不定期日記
11月〜12月
ゆず日和
数日良い天気が続いたので庭のゆずを収穫した。今年は豊作。100個あまりのゆずの山が出来た。
まずは、姑のところへ届けてもらうためにキレイな実を選ってみる。続けて実家の母用。さらに、柿の落葉で庭を汚してしまう近隣のお宅用。さらにさらに、一昨年喧嘩をした募金集めをしている近所のオバサンと、お隣りのお家の方用…と、どんどん分けていく。
今年は黒ずんだり形がいびつなものが少なく、みんなに良いものをお届けできた。ささいなことだが、とてもうれしい。姑と喧嘩したおばさんは特に喜んでくれたので、こちらの胸までほっこりとする。
実家宛ての荷物を出し終わったのはもう夕方。ゆずのことだけ考えているうちに過ぎてしまった一日だったが、妙な充足感がある。こんな一日もたまにはよいものだと思う。
手許にあるのは残念な実ばかりだが、せっかくなので砂糖漬けかジャムを作ってみようと思っている。
バカじゃねぇの
息子が手に入れたバイクの重量は230sである。納車可能日がはっきりした頃、にわかに問題となったのは、そんな大きなバイクが庭先に停められるかということだった。我が家の庭先はエクステリアなどという趣のあるものではなく、ただブロック塀が左右にあり、その間につづく飛び石をゆくと玄関に至る、そんな程度のものである。駐車できそうなのはサクラの老木と植え込みのつつじの間くらいで、文字通りそこに突っ込むようにして停めるしかない。ただ問題は、ブロック塀が邪魔ですんなりとは収まらないこと。しかも路面のコンクリは既に割れや剥がれが目立って凸凹していたし、雨が降るとぬかるんだりもした。
当初は駐車場を借りると言っていたのだが、マンションならいざ知らず、そこは工夫をすべきところだろう。一応近隣の不動産屋にあたってはみたのだが、割高な上に貸したがらなかったり(同じスペースを貸すなら車の方が儲かる)、そもそも住宅街には騒音の大きいバイクのための駐車場はなじまないと断わられたりもした。
仕方がないのでブロック塀の一部を撤去して出し入れがしやすいようにした。路面の凸凹も砂利を敷いて改善。ポストの場所もやむなく移動。必要最低限の工事だった。かくして一件落着である。
ところが先日、このことを栃木在住の夫の友人に話したところ、開口一番
バカじゃねぇの
とばっさり言われた。
彼の言い分はこうだ。
どれだけ大きいバイクかはしらないけど、そんなもんそのへんに停めときゃ済むもんだろう。それなのに、親がそろってああだこうだと話に乗った挙句、ブロック塀を壊しただのなんだの、そんなものは過保護なんだよ。バッカじゃねぇの。
…(Θ_Θ)
彼は栃木の山間部に広大な私有地をもち、悠々と暮らしている。そのせいでそんな大雑把なことが言えるのだ。が、やはり。
イ、イタイところをつかれたかも知れん。
オヤジ談議
横浜で、夫とその知人2人の飲み会に合流。約1時間ほど、オヤジ談議を聞く。
とっても愉しかった。
知人のひとりは夫より少し年上で、ずっと懇意にしてもらっている人だ。
もうひとりは年下のベンチャー企業家。夫にとっても酒の席では初顔合わせの人物。
話は政局のことや中小企業をめぐる環境についてのこと。私は聞き役に徹するしかないのだが、それでも3人がそこそこ気が合う仲間なのだとすぐにわかった。たとえば…
・誰かが自分の話ばかりするという展開にならない。
・それぞれが相手の守備範囲にちゃんとリターンしている。
・議論のタネが詰まる前に流れていき、いつの間にかまた戻っていたりする。
特にベンチャー企業家の人の話には「センス」のようなものがあって愉しい。
夫は案外理屈っぽい人間で、時には私にすら敬遠されることもあるのだが、その夫と易々と言葉のラリーをする人物を私は初めて見たような気がする。
夫にそう話すと彼の方でも「そうなんだよ、話がわりとかみあうんだ」と嬉しそうだった。
いつもなら2時間も居酒屋にいれば足許がふらついてしまう夫。でもこの日は議論に夢中であまり飲まず、帰ってきてからもネットをチェックする余裕があった。
こういう飲みならいいな。
迎えに行く方としても心安い。
ちなみに、私は夫に飲み会があるとどこであっても必ず迎えに行く。
これは仲間内で相当ウケる話になっているらしいのだが、なんでだろうネ?
「いい仕事」
いい仕事してるね〜。
それが、最近夫によくかける言葉である。
仕事といっても生業にかかわることではない。
年頃の娘をもつ父親としての仕事のことだ。
それはつまり
娘から煙ったがられる
ということ。
父親は今生活態度や学業の事で娘とちゃんと向き合おうとしている。すると、どうしても小言が多くなる。母親の私だと感情論になりがちだが、彼の関わり方は必要なアドバイスとツッコミに限られる。娘にしてみれば反論の余地のない事しか言わない父親だ。
もちろんそれ以外の場面では今までどおりの親密さでいるつもりの父親。
しかし、娘にはそれがムカつく。
結果、できるだけ父親と同じ部屋にいるのを避けようとする。同じ食卓につくのもイヤがる。父親もそれはわかっていて、時々凹んでいる。
損な役回りだと思うが、父親がゆるいとこの時期の娘は未熟なまま社会の中に流れ出ていってしまうものだ。娘の反抗のエネルギーが父親を避けることに使われているうちはそれが起きにくい。彼女に嫌われることで守っているのだ。
私にはできない、だいじな仕事だ。
いつもありがとね。
それから娘よ。
そういう時期なのはわかっているけど、アサッテの方を向いたまま「ベツニ」「イラナイ」を連発するのはやめてくれないかな。
時々、ホントに凹むんだ。
息子の帰還
息子がようやく仙台から戻った。フラフラで。
戻ってきた当日と翌日は休みだったのだが、ほとんど寝て過ごしている。風邪もひき、出張先では医者にかかったりもしたようだ。
「ホテルってのは疲れがとれないんだよ」
心底くたびれた顔をしてそう言う。
おみやげの牛タン味噌漬はその日の夕食に消えた。
会社の人たちへのおみやげは笹かまと萩の月。
フツーすぎる。けど、それでいいんじゃないかな。
アイツらしくて。
川上弘美「マダガスカル」
今期の録音は川上弘美さんのエッセイをまとめた「此処彼処」より「マダガスカル」。20年程前、新婚旅行で出かけたマダガスカルでのお話。
川上さんって、最低限の設定だけでお話を書き始められるような方だなと思ってます。とりとめのないことでちゃんと1本書けるというか。すごいですね。この最新エッセイ集もとりとめがなくふわふわしてる。いくつかは既読だと思ったら、日経夕刊に連載されていたものらしい。
本にはメガネザルやアイアイを見たくて新婚旅行先に選んだとある。しかし、今でこそマダガスカルはモーリシャス諸島と並んでダイビングポイントとして有名になりつつあるけれど、当時はかなりマイナーな選択だったようです。マダガスカルの歴史をひもといた著書によれば、日本人にとっては世界の秘境だと記されているくらい。かくいう私もマダガスカルがどこにあるのかはもちろん、それが都市の名か国名かさえわからないくらいだった。(アフリカ大陸の東側、インド洋に浮かぶ島でマダガスカル共和国)
最初に読んだのは、マダガスカルにアイアイならぬカメレオンの写真を撮りに何度も出かけた写真家の本。マダガスカルには世界(主にアフリカ大陸とマダガスカル島)の60%の種類が住んでいるといういうことで、写真集を作る目的でやってきたらしい。しかし、実際に来てみると、現地ではカメレオンに興味をもっている人は少なく、ガイドをつけても仕事はなかなか進まなかったようだ。おまけに島内は悪路ばかり。移動にはとても苦労が多かったとある。それでも何度か訪れるうちによい写真も撮れるようになり、見つけ方にも慣れてガイドよりも早く見つけ出す事ができるようになったそうだ。また、彼はガイドを何人も雇って希少種の発見に尽力した際、チップを弾んだのだが、このことが後に現地の事情に意外な影響を与えることになる。
1年以内にマダガスカルを訪れた人たちのウェブ旅行記を見ると、頼みもしないのにカメレオンを捕獲してきてはチップをせがむ子供たちがいるという話が載っている。ちゃっかり小遣い稼ぎをしている現地の子供たちの様子を伝えているのだが、カメラマンがこの島を訪れたのが2000年〜2004年であることを考えると合点が行く。子供たちのこういった傾向ははこの時のカメラマンのとった行動や態度に端を発しているのだ。笑える。
マダガスカルの歴史に関する本も読んでみた。まず驚いたことは、ここには王朝が存在したという事実だった。王朝があったということは、独自の文化が築かれていた時期があるということ。そう思って読み進めるのだが、残念ながらそれほど大層なものではないようだ。
まず、有史以前の記録は一切残っていない。文字通りキツネザルの楽園として長く存在し、島の先住民の核になったのは紀元10世紀ごろから始まったインドネシアからの移民だった。13世紀から16世紀にかけての部族対立を経、やがて島の中央台地を制した部族の中からメリナ王朝が生まれている。しかし、女帝の多かったこの王朝は西欧列強との駆け引きに破れて約1世紀、6代までしか続かなかった。言語はポリネシア系の「マラガシ語」をもっているが、書き言葉はなく、メリナ王朝の時代に作ろうとしたが失敗したとある。今、青少年たちはこの言語を使わずにフランス語を習っているというから(母国語よりその方がつぶしが利くらしい)将来においても独自文化の形成はむずかしそうだ。
川上さんが書かれたのは出発の3時間前に空港に着いていたのにおいていかれたという話。そのアバウトさ、無責任な国民性の背景を想像する上で、これらの歴史を知っておくことも少しくらいは役にたつ――かな?
おばさん捕り物帖
昔々、あるところにオバサンが住んでいました。
オバサンは特にいいオバサンでも悪いオバサンでもありませんでした。
ただ、世のおばさんが往々にしてそうであるように、自分が立派なオバサンであることに自覚がありませんでした。それどころか、自分はオバサンである前に良識のある市民だと思い込んでいる、少しかわいそうなところのあるオバサンなのでした。
さて。
オバサンには、夏ごろからの悩みがありました。近隣の、フェンスで囲まれた駐車場の土台と路肩が接する場所に、誰かが放○した痕跡が見受けられるようになっていたからです。この通りはスーパーへの一本道で、オバサンは毎日夕餉のことを考えながらその道を通っていました。痕跡から発される匂い状物質はその幸せな時間を台無しにしていたのです。
オバサンは問題の場所を通りかかると必ず足を止めて眉にシワを寄せました。いったい誰がとその度に思いました。誰とは言ってもヒトである証拠はもちろんありません。このあたりには大型犬を飼い、日々散歩をさせている方々も多くいました。もしかしたら散歩の途中の動物たちのものかも知れない。おばさんは、下手人がヒトであるという想像をすぐに捨てました。それというのも、毎日同じような時間にそこに存在するからでした。散歩というのは日課で、時間が決まっていることが多いものですし、動物たちには決まった場所を好むという習性があるものです。
とにかく、夏の間は匂いが大変でした。そこは通学路でもあり、下校途中の子供たちが問題のポイントに通りがかっては「なんかここ○○くさーい」などと言っていることもありました。自分は良識のある市民だと勘違いしているオバサンは、そんな話を小耳にはさむと申し訳ない気持ちで一杯になるのでした。
オバサンは窮余の一策としてバケツ一杯の水を汲んでは流すようになりました。それだけでもずいぶん違うような気がしました。飼い主さんがいつかその水に気がついて、気持ちを改めてくれるなんてことがあったらいいな。そんな虫のいいことを思うこともありました。
そうこうしているうちに季節は巡り、流石のオバサンも、毎日欠かさずそこに現れる新たな痕跡に業を煮やすようになっていました。毎日のように水を撒いていましたが、時折「永遠」という言葉が脳裏をかすめ、力が抜けそうになる日もありました。こうなったら現場を見咎める幸運(幸運?)を待つしかないと思い始めた矢先のことです。
ある日、オバサンは近くのポストまで投函に出かけました。ふと見ると、問題の場所に2トントラックが停まっています。運転席のドアは開放。荷台のドアも半分開いたままで、ドライバーは不在のようでした。きっと配達か納品の最中なのでしょう。
オバサンは、これならもし散歩中の人が通りかかってもフェンスと車の間には入り込めない、と考えました。今日はあのトラックのおかげでセーフになるかも、とも思いました。セーフだったら、今日ばかりは水を撒かずにすみます。
そう思いながらでかけ、帰ってきた、その時です。
その間に戻ってきていたトラックの運転手が。
解放したままのドアのかげで。
その。
あの。
……だったのです。
オバサンは無言で家に戻りました。急ぎ足になっていました。
下手人はペットの動物ではなかったのです。
マナー違反の飼い主なんか、最初からいなかったのです。
犯人はまさしく今の…。
オバサンはいつもより勢いよく蛇口をひねり、なみなみと水を汲み入れると、再び現場にとって返しました。運転手は荷台に戻り、カーゴ内の整理をしているようでした。
迷いはありませんでした。
オバサンはツカツカと荷台の側にまわると、キッと運転手の方を見て言いました。
「ちょっとアンタ!!」
運転手はこちらを向きました。小太りの、まだ若い、気の弱そうな男でした。これならイケる。オバサンはそう思いました。
「アンタ毎日ここで○○してるでしょうっ」
男は一瞬虚を衝かれたようになりましたが、すぐに
「は、はい」
と認めました。
おばさんは調子に乗ってさらに続けました。
「私もね、毎日ここに水まいてんのよっ。何故だかわかる?」
おばさんの剣幕に、若い男は圧倒されているようでした。
そうして、蚊の鳴くような小さな声で
「もうしません」
と言いました。
そう!
それでいいのよ!
オバサンはその言葉を聞いて心から満足し、「頼むからもうやめてね」ともう一度念を押した後、バケツの水を男の目の前でポイントに撒きました。
「もうしません」
男がもう一度小さくそう言うのが聞こえました。
オバサンは空になったバケツを持って悠々と引き上げました。
現場に新たな痕跡が現れる事は二度とありませんでした。
めでたしめでたし。
季節はずれの鳴き声
11/10近隣の緑地で油蝉の鳴く声を聞いた。このところの暖かさで季節を勘違いしたのだろうか。夕方のニュースでは梅や桜が咲いているという視聴者からの便りを伝えていた。話は昆虫や植物ばかりではない。かくいう私もついつい着込んでは首の周りに汗を感じてしまうことが多い。
同じ日の夜、市橋容疑者逮捕の報道に接する。のりピーの時と同じで、報道されることを鵜呑みにして後を追うしかないことには苛立ちを感じる。が、あれだけ騒がれていると皆で共有している連続ドラマのようなもので、先が気になって落ち着かなかった。
容疑者の両親が医師であることや、本人が事件を起こした頃無職だったことなどを知るにつれ、ついつい本人の半生を心理学的に想像してみたりもした。もっとも、本人たちにとっては余計なお世話だろうが。
茨木市での1年あまりの年月には少し興味を持っている。ただ逃げ延びることを考えていたとはいえ、そこには生活もあったろうし、人を殺める前よりも分厚く、節くれ立っていく自分の両手に戸惑ってもいただろう。そこには、こんなことをしてでも生きていける自分に対する倒錯した発見もあったのではないか。当分はムリだとしても、彼がそこのところをよく考えてみる機会がやってくるといいなと思う。
息子がFFをしないわけ。
息子が仙台に出張している。トータルで3週間という、結構まとまったものだ。小、中、高と地元に張り付くようにして生きてきた息子にとって、親抜きで3週間過ごすというのは初めての経験である。普段、帰宅してもご飯を食べるとすぐに部屋に引きこもって深夜までFFをしている息子。出張先ではそんなことはできないだろうし、一度ネット三昧な日々を断ち切ってみるためにもよい機会である。
出張は、まず着替えだけを持って5日間同僚とふたりで出かけた。仙台営業所の人たちは連日のようにあそこが旨い、ここが旨いと街へ連れ出してくれたようで、たった数日の間にサンマが大好きになっていた。(彼はサンマがあまり好きではなかった)とりあえず、現地で受け入れられているらしい様子で本当にほっとした。夫も、あいつはきわめて付き合いやすい人間だから、そういうことは大丈夫だよと言っていた。そうなのかな。
二度目に向かう際、向うでもFFができるようにと機材を持って出た。今度は2週間である。流石に間が持たないということのようだった。翌朝寝坊するんじゃないかしらと思ったが、何も言わなかった。親が余計なことを言うから子どもの自立が遅れる。そう思っている。
3日後に、息子から電話があった。なんでも、FFをするためには日々異なるパスワードが必要だそうで、そのパスワードを発行してくれる小型の端末を忘れてしまったらしい。自分の代わりにその端末を操作して、パスワードを読んで欲しいというのだ。
なにやってんのよー。
と笑いながらも、少し意外だった。
あの息子がもう足かけ10日間ほどFFをしていないことになる。めずらしいことだ。
息子にはFF仲間というのがいて、ゲームをしながらチャットやスカイプで話をしている。
そのやりとりの声は毎晩のように部屋から聞こえていて、そのくだけた感じから、ふと今日は息子の友達が来ているんだったかと思うくらいだった。
いながらにして息子とその知人とのやりとりの一部を知ることができると言ってもいいし、家族と一緒にいるのにいないようなものと言ってもいい。複雑な気持ちでいた。しかし、彼らとは年に何度かオフ会で会ったりもしているし、何人かはウチに泊めたこともある。息子の人脈の何分の1かはFFで築いたものである事は確かなことなのだ。
その息子がFFなしで、どう時間を過ごしているのだろう。どうって、仕方ないからテレビを見ているだけだよと言うのだが、それなら家にいる時にもできたはず。なぜ家にいるときには見ないものを出張先で…と思いかけてハッとなった。
もしかしたら。
いつもは親と関わりたくないから、部屋でずっとFFしている???
Σ(°д°;)|||
出張先には親はいないから、関わりを逃れる必要はない。
自分の時間を十分に堪能できる。
すると、FFをする必要もなくなる。
…そ、そうなのか。
うん…。
そうなのかもしれないな。
(゜_゜)(。_。)
多分、本人も気づいていないところで、彼はもう私たちを必要としていないのだ。息子と私たちの間には屈託や齟齬のようなものはないだけに出て行く動機は整えにくいが、私たち親子はもう、別々のステージに立つべき時期に来ているのだね。
電話は今日もかかってこない。
市民ミュージカル
横浜のとある区で開かれた、市民ミュージカルを観に行った。昨年は関わっている団体が同じ時期に市民参加の演劇作品を作っていた。今年はお呼びがかからずがっくりしていたのだが、とにかくそれならそれで今年の作品を見ておこうというのが動機だった。
出演者の数は主催側の発表で最終的には70名ほど。当初は100名にまで膨らんでいたそうで、去年とは雲泥の差である。(去年は集まりが悪かった)
内容的には、地域の歴史と個人史を照らし合わせながら今の地域のありようを浮かび上がらせるという手法をとった去年に対して、今年は地域の歴史や民話に着目して構成された作品。まず物語を練り、それに配役と歌と踊りを貼り付けていくというやり方だ。
見せ場の作り方には手馴れている人が演出をしているようだった。歌のソロパートを受け持った人はみなとてもうまかったし、割烹着を着た農婦が鍬をもって踊るシーンにはインパクトがあった。幼児が扮する老人たちがフィナーレでライトを浴びて踊るシーンなどは、なかなか微笑ましいものがあった。
主催者側の話だと、ダンスを習っている小学生がとても多かったらしい。カラオケでのどを使い慣れている大人たちと、ダンスの腕を磨いている小学生。演出家は、彼らが普段やっていることの見せ場をその技量に応じて提供していけばいい。そういうことだったんだなと今は思う。
去年見知った人や子供たちの顔はいくつも見えた。みんなからだがひとまわり大きくなっていたし、中には去年はなかったメイクを施して自信に溢れているように見える子もいた。
そんな顔をみていると去年とは違うものを体験するのもありかなという気がした。
それでも、主催者側からの「みんな歌って踊りたいのねって思いました」というコメントや、終演後の「役者たちに面会される方はロビーでお待ちください」というアナウンスに「役者って呼んでくれるのね、カッコイイ☆」と色めきだつ父兄の様子にはとても複雑なものを感じた。
この数日後に行われた団体の定例会ではうちの作り方と他の団体の作り方の違いについて皆と話すよい機会になった。
どうせやるなら派手に花火を打ち上げようぜという、お祭りタイプの企画。残念だが、市場の大多数はこのタイプの演劇を望んでいるのだろうと思う。うちは、地味だし暗いという言葉も出た。うちは、出演するひとりひとりから今度やる演劇の要素と言うか、素材を拾い上げるところから始める。
ひとりひとりの、てんでんばらばらな訴えやら欲望やら期待やらをみんな載せるから、シナリオはいつもオリジナルだし、出演者ひとりひとりが稽古の時に言ったことや作ってみたシーンもできる限り使われる。
演出家の力量は、そのなんでもありな素材たちを組み合わせて、一体何が、どんな演劇が可能かと考えることにもっともよく使われる。見せ場にしても、そういうシーンの絵をまず描くのではなく、演技者たちがどうやりたいかと演出家としてどこまで歩み寄れるかで色々と姿を変えていく。最終的にベストなものを会場に来てくれた人たちに見せられるかどうかは、やってみないとわからない。
ある意味、ドキュメンタリーなんだよ。
そういう意見も出た。
ホントにそうだと思った。
バラエティが全盛にあるこの時代。ドキュメンタリーを好んで見るのは少数派だろう。そういう私もその手の番組が始まるとチャンネルを変えてしまうことが多いし、最近はニュースを見るのもうっとうしいくらいだ。
そういう時代感覚がはびこる中、行政主催のカネのかからない企画に人々が殺到し、日ごろ溜め込んだエネルギーを発散させたいと思うのは当然なのかもしれない。
他の団体の真似をすることはないけれど、より多くの仕事を得、安定した経営を続けるためには少しずつスタンスややり方を変えていく必要があるんだろうな。
そのきっかけを大事にして。
大きく、ではなく本当に少しずつ。
…あ。
それもまた地味で暗いか!
「なんにもない」
今度の朗読の課題は角田光代さんの「いつも旅の中」から、「なんにもない」。モンゴルはカラコルムの地を旅した時の記録である。
モンゴル、と聞いて思い出すのは知人の女性のこと。息子が通った幼稚園で知り合った人である。当時、彼女には小学生を頭に3人の男の子がいた。息子と同年なのは次男。そしてその後数年の間にさらにふたり、四男と長女を出産。もともと女の子が欲しかったようなので、まさに5人目にして悲願が叶ったことになる。
5人も子どもがいるなら、小さな事は気にしていられない。きっとおおらかなお母さんだろうと思うかもしれないが、そうでもない。ちぃせえことにくよくよめそめそする奴で、その上思い込みも激しい。どちらかというと、付き合いづらいタイプの人だ。
そのわりにトラブルを起こさないのは、ウチとソトの使い分けがとてもじょうずだったからだろう。例え内側に破綻があっても、彼女はそれを人に知られずに済む方法をとてもよく心得ていた。本人は、要するに外面がいいのよと笑っていたが、それはそれで大切なことである。
親しくなったきっかけは、次男が肘に怪我をして手術となった日に、お見舞いの電話をしたことだった。怪我をさせた親が知らん顔で腹を立てていた矢先だっただけに、たいそう嬉しかったらしい。後に「私、あの時あんたのことは大事にしようって決めたのよ」と言っていた。大げさだなと思ったが、悪い気はしなかった。幼稚園の送迎時によく言葉を交わすようになったのはそれからだった。
卒園してあまり会わなくなってからも、年に一度、彼女の長女の誕生日である7月7日には必ず電話をしていた。その日は彼女にとって大事な人生の記念日なのがよくわかるからだ。しかし、電車でふたつみっつ離れたところに住んでいるせいもあり、なかなか会うという機会のないまま年月は過ぎ、子供たちもどんどん大きくなっていった。
息子と同年だった次男は自由人に育っていて、高校生になるとアルバイト代を貯めてアジアのあちこちを旅するようになっていた。その子がある時モンゴルに出かけ、そこが大変気に入ったようで、戻ってきた際に「きっとお母さんも好きだと思う」と話したそうだ。その言葉は彼女の琴線に触れた。その後彼女は乗馬を始め、本当に馬に乗るためにモンゴルに出かけるようになった。
その後は彼女自身がアルバイトをし、お金がたまると出かけるというパターンでモンゴル以外にも出かけるようになった。馬仲間も出来、得意な人付き合いの技術を駆使して良好な関係を続けているようだ。
「ようだ」というのには訳がある。
もう軽く3年くらい、彼女とは連絡をとっていない。小さな行き違いがきっかけで仲違いをしてしまったままなのである。前述したように、彼女は本当は思い込みが激しく、小さな事にこだわってぐるぐると同じ場所で回ってしまうようなひとである。私とは他の人たちよりも少しばかり気持ちを開いて付き合ってくれていたからこそ、それがわかる。
私にしても、数少ない知人であるから大事にしたいと思ってきた。けれども、彼女にとって大事にするというのは、特別な時だけ会って積もる話をするという付き合い方をするものらしい。
しかし、私にとって「大事にする」とはああだったりこうだったりをひっくるめて日常的に付き合っていく中で培っていくものだった。なので、面白いものを見つけたと送ってみたり、ご飯たべようよと電話してみたりという働きかけをしがちだった。
そういう私の思惑はよくはずされることになった。「会おうよー」と電話しても「今忙しいから1ヶ月くらいしたらまた電話してきて」と言われる。ものを送れば「なぜ送ってきたんだ」と訳を問われる。ある時、間を置いて電話をしてみたら、「電話がないから離婚して行方知れずになっているんだと思ってた」と言われたし、またある時は「命にかかわる病気をして死にかけてると思ってた」と言われる。
そんなに心配してくれているのなら、自分から電話してくれればいいのにと思ったこともあるのだが、それはまあいい。彼女は5人の子持ちなので忙しい。ヒマな方が時期を見計らって電話を掛ければいいのである。
しかし。
そうやってたまさか電話をしているというのに、「会おうよ」という話にはなかなかならない。面倒なのかホントは会いたくないのかわからないが、彼女の頭の中で「死にそう」だったり「離婚してゆくえ知れず」だったりする知人から電話があったというのに「とりあえず会う」という選択肢はないようなのだ。
そのことはとても不満だった。会うことをあまり大きなセレモニーにはしたくないのに、彼女にとっては特別な事になってしまっている。なんだかなー。そう思いながらも続けていた、年に一度の「女の子の母親になれておめでとう」コール。
いつしかそれが私には負担になっていた。
かければ確かに喜んでくれる。
しかし、それだけだ。
もっとフツーに、付き合えないかな。時々会うとか。電話くれるとかさ。
でも、電話はなかった。
ある年、私は記念日に電話をするのをやめた。それをやめて、しばらくたってから電話をしてみたのである。「とくべつ」を「ふつう」に格下げするための、せいいっぱいの働きかけのつもりだった。
結果は大失敗。電話の向こうの彼女は大変に立腹していた。立腹して「なんで電話してこなかったんだ」となじった上、がちゃりと電話を切ってしまった。
それきりである。
――いや。
何事もなかったかのような賀状が届いた事はあったのだが、今度は私の方が面倒くさくなっていて、返事はしなかった。時々会って、ああだったりこうだったりな付き合い方に持っていくつもりは――もう私にもないのだろう。