幼子と礼拝 マルコの福音書10章13〜16節 ルカの福音書18章15〜17節
2002年9月29日第5聖日牧師山宮利忠
 キリストのみもとに子供達をつれてきた親達の気持は尊いものでした。しかし弟子たちは、うるさくて、少しもじっとしていない子供達とつれてきた親達とを、しかったのです。しかし主は弟子達のしたことを憤って「子どもたちをわたしのところへ来させよ」と命じられました。当時のユダヤの世界では、子供は大人の世界に入れない、砂利のような存在でした。ですから主のもとへ来た子供達を遠ざけたのは当然だったかもしれません。
 今私達は、何とか幼子や子供達と一緒の礼拝を主におささげしようとしています。たしかに子供は大声で泣くし、少しもじっとしていない存在で、大人から見たら邪魔な存在なのでしょう。静かに礼拝したい、説教を心地よく聞きたい、集中したいと願う気持は誰でもが持つ気持です。ですから子供達をしかりましょうか、遠ざけましょうか、又親達も騒がしくする子供が他の人に迷惑になるから子供を別室へ移して遊ばせましょうか、もしそうしたら、主は憤られないでしょうか。周囲の者全てが「わたしのもとへ来させよ」との主の命を聞いて、理解と協力をすべきではありませんか。
 又親も自分の子供を礼拝に静かに出席させる工夫と努力が必要です。何も判らない子供に無理に礼拝させる必要はない等と思わないで下さい。判らない内から主を礼拝することを教えるべきなのです。
聖書のことば
イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
マルコの福音書 10:14

正気に返って ルカの福音書8章26〜39節
2002年9月22日第4聖日牧師山宮利忠
 ガリラヤ湖の東岸にゲルゲサといわれる所があり、ガダラ人又はゲラサ人が住んでいました。主はそこに行かれると悪霊につかれた男に出会います。この男は、サタンに支配される罪人の典型と言ってよいでしょう。 まず墓場をすみかとしていました。この地方の墓は横穴式で、住むには都合がよかったのでしょう。しかし人の最終的住家である墓場をすみかとするのは象徴的です。墓場は汚れと死に満ちた所でした。
 彼は狂暴で裸でした。さらには自らを傷つけていたのです。鎖でしばられてもそれをひきちぎってしまい誰も彼を押えることができず、夜昼叫びつづけて自分の体を傷つけているのです。(マルコ5:3〜5) 主はこの男にむかって「汚れた霊よ、この人から出て行け」と命じます。この権威あるおことばによって、悪霊は豚の群の中へ入って湖へかけ下りおぼれ死んでしまいます。自然界を支配するだけでなく霊の世界においてもキリストの力をまざまざとみせつけた主の力に、異邦人達はおそれを覚えておののきます。
 悪霊を追い出していただいた男は、正気に返り、着物を着て、お供をしたいと申し出ますが、主は家に帰ってあかしをするよう命じます。救われた者がまっさきにすることは、家に帰って家人にあかしをすることでしょう。
聖書のことば
イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返ってすわっていた。 
ルカの福音書 8:35 

嵐をしずめるキリスト ルカの福音書8章22〜25節
2002年9月15日第3聖日牧師山宮利忠
 ガリラヤ湖に突然の嵐がおこる事は、よくあるといわれています。山上湖の特徴なのでしょう。ガリラや湖を仕事場としていたプロの漁師達が死ぬ程と思う程の激しい暴風の中で、主は疲れて眠っておられました。弟子達の信仰をためされる事もあったのでしょうが、それ以上に、風も水も治められるお方としてのキリストの権威が示されています。
 私達の人生には、様々な突発的な事件が起ります。その時はまさしくこの弟子達が遭遇した有様に似ているのではないでしょうか。あわてふためき恐れおののき、こんなに困っているのに何とも思われないのかと周囲に訴えるのです。しかしキリストは、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」と言われます。いったい、どこに信仰を置いているのか。日頃養われた神への信頼は、こういう時にこそ発揮されるべきではないのか。そう語られた主は、嵐を静められます。キリストを信じる者全てが、この主のおことばの権威の前にひざをかがめ、平安を得ることができれば幸いです。
 主は舟のとものほうで眠っておられましたが、「わたしが共にいるではないか」というお声が聞えてきそうです。神は、まどろむこともない方です。恐れや心配のある時には、神は遠くにおられるように思われるものですが、その時にこそ近くにおられるのです。
聖書のことば
風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。 
ルカの福音書8章25節 

持つ者は与えられる ルカの福音書8章16〜21節
2002年9月8日第2聖日牧師山宮利忠
 正しい神のことばの聞き方は、聞いたことを実行することであって、ただ聞くだけの者になってはならず、実行しよう、神のみこころを行おうとする心を持つ者は、いよいよ豊かに与えられ、そのような心を持たない者は、持っているものまでも奪われてしまうと主は教えられます。 
 実に神のしもべ、キリストを救い主と信じた者は、その内なるいのちの豊かさに応じて、世の光、地の塩となるわけであって、それはその存在そのものによってあかしされるので隠すことはできません。丁度ランプの灯が高くかかげられて部屋を照らすように、秘密があばかれるように、キリストを信じた者は、ことさらにそのようにふるまうことがなくても、内なる光は外にあらわされるものです。 
 長年信仰生活をしている方々は、キリストに似た者となっている筈です。そのような人は、主の教えの聞き方に於いて著しい特徴がある筈です。即ち神の言葉聖書を、熱心に読み、メッセージを熱心に聞き、それを実行しようとする心を持つ方々です。 そのような人を主は真の家族だと言われましたし、神のことばを実行したアブラハムは、神の友とよばれたのです。もし聞いて実行しようとしなければ、持っているものまでも失い、愚かな者が砂の上に家を建てたように、外見上は立派でも、事ある時にもろくも崩れてしまう失敗者になるでしょう。
聖書のことば
だから聞き方に注意しなさい。というのは持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。 
ルカの福音書8:18 

病床雑感 
2002年9月1日第1聖日牧師山宮利忠
 10年前の胆石摘出手術と同じ病院に伏せながら様々な事を感じさせられながらの数日間でした。まずこれで三回も聖日を守れなかったわけですから、40年間の牧会生活でたった一度だけの聖日欠席などと誇るわけにはいかなくなった自分を顧みて、人間の誇りを一つ一つ砕かれ、ただ主のみを誇ることを教えられる厳しさを実感しつつ、弱さを知ることの大切さを改めて痛感させられました。
 狭い病室の中での人間模様もさまざまです。年輩者の多い病室の中で家族や知人との会話で知られる生活の背景や人柄、医師や看護士との対応からみられる性格等、いやおうなしに感じさせられる中で、人は存在そのもので、その人自身の人生観や価値観、死生観をあらわすものだということを痛感させられました。「私はクリスチャンです。」と口で言い表わすことがなくてもキリスト教徒としての証明は、その人の存在そのものによって明らかにされる。そして世の人々は、その無言の証明をいやおうなしに感じさせられつつキリストそのものを評価しようとするのだということではないでしょうか。
 主は「あなたがたは、世の光です。地の塩です。」と弟子達におっしゃいました。主のおことばに従う日々の生活、真剣な礼拝によってつちかわれる神の子としての内面、それこそが、自然に身につくあかしとして、世の多くの人達にキリストの証人としての大きな力となるのではないかと思いました。
聖書のことば
だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。 
ルカの福音書 7章35節

クリスチャンの将来の希望 ローマ人への手紙8章18〜25節
2002年8月25日第4聖日伝道師安藤修司
 クリスチャンは、信仰ゆえの多くの試練や困難も経験しなければなりません。しかしその試練に優る祝福や喜びがあることをこの箇所はあかししています。
 第1に、今の苦しみを取るに足らなくする将来の栄光があるからです(18)。信仰年数を増すにつれ、試練や妨害によって、当初の無垢な喜びに浸ってはいられなくなります。しかし、救いによって約束されている救いの完成がどんなにすばらしいかを知ることによって、試練の中でも希望をもって前進できます。
 第2に、被造物も共に私たちの救いの完成を待ち望んでいるからです(19-23)。人類が罪を犯したために、神が創造された「すべて良かった」世界は滅びの束縛のもとに入れられてしまいました。そのため私たちは自然を通して恵みを頂くだけでなく、自然から苦しみをも受けなければならなくなりました。被造物はそれでも私たち聖徒と共に、罪ののろいから解放されるのを待ち望んで産みの苦しみをしています。忍耐して待ち望んでいるのは私たちだけではありません。
 第3に、私たちは「この望み」によって救われているからです(24-25)。望みとはまだ得ていないものが与えられるのを待っている状態です。神は、救いの完成の希望によって、信じる私たちを救って下さっています。なぜなら、救いは信じた時にはまだ完成してはいませんが、救いの全てが信じた人のものとして与えられており、神に守られて必ず完成に至るからです。だから、この世で楽しみな事を待つ以上に、聖徒は生涯の終わりの後の栄光を希望を持って待ちます。
聖書のことば
今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
ローマ人への手紙8章18節

聞き方に注意しなさい ルカの福音書8章16〜18節
2002年8月18日第3聖日牧師山宮利忠
 種蒔きのたとえと共通したたとえとして三つの教えがされています。あかりは、周囲を照らすためにたかだかとかかげられる必要があり、それこそがあかりの使命であること、又隠されているものであらわにされないものはなく、秘密は必ずあばかれること、そして最後に、持っている者は、さらに与えられて、持たない者は、持っていると思うものまでも取りあげられてしまうというものです。
 前の二つの教えには、隠されている事が本来の姿ではなく、あらわにされてこそその者の真の在り方であることが教えられています。神のことばを信じた者は、自分が誰に仕え、何に従い、どこにむかって歩んでいるかをその生き方によって明らかにするものであり、隠しおおせるものではありません。本当に信じた者は、たとえことばで否定しようがその在り方でキリストを証明します。ですから神のことばの聞き方が大切です。実を結ぶ祝福にあずかるためには、聞くだけでなく聞き方が重要なのです。
 その聞き方はよい地におちた種と同じです。正しい良い心でみことばを聞くことです。聞いてもその聞き方がまずければ実を結ばないだけでなく、自分の持っていると思っているもの又は持っているように見えるものまでも奪われてしまいます。率直で、従う心をもって神のことばを聞く者は、豊かな祝福をいただくことができます。
聖書のことば
だから聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。
ルカの福音書8章18節

実を結ぶ蒔かれた種 ルカの福音書8章4〜15節
2002年8月11日第2聖日牧師山宮利忠
 有名な種蒔きのたとえは、沢山の教えを含んだたとえですが、群集と弟子達全員に語られた事を考えれば、やはり主の教えの聞き方を教えられたものととらえるのが適切でしょう。即ち正しい、良い心でみことばを聞き、それをしっかり守って、よく忍耐する者が、みことばの力にあずかることができるということです。
 では、正しくないみことばの聞き方とはどんなものかといいますと、第一は、かたくなな心です。この世の考え方におしかためられた、俗的な心は、神のことばを受け入れる素地がありません。第二は、一時的で、熱狂的な心です。感激してすぐにみことばを受け入れたようにみえますが、テストに会うともろくも崩れて、さめてしまいます。根を張ることがないのです。第三は、しばらくは続くのですが、それよりももっと強くこの世への心づかいが大きくて、結局実を結ぶには至りません。 正しくて良い心とは、紳士的で優しい心をあらわします。聖書の教えのすばらしさをしっかりと心にとめ、うるわしい心でたえしのぶ人は、やがてみことばの力にあずかり、その結果を見ることができます。 
 弟子達にとっては、福音の種蒔きの労苦への励ましと希望を教える意味もあったのでしょう。何故ならば実を結ぶのは畑(心)の問題だからです。
聖書のことば
しかし、よい地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい良い心でみことばを聞くと、それをしっかり守り、よく耐えて実を結ばせるのです。
ルカの福音書8:15

イエスに仕えた女性達 ルカの福音書8章1〜3節
2002年8月4日第1聖日牧師山宮利忠
 主の活動は、会堂から外に出て旅をしながらの働きになります。12弟子も共に従い、その一団を支える働きは女性達が自らの財を費やして仕えましたマグダラのマリヤは、暗い悪の力に縛られた過去を持つ女性であり、又逆に王に仕える執事の妻であったヨハンナ等、自分も生活も違う女性達が、心をひとつにし、犠牲をもって主の一団に仕えたのです。当時の差別社会で、これは驚くべきことでした。もはやユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人もない、全く平等の係りの中で、彼女達は喜びをもつて主と弟子達に仕えることができたその理由は何だったのでしょうか。
 それは彼女達が、各々明確にイエス・キリストの力を体験し、赦しといやしをいただいていたからです。罪の力に完全に支配されていた圧制の中から、解放された喜びは、おしげなく仕える力の源となっています。まさしく多く赦された者は、多く愛することができたのです。彼女達は、キリストご自身に仕えていました。ですから人にも仕えることができたのです。継続して、いつまでも仕える働きをつづけることが出来ました。
 ルカはマグダラのマリヤやヨハンナが復活の証人となっていることを記録しています(ルカ24:1−10)わたし達が働くその動機はどこにあるのかを深く考えさせられます。仕える動機がどこにあるかをさぐられます。
聖書のことば
また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女といわれるマリヤ〜そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大勢の女たち〜。
ルカの福音書 8章2〜3節

罪を赦すお方 ルカの福音書7章36〜50節
2002年7月28日第4聖日牧師山宮利忠
 ユダヤ人の豊かな家は、四角の周辺に部屋があり、夏中は吹き抜けで植木や噴水などがあるものでした。パリサイ人シモンはそんなすばらしい家にイエスを食事に招きますが決して礼を尽くした招き方ではなく、訴える口実をみつけるためであることがその招き方でよく判ります。 一方招かれざる客としてこの宴席に入りこんだ罪ある女は、水のかわりに涙で足をぬらし、布のかわりに髪でぬぐい、御足に香油を塗ります。その様子を冷やかに見つめるシモンの心を見抜いた主は豊かではあるが心の冷たいシモンを名前すら呼ばれず、罪ある女で通っている罪深い女の愛の行為と比較なさるのです。
 ここで主は「多く赦された者が、多く愛す」ことを示されました。 表面的には、多く愛したから多く赦されたように読みとれますが 決してそうではありません。「あなたの信仰があなたを救った」とのおことば通りこの罪ある女は、キリストの内に自らの罪深い生涯や生活を清め、赦していただける力を知り、信じて主のもとへ、勇気と感謝をもって来たのです。
 主のおことばは「多く愛したから、多く赦されていた」と解すべきでしょう。 「赦し」という事がどんなに人の心に平安と喜びを与えるか、はかりしることができません。何故この女が堕落の道を辿ることになったか不明です。しかし今キリストにお会いし、無条件で赦される愛を知った時、彼女の生涯は変るのです。主はこの女の涙を決してとどめようとはなさいません。
聖書のことば
すると いっしょに食事にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
ルカの福音書 7:49

御国の子らの証明 ルカの福音書7章22〜35節
2002年7月21日第3聖日牧師山宮利忠
 イエスはバプテスマのヨハネを預言者の中でも最大の預言者と評しますが、御国の子らはそれよりも偉大だといわれます。それは何よりもメシヤの合否を知っているという点で偉大なのです。キリストを救い主と信じた者は、バプテスマのヨハネによる神の使信を信じたみこころに従おうとする者達の事と考えてよいでしょうが、ここでは神の正しいことを認めた人(29)、知恵の正しい人ということになります。
 わたしたちは神の被造物として、神のみこころに従うところにこそ本来の生き方があるわけですが、人の最高のたまものとしての自由意志は、みこころに従うことと、みこころを拒む人とに悲しい事ながら分けてしまいます。神はバプテスマのヨハネをつかわし、イエス・キリストをつかわして、滅亡の死から救おうと、丁度子供達が笛を吹いても踊らず、とむらいの歌を歌っても泣かないと歌うように、神への招きを語っても彼らはそれに耳を傾けようともしないばかりか、ヨハネが昔の預言者と同じような姿と働きをしていると、悪霊につかれていると言い、イエスが罪人と共に飲んだり食べたりしていると食いしんぼうの大酒飲みと批判します。
 神に従うこころを持たない者はいずれにしても不満と不平の中にあるものであり自分のこころに神のみこころをあわせようとする者です。しかしみこころに従おうとする者はその生き方を行動により神ご自身を証明します。
聖書のことば
だが知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。
ルカの福音書 7章35節

わたしに躓かない者は幸いです ルカの福音書7章18〜23節
2002年7月14日第2聖日牧師山宮利忠
 入獄中のバプテスマのヨハネから二人の使者がつかわされて、来るべき方はあなたなのか、それともほかの方を待つべきかを問わせます。ヨハネの使命は、メシヤ到来の先がけとして道を備えることにありました。たしかにヨルダン川での出会いとバプテスマは、ヨハネに『世の罪を取り除く神の子羊』と叫ばしめたのです。
 では何故今更と思わせられます。その問いかけへの答としてイエスは、盲人、足なえ、病人、耳の不自由な者、そして死人さえ生き返り、貧しい者によろこびのおとずれが伝えられている、その事をヨハネに伝えるように命じます。かつてのエリヤやエリシャのような大預言者とは異なる、まさしくイザヤの預言したメシヤの特質を備えた働きでありました。パリサイ人達の期待したダビデの再来とは異なった力を持つメシヤの到来です。弱い者、しいたげられた者、苦しみ、悲しむ者達に希望を与える真のメシヤの到来は、多くの者に躓きを与える要素をもつものでもあります。
 まさしく『十字架のことばは、滅びゆく者には愚であり』、神は宣教の愚かさの故に己を高くする者の目を閉ざされます。神が遣わされたメシヤなるイエスは、弱々しくも十字架にかけられて殺されてしまいます。一見敗北にみえたメシヤの最後が実は人類救済の道であったことを悟る者は、ヨハネと同様主のことばを真のメシヤと受けとる者です。
聖書のことば
だれでも わたしにつまずかない者は幸いです。
ルカの福音書 7:23

あわれみ深い主 ルカの福音書7章11〜17節
2002年7月7日第1聖日牧師山宮利忠
 ナインは ナザレの南にあり、旧約ではエリヤやエリシャが子供を死から蘇えらせたことのある場所でもありました。主の一団と葬列とが町の入口でぶつかります。悲しみの葬列は、キリストのあわれみあるみわざによって喜びにかわるのです。なんと美しい、又劇的な状景でしょう。主はどうしてこの葬列に深いあわれみを催させれたのでしょうか。
 第一に、なくなった子供は、ひとり息子だったからでしょう。かけがえのない独り子を失った母親の悲しみはいかばかりか、その悲しみが大きければ大きい程愛は大きかったのです。やがて十字架におかかりになる神の独り子の犠牲の大きさを思わされます。
 さらに、この母親はやもめでした。夫を失った悲しみ、そして今女手一つで、育ててきた独り息子の死、それはやもめにとってこの上ない悲しみでした。主は、人を襲う死の現実に憤られ、あわれまれ、涙されるのです。そしてこの大いなる敵とたたかわれます。 あわれみこそが奇跡の動機となっている事がわかります。多くの病人をあわれまれ、空腹の群衆をあわれんでパンを与え、盲人をあわれんでいやされます。主はご自分の力を誇示するために大いなる力を用いませんでした。あくまでも周囲にいる元通りになってほしい、本来の姿にたちかえってほしい者達への深いあわれみによって、生と死を支配する力を用いられました。
聖書のことば
主はその母親を見て、かわいそうに思い「泣かなくてもよい」と言われた。
ルカの福音書 7章13節