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【礼拝説教要旨】
| 教会に通う恵み 詩篇122篇 |
| 2008年5月11日第2聖日 牧師 山宮利忠 |
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家族そろって教会に通う家庭は、幸いです。この歌は家族共々エルサレムの神殿、神の家へ礼拝に向う喜びをうたったもので、これは現在神の家としての教会へ通う喜びと共通しています。ここには神殿と同じ意味で使われていることばが12回も使われていて、ここに教会を置き換えて読んでみると一層この歌から、教会へ通うことの恵みの豊かさと大切さが判ります。 第一に、自分の教会を持つ喜びがうたわれます。(1-)教会は、魂の故郷、天国のかたちであり、心の寄りどころでもあります。未だ未完成ではあっても、やがて完成される地上の神の家であって、ここに喜びと平安を見出すことができます。 教会は、礼拝の場であり、人を神の前に出て行かせ、深い内省と共に真実の自分をみつめ、神の祝福をいただくところです。又祈りと教えを受けるところでもあります。祈りは神の助けと導きをいただく手段であって、人の無力さをあかしすると共に、神の恵みなくして人は生きられないことを認め、神の助けを求めるものです。聖書は私達が人の目で読むことのできる神のことば、教えであり、このおことばこそが人を正しくし、悪の道へ誘われることを防ぎます。 第二に、教会の繁栄が願われています。(6-)平和と繁栄が願われ歌われています。教会は常に戦いの中にあるからです。 |
聖書のことば 人々が私に、「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。 詩篇122:1 |
| 私は山に向かって目を上げる 詩篇121篇 |
| 2008年5月4日第1聖日 牧師 山宮利忠 |
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この歌も交唱として、神殿礼拝に向う者達が歌った賛美です。この賛美の中には神の守りという言葉が6度も出てくる程、私達を守るものは神の他ないことが力強く歌われ、まことに神殿礼拝者にふさわしい詩篇と言えます。 第一に、山のような神の守り。(1-2)この山は、旧約ではシナイ山、新約ではエルサレムでしょう。山に象徴される神の守りとは、気高さ、神秘、不動の安定、力等がイメージされます。勿論山をほめたたえているのではなく、その山を創造された神を賛美します。 第二に、まどろむことも眠ることもなく守られる神。(3-4)まどろみとは、眠るでも眠らないでもない、とろとろとした状態で、一瞬正気がなくなる時です。弟子達は主が血のごとき汗を流して祈る間にも眠りこけていましたが、神はまどろむことも眠ることもなく私達を守られます。 第三に、あらゆるわざわいから守って下さる神。(7)日々の生活の中で、主を信頼する者には気付かないところで守りがある事を覚えておきたいものです。特に主は私達の魂のいのちをとこしえに守って下さるお方であることを感謝しましょう。 第四に、常に共にいて守って下さる神。 |
聖書のことば 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。 詩篇121:1-2 |
| 神が味方であれば 詩篇118篇 |
| 2008年4月6日第1聖日 牧師 山宮利忠 |
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ハレルヤ詩篇の最後のもので、神殿礼拝に近づく者の行進の歌でもあり、交唱歌と思われます。 内容的には、礼拝への妨害があってもそれに勝利した者のよろこびの賛美であります。その背景としてバビロン捕囚から帰還した民が神殿建築、城壁の再建に対し、多くの反対・妨害にもかかわらず、やがて完成を見た時のよろこびと考えられます。宗教改革者ルーテルの最も愛した詩篇といわれています。 まず、神に仕え神のために働こうとする者は、妨害に会う事を知りましょう。神に近づかれないように懸命に働くのはサタンです。真剣な求めや熱心な奉仕への願望に水を差し、人の心を冷えさせ落胆させ再び熱い心を持たせなくさせようと働きます。信仰告白、バプテスマ決心・奉仕への新たな決意・献身等私達が起ちあがろうとする思いを砕いてとどこうらせてしまうのです。事実イスラエルの民も荒廃したエルサレムに神殿建設をしようとする志を15年間もやめさせられたのです。 しかし、神は私たちの味方です。(5~9)たとえどんなに大きな反対があったとして、神が味方であれば恐れることはありません。たとえ世が十字架につけようと、死ぬことなく生きるいのちと勝利をもたらしてくださいます。捨てられたようでも、それこそが要となります。 |
聖書のことば 主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。 詩篇118:7 |
| 全ての者がハレルヤ 詩篇117篇 |
| 2008年3月30日第5聖日 牧師 山宮利忠 |
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わずか2節からなる詩篇中最も短い詩篇です。ハレルヤと神をほめたたえることばで始まり、ハレルヤで終わり、全ての民がハレルヤと主をほめた たえる事を勧めているところから、新約聖書ローマ書15章11節で異邦人にも伝えられる福音の恵みの言及に引用されています。 ハレルヤとほめたたえる理由として二つの点があげられています。一つは、恵みです。恵みとは神の本質的なご性質であって、神が私達の味方であり好意的であるということが、赦しがたい罪人である私達には勿体なくも驚くべき事に違いありませんが、このあわれみとかいつくしみ深さは、イエス・キリストの十字架に於いて最もあざやかにあらわされたと言えるのです。それは一方的な限りない大きな恵みで、私達はただただこのあわれみの大きさ に圧倒されるのです。この恵みを知る者は、日々ハレルヤと叫ばずにはいられないのです。 もう一つは、まことです。神は真実にして偽りのないお方で、これもまた神の本質的なご性質です。私達は常に不真実ですが、神は真実なるお方で、偽ることのない、変わらないお方なのです。だからこそその約束は確実に果されます。全ての人がこの真の神を知ることができれば、その恵みとまことを心の底から賛美する事ができるでしょう。あなたの生涯がハレルヤでありますように。 |
| イースターの望み 第1コリント15章19節 |
| 2008年3月23日第4聖日 牧師 山宮利忠 |
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キリスト教の二本の大きな柱は、十字架の復活と言ってよいでしょう。これは教えではなく、メシヤなるキリストが為された行為を示しています。復活は、特に私たちに大きな望みをもたらすもので、まさしく生きる望みを与えるものです。それは単なる望みではなく、祝福された栄光の望みです。 第一に、キリストの復活は、主が活きておられる望みを示すものです。死んだ者は、人に救いも助けも与えることができません。生きた方だけが私たちの祈りを聞き、隠れてなされた働きを見、助けを与えることができます。世の終りまで私たちと共にいて下さる約束は、死んで甦られたキリストだけが約束することの出来る大きな祝福です。 第二に、キリストの復活は、死に勝利する望みを示すものです。いのちの不滅を示すものであり、死は終りでなく、やがて来る肉体の死の向うに永遠のいのちの望みをもたらすものです。私たちはこのことによって死への絶望的な恐れから解放され、生きる望みをもって人生を歩むことができます。死に臨んで単なる慰めの言葉ではなく、永世の望みを持ちつつ死に対処することができるのです。 第三に、キリストの復活は、再会の望みをもたらします。天での再会は、この世での再会とは異なります。あらゆるものが新しくされた再会であり、時を越えた制限のない解放された再会です。 |
聖書のことば もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。 コリント人への第1の手紙15:19 |
| 会堂に注がれた主の恵み |
| 2008年3月16日第3聖日 牧師 山宮利忠 |
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3月21日は、この会堂を主にお献げした献堂の記念日で、私達は毎年この日に過去の主のお恵みを思いかえしあらためて感謝することにしています。何故なら主が良くして下さった事を何一つ忘れない為だからです。 1960年古い家屋を購入して伝道を開始。土地は借地(第1会堂)。 1963年教会は牧師を迎え独立伝道を開始。 1970年37坪の借地の上に三階建ての新会堂献堂(第2会堂)。 1988年下永谷に300坪の会堂用地を購入。 1990年新会堂献堂。円形会堂と二階建て教育館建設(第三会堂) 1996年隣接地300坪を購入。駐車場とし、後に立体化。 1999年新教育館増築。奉献。 2001年会堂外壁タイル張り工事完了。 2006年会堂拡張工事。集会席250席。つめて300席完成。 2007年牧師館用としてマンション購入。 会堂に係る全ての費用は、概算6億6千万円以上であり、その内銀行融資の1億1千5百万を完済し将来にむけてさらなる主の祝福をいただくべく 宣教の働きに忠実に励ましていただいているところです。会堂建築に係る主の大いなるみわざは、私達の教会にとって信仰の確信へ資するところ多く、主の活きて働いて下さっている事を知って大いに恐れ、感謝するものです。 |
| 苦しみに勝る平安 詩篇116篇 |
| 2008年3月9日第2聖日 牧師 山宮利忠 |
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エジプトのハレルの一篇で、苦しみの中で尚平安を保つ信仰者の勝利の姿が高らかにうたわれています。愛した、信じた、が中心的柱となっていますが大きな苦しみの中にあっても平安を持ちつづける信仰の素晴らしさをここから学びとりましょう。 第一に、苦しみの只中での平安です。(3?4)この苦しみは数々の言葉であらわされていて、いかにそれが大きなものであったかが判ります。死をも覚悟しつつも聖徒の死は神のみ前に尊いと歌います。私達は、神を信じれば苦しみにも禍にも会わないと思いがちですがそうではありません。神は苦しみの中で我々を守り、助けて下さるお方です。ですから、"信じつづけ""歩みつづける"事が必要です。メシヤなるキリストが苦しみを通して救いをもたらして下さった事には大きな意味があります。 第二に、苦しみの只中での感謝です(1?2;12〜)苦しみを仕方がないと受け入れるのではなく、感謝し、誓いを果そうとするところに、苦しみに勝利した信仰者のすばらしい姿があります。何故ならば、主は苦しみのただ中で救いをもたらし、助け、良くして下さったからです。一生主のみ 前を歩みつづけるのは、喜びと感謝があるからであって、おきてに縛られた義務感からではありません。苦しみの只中にあってもその苦しみに勝る平安をもたらして下さる事こそキリストのお与え下さる平安です。 |
聖書のことば 私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。 詩篇116:9,10 |
| ただ神にのみ栄光を 詩篇115篇 |
| 2008年3月2日第1聖日 牧師 山宮利忠 |
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エジプト賛歌の一つですが、詩の形式としては応答賛歌として会衆と聖歌隊、祭司とレビ人等が交互に賛美したもので、選民の苦難をあざ笑う異邦人に、真の神の御名がはずかしめられないようにと願われた詩篇です。 三つのことばが中心となっています。まず、第一に、栄光です。神はご自身のために事をなされるという事をここから学ぶ必要があります。我々被造物へのあわれみと愛によって事をなされる事も相違ないのですがまず、ご自身の栄光のためになされるという事を覚えたいものです。この世のものはチリ、灰に等しいものであって、被造物の為に事をなされる以前に神の栄光のために全ての事をなされるのです。従って我々は、ただ神の栄光の為にのみ生き、又為すべきで、全ては神の栄光の為になのです。 第二に、信頼です。真に信頼に価すべきお方は、天地を創造された生ける神のみであって、人の手でつくられた神と言われるものではありません。人のつくったものは、人以下であってたとえどんなに壮大であっても信頼に価しないのです。 第三に、祝福です。真の神は、真の祝福をお与え下さいます。平和も繁栄も勿論ですが、いのちの祝福をお与え下さいます。死せる人は主をほめたたえる事はできません。 |
聖書のことば 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。 詩篇115:1 |
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