再会の喜び ヨハネの福音書20章11〜18節
2002年3月31日第5聖日
 イエスの復活の事実を最初に知ったのは、マグダラのマリヤでした。マグダラのマリヤは、いやされた時の記録はないものの、7つの悪霊を主によって追放させていただいた女性として登場します。彼女にとっては、暗黒の世界から光の世界に導かれた感謝とその体験が、残された生涯をキリストと共にと強く願わせた動機となり、イエスと常に行動を共にしている姿が福音書の中に散見されます。
 「主の御傍近くに」という思いが、十字架におつきになったカルバリの丘にも、そして葬られた墓にも自分の身を置くことになり、そして日曜日、週の初めの朝早くにも墓をおとずれて、死より甦られた復活のキリストに最初にお会いする恵みにあづかることになります。マリヤはそこで悲惨な死をとげたイエス・キリストの栄光に満ちた復活の主に再会することになります。
 12の弟子がいたにも拘らず、一人の女性にどうして復活の主は最初にご自身をあらわされたのでしょうか。それは彼女の明らかな救いの体験と主の御傍近くにいたいという熱い心がそうさせたに違いありません。マリヤの体験は、復活のキリストにお会いするという更に大きな体験となって、喜びは更に大きくなりました。
 私達がもし、キリストのみ傍近くにいたいと願うなら、天の恵みによる喜びと驚きは今より一層大きなものになるでしょう。そして既に天にある兄姉との再会の実現によって喜びは最高点に達するでしょう。
聖書のことば
イエスは彼女に言われた。「マリヤ」。彼女は振り向いて、へブル語で「ラボニ」とイエスに言った。
ヨハネの福音書 20:16

罪を赦す権威を持つ人の子 ルカの福音書5章17〜26節
2002年3月24日第4聖日
 パリサイ人がはじめて登場します。分離派と言われた厳格な律法主義者が、これからのイエスの敵として、十字架に至るまでつきまとうことになり、この奇跡は中風の男性のいやしだけでなく、罪を赦す権威を御子なるイエス・キリストがお持ちになっていることを証明するみわざとして、今後のメシヤとしてのお働きの根幹をなすこととなります。
 まず中風の男のいやしから学びましょう。動けない男を主のみもとに運んだのは友人達です。主は彼等の信仰をご覧になっていやしのみわざをなさいます。彼等の信仰とは、主のみもとへ運べばいやしてくださるという信仰であり、屋根をはいででも主のみ傍近くへ運ぼうとした熱意です。信仰とは行動を生み、結果を生むものだということが判ります。彼等がはいだ屋根は、再び彼等によって修復されたであろうし、中風の男も手伝ったに違いありません。
 一方パリサイ人は大勢イエスのもとに集まってはいましたが、座って理屈を言う者達でした。当時は病は罪の結果と考えられていましたから、罪赦された結果として病がいやされた現実を見ては、パリサイ人は一言も反論できなかった筈です。イエス・キリストは人の罪を赦すためにこの世においでになられ、そのお方を信じる者に奇跡のみわさをなさるお方です。誰でもキリストを信じる者は、新しく生まれかわる偉大な奇跡をおこして下さいます。
聖書のことば
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。
ルカの福音書 5:24

お心一つで ルカの福音書5章12〜16節
2002年3月17日第3聖日
 イエスのメシヤとしての力をひきつづき記録します。悪霊を追い出し、熱病をしかり、大漁をもって漁師達を驚かした主は、重い皮膚病にかかった者をいやされますが、この奇跡のわざが他のものと異なるのは「彼にふれ」「だれにも話さないように」と命じた点です。主は必ず人の信じる在り方をご覧になりますから、まず病人の信仰を見てみましょう。
 彼は、主を見るところまで近づいてひれ伏してお願いします。彼等は人中へ身をさらすことはできませんでしたし、たとえできたとしても人が近づかないように「私は汚れた者です」と叫ばねばならなかったのです。病のつらさと同時に社会的な、精神的つらさを身に負っていました。そして「お心一つできよくしていただける」と願うのです。主がそう望むだけで私はきよくされると告白します。いやされるよりきよくされる方がはるかに大きな意味をもつ願いでした。主はこの者の信仰をご覧になって「わたしの願いだ」と彼にふれてきよめ給うたのです。いやしでなくきよめを主は願われました。
 きよめ・・・これは今の私達に必要なことではないでしょうか。罪はライのように人を腐らせてしまいます。人の罪はキリストの尊い血によってのみ、清められます。人のみにくい罪に御手をふれてきよめて下さいます。きよめられた彼は「語るな」とのお心に反し、善意の不従順を犯しますが、心したいものです。
聖書のことば
主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。
ルカの福音書 5:12

私は罪深い人間ですから ルカの福音書5章1〜11節
2002年3月10日第2聖日
 イエスは弟子の選定にお入りになります。その基準は私達には判りません。しかし弟子を召された時のこの出来事の中にわずかながらその資格が示されているように思えます。ペテロ達はガリラヤ湖で漁をする漁師であり、通常夜に仕事をするのが最もよく魚のとれる時間帯だったようです。彼等の長年の熟練した働きをもってしてもその夜は不漁でした。しかし主は「深みに漕ぎ出して網をおろす」ように命じます。その結果は舟が沈みそうになる程の大漁でした。ペテロはその結果を見て主への畏敬の念を深く持ち「私から離れて下さい。私は罪深い人間です」と叫ぶのです。この出来事の中に主がペテロ達を選ばれたいくつかの理由を見ることができます。
 まず第一は、でもおことばですからと言って、疲れている身をうちたたいて舟を出したことです。彼らの漁師としての誇りを捨て、状況に左右されずにイエスのことばに従う従順、これこそが弟子となる大切な条件の一つです。
 第二に、自分の罪深さを知ったことです。ペテロの心には、漁師でもないイエスへのあなどりや、「そう言うのならまあ一回位網をうってみるか」「どうせ魚はとれないだろう、でもやってみようか」という思いがあったのでしょう。しかしそのあなどりは見事に打ち砕かれたのです。この罪深さを知る事、それこそが弟子としての大切な点でした。
聖書のことば
主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。
ルカの福音書 5:8

献げる恵み、与える喜び コリント第2の手紙8章1〜15節
2002年3月3日第1聖日
 2月-3月は、毎年信仰による約束献金の更新の月として、私達に献げることへの主からのチャレンジがなされます。救いの尊さと主からの恵みの豊かさを覚える時に、マケドニヤの諸教会が、大きな苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、極度の貧しさにもかかわらずあふれ出て惜しみなく施す富となり、自ら進んで、力に応じ力以上にささげるささげものとなってあらわされた事は、私達への大きな模範であり、献金に対して正しい態度を持つことは、天よりの豊かな祝福を受ける条件でもあります。
 第一に、感謝と喜びをもって献げることです。そのためには、キリストにある救いの豊かさと祝福への感謝がなくてはできません。もしそれがなければ献金は苦しい義務となってしまいます。既にそれは献金とは言えないのです。
 第二に、信じて献げることです。神の約束は献げる者への豊かな祝福であり、豊かに献げる者は豊かに受けることなのです。主は献げることにおいて、ためしてみよと言われました。
 第三に、強いられてでなく、自ら決めたとおりにすることです。強制されたものや、人真似でされたものも献金とは言えません。献金は私達の心や信仰をためし、あらわにし、愛のあかしともなる神の定めた恵みです。
聖書のことば
この恵みのわざにも富むようになってください。
コリント人への第2の手紙 8:7

権威あることば ルカの福音書4章31〜44節
2002年2月24日第4聖日
 最初の奇跡をガリラヤのカナで行われたイエスは、次々とご自分がメシヤであることのしるしとしての奇跡を行われます。あらゆる病をいやされ、その衣にふれるだけでもいやされる程の力をあらわされました。ルカはカペナウムでなされた二つの奇跡を記録しています。一つは会堂に出入りしていた悪霊にとりつかれた男をいやし、もう一つはペテロのしゅうとめの熱病をいやされた記録です。この二つの奇跡を記すには明らかな意図がみうけられます。先に人々がイエスの話が権威ある者のように語られたのに驚かされましたが、さらに今度はそのことばの力に驚かされるのです。
 汚れた霊につけられた男には「黙れ、その人から出て行け」と命じると悪霊は男を地に投げ倒して出て行きます。
 ペテロのしゅうとめの熱病には「熱をしかりつける」と熱がひきます。又悪霊どもをしかってものを言うのをお許しにならなかったのです。人々は権威と力で命じると、そのことばだけでいやされていく病人の姿を見てますますイエスの力に驚き、そのうわさは次第にひろがり多くの人々の口にのぼるようになってゆきました。
 キリストのことばには力があるということを証明なさいました。私達は今聖書という形で神のことばを持っていますが、これこそ力ある神のいのちのことばなのです。これによって救われ、これによって養われ、力が与えられます。
聖書のことば
人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。
ルカの福音書 4:32

異邦人への光 ルカの福音書4章22〜30節
2002年2月17日第3聖日
 ガリラヤのナザレで、伝道をはじめられた主の教えに、群衆は驚きつつも、「この人はヨセフの子ではないか」と言うのです。教えはすばらしい、力もある。しかし彼は大工の息子ではないかと言うのです。長年知っているイエスが、どうしてもキリストと結びつかない、そこに神の子メシヤだという信仰に至らない理由があります。
 ペテロを迎えた異邦人コルネリオの態度とは正反対の姿がそこにあります。彼等はキリストの中に人を見たのです。私達が十字架につけられてしまったイエスに救主、王の王たる方を見ることができなかった時と同じように、板を削っていたイエスの中に救主を見ることができなかったのです。
 しかし主のみわざは、ナザレを越え、ガリラヤを越え、ユダヤを越えて、あらゆる壁をつき破って、全世界への福音となりました。選民意識の強かったユダヤ人には耐えられないことであったでしょうが、イエス・キリストは万民の救主であられました。ですから人種や国の違いを超えて、いかなる人であっても、イエスを主と告白する者は、救いにあずかることができるのです。まさしくすべての人を照らすまことの光が世に来たのです。
 偏見にこりかたまって、イエスを崖からつきおとそうとした人々の真中を通り抜けて、堂々と去ってゆかれたイエスの威厳は、もはや大工の息子の姿ではありません。
聖書のことば
また、こう言われた。「まことに、あなた方に告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。
ルカの福音書4:24

実現した聖書のおことば ルカの福音書4章14〜21節
2002年2月10日第2聖日
 メシヤとしての動きを故郷ナザレから始められた主は、イザヤ書を会堂(シナゴグ)で読んで「聖書のことばが実現した」と語られました。安息日には会堂に集まり聖書の朗読と解きあかしに耳を傾け、礼拝を欠かすことのなかった一人の聖徒の姿を主の内にも見ることができます。
 イザヤの預言は、第一にメシヤは、油注がれる(キリスト)という事でした。即ち上よりの権威をさずけられるという事であり、預言者、祭司、王としての職務を与えられ遣わされた事を意味します。
 第二にメシヤとしての使命が預言されています。その一つは、赦免です。とらわれ人に赦しが宣告されます。メシヤの使信は赦しの福音であり、罪と死に束縛されている人々に赦しのニュースを伝えることです。さらに開眼の知らせです。事実盲人がいやされました。しかし霊的盲目である全ての人に、信仰の目、霊の目を開いて下さいます。そして解放、罪にとらわれている全ての人に、その縄目が絶ち切られた事を宣告します。まさしくイエスの働きは、福音そのものであるわけです。そしてこの時から主の恵みの年が始まりました。長い間待たれていた人類への救いのニュースがこの年から始まりました。
 主はそのメシヤこそ自分であることを故郷ナザレから伝え始めます。彼等はそれを受け入れ、信じたでしょうか。大工の息子がメシヤだと・・・・。
聖書のことば
イエスは、人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」
ルカの福音書4:21

誘惑に勝つ ルカの福音書4章1〜13節
2002年2月3日第1聖日
 30才でメシヤとしての働きに立たれたキリストの最初の体験は、サタンからの誘惑でした。荒野で、空腹に弱められた体、荒廃した環境の中でただ一人誘惑に会うのです。大いなる救いのみわざのために立ちあがった時、真先にやってきたのはサタンであったという事は覚えておかねばなりません。しかも波状攻撃と言ってよい、次々とやってくるたくみな誘惑です。
 第一の誘惑は、石をパンに変えてみよというものでした。力あるメシヤの力をためし、空腹をみたすためにパンをつくり出し、物で人を満足させようとする魂胆です。しかし人はパンだけではなく神によって生かされていると主はお答えになります。
 第二は、サタンにひざまづけば世の栄誉、栄華を与えるというものです。妥協から生れるものが真の誉れではなく、礼拝は神にのみささげられるべきだと答えられます。
 第三は、神の子である立場を利用して一大パフォーマンスを演じ、世をあっと言わせよというのです。神は試みるのではなく信じるものだと答えられます。全て申命記のことばによって勝たれた事、はっきりとした態度でサタンのつけ入るすきを与えなかったこと、苦難の先にこそ栄光があることを確信されていた事など、私達の日々の誘惑へのすばらしい模範です。
聖書のことば
イエスは答えて言われた。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。」と書いてある。
ルカの福音書4:8

神の喜びとなる生き方 コリント人への第2の手紙5章9節
2002年1月27日第4聖日
 神の喜びとなる生き方こそ人の本分なのです。自分の喜び、家族の喜び、社会の喜び、みな大切な事ですが、その全てを含めて最も大いなることは神が喜んで下さる生き方こそ最高の生き方なのです。何故なら神の祝福のないところには、たとえバベルの塔が築かれても滅び以外に道はないからです。神がお喜び下さる生き方とはいかなる生き方なのでしょうか。
 第一に、まっすぐな道を歩む者です箴言11:20まっすぐな道はイエス・キリストを信じる道以外にありません。「わたしは道である」といわれた主にお従いする者こそ神はお喜び下さり、自分にとっても安全な道です。
 第二に 仕える者です。ローマ14:18キリストご自身も仕えられるためでなく、仕えるために来られました。神は仕えるしもべをこよなく愛し、己を高くする者を嫌われます。しもべだけが主の恵みを知り、上よりの力をいただき、成長することができます。
 第三に、信頼する者です。へブル11:6己の力に頼る者でなく主を頼る者に、神はご自身の力をあらわし、栄光をあらわして下さいます。人は大層な事をしてみせますが果は残りません。あなたの生涯を神がお喜び下さる生涯に転換させて下さい。
聖書のことば
そういうわけで肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと私たちの念願とするとこ
ろは、主に喜ばれることです。
コリント人への第2の手紙5:9

二つの疑問 ルカの福音書3章21〜38節
2002年1月20日第3聖日
 メシヤとしての公の生涯に入られる時の記録に、二つの「何故か?」と問うことは意味のあることです。
 まずその一つは、悔い改めのためのバプテスマを何故罪のない神の御子が受ける必要があったのかという事です。ヨハネもキリストのバプテスマをさえぎっています(マタイ3:14)。その答えとして「すべて正しいことを実行するのは、ふさわしいこと」だといわれました。すべての点で人と同じようにならなければならなかったメシヤが神の要求されているすべての事を実行し、かつ罪人の身代わりとして一身に人の罪を負われようとしているキリストとして、この悔い改めのバプテスマを受けることは正しい事だったのです。その結果父は「わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と神の御子としての承認とその使命の決定をなさいました。更に使命遂行の為の御聖霊をも注がれたのです。
 第二は、どうして三十才になるまでナザレでヨセフの子として過ごされたのかという事です。12才でも20才でもよかったのでしょう。しかし30年間ヨセフの子として、家業にいそしみ母マリヤを助け、人としての大切な責任を忠実に果され、この小さな事に忠実であった事により、大いなる事に忠実であることのあかしとされて私達に「私のした通りにしなさい」と教えられるのです。
聖書のことば
教えを始められた時、イエスはおよそ30歳で、人々からヨセフの子と思われていた。
ルカの福音書3:23

ヘロデの大罪 ルカの福音書 3章19〜20節
2002年1月13日 第2聖日
 ヘロデは新約聖書に5人登場しますが、その内の第二番目のヘロデでバプテスマのヨハネから、その妻へロデヤとの結婚に対しあからさまに罪を指摘され、その恨みのために捕らえて投獄していました。というのは異母兄弟であったヘロデ・ピリポの妻であったヘロデヤを自分のものにしてしまったからです。これには妻ヘロデヤのそそのかしが大きかったように思われます。それを証拠に娘の踊りの報酬にヨハネの首を所望するように勧めたのは、他でもないヘロデヤだったからです。バプテスマのヨハネは、サロメの踊りの報酬として、又宴会の余興として、殉教の死をとげたことになります。ヘロデの犯した罪を知って私達の内にひそむ罪の性質を教えられる必要があります。
 第一に、自分の欲望を力で満たすものでした。ここには道義がありません。異母兄弟の妻を強引に自分のものにしてしまう権力にまかせて自分の欲望を満たす者の姿があります。
 第二に、軽々しく約束をして困難を招く軽率な者でした。サロメの踊りに何でもかなえてやろうと約束する彼には、権力者としての奢りと軽率さがみられます。
 第三に、正しい事を知りつつもそれを実行できない弱いものでした。ヨハネの正しさを認めつつも最後には殺してしまう弱さがあります。
聖書のことば
すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた。
ルカの福音書3:20

私達はどうすればいいのでしょう ルカの福音書3章7〜18節
2002年1月6日第1聖日
 ヨハネのメッセージに集った人達は、「私たちはどうすればよいのでしょう」と問いかえします。神の使信を伝える結果として、このような応答がされる事こそ理想的です。 まず群衆に対しては、あわれみの心を持つことを求めます。貧しいラザロに対してあわれみの心を閉ざした富める男は、ゲへナの火に焼かれて苦しみました。自分の事だけに関心を持つ者は、自分の楽しみや自分の都合だけを考える者は悔い改めねばなりません。取税人に対しては、不正を行うことを戒めます。貪欲やそこから生れる不正は、神の義とかけ離れたものです。キリストに触れたマタイやザアカイは 不正をただされただけでなく、受ける生活、いや奪う生活から、与える生活へと変えられたのです。最後に兵士たちにはその権力によって人々をおどしたり略奪したりしないように勧められます。
 神を知らず神から離れた生き方は以上のような果実を結ぶと言ってよいでしょう。その先にいかなる結果が待っているかを知る事こそ知恵ある者の姿に他なりません。ヨハネはあくまで福音の先ぶれでした。あわれみの心や自己本位や権力欲にとらわれている者がそこから抜け出せないで苦しむ者に解放をもたらす救いこそ、キリストのもたらした真の救いなのです。
聖書のことば
群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」
ルカの福音書3:10