツ」、「東洋」、「日野」もいます。 世界の最先端を走った航空技術者を擁しつつ、離合集散を続ける自動車業界は、飛躍の昭和30年代に入ります。 (06/4/6) |
| Ver. 2.5 |
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| 管理番号:M063-007 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:講談社 | ||||
| 書名:マン・マシンの昭和伝説(下) | 航空機から自動車へ | 発行:1993年7月 | ||||
| 講談社文庫 ま25-5 | 価格:¥900 | ページ数:709P | 本のサイズ:文庫 | |||
| 初版発行:96/2/15 | 購入:05/11/2 | 表紙イラスト:ワークステーション(西野佳高) | ||||
下巻は、GHQに禁じられた日本の航空機産業の復活、航空解禁から始まります。戦争の時代を、航空機という最先端技術への傾倒という流れで過ごした技術者たちの道は、その夜明けをどう過ごしたか。 あるものは、航空業界に夢をつなぎました。しかし、ここに描かれた男たちは、これからの日本の未来を自動車という産業に求めます。 上巻から引き続き、たくさんの技術者たちの中で、三人の技術者が中心になります。 中川良一: 中島飛行機→富士精密→プリンス自工→日産 長谷川龍夫: 立川飛行機→トヨタ自工 中村良夫: 中島自動車→くろがね→ホンダ技研 しかしそれ以外の技術者たちにも視点は広げています。 たとえば、NHKプロジェクトXで取り上げられた、百瀬晋六。「エンドレスの人」です。彼は、富士重工で、庶民に手の届く車をはじめて開発します。「スバル360」(1958年)です。大成功します。 それを追って、トヨタの「パブリカ」(1961年)が登場します。意外なことに、スバルより安く高性能なこの車が、あまり売れなかった。なぜか。社会の流れとは面白い。 それから、風雲児本田宗一郎です。二輪車で世界一となり、無謀にもF1に挑戦します。 この時の記録は、いろいろ読んだことがありますが、中村良夫の視点でまとめられたこの挿話は面白い。前線で踏ん張る技術者に肩入れしすぎているような気はしますが、面白い。この話だけ見ると、ホンダが本田宗一郎をどのように「神格化」したのか、前線の技術者たちはこの技術を知らないオヤジにいかに苦労していたのか、いろいろ納得できます。本田宗一郎と夢を追おうとした男たちで、道を離れた者がなぜあれほど多かったのか、よくわかります。 「こんなアルミのかたまりに値段をつけて売るわけにはいかないでしょう。一台あたり五万円の原価割れで販売したら、ホンダはつぶれてしまいますよ」 「おれがつくった会社だ。つぶれようがつぶれまいが、お前なんかにつべこべいわれる筋合いはない」 「もう社長のもとで働く気はありません」 こんな会話の果てに、辞表を叩きつけようとした中村を引き留めるために、本田宗一郎を引退させるまでヨーロッパに遊学させたのは、ホンダの次期社長河島喜好氏でした。こんな経営陣もいたのですね。 「優れたアイディア・マンではあり得ても、決して優れたエンジニアではなかった。本田さんにとっての悲劇は、それを自認しながら、なおかつ、自分以外にむかってはそうでないゼスチャーをされていたことではないだろうか。ここでも本田宗一郎さんの舞台役者としての悲歌があったように思う」 「本田宗一郎氏の、本質的には暖かいお人柄は、つねづねわたしが敬愛してやまなかったところであるけれど、しかし、技術屋として御指示を受けることはもうたくさんであった。エネルギーと力のちがいすらわからない上司と技術論争するのはもうたくさん」(中村良夫) こんな歴史もあったのですね。意外でした。 自由闊達なプリンス自工を支えていたブリヂストンが、経営的に手放し、官僚的体質を持った日産に吸収された経緯もスリリングです。プリンスの技術を手に入れて、「技術の日産」を看板に掲げることができたが、それでも「販売のトヨタ」には勝てなかった経緯も。 カローラの成功の裏舞台、ホンダN360が欠陥製品と叩かれた理由、スカGの大人気の秘密。 大気汚染への対応としてのマスキー法、それを上回る日本の環境基準。そして、二度にわたる石油ショック。 日本の自動車工業界の苦闘と、その先にある世界一への道のり。 なぜ日本の自動車工業が世界に羽ばたけたのか。 前間さんは、さまざまな人に惚れ込み、人を通して技術を語ります。しかし決してメーカーの宣伝塔にはなりません。 日本の工業史の興亡を、航空機から自動車という流れで、はたしてうまく語れたのでしょうか。 成功か不十分だったのかはわかりません。しかし、面白い技術史でした。 (06/4/14) |
| Ver. 2.2 |
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| 管理番号:M063-008 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:講談社 | ||||
| 書名:亜細亜新幹線 | 幻の東京発北京行き超特急 | 1994年12月 実業之日本社よりHC | ||||
| 講談社文庫 ま25-7 | 価格:¥762 | ページ数:999P | 本のサイズ:文庫 イラスト:羽生春久 |
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| 初版発行:98/5/15 | 購入:05/11/2 | |||||
この本が執筆された1994年の数年前というと、1990年頃、平成が始まった頃になるでしょうか。東京・神田にある交通博物館に、古びた二冊のファイルが展示されたことがあったそうです。表紙に「建設規程調査小幹事会」と毛筆で書かれたファイルは、実は日中戦争が始まった昭和の初めに構想された新幹線計画の姿を伝えるものでした。いわゆる「弾丸列車」です。 「新幹線」と書きました。間違いではありません。昭和39年に開業した東海道新幹線は、そのとき付けられた名前ではありません。30年以上前にその名は使われ、東海道新幹線の基本構想は作られていたのです。 しかも、それだけではない。 大東亜共栄圏の美名の元に日本帝国がアジアを侵略したのは事実ですが、この構想の下で、鉄道という国家の大動脈を日本の中に通し、それから海を渡り、朝鮮、北京を経て、遠くベルリンへ、あるいはニューギニアへと延ばそうという計画があったという。何ともはや、スケールの大きい話ではありませんか。 その基礎となる国内の、しかし東海道新幹線という戦後未曾有の国家プロジェクトを大きく上回る、東京-下関間の弾丸列車計画、これが書かれているのが「建設規程調査小幹事会」というファイルでした。 寄贈者は、島秀雄氏。「D51の設計者」であり、「新幹線の生みの親」です。 この本は、島秀雄氏とその父、「車両の神様」と呼ばれた島安次郎氏を中心にすえ、日本が戦争へと突き進む拡大路線の中にあった時期に鉄道を中心とした輸送業務の整備拡大に尽力した人々の物語です。 東海道新幹線は、昭和30年の寸前に策定され、昭和39年つまり東京オリンピックに間に合うように開業しました。 新幹線には、特徴はたくさんあります。国内では全く互換性のない広軌軌道(1435ミリ 普通の国内鉄道は狭軌・1067ミリ)であること、高架・地下などを使い踏切を全廃したこと、継ぎ目のないロングレールを使っていること、軽量化・高速化した旅客列車のみ走らせること、直線を多用して従来とは全く関係のない新しい路線を走ること、ATC・ATSによる遠隔操作が可能であること、など、など。 これらの要素をすべて盛り込み、約十年の期間で完成させた技術力の秘密とはなんでしょうか。 答えは、約20年前に、これらの要素をすべて盛り込んだ基本計画がすでに検討され、煮詰められていたからです。 ATC(Auto Train Control 自動列車制御装置)の技術まで、です。 ![]() 前の時代を序章として、昭和11年の2.26事件のころより、昭和19年に事実上中断するまでの期間を中心に描かれたこの本では、今まで全く知らなかった新幹線の裏話が出てきます。面白い。 右図は、名古屋から大阪まで抜けるルートの選定の中で、京都を通らない案もあったことを示す地図です。歴史の中で、あのときこうしなかったらどうなっていたか、考えると面白いですね。 大阪駅の場所は、京都から逢坂山トンネルを抜けたあと、淀川橋を渡らないですますためにあの位置になったそうですが、もし京都を通らない路線案が生きていたら、どうなったでしょう。 東京の始発駅は、昭和18年の予算編成の段階でもまだ決まらなかったそうです。東京、市ヶ谷、新宿、高井戸の案があり、陸軍は山手線の外にある高井戸を推していたらしい。 新幹線の土地買収は、かなりの割合が軍の圧力と戦時中のどさくさの中で強引に進められていたそうです。だから戦後の新幹線は、少なくとも東海道新幹線は、用地買収がスムーズにいったのだそうな。主要なところはすでに買い上げてあったから。 また、新幹線は、最初から全線電化され、200km/hで走る超高速列車である計画であったことも初めて知りました。戦前戦中なのだから、蒸気機関に違いないと勝手に思いこんでいましたが、違うのですね。 技術とは、過去を無視して語ることはできません。 新規な技術の結晶も、すべて過去の延長線上にあります。 (05/1/5) |
| Ver. 2.3 |
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| 管理番号:M063-009 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:講談社 | ||||
| 書名:戦艦大和の遺産(上) | 講談社+α文庫 G36-8 | 発行:2000.4 講談社よりHC | ||||
| 価格:¥933 | ページ数:460P | 本のサイズ:文庫 | ||||
| 初版発行:05/11/20 | 購入:05/11/25 | 表紙イラスト・:たぶき正博 | ||||
| M063-009 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:講談社 | ||||
| 書名:戦艦大和の遺産(下) | 講談社+α文庫 G36-9 | 発行:2000.4 講談社よりHC | ||||
| 価格:¥933 | ページ数:514P | 本のサイズ:文庫 | ||||
| 初版発行:05/11/20 | 購入:05/11/25 | 表紙イラスト・:たぶき正博 | ||||
![]() 2000年4月にハードカバーとして出版されたときの題名は、「世界制覇(上・下) ─ 戦艦大和の技術遺産 ─ 」 でした。 この時代、2000年、日本はバブル崩壊の中で将来の不安を抱え、過去の夢の無意味な懐古、無責任な自己憐憫、根拠のない楽観主義などであえいでいました。作家は、その時代背景を考慮し、日本にかつて、どん底から創意工夫によってはい上がって世界を制した時代があったことを書こうとして、あの題名をつけたと言います。 そして5年の月日がたち、文庫本として新たに世に問うに当たり、「戦艦大和の後継者たち」と言う側面を強調すべきだと考え、改題したとのこと。 うーん、はたしてこの題名はどうでしょうか? 私見ですが、過去のハードカバーの時も今も、内容がわかりにくい題だとは思います。いかがなものでしょうか? 真藤恒(しんとう・ひさし 1910/7/2〜2003/1/26 享年92歳)という人物がいました。 公的な最後の肩書きはNTT元会長ですが、すでに歴史の中で忘れ去られそうな「リクルート事件」の収賄罪で逮捕(1889年3月)、有罪判決を受け、晩節を汚したとされています。この人をメインに据えて、この本は書かれています。 著者の真藤氏との出会いと、真藤氏が電電公社の総裁を受けた経緯などから話は始まります。1981年、行革の流れの中で、不祥事が相次ぐ巨大組織である電電公社をいかに民営化するかの難問を抱えて総裁人事が混迷していたとき、第二次臨時行政調査会の会長である土光敏夫(どこう・としお)氏はIHI(石川島播磨重工業)から退いた真藤氏に白羽の矢を立てます。国家の通信事業を独占していた巨大企業である電電公社は、民営化に当たっては人とシステムを含めた組織を徹底的に改革する必要がありました。 それができる、鬼になれる豪腕を持った経営者、乱世の改革者でなくてはならない。真藤恒はそういう人物として評価されていたのです。 真藤は期待にこたえ、ドクター合理化(工学博士の肩書きも持っていました)の異名通り、大なたを振るって総裁として電電公社を改革し、NTT初代社長、そして会長を務めました。 1945年8月6日、呉海軍工廠、朝。北の山の向こうで、真っ白な閃光が光り、やがてどーんと言う衝撃がおそってきました。 原爆。そして終戦。 世界第三位の海軍国の、設備・人間・実績すべての面で最高の海軍工廠だった呉は、戦争が終わったとき「戦犯工場」の汚名を着た解体予定の施設となります。 真藤恒はここにいました。彼は民間人、播磨造船の技師のままで呉海軍工廠に出向し、かの西島亮二海軍造船大佐のもとで艦艇そして航空機の生産管理に没頭していたのです。彼と彼の仲間たちは、一時はGHQの命令によって海に放置された艦船の引き上げ・解体という作業で息をつけましたが、やがて整理を待つばかりになります。 日本最高の技量を持った職人たち、日本が世界に先駆けて完成させたブロック工法のスペシャリストたちは、東洋一の設備と共に、もはや消滅するばかりの運命でした。 ![]() 1853年、東京石川島に江戸幕府より払い下げられた造船所から身を起こした石川島造船所、のちの石川島重工業。 1907年、兵庫県相生に設立された播磨船渠、のちの播磨造船所。 呉海軍工廠のほぼ半分を借用して設立されたNBC、米ナショナル・バルク・キャリアと、もう半分で設立された呉造船所。 苦難の歴史の果てに、1960年に前二社が合併し、石川島播磨重工業(IHI、石播)が誕生します。1968年に呉造船所を吸収合併します。 この動乱の歴史の中で、真藤恒は技術者から生産管理者、国際営業マン、経営者として大きく成長し、やがてその経営的な限界から身をひきます。 広い視野と断固とした意志で断固として突っ走ったブルドーザー。あふれるインスピレーションを持ったワンマン。 マスコミ嫌い、社交嫌い、人におもねることが大嫌い。 下には慕われ、同僚には恐れられ、直属でない上司には嫌われる。 こんな人間だったのです。 よく、戦艦大和の造船技術が、特にあの特徴的なバルバス・バウ(右写真)がそのまま巨大タンカーに受け継がれたように思われます。 そう書いている文章もよく目にします。 実は、ちょっと違います。 大型貨物船や巨大タンカーに使われる、経済効率を重視した、バルバス・バウ付きの横に広いずんぐりした船型は、世界的な造船業界用語では「シントー船型」と呼ばれるそうな。 そう、真藤恒がNBCの時代に導入した新しい船型だそうです。そして今やこれは、中型貨物船でも小型漁船でさえも、当たり前のデザインとなっています。 真藤がこの船型を考案したわけでも、理論の裏付けをしたのでもありません。彼が決断し、この理論上では効率的だが誰も試みたことのないデザインの採用にゴーサインを出したのです。技術とは、考案した人より実用化した人の方が大事ですが、それが顧みられることは少ない。これはその希有な例であり、誇れる記録だと思います。 この本で、真藤恒という一人のシップビルダーを知ることができました。 (06/1/23) |
| Ver. 2.11 |
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| 管理番号:M063-011・012 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:講談社 | |||||||
| 書名:富嶽(上) | 米本土を爆撃せよ | ISBN4-06-185912-9 C0195 | |||||||
| 1991年11月講談社よりHCにて刊行したものに加筆 | 講談社文庫 ま25-3 | ||||||||
| 価格:¥600 | ページ数:394P | 本のサイズ:文庫 | |||||||
| 初版発行:1995/3/15 | 購入:2006/5/3 | 表紙:富士重工株式会社提供 | |||||||
| 書名:富嶽(下) | 米本土を爆撃せよ | ISBN4-06-185915-3 C0195 | |||||||
| 1991年11月講談社よりHCにて刊行したものに加筆 | 講談社文庫 ま25-4 | ||||||||
| 価格:¥600 | ページ数:383P | 本のサイズ:文庫 | |||||||
| 初版発行:1995/3/15 | 購入:2006/5/3 | 表紙:富士重工株式会社提供 | |||||||
![]() 第二次世界大戦が終わったとき、軍に使用された技術記録はすべて廃棄するように命令されました。そのため、有名な例では、軍艦大和の建造記録は日本にほとんど残っていません。「富嶽」も同じでした。 「富嶽」とは何か。 簡単に言うと、大戦後半に考案された、アメリカを直接攻撃する事のできる巨大・高速・重武装・高性能の爆撃機です。カバー扉に描かれているのがそれです。 従来は戦争に勝つために考えたトンデモ兵器、奇想天外・荒唐無稽などの形容詞で片付けられました。今もそういう傾向はあります。 はたしてそうだったのか。 中島知久平と言う人物がいます。 1884(明治17)年1月1日生まれ。1949(昭和24)年10月29日死亡。群馬県の農家に生まれ、軍隊を志し、海軍機関学校を卒業して機関士官となります。1917年に機関大尉として退官し、中島飛行機を創立します。のちに衆議院議員となり、鳩山一郎などと共に政友会を運営し、終戦直後には軍需相、商工相にまでなりますがGHQによりA級戦犯と指定されました。(1947年に指定解除) 富嶽は、この人物なしにはあり得なかったプロジェクトでした。 この本は、中島知久平を中心に据えながら、その周辺で苦闘した人々に次々とスポットを当てて、富嶽とは何か、富嶽がもたらしたものは何かを検証しようとしています。 中島知久平は、軍隊の中で将来を嘱望されながら、ある意味国家と軍隊にたいして絶望し、でも希望を失わず、自らの手で変革すべく一生をささげました。未来の国防は空にあると思い、財閥系の大企業が漫然と親方日の丸で軍需産業を経営している中で、彼は新進の「中島飛行機製作所」を設立します。 中島飛行機は飛行機の機体とエンジンの開発・製造メーカーであり、その時点では日本では三菱航空機をしのぐ日本最大、世界有数の会社です。三菱などとは違って軍需専門でしたから、戦後は解体されました。富嶽計画のさなかで、ある技術者はほかならぬ知久平自身がこう呟いたのを聞いているそうです。 「中島飛行機は戦争に勝っても負けてもつぶれる。勝てば飛行機はこんなにいらない」 戦後、GHQによって中島飛行機は分断されましたが、その流れは富士重工(スバル)、プリンス自動車(のちに日産と合併)などに引き継がれました。この二社は、戦後日本の多くの自動車産業が海外のメーカーの技術支援を仰いだ中で、独自の技術開発でエンジンを車体を作り上げたメーカーです。 その独立不羈の姿勢は、中島知久平の薫陶によるものだったのでしょうか。 富嶽の計画にはたくさんの案がありますので、実用化されたとするとどのスペックになったのかは正確にはわかりません。スペックだけ言いますと、現代の視点で見るなら誇大妄想そのものです。当時世界の他の追従を許さぬ最高水準を誇ったアメリカ陸軍重爆撃機B-29の倍近い爆弾搭載量を持ち、全備重量・航続距離は3倍近く、エンジン出力は計画上最大のもので3倍以上。 B-29の倍の大きさと書いてある資料がいくつかありますが、寸法的な大きさはほとんど同じです。主翼幅45mというと、実は怪獣レッドキングの身長と同じなのです。(だからなんだよ 笑) そもそも不可能な計画でした。技術的基盤の足腰が弱い日本で、4発大型爆撃機の経験もなく、従来のエンジンの最大出力がようやく2200馬力だった時代に、一基あたり5000馬力の6発エンジンの高々度を高速で飛ぶ長距離重武装爆撃機を作ろうというのです。それも、わずか2年足らずで。 無理とわかっていても中島知久平の命令は中島飛行機の中では絶対です。しかも当時の首相、東条英機に働きかけてこのプロジェクトを日本官軍民横断的な「Z機計画」に仕上げた知久平の政治力によって、この計画は国家的なものとなります。技術者たちは必死で取り組みました。 中島知久平ほどアメリカの航空力の威力と、もたらされる日本の被害を正確に予測していた人はいませんでした。彼の予想は、原爆をのぞくとほぼ完璧に的中しています。富嶽が実用化しても、アメリカに打撃を与えうることは不可能とわかっていたはず。にもかかわらず、末期の日本の限られた資材をこれにささげた理由は何か。 この本では、その理由について、中島知久平自身の言葉や記録を残していません。しかし、いくつかのことが読み取れます。 小型飛行機を量産して体当たり攻撃をかけることが大まじめに語られ始めた時代です。華麗な弱者の反撃は見た目に見事で日本人的な滅びの美学に結びつくかも知れない。しかし、だめならだめで、場当たり的ではないもっと有効な反撃策をすべきではないか。国家を守り、国土を外敵から防衛するのなら、もっと有効な戦い方をなぜしないのか。相手以上の力を持ってなぜ戦おうとしないのか。 負けるにしても、相手に有効な一矢を与えて、一発でも打撃を与えて有利な講和をすべきではないのか。 もう一つの考えは、あるいはうがちすぎかもしれません。知久平の下で富嶽計画の技師長を務めた小山悌がこう言っています。 「知久平さんの狙いの一つには、戦後に復活する日本の航空機工業のことも考え、たとえ戦争に間に合わないとわかっていても、あえて巨大な航空機の開発を行わせていたのではないか」 否定的な意見もあります。たとえば、航空技術廠の永野治。 「そもそも富嶽は軍事的には全く意味がない。あの当時の航空技術で、こういうものが戦略的にどれだけ意味があるのかね。無駄づかい以外の何ものでもない。 ・・・ 結局は自分の夢なんだよ。 ・・・ もし力の限り貢献しようとするなら、もっと別のしかたがあったはずだ」 また彼は、こうも言っています。 「無策であった軍に対する当てつけ的な意味もあったのではないだろうか。航空機技術を含む日本の航空工業についてあれだけよく知っていた知久平氏が、Z機で米国を叩けるとまともに思っていたとはちょっと信じられない。 ・・・ 軍が貴重で膨大な原材料・資材を大量投入することによって、かえって日本の現状の国力がどの程度であるのかをあきらかにし、講和、終戦を早めようとしたのかもしれないな」 1944年8月、Z機計画は実質的に終了しました。一年早い終戦であった、と、のちに中島飛行機の技術者たちは慨嘆します。 もはや、技術屋の視点から言うと戦争の帰趨は明かとなっています。 しかし、技術屋たちは最後まであきらめませんでした。その苦闘は前間さんの他の本でも書かれます。 この本は「マン・マシンの昭和伝説」の前史に当たります。 (06/8/18) |
| Ver. 2.16 |
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| 管理番号:M063-013 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社: | |||||||
| 書名:名機 YS-11 | 零戦から生まれた国産旅客機 | ISBN978-4-479-30050-3 C0195 | |||||||
| 講談社より2000年5月刊行された「最後の国産旅客機YS-11の悲劇」の加筆・修正 | だいわ文庫 35-1 <H> | ||||||||
| 価格:¥743 | ページ数:327P | 本のサイズ:文庫 | |||||||
| 初版発行:2006/9/15 | 購入:2006/9/26 | カバー写真:YS-11 北海道・丘珠空港(2001年) | |||||||
2006年(平成18年)9月30日、鹿児島県の沖永良部(おきのえらぶ)空港から鹿児島空港まで、日本エアコミューター(JAC)によるYS-11でのフライトが行われました。これが、日本国内における戦後日本初の旅客機、名機と讃えられたYS-11の、民間定期旅客機としてのラストフライトとなりました。YS-11という航空機の初飛行してから44年、量産が終了してから33年目のことでした。 しかしそれ以後も、世界のローカル航空会社などでは、現役または保管状態のYS-11があり、今も現役です。航空自衛隊、海上自衛隊などでも、今も現役です。 試作の2機も含めて生産総数が182機にすぎないこの飛行機のうち、半数近くが今もなお飛んでいます。 この飛行機については、その栄光だけ書かれる時と、「技術的に成功だが経営的に失敗」と書かれるときがあります。その性能に高い評価を上げるときと、その欠点及び生産体制の拙劣さを非難するときもあります。 なぜこういうばらばらな評価が出るのか。 これは、この飛行機の生まれに原因があります。 YS-11の生みの親とは誰でしょうか。いろいろな見方がありますが、そのアイディアを作り、計画を練り、売り込んでついにこの国家的プロジェクトを指導させたのは、赤沢璋一(あかざわ・しょういち)、昭和30年12月の時点で、通産省重工業局航空機武器課・課長でした。 すなわち、一介の課長が、敗戦後の米国による日本占領が開けた時代の流れをつかんで、「日本の空を日本の翼で」「民間輸送機の国産開発を」とのスローガンを掲げてこのプロジェクトを推進したのでした。そして、開発に当たって基本計画を進めた技術者とは、かつて日本陸海軍の航空機の開発に当たった「五人のサムライ」たち。「零戦」「烈風」の堀越二郎、「航研機」「A26」の木村秀政、「紫電改」「二式大艇」の菊原静男、「飛燕」を始めとして20機以上を設計した土井武夫、「隼」「疾風」の太田稔の五人です。みな、東大工学部航空学科の俊英であり、日本の軍用機を世界一流に押し上げた人々です。 そのあとを継いで技術責任者となったのは、東條輝雄。戦犯とされて処刑された東條英機首相の次男です。この人は、のちに航空自衛隊の輸送機C-1の設計も行いました。 良きにつけ悪しきにつけ、これがYS-11の成功の秘密であり、失敗の秘密です。なぜか。 国家プロジェクトとして、お役所指導で総花式に最大公約数の要求事項を盛り込んだために、ユーザの意向など無視した性能重視、スペック重視、発展性無視、製造コスト無視、整備性無視の飛行機が、戦前の一匹狼的技術者たちの集合体によって生み出された、といったら言い過ぎでしょうか。 なにしろ、ちぐはぐでした。近代的な民間航空機の製造のノウハウを知らない男たちが、夢にとりつかれて、新たにできた「日本航空機製造会社」に集まり、試行錯誤で作り上げたのです。原則として野外に雨ざらしにされる事などあり得ない軍用機の設計者の作ったこの飛行機は、なんと雨漏りがするのです。湿度が配線部にこもりショートするのです。欠点はこれだけではない。 ユーザが指摘する不具合、欠点、トラブルは、軍用機の意識が残る設計陣が意に介さなかったこともあります。製造コスト削減など、その必要性も方法も知らなかったという恐るべき事実もあります。モノ作りの基本がなかったのです。 しかし、この国産飛行機をなんとかして使いこなそうとした人々の手によって、この飛行機はじわじわと完成度を増していきました。 にもかかわらず、目先の赤字のために、それとその他いろいろな政治的しがらみのために、日本は、この飛行機に続く次世代輸送機、旅客機の開発をあきらめました。 反省すべき点はあったかも知れない。無理もあったかも知れない。しかしこの無謀な挑戦を、結果が失敗に見えたからと行ってこのまま放置したことにより、日本の航空開発は下請けに甘んずる事で良しとなりました。日本より技術的、経済的に劣るカナダのボンバルディア、ブラジルのエンブラエルが小型旅客機の生産でシェアを伸ばす中で、なぜ日本にこれができなかったのか。 前間さんはこの本をいつもよりさらに淡々と書いています。しかし、文章の端々に悔しさが見えるような気がします。 蛇足: YS-11とは、ふつう「ワイ・エス・イレブン」と呼ばれます。しかし正式に言うと、末尾の「11」は別々な意味がありますので、正しくは「ワイ・エス・ワン・ワン」と呼ぶべきらしい。ぼくは、友人の影響で「ワイ・エス・イチ・イチ」と呼ぶんですけどね。(笑) (07/6/22) |
| Ver. 2.20 |
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| 管理番号:M063-014 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:草思社 | |||||||
| 書名:技術者たちの敗戦 | ISBN978-4-7942-1336-0 C0095 | ||||||||
| 価格:1600Yen | ページ数:269P | 本のサイズ:140×195HC | |||||||
| 初版発行:2004/7/23 | 購入:2008/1/9 | 表紙写真:零戦設計チーム | |||||||
技術史のノンフィクションは、前間さんのライフワークです。日本初のジェット戦闘機「橘花」に搭載された、ネ20エンジンを始めとする開発史・苦闘史「ジェットエンジンに取り憑かれた男」で1989年にデビューしたのち、数々の日本の技術史を描いています。その中でも、第二次大戦中から戦後にかけて、技術の第一線に立っていた男たちを再び整理して描いたのがこの本。今までの作品とダブることはありますが、テーマに分けて整理されているし、年を経て書き直されたところも多く、再び楽しめました。 第一章 三菱零戦設計チームの敗戦 堀越二郎・曽根嘉年の敗戦 ご存じ、零戦の主任設計者として名高い堀越二郎とその右腕だった曽根嘉年の物語です。 零戦の開発史は語られ尽くしたと思ったのですが、実はそのほとんどは虚飾であったこと、堀越という「石頭の天才」の人物像に驚きます。なにしろ、零戦という戦闘機が日本を代表する名機と讃えられた背後には、敗戦で追いこまれていく軍部の宣伝で一度、戦後の混乱期の中での英雄捜しで一度と、二回の「伝説造り」があったらしい。これは驚きです。 第二章 新幹線のスタートは爆撃下の疎開先から 島秀雄の敗戦 島秀雄とは、D51を設計し、新幹線0系をプロデュースし、宇宙開発事業団を理事長として見事に立て直し、英国機械学会のジェイムズ・ワット国際メダルを日本人として初めて受賞し、鉄道出身者として初めて文化勲章を受賞した技術者です。高齢となり体がきかなくなってもひたすら勉強に明け暮れた、スーパーエンジニアという名にふさわしい実績を残しました。 国鉄の技術が分散する分割化には反対し、400キロ500キロとなおスピードを追求するJR東海に対し、正面から苦言を呈した硬骨漢です。 第三章 戦犯工場の「ドクター合理化」 真藤恒の敗戦 かわいげのない新人として造船界に入り、西島造船大佐について合理的な造船を学び、戦後の日本の造船界に活を与えて世界一のタンカーを造り、時の蔵相・池田勇人に喧嘩を売り、エンジニアから企業家として一代をなして「ドクター合理化」の異名を取り、末期状態の電電公社の総裁を引き受けて民営化に尽力し、リクルート事件に巻き込まれて有罪判決を受けた人。それが、真藤恒です。 その豪腕で一つの時代を築き、脇の甘さで晩節を汚したとはいえ時代に大きな足跡を残しました。 窮屈な日本的ビジネス風土においては、あまりにはみ出す要素が多く、誤解される面も多々あって、とても収まりきらず、また日本的な尺度では十分に理解もされなかった経営者、技術者であったと言うべきであろう。 と前間さんは描きます。 第四章 なぜ日本の「電探」開発は遅れたのか 緒方研二の敗戦 電探とは、むろん電波探信儀の事です。英語で言うレーダーのこと。日本はこの技術で後れを取ったために戦争に負けたのだ、とはよく言われることです。艦船、航空機をはじめとする兵器ではそれほど劣っていない、士気も高い、継戦能力では分が悪いとしても、決定的なのはエレクトロニクスの分野で後れを取ったことに原因がある、という。そしてその運用も。責められたのは、技術者たち。 1944年6月に行われた「マリアナ沖海戦」において、唖然とするような例があります。ようやく対艦用として実用化され、攻撃機「天山」に搭載されていた「空6号」レーダーは、夜間攻撃にもかかわらず攻撃力を重視するためにすべて下ろされて代わりに魚雷を積み、米艦隊を発見できぬままに帰還したという。これが技術者の責任か。 開発のために採用された技術者には、製造工程も知らない学者肌が多くもの作りより研究が好きだというプライドの高い秀才がそろいます。民間から集められた優秀な技師たちにはろくな権限も責任意識も与えられず、ノルマをこなしているだけ。場当たり的な思いつきに予算がつぎ込まれ、愚にもつかぬ「殺人光線」などまで研究テーマとなる。 陸軍の技術者は敵より海軍に機密を盗まれることを恐れ、それは相手も同じ。 こんな中で「武人の蛮用」に耐え、戦争に勝てる「兵器」など作れようか。これが技術者の責任か。 緒方研二という、前線で体を張ったある技術者も、その仲間の苦闘も空回りしたまま、戦争が終わります。 第五章 翼をもぎ取られた戦後 中村良夫の敗戦 初っぱな、「ジェットエンジンに取り憑かれた男」を書き上げて出版社に持ち込んだ筆者の想い出から始まります。あるライターが、元ホンダ技術者が書いて出版した10年前の本の内容を、そのまま流用して週刊誌に連載したという。しかも、人物も企業名も実名で書かれたそれを、フィクションであると強弁したという。 その技術者とは、中村良夫。筆者が「マン・マシンの昭和伝説」を書いたとき、ターゲットにした技術者の一人です。どんな人か。 中島飛行機に就職してから応召されたて陸軍航空技術研究所に所属して、陸軍や中島飛行機で各種航空エンジンの開発に従事し、ジェットエンジン「ネ130」の開発にも携わります。 戦後は曲折ののちにホンダに入社して、本多宗一郎と共にホンダのF1進出を支えます。 礼儀正しいながらも筋は通し、勉強熱心で知識は広く深く、世界に人脈も多く、経営の才もある技術者でした。 本多宗一郎との仲に関して確執とか遺恨とか書かれたこともありますが、終始一貫して敬愛の念を隠しませんでした。しかし、本多宗一郎の天才的ながら技術者としては中途半端で場当たり的な職人気質も、正確に見抜いています。 晩年は「モーターファン」誌に連載を続け、死去した翌々日に遺族から掲載二回分の原稿が編集者に渡されたとか。 最終回は「告別の辞」と題され、「生を受けてから75年も経てば、ボツボツ彼岸に旅立っても、不足を申し立てる筋でもない」と書き出されます。そして20年に及ぶ連載の中でのエピソードを振り返り、最後にこう締めくくったそうです。 「早く去っていった妻や先輩、友人たちと酒を酌み交わすような場が彼岸にはあるのだろうか。それも、唯々、暗い闇の中なのだろうか」 人生を締めくくる言葉を残せた人、記憶に残す価値のある人生を送った人は幸福ですよね。 人がみな、技術に目を向けるべきだとは思いません。人には人の思いがあり、適性があり、才能がある。運もある。 しかし日本という国家が成り立つ中で、技術というものが貢献した割合は小さくない。もっと関心を持つべきじゃないか。 鐵太郎は、そう思います。 だから、これからも前間さんの本は、座右に置きたいと思っています。 (08/6/11) |
| Ver. 2.21 |
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| 管理番号:M063-015 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:大和書房 | |||||||
| 書名:技術開発のエースたち | 小さな現場から生まれた世界初 | ISBN978-4-479-39125-8 C0095 | |||||||
| 「機械設計」 2003/11〜05/6 | 価格:1600Yen | ページ数:260P | 本のサイズ:135×195HC | ||||||
| 初版発行:2005/11/5 | 購入:2008/1/31 | 表紙写真:毎日新聞社+セイコーエプソン+ホンダ+ヤマハ | |||||||
「機械設計」という雑誌を知っていますか?日刊工業新聞という新聞社・出版社の出している雑誌の一つで、B5サイズで厚さは4センチぐらいあります。機械屋さんが見たがるいろいろな情報が載っているものですが、業種が違う人が見たら全く面白くないでしょうね。どう考えても芸能人が読むとは思えない。(爆笑) この雑誌で連載していた記事12回を、加筆して11章にまとめたのがこの本です。開発現場でがんばる技術者へのエールって感じですね。 NHKの「プロジェクト-X」と似ていますけど、もっとドライかな? 感動的な山場を作って盛り上げる、あの番組の常套手段はしていませんね。(笑) 第一章 開発陣はロボットの素人集団 ホンダの自立型二足歩行ロボット「アシモ」とその開発記録です。アシモのネーミングについて、「新しい時代へ進化した革新的モビリティ」という意味の英文の頭文字であるということは公表されていますが、「足モビリティ」という意味があるとは知らなかった。なぜか、アイザック・アシモフの名は書かれていませんけどね。 ホンダらしいおおらかな開発環境であったといいます。そんな中で、一流の技術者であるロボット素人たちの作ったロボットの物語ですね。 第二章 世間を“あっ”と驚かせたい セイコーエプソンが開発した、世界最小の飛翔ロボット。8.9グラムの重さの中に、二重反転プロペラ、モーター、電池、自立的な飛行を行うセンサ、制御用マイクロプロセッサなどを詰め込んでいます。 なんというか、すげェ技術ですよ。 第三章 開発はアングラ研究から始まった リコーの、書き換えられるプリントペーパー、プリントシステムです。環境保全技術のトップを走るメーカーの意地でしょうか。 実用化にはほど遠かったのかなぁ。 第四章 自分の開発領域に閉じこもるな NECの燃料電池ノートパソコンですね。アルコールを燃料とする電池のシステム。 今はどうなっているのでしょうか... 第五章 頑固でなければいいものは作れない シャープの水蒸気で調理するオーブン「ヘルシオ」開発記ですね。シャープという会社は面白い会社で、いろいろな世界初の実用化、世界初の販売が多い不思議なところです。 パターンとしては度肝を抜くような新型製品を開発し、やがて他の日本メーカーに追いつき追い越されるのですが、今回はどうなのかな? 170℃で水蒸気は性質が変化するのだそうな。不思議。 第六章 「誰もやってない」をやってみよう 松下電器の高温スチーム炊飯器です。松下って保守的なイメージがあるのですが、意外に小回りもきく企業ですよ。 中国向けの炊飯器も開発したのだそうな。一般向けの廉価版では勝てないので、高所得層を狙った高機能品だそうな。 第七章 “プラスα”の新機能が勝敗を分ける 日立の、世界初の吸気・排気・気流制御エアコンだそうな。日立といえば、「モートル」。電気とメカの原点がある会社というイメージです。 外国産の安価なものに負けないためには、高機能・高付加価値・省エネで戦うしかない日本の市場の中で、どれだけの戦いが出来たのでしょうか。 第八章 感動を生まなければ始まらない ヤマハの二輪電動コミューター、パッソルの開発記です。電気モーターによるバイクというアイディアで戦ったヤマハ。 でも、結局販売台数は伸びなかったんだよね、これ。街角で見たことがない。 ヤマハの電動アシスト自転車のパワープラントも、最近のニュースですが、失点を付けてしまったし。がんばれ、ヤマハ。 第九章 既成概念を打ち破った「逆転の発想」 ホンダの四輪駆動力自在制御システム「SH−AWD」です。普通のいわゆる4WDとは違いまして、後輪の左右の駆動力も走行に応じて変動させるという画期的なものです。高級車にしか使えないシステムだそうです。 理屈はわかるんだけど、普及したのかなぁ? 第十章 専門を越えて新しい発想を トヨタ・ホンダ・富士重の協力によるASV(アドヴァンスト・セイフティ・ビークル=先進安全自動車)なのだそうな。レーダーによる車間距離の制御とか、危険状態になるとブレーキがかかるとか、道路のラインを読み取って運転するとか、いろいろなアイディアはあるようです。 でも、運転手が気を抜いたらどうする、とかいろいろ問題はあるのだそうな。完全自動制御の世界はまだまだ遠い。 第十一章 不敗神話を再び JAXA(宇宙航空研究開発機構)によるH2Aロケットの打ち上げ苦闘記です。2003年11月29日のH2A・7号機の失敗によりどん底に落ちたJAXAの評判を立て直すために払った苦労、組織改革、技術の革新。H7Aの7号機じゃない、H2A改だという自信。 日本の宇宙開発に未来はあるんでしょうか。 さて、出版されたのは2005年。今は2008年。 ざっとみて、世に受け入れられなかった技術や、まだ表に出てこない技術が多いように思えます。 そんなものなのだろうなぁ。 努力したからといって、うまく成果を出したからといって、必ずしもそれが成功に導かれる訳じゃない。 この11章の中で、いまもなお成功の道程を歩んでいるものは、一体いくつあるのか。 そんてことを考えてしまい、ちょっとわびしくなった本でした。 (08/7/10) |
| Ver. 2.22 |
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| 管理番号:M063-016 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:講談社 | |||||||
| 書名:戦闘機屋人生 | 元空将が語る 零戦からFSXまで90年 | ISBN978-4-06-213206-0 C0095 | |||||||
| 価格:1800Yen | ページ数:357P | 本のサイズ:135×195HC | |||||||
| 初版発行:2005/11/29 | 購入:2008/8/10 | カバー写真:昭和37年、F104Jの審査団長として 渡米時 テストパイロットと筆者 |
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前間孝則氏は、昭和日本の技術史に留めたい名前をたくさん紹介してくれます。ほとんどみな、いままで歴史の中で全く見向きもされなかった人々ですが、この世界を語る上で重要な、あるいは重要視されるべき人たちです。前間氏の描く技術史は、技術にかかわる人々の歴史ではなく、技術史で重要な人たちにかかわる技術の歴史ですね。この本で紹介するのは、高山捷一(たかやま・しょういち)という人です。 大正4年1月2日、名古屋生まれ。父親は時事新報の速記記者。大阪に転勤後、大恐慌の昭和2年に失業したが、高山は奨学金を得て第三高等学校(現・京都大学)を経て、難関の東京帝国大学工学部航空学科に入学、昭和12年3月卒業。同期は9人です。 この12年卒業組は、のちに『花の12年組』あるいは『鬼の12年組』と呼ばれた、10年に一度出るかどうかと言う秀才クラスだったそうです。同期には東條英機の次男である東條輝男(とうじょう・てるお)、渋谷巌(しぶや・いわお)、内藤子生(ないとう・やすお)などがおり、高山と友に戦中から戦後の日本の航空界のために尽力した人々です。 在学時に海軍依託学生となることを志願した高山は、昭和12年4月に海軍造兵中尉に任官し、艦隊実習の後に空技廠(海軍航空技術廠)飛行機部に配属されて最初に行った重要な仕事は、「12試艦上戦闘機」の審査でした。略して「12試艦戦」と呼ばれたこの戦闘機は、1940年(皇紀2600年)に制式化され、零式艦上戦闘機、零戦、ゼロ戦としてのちに有名になります。 その後、攻撃機「銀河」、局地戦闘機「紫電改」、攻撃機「彗星」などの審査を行った後に終戦となり、戦後はGHQの航空機の開発禁止の方針と公職追放によって、鍋釜などを作るアルミ工場に勤務することとなります。 連合国の意向と日本人自身の厭戦気分により、未来永劫戦争を行わない国となる事を目指し、「東洋のスイス」の美名の元に軍備を放棄した日本ですが、重大なことを忘れていました。平和は無抵抗な国々があればいいのではない、戦えばたがいが傷つくぞと言う覚悟の元に身を守る力と心を持たなければ行けないと言うことを。 これは、歴史を学べば誰もがわかる理屈ですが、いまだにそれが理解できない愚か者はいる。消防車があるから火事が起き、警官がいるから犯罪が起き、軍隊があるから戦争が起きると信じる人々が、今もなおいる。信じがたいことに。 昭和25年6月、朝鮮半島で北朝鮮軍が南下します。 共産主義の進行に対し、アメリカは対日政策を大転換し、日本に国防力の創設を命じます。これが紆余曲折の末、自衛隊の発足を生みます。旧軍を忌避する日本朝野の趨勢で、警察官僚を主体として始まった警察予備隊は、運用面で行き詰まり、旧軍士官の再雇用を許容することとなったとか。世の中、うまく行かないもんだ。 昭和29年7月1日、防衛庁が発足し、航空自衛隊も誕生します。僅か9年の間にジェット時代に入った世界の航空界にとって、その技術を継承する優秀な技術士官が必須でした。高山は10月30日付けで二等空佐として防衛庁入りします。 これから15年間、空幕装備部技術第一課班長として2年9ヶ月、技術第一課長として5年、技術部長として2年半、技本航空開発官3年3ヶ月の勤務の間に、高山は、T1練習機、T2高等練習機、C1輸送機、F1支援戦闘機などの開発を推進し、F104J戦闘機の導入にかかわり、常に第一線の航空国防技術にかかわると友に、日本の国防に鋭い目を配ったそうです。 国防の根幹たる自主開発に関しては、何十もの開発案を上申して上に疎まれたことも幾たびとか。その他もアイディアは豊富で、F104Jの水上戦闘機案などはとてもできそうに思えないのですが面白い。 本の後半は、日本の国防意識に対する批判になっていますね。確かに、酷いところがあるようです。 先年大騒ぎした次期支援戦闘機の選定に当たって、自主開発の芽を土壇場でアメリカのごり押しによってやめさせられ、F-16を押しつけられた経緯への恨みは、高山ではなく著者の言葉でしょうね。
機体が小さいために開発の余地がほとんどなく、重要なソフトウエアは国防機密のために公開されず、開発費はFSXは、F-2戦闘機として実戦配備されたものの機体数は削減されました。 国民の血税を使ってアメリカにあごで使われたあげくに大損した責任は、誰がどこで取るのか。 やりきれない状態なんだよな、と思ったのですが、これはすでに3年前のことであり、いまもなおこの状態は続いていることに暗澹たる気分になりました。この国は、いまだにぬるま湯につかっている人たちがいますよね。ヤレヤレです。 (08/12/30) そういえば、鐵太郎の伯父(実伯母の夫)が防衛関係で技官をしておりました。元旧陸軍出身でしたので、高山氏とどれだけ接点があったのかわかりません。今年(2008年)亡くなりましたので、もう話は聞けません。残念。 |
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| Ver. 2.23 |
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| 管理番号:M063-017 | 55 技術史・科学史・文化史 | 出版社:草思社 | |||||||
| 書名:悲劇の発動機 「誉」 | 天才設計者中川良一の苦闘 | ISBN978-4-7942-1513-0 C0053 | |||||||
| 価格:2800Yen | ページ数:443P | 本のサイズ:135×195HC | |||||||
| 初版発行:2007/7/31 | 購入:2008/10/10 | 表紙写真提供 富士重工/光人社 | |||||||
発動機というのは、広義ではエネルギーの変換器のことで、たとえば電気力を回転力に変える(電気モーター)まで含むのですが、この場合は内燃機関のエンジンのこと。「誉(ほまれ)」とは、中島飛行機という航空会社が開発した航空機用エンジンのこと。これについては、同じ前間さんの「マン・マシンの昭和伝説」の上巻で、少し触れられています。 かつてこれは、奇跡のエンジンとして、第2次世界大戦における日本の一つの技術的な頂点を極めたものといわれたものでした。(下写真) それまでに中島飛行機が開発したエンジン「栄(さかえ)」(約1000馬力)、「護(まもり)」(約1800馬力)などの開発ののち、1939年より開発が開始されたものです。「栄」がシリンダー7×2列で14シリンダーであったものを拡大してシリンダーを9×2列の18シリンダーとして、2000馬力の出力をねらって開発されました。 このエンジンの名称「誉」とは、日本海軍による通称であり、海軍は正式には「NK9」と呼んでいます。また日本陸軍でも採用されて、「ハ45」とも呼ばれています。ややこしいですが、立場によって呼び名が違うのはやむを得ませんね。 これは、工業後進国であった日本が、世界最強のアメリカと戦うに当たって、精一杯背伸びして作った画期的なものであり、世界水準から言っても最高水準と言って良いものでした。 このエンジンの開発期の苦闘の歴史と、製造と使用に当たっての不具合とその対応、工業製品としての検証、欧米メーカーとの関わり、技術的な欠陥、開発の問題点などを列挙し、最後になぜこのエンジンの開発史が悲劇となってしまったのかを整理したものがこの本です。 中川良一という希有な才能を持った設計者を選抜し、若干24歳の彼に日本の運命をゆだねた、という、年功序列の世界ではあり得ない冒険を行い、中川ら若い、既成概念という蛎殻の付いていない東京帝大工学部を卒業した俊英にすべてをまかせたのは、中島知久平という人物の方針によるものです。中島知久平とは、中島飛行機という閉鎖的な、国家の軍需に対応するためだけに作られた会社を作り上げた人物であり、それだけで一代記を書ける人ですが、彼がともかく高みを目指せと言った方針に従って、若き技術者と軍部は一丸となってこのエンジンに日本の命運を託しました。 その結果、どうなったのか。 中島飛行機と、日本では飛行機及び航空エンジン製造では好敵手と言える三菱重工業の違いとは何か。中島知久平の強烈な個性とトップダウンによる、常に最高を目指してより新しいものを求め、失敗を恐れず挑戦する姿勢によるもの、と前間さんは説明します。これは、三菱と対極をなすものだそうな。その個性の違いによって生まれた製品は、素人目には違いがわからなくても、専門家の目だとはっきりと見えるものだったそうです。最先端技術を惜しげもなく使う中島は高性能でも脆弱、遅れて堅実な技術でまとめ上げる三菱は鈍重だが堅実、という。 三菱にでも、たとえば零戦のように、強度の限界ぎりぎりまで軽量化したデリケートなものもあります。だから、日本国内での違い、と考えた方が良さそうですけどね。 零戦に搭載されたエンジンは、中島製の「栄」です。「誉」は、これよりシリンダー4本多く、排気量が3割多く、外径がわずか2.6%の30ミリ大きいだけで、この倍の出力を叩き出そうとしました。そのため、シリンダあたりの出力、ブースト圧を従来の限界を超えて高めます。ブースト圧350ミリ、毎分3000回転の未知の領域に入って1800馬力の出力を得、二年近くかかるエンジン開発をわずか9ヶ月で仕上げたとき、誰もが快哉を叫んだという。 しかしその後、トラブルの泥沼に入っていたのでした。 高性能を追求するあまり、エンジンを基本性能の状態から一台一台チューンナップしなければならない「誉」は、乗用車のエンジンではなくF1カーのエンジンだったのだ、と前間さんは説きます。 カタログ値を、80%の性能にするのではなく、110%の性能としたもの、それが「誉」だったのです。 トラブルの原因とその様相に関しては、あまりにも多種多様なので割愛します。スペースが足りない。 欧米でも、同時期のエンジン開発にはそれなりのトラブルを抱えていたと言います。B-29に搭載されたサイクロンR3350なども、さまざまな問題を抱えていました。しかし彼らは、トラブルをつぶすための余裕と用意があった。日本にはそれがあったのか。 「誉」の問題点を、性能追求に奔走した中川良一技師と中島飛行機に負わせることは簡単です。 従来の批判は、そこをベースに語られました。しかしそこだけに問題があったのだろうか。ほかに問題はなかったのだろうか。 「誉」とは、本当はどんなものだったのだろうか。 その時の過ちを、日本は繰り返すことはなかったのだろうか。 前間さんの筆は、執拗です。しかしそれは、単に暗部をえぐり出すためだけではありません。なぜこんな事が起きたのか、どうすれば防げたのか、そもそも防ぐことはできたのか、起きたトラブルにどう対策すればよかったのか、これをふまえて今後どうすべきなのか。 責めを負うべきなのは誰か。誰が、どんな分野に関して責任を負うべきなのか。 その後の、自動車業界に転進してプリンス自動車を発展させた中川技師とその部下たちの行く先、そしてH2及びH2Aロケットの開発で行われた、「誉」と同じような失敗の道すじを前間氏は描きます。なるほど、日本人には、こういう癖があるのか。こんな見方があるのか。 死にものぐるいで頂点を目指し、一時の到達点で満足し、自惚れてわが世の春を満喫して事なかれになってしまう悪い癖が。 それでも、つんのめりながら前向きに突き進んだ日本の技術屋たち、何もないところから、人まねの技術の中から、追いつき追い越していった伝統は今も生きているのです、間違いなく。 そして、これからも継承していけなくてはならないものなのです。 つらい失敗を書くことでも、何か新しい未来を見通したいものです。 (09/6/24) このエンジンは、成功だったのか失敗だったのか。 実は鐵太郎はかつて、さる掲示板にて、とかく過去の人の失敗を馬鹿呼ばわりしたがる人と論争になり、いきがかり上「誉」を擁護したことがあります。そのあと、果たしてこれは成功と言えるのか、失敗と断ずるしかないのかを検討するスレを作ってみました。結論は、ある意味で成功と言えるのではないか、という中途半端なもの。これじゃいかんよな。 この論者とはその後は、要するに自分の価値観に合わないものはすべて罵倒する人だと言う事が周知されて常連から総スカンを食ったので、もう相手をすることもなくなりました。なんと彼(?)は、「誉」とか「桜花」をさんざん罵倒したあげく「彗星艦爆」を褒め称えるのです。この一点で、こいつはものを知らないで意地を張っているだけだとわかるのですが。 まあ、その時のやりとりはともかく、「誉」が成功だったのかどうかは結局煮え切らないままでした。 某T氏と同じ観点で論じてみましょうか。これが失敗というのなら、戦時体制の日本で成功した開発があったのか。これで自ずと結論が出たように思えます。軍用機に搭載して戦争をするための兵器として考えるのなら、これは失敗作であったと。 そして、「誉」がたどった道を日本の兵器開発の大半が歩いており、その多くが失敗に終わるか、根本では失敗であるのに現場の必死のつぎはぎによって曲がりなりにも使いこなしていたようです。むろん、成功して優れた性能を発揮したものも少なくありませんので、一概にすべて罵倒するのはもってのほかですが。 これでなお、あれだけの世界大戦を戦い抜いたわが国って、いったい何だったのでしょうか。 無謀と言いたいが、愚かだとは言いたくありません。しかし、どう評すべきかは、いまだなおはっきりわかりません。 |