| 主の良くして下さったことを 詩篇103篇2節 |
| 2002年12月29日第5聖日牧師山宮利忠 |
| パウロは「後のものを忘れ、前のものにむかってからだをのばし、」と語り、過去のことにとらわれて現在を見失わず、現在にかかわりすぎて将来を台なしにしないで、目標めざして走り続ける姿勢を教え>ています。(ピリピ3−13)忘れるべきことと、忘れてはならない事とを選択する時として、この年の暮れのひとときをすごすことは有意義なことです。 ダビデの生涯は、神のみこころにかなった祝されたものでしたが、その秘訣の一つは、神のめぐみを忘れなかった事でしょう。「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな」と自分の魂に語りかけています。神は、一生をよいもので満たしてくださり、(5)私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをなさらず、(10)私たちがちりにすぎないことを心に留めて扱ってくださる。東が西から遠く離れているように、私たちの背きの罪を私たちから遠く離されるお方だと、主の御名をほめたたえています。主のよくして下さった事はどんな事であったか、この一年をふりかえって教えてあげ、それを忘却の箱の中からとり出して改めて主をほめたたえることは、年の最後の聖日の礼拝にふさわしいことです。 そして私達の周囲や家族にも、この一年よくしてくれた事を教えて感謝の心を新たにし、それをあらわして、「すべての事を感謝する」あかしをたてましょう。 |
| 聖書のことば わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つわすれるな。 詩篇103:2 |
| 暗闇の世に光を ヨハネ福音書1章9節 |
| 2002年12月22日第4聖日牧師山宮利忠 |
| 現代は余りにも明るすぎると言ったら笑われるでしょうか。町は明るさで満ち溢れているのに人の生活や心は、決して明るくないからです。聖書は、この世は闇だと教えます。即ち神なき世は暗闇なのです。神は創造の初めに光をつくられ、その最後に神の像(かたち)を宿す人類を創造し神の栄光の内に置かれました。しかし人は悪の誘いに負け反逆の道を歩みはじめ、以後この世は真の神を知らぬ程に混乱と迷信の世となり下がったのです。 しかし神は最高の被造物として創造された人類を決してお見捨てにはなりませんでした。堕落したその時から救いのご計画をお立てになり、それを実行なさいました。それも人の考えも及ばない方法でです。即ちご自身が人となられて世に降り、人の罪の身代わりとなって罰を受け罪を犯した人類の回復をはかられたのです。暗闇の世に神の光がとどき、人はこの光のゆえにあやまりなく永遠のみ国へと導かれます。 ただイエス・キリストは、人の目から見て決して光とは言えないようなお姿で世にこられました。泊る宿もなく馬小屋の飼い葉桶をベットとして貧しい羊飼いのお祝いを受けるだけでした。しかしこの方こそ我々の希望の光でありました。この方によって神との回復をいただけるだけでなく、永遠の生命をいただくことができ、生きる望みを持つことができるからです |
| 聖書のことば すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 ヨハネ福音書 1:9 |
| 彼の言うことを聞きなさい ルカの福音書9章28〜36節 |
| 2002年12月15日第3聖日牧師山宮利忠 |
| 三人の弟子をつれて山に登り祈っておられるとイエスのお姿がかわり、栄光に輝きはじめます。そしてそこに旧約の代表者とも言えるモーセとエリヤがあらわれ、主と最後(エクソダス)の事について語りあわれます。三人の弟子は、ここでも眠くて仕方なく、多分主が祈っておられる最中あのゲッセマネの園で眠りこけていたように、うつらうつらとしていたのでしょう。メシヤの栄光と苦難の時に弟子達が眠りまなこで、その真意を語りかねていた姿は、今の私達によく似ているのではないでしょうか。 主は、弟子の告白を境にご自分の苦難を語りはじめます。しかしそのことも天の父のおゆるしなくして何一つなそうとしないしもべとしての在り方をあかしされます。人の子が来たのは父のみこころを行うためだと語られた通りです。(ヨハネ4:34) 語らいの内容はメシヤとしての最後に関する事でした。この最後は死を意味しますが、同時に「脱出」なのです。死の闇、永遠の滅びから、そしてエジプトに於ける奴隷の苦しみから解放されて出エジプトしたごとく、メシヤはその使命として罪に苦しみ、死の恐れに束縛された私達を解放するためにご自分のいのちを代価として、栄光の道へと導き出す使命を果そうと歩み出されます。しかしそれは安易な道ではなく、苦難と辱めの道であり、過越しの羊のごとくご自身を十字架におつけになる道であります。 |
| 聖書のことば すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」という声を聞いた。 ルカの福音書9章35節 |
| 十字架の道 ルカの福音書9章23〜27節 |
| 2002年12月8日第2聖日牧師山宮利忠 |
| イエスをメシヤと告白した使徒達に対し、主はキリストに従う者の条件を示されました。みなの者に言われたので使徒だけでなく、キリストに従う全ての者に対して言われたととるべきでしょう。そこには三つの条件があります。第一は、自分を捨てること、即ち自分に対してお前を知らないということ、第二は、日々自分の十字架を負うこと、十字架は単なる重荷ではなく、死そのものですから、死を背負ってという事になります。そして最後は、メシヤなるキリストについて行くことです。己を否定し、己は死んだ者として、主なるキリストに従う生活、これこそキリストを信じたクリスチャンの生き方だと厳しく命じました。まさしくキリストの歩んだ足跡に従う生き方が、その弟子たるクリスチャンの在り方なのです。これは大変な生き方ではありませんか。しかしよく考えてみれば、自分が心の底からある者になりたいと決意したら、この位の覚悟は当然なのでしょう。一時の気まぐれや好奇心でついて行く者にとっては、数日でいやになる道です。しかしこの厳しく過酷な生き方は最後に逆転すると主は語られました。即ち今安逸をむさぼる者は、後にさらに厳しい苦しみが待っている、自分を大切にしてそれを守ろうとする者は、やがて自分を失うことになる。しかし今自分を捨てて厳しい過酷の道を歩む者は、つらく苦しいかもしれないが、やがて大いなる安息と慰めにあずかる者となると約束されます。 |
| 聖書のことば イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 ルカの福音書9:23 |
| わたしを誰と言うか ルカの福音書9章18〜22節 |
| 2002年12月1日第1聖日牧師山宮利忠 |
| 伝道して帰ってきた弟子達は、その成果を報告し、主は彼等を淋しい所へ導き休みを与えようとしましたが群衆に妨げられます。パンで満腹した彼等は、イエスを主にしようとしますが、主はその真意を見抜いておられました。群集のイエスへの評価は、昔の預言者のひとりであろうというものでした。そこで主は、使途達に尋ねるのです。「では、あなたがたは、わたしを誰だというのか」と、これは実に重要な質問でした。 わたし達は、今日この問いかけを一人一人がうけているといってよいでしょう。「あなたは、わたしを誰というか」。この問いに答えねばなりません。あなたがたと言われたこのことばは、特に強調されたことばで、他の人ではない、あなたがたは、いやあなたは何というのですかと問うています。 ペテロは「神のキリストです」と、実に正しい答えをします。キリストとは、「油注がれた者」の意で、救主という意味として受けとってよいでしょう。マタイ福音書の同じ記録を見ると、主は大いに喜ばれ、このペテロの告白の上にわたしの教会を建てると言われます。しかしペテロは、このキリストが 人々に捨てられ、殺され、三日目によみがえるメシヤであることを知りません。ペテロの考えていた救主は、十字架にかけられてしまうメシヤではなく、パンの奇跡で王にしようとした群集と同じく、ダビデの再来、イスラエルに復興をもたらすメシヤなのです。告白と真意とは異なるものでした。 |
| 聖書のことば イエスは、彼等に言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」 ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」 ルカの福音書9章20節 |
| ふえたパン ルカの福音書9章10〜17節 |
| 2002年11月24日第4聖日牧師山宮利忠 |
| 4つの福音書の全てに記録されている奇跡はこれだけで、いかにこの奇跡が重要な意味をもつものであるかが判ります。各々4つの福音書の記録は、細部で異なっていますが、イエス・キリストが、飢えた群衆に糧をお与えになった事は、キリストがまことの牧者であり、人生の全ての必要を満たすお方であることを示す点で共通しています。まず、忙しくて休みのとれなかった弟子達を淋しいところへ導き休みを与えようとされた主のもとへ群集が押しかけますが主は彼等を歓迎して弟子に食事を与えることを命じます。弟子への訓練がここでされているように思われます。“糧を与えよ”とは、伝道者への大切な命令です。 弟子がみつけたのは、貧しいパンと魚でした。しかもそれは子供の持っていたもので、そんなもので一万人以上の人の飢えを満たすことができるわけはありません。しかし主は、この貧しいパンと魚を用いて多くの人の飢えを満たします。驚くべき奇跡でした。何しろ全員がたしかに自分の口に入れてお腹を満腹にしたのですから、これ以上確かなことはありません。 主は羊飼いのごとく、私達の全ての必要を満たすお方であることが示されています。ただし教えをなされた後であることに注意しましょう。大切な事は、イエスがメシヤであり、人の罪と死の解決者であることを信じる事が先決です。満腹しただけで主を王にしようとした人は、やがて十字架につけよと叫ぶものになったからです。 |
| 聖書のことば 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを取り集めると12かごあった ルカの福音書9章17節 |
| 御国への備え ヨハネの福音書6章47節 |
| 2002年11月17日第3聖日牧師山宮利忠 |
| そろそろ受験シーズンにむけて受験生達は気ぜわしくなってきました。結婚式の準備や就職活動等、私達の歩みには、沢山の準備の必要な事があります。しかし人は死に対する準備は苦手のようです。それは決して自分にとって好ましい事ではないからでしょうか。せいぜい墓地の準備、葬儀の費用の準備、遺言等の準備で、死そのものに対する準備はなかなかできません。 イエス・キリストがこの世に来られた目的は、信じる者に永遠の生命を与えるためでした。十字架上のイエスは、隣で十字架にかかっている盗人に、パラダイスへの約束をなさいました。又自ら墓から栄光のからだをもって復活され、人は死をもって全てなくなってしまう終りではないことを示され、たましいの故郷、天の御国への希望をお与えになりました。死を他人事として考えたり、身近でないもののように考えることはできません。いつやってくるか判らないが確実にやってくる死と死後への備えをすることは、人としてどうしてもしなければならない責務なのです。 平安と希望をもって死を迎えるためにどうしたらよいかを日頃から備えておくことは知恵ある行為であり、又それが生きている今を充実して歩むことのできる条件となる筈です。残される人達に希望を与えるためにも、御国への備えをしっかりとしておくことをお勧めします。 |
| 聖書のことば まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。 ヨハネの福音書6章47節 |
| 遣わされた者 ルカの福音書9章1〜6節 |
| 2002年11月10日第2聖日牧師山宮利忠 |
| 使徒とは、遣わされた者という意味です。主は、12名を選ばれ彼らに権威と力を授けて、キリストの代弁者、代行者として遣わし、神の国の福音を宣べ伝えさせます。 主は、遣わすにあたっていくつかの命令を与えます。第一に、旅のために何も持たないように、即ち、着のみ着のまま、何の余分な用意をせずに出て行くことを命じられます。それは伝道者達が、たとえいかなる状況にあっても、主に守られているのだということを悟るためであり、又、伝道者が、福音によって支えられることこそ、神のみ旨であることを教えるためです。第二に、迎えられる家にとどまること、ピリピのルデヤのように救いの喜びから必然的に生れる自発的な犠牲と仕える心に、伝道者が支えられることを示し、伝道者を迎え入れることは、主を迎え入れることであり、伝道者を拒むことは、主を拒むことであることを教えられました。 教会にたてられた牧師は、キリスト御自身によって呼び出され(召命)、訓練を受けて招聘され、主によって遣わされた器です。キリストの代弁者として聖書のおことばを伝え、教える務めをもった者を、心から主にあって尊び、その指導に従うことは、牧師を遣わした主に従うことになることを群れは知る必要があります。牧師を尊とぶ教会と信徒は、祝福されます。 |
| 聖書のことば イエスは、12人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し病気を直すために、力と権威をお授けになった。 ルカの福音書9:1 |
| 目をさましていなさい マタイの福音書24章42節 |
| 2002年11月3日第1聖日牧師山宮利忠 |
| この目は、心の目、霊の目です。このことばは、44節では「用心していなさい」と言い換えられています。病気になってつらい日を送ると、健康であることのありがたさが判り、食料難になると、一杯の白い御飯のありがたさが判るように、人は慣れてくると、どんなに恵まれた状態であっても、ありがたいという気持や、もっと大切に、重要に考えなければならないということが、どこかへいってしまいます。 主イエスは、弟子達に度々「目をさましていなさい」とおっしゃいました。十字架におかかりになる前夜、ゲッセマネの園でひとり祈る時も、弟子達に,「目をさましていなさい」と、お命じになりました(26−38)。しかし彼等は眠ってしまったのです。肉体的な疲れは、眠気をさそいます。しかし霊的なねむりは、信仰の停滞や後退を生みます。そればかりか、突然やってくる大いなる出来事に対応できません。 いつなん時どんな事がおきるか判らない時代に生きているものとして、常に用心しつつ、目をさましていなければなりません。眠る者は、機会を失います。又ただちに正しい行動がとれません。眠る者は無感覚となって主の恵を感得することができません。眠る者は神のしもべとして、この世にあってよいあかしをたてることができません。眠る者は、やがて目を覚ました時、後悔をしなければなりません。目をさましていましょう。 |
| 聖書のことば だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。 マタイの福音書 24章42節 |
| 子供を祝福された主 ルカの福音書18章15〜17節 |
| 2002年10月27日第4聖日牧師山宮利忠 |
| 子供はわがままで、無知で成長の必要がある者であったためにユダヤでは大人の世界には入ることがゆるされませんでした。ですからイエスのもとにつれて来られた幼子達は、当時の習慣を破っていたことになります.弟子達はしかりましたがイエスは幼子達を呼び寄せて、手を彼等の上にかざして祝福されたのです。そして次のように言われました。「子どもをわたしのところに来させなさい」と。 子どもを主のもとに来させよとの命令は、今私達に必要なお言葉です。幼子を主を礼拝する場にこさせるには多くの抵抗があり、妨害がありますが、主の命にお従いして祝福をいただかねばなりません。即ち礼拝の場に幼子を近づけることです。親はそのために努力と工夫が求められます。忍耐の限られている子供に礼拝の大切さを身をもって教えるだけでなく、礼拝の時間を静かにすごすための工夫と訓練が必要となります。難しいメッセージが幼子に判るわけはありません。しかしこの時間はとても大切な時間だという事は判ります。子供がぐずらないように、泣かないように、あきないようにするためにはどうしたらよいか知恵を祈り求める必要があります。又子供づれでない人達の理解が求められます。弟子達のようにしかってはならないのです。主の祝福を共々にいただくために幼子のような心で礼拝をすることが求められます。お互いに忍耐と知恵をもって主のもとへ行きましょう。 |
| 聖書のことば 子どもをわたしのところに来させなさい。 ルカの福音書18章16節 |
| 賛美の喜び |
| 2002年10月20日第3聖日牧師山宮利忠 |
| 今年も教会内の聖歌コンサート・「プレイズ・コンサート」が開かれます。プレイズとは、ほめたたえることで、勿論キリストのみ名をほめたたえることを意味します。プレイズ・コンサートの目的は、第一に、文字通り主のすばらしい御名をほめたたえ、私達の感謝と喜びを、歌をもってあらわすことにほかなりません。賛美のあるところに祝福がある事は教えられている通りです。ダビデは神をほめたたえる事に於て、誰よりも豊かにした人で、その生涯は祝福に満ちたものでありました。勿論ただ歌が好きであったから歌ったというのではありません。ほめたたえざるをえない神への感謝や願いがあったからなのです。そしてその賛美は今、詩篇という形で残されています。 第二に、賛美をもって主に仕えることです。 信仰のすばらしさを知った者は、誰でも主に仕えたい、神の御用のために役立ちたいと願います。たとえどんなにささやかな働きであっても、主に喜んでいただきたいという思いが与えられるものです。各々には声が与えられていて、その声をもってご奉仕したい、又は楽器をもってご奉仕したい、そのような幸いな願いを実現するきっかけをこのプレイズ・コンサートは、与えてくれるでしょう。臆する心を強められ、誇る心を清められて、賛美の心と奉仕の心をもって参加されるなら、このコンサートの目的を達します。 |
| 聖書のことば 喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。 ヤコブへの手紙5章13節 |
| 子どもよ、起きなさい ルカの福音書8章49〜56節 |
| 2002年10月13日第2聖日牧師山宮利忠 |
| 風を水を静め、悪夢を追放されたキリストは、病をいやされます。メシヤの力あるしるしをあかしするためであって、キリストの使命が病のいやしや人の安全を与えるためだと誤解してはなりません。病のむこうにある死、死の向こうにある滅びからの開放こそメシヤの来臨の目的でありました。 会堂司(つかさ)ヤイロは、社会的には人望と尊敬を集める立場にありましたし、地位も名誉も富も得た人物です。しかし一人娘が瀕死の病にかかり一時を争う状態になった時、彼は未だ未知の存在であったイエスのもとに自ら来て、その足下にひれ伏して助けを求めます。ただただキリストの力に依り頼む以外になすすべを知らなかったのです。 主はこのヤイロの真剣な求めに、信仰を見て娘をいやすために出むこうとします。しかしその途中に思いがけないヤイロにとっては邪魔が入り、主が長血の病を持つ女に時を費やしている間に娘は死んでしまいます。万事窮すです。しかしイエスは、ヤイロに「恐れるな」「信じつづけなさい」「娘は、死んだのではない。眠っているのだ」といわれ、娘に「タリタ・クミ」娘よ起きなさいと命じて、いのちをあたえられます。眠っているという主の言葉に、人々はあざ笑いますが、人の常識ではその通りです。しかしメシヤなるキリストは、死の恐怖に縛られている者を解放するためにこられました。人の思いを超えて信じる者に主のみ力は働きます。 |
| 聖書のことば これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」 ルカの福音書8:50 |
| のばされた信仰の手 ルカの福音書8章40〜48節 |
| 2002年10月6日第1聖日牧師山宮利忠 |
| 会堂司ヤイロの娘の奇跡と長血をわずらう女の奇跡とは切り離せない共通点があるのですが、あえてまずこの女のいやしを学びその後ヤイロの娘のいやしでその共通性を学ぶことにしましょう。 12年間もの長い間、病と痛みの為に悩み苦しんできた女は、病の性質上外見はそうは見えない苦しみの中にありました。というのは律法によれば、血の流出は汚れであり、触れるものは全て汚れることとなる宗教上の苦しみと社会的苦しみ、更には医者も薬も効かないばかりか反って苦しめられてきた(マルコ5:26)苦しみ、更には経済的にも困窮し、ますます病はひどくなっていたからです。 大勢の群衆にまぎれて、彼女は、そっとキリストの衣のふさに触れます。衣の4角には、律法を守っている敬虔のしるしであるふさがついていました。彼女は、おそるおそるしかし必ず助かる(救われる)と信じて触れるのです。弟子のことばによれば群衆が押しせまっている中で誰がふれたか判るはずがないにもかかわらず、主はご自分から力が出て行くのを感じられ、のばされた信仰の手の持ち主を探されるのです。主は勿論ご存知でした。しかし あえて、「それは私です」と告白することを求めておいでなのです。ここに信仰によってのばされた手に与えられる奇跡と、その信仰は私でしたと告白する女の完全な解放を経験するめぐみとが示されています。 |
| 聖書のことば しかしイエスは、「だれかがわたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。 ルカの福音書 8章46節 |