霊の空家 ルカの福音書11章14〜28節
2003年3月30日第5聖日牧師山宮利忠
 悪霊追放の力を見た群衆の中に、彼はサタン(ここではベルゼブルすなわち家の主人)によって追い出しているのだと言う者があり、さらにイエスをためそうとして天よりの奇跡によるしるしを求める者もいました。主は彼らの心を見抜かれてその答えを出しておられます。17〜28節で前半の答えを、そして29節以降で後半の答えをしておいでです。
 まず主のお答えは、内紛は滅びの前兆があってサタンが悪霊を追い出しているとしたら内輪もめであって、自分の手で自分のものを壊していることではないか。そんな事があり得ようかと反論します。神の指、神の力で悪霊を追い出しているとしたら既に神の国の支配は始まっているわけです。悪霊よりはるかに強い力を持つ方が到来したからには、この方について行くことこそ安全な道なのです。それは私達の日々の生活にあてはめるなら、キリストを救い主と信じ、この方の教えを常に心にとめ、それに従う生き方です。
 当時の霊能者達がしていたように、単に悪霊追放だけでは反って危険で、出て行った悪霊は、掃除してあるかつての自分の家へ更に多くの悪霊をひきつれて戻って来て、以前の状態より更にさらに悪くすると語られました。イエスが信じる者に与える聖霊は(11、13)、悪霊の働きから守るだけでなくあらゆる悪の力から人を遠ざけ、聖い上からの賜で人の内側を満たします。危険なのは自分を霊の空家にしておくことです。
聖書のことば
しかしイエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを開いてそれを守る人たちです。」
ルカの福音書 11:28 

熱心に求める者は得られます ルカの福音書11章5〜13節
2003年3月23日第4聖日牧師山宮利忠
 主はたとえをもって祈りの心を教えられました。旅の途中、しかも真夜中に訪れてきた友人をもてなすために食事を出してあげたくても自分には与えるパンもなかった彼は、隣人に求めます。突然おとずれる祈りの必要が教えられています。
 日々の祈りと共に真に必要な祈りは、いかなる時でも求めることと祈りをもって主におささげする事が肝要です。自分で何でもできてしまう者は祈りという方法で必要を満たされることが少ないでしょう。しかし自分の中に不足を覚える者は、祈って求めない限り必要は満たされません。神は不足のあるところに奇跡をおこして下さるお方である事を、主の最初のしるしカナンにおける婚宴の席でおきた不足を通して教えて下さいます。
 友人だから隣人だからというだけでは真夜中に起きて与えてくれなかった隣人は、その熱意に感じてパンを与えてくれます。熱心な求めは、必要の切実さをあかしするものです。与えられても与えられなくてもどちらでも構わない、与えられればもうけものというような求め方に誰が大きな犠牲を払って与えてくれるでしょうか。真剣で熱心な求めに主は耳を傾け、その祈りにこたえてくださいます。人の親でもその子の求めに応じてあげるとしたら、まして真の父、天のお父様が、その子たる信者の求めにおこたえ下さらないわけがないのです。
聖書のことば
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ルカの福音書11:10 

主の家を喜ぶ 詩篇122章1節
2003年3月16日第3聖日牧師山宮利忠
 エルサレムでの神殿礼拝は、イスラエルの民にとって主の生活の中心であり、力の源でした。彼等は神をほめたたえつつ、階段を一段一段登り、礼拝の場へ向かったのです。壮大なソロモン神殿はバビロニヤの侵攻で破壊されましたが、85年後再建された第二神殿も、かつての壮大さはなかったもののやはりそれは神の民にとって喜びであり、誇りでもあったのです。
 私達は今、イエス・キリストのたてられた神殿において礼拝をささげています。その第一義的意味は、救われた私達一人一人が、主が住み給う神の宮そのものであります。(第一コリント6:19)と同時にキリストのお体である教会が神の家なのです。(第一テモテ3:15)。教会は聖徒の集合体でありその集りは、教会堂を我が霊の家とします。
 イスラエルの人々が神殿を神の住み給う臨在の場所として敬ったように、私達はキリストの満ち満ちた教会を敬い喜ぶことが求められています。聖徒にとって教会は神の家であり、住いですから主のみ栄えに恥じることのない、そして世の人達に主のすばらしさをあかしできるものとすることが必要でしょう。教会は建物ではありませんが、世の多くの人達が自らの家をより住みやすく、立派に管理しているように、神の家たる教会とその住いをより美しく保つことはそこに住む人達の責任でもあります。教会堂に足を運ぶ者達が喜こびを覚えるような誇らしい思いを持ちたいものです
聖書のことば
人々が私に「さあ、主の家に行こう。」と言ったとき、私は喜んだ。
詩篇122章1節

祈りを教えて下さい ルカの福音書11章1−4節
2003年3月9日第2聖日牧師山宮利忠
 当時のラビ達がその弟子に祈りを教えたようにイエスにも祈りを教えてもらいたいと願い出た彼等が、祈ることを知らなかったわけではありません。キリストの唱える祈り、即ち主の祈りを教わりたかったのです。イエスはその要求に見事にこたえられて、ここに有名な祈りの模範をのこされました。
 マタイ福音書には、この祈りを教える前置きとして当時の祈りがくどくどと繰り返しの多い長い祈りと批判されたことばが記されています。主の祈りは実に簡潔にして、明解です。まず神を崇める祈り、そして次に自分のお願いです。前半は「・・・ように」ということば、後半は「・・・ください」ということばで表わされます。さて、前半で特徴的な点は「父よ」という祈りだしのことばです。これは優しい呼びかけで、父なる神と子なるキリストとの係りに関係すると同時に、キリストによって神の子とされた信者が、大胆にお父さんと呼びまつることのできるすばらしい特権を意味します。父なる神の愛はイエス・キリストにあって、はばかることなく祈ることをおゆるしくださったわけです。
 後半では、日毎の糧を毎日与えて下さいという祈りでしょう。人は欲深くて心配性です。今日の糧だけでなく明日の糧も、そしてもっともっとと倉を建てかえます。しかしマナのごとく明日のものは腐ってしまうのです。今日必要なものが今日与えられれば人は生きてゆけます。そんな祈りが必要です。
聖書のことば
父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
ルカの福音書 11章2節

どうしても必要なこと ルカの福音書10章38〜42節
2003年3月2日第1聖日牧師山宮利忠
 私達はこの出来事を読むと、自分は果してマルタ的なのか、マリヤ的なのかと、両者を比較して自分にあてはめてしまいます。実は両方とも神は愛して下さり、両方とも必要なのです。所はベタニヤだとヨハネは記します(ヨハネ11−1)。
 主は旅を続けてエルサレムへ上る途中で、この愛すべき姉妹達の家に招き入れられ家族の接待にあずかります。多分ベタニヤを通られることを知ったマルタは、ルデヤのように主を自分の家へ招きいれたのでしょう。あわただしく、気ぜわしく働くマルタでしたが、一方マリヤは、イエスの足もとに座ってみことばに聞き入り、姉の手伝いをしませんでした。マルタはこの妹の姿が気に入りません。私達もそんな経験をするのではありませんか。忙しくしているのに、全く手伝うこともしない人がいるとついつい呟きたくなります。マルタは、ついにマリヤではなく主に「何ともお思いにならないのですか。」と言ってしまいます。しかし主のお答えは、どうしても必要なことは一つだと言われます。即ちみことば、神のことば、聖書に耳を傾けることです。
 今日私達は礼拝のために集りました。ここで神のことばを聞きます。マリヤのごとく、多忙な生活の中でも主のみもとに来て、耳を傾けてメッセージに聞き入ります。これこそが第一の事だと言われるのです。ここから始まるここに力がある。これを抜きにしては労苦も空しくなってしまいます。
聖書のことば
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。
ルカの福音書 10:42

わたしは誰か ルカの福音書10章25〜37節
2003年2月23日第4聖日牧師山宮利忠
 「よいサマリヤ人」と言われるこのたとえは、そのとらえ方次第で純真に神のことばに従おうとする者を苦しめます。即ち主が最後に言われたことばのサマリヤ人のようにしなければならないと思うからです。しかしそうできない自分に苦しむことは必定です。
 まずこの教えは、律法の専門家の「何をしたら〜永遠のいのちを受けられるか」との問いに対して、主が語られたものだという事を頭に置かなければなりません。彼には自負心があり、隣人への自分の考え(ユダヤ人のみ)があり、キリストをためそうとする根胆があります。主はそのような心を砕こうとされるのです。あなたもこのよいサマリヤ人のように、徹底した愛を示してみなさい。しかも彼はユダヤ人が敵視する、つきあいのないサマリヤ人ではないか、彼でさえこのようなあわれみの心があるなら、まして律法の専門家であるあなたならできるだろう。さあ行っておこないなさいと・・・しかし私達は知っています。主の教えは決して我々の善行や愛のわざによって永遠のいのちを得ることはできないということをーーー。
 よいサマリヤ人のたとえは、隣人とは誰かを問うことでも、サマリヤ人のように愛の実践をしなさいと教えるものでもありません。私達は愚かな旅人のような者であり、愛の破産者だ、ただ真のサマリヤ人イエスに助けられる他はないのだという事を教えます。
聖書のことば
するとある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生、何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」
ルカの福音書10:25

どれ程の犠牲を払えますか ルカの福音書19章33節
2003年2月16日第3聖日牧師山宮利忠
 人は余程の動機がないと自分の犠牲を払うことができません。誰しもが得たいと願っているからです。しかしこの得たいと願う心に落とし穴が待っていると主イエスは言われました。即ち「得ようとする者は失う」と、逆に失う者は得ると教えられました。受ける生き方から与える生き方への転換こそ私達の大きな課題ではないでしょうか。
 与える生活の模範は勿論イエスご自身です。ご自分を罪人のために差し出し、いのちをもおしまずに与えて下さいました。この愛を知る時人は与えることの尊さとその価値を学ぶことができます。バルナバは主を知った時、自分所有の畑を売ってささげました。ルデヤはキリストを知った時、自分の家を伝道のために用いていただきたいと、パウロ達を強いて招き入れ、主の働きに参加しました。そのパウロも主のために自分自身を使い果したいと願い、その生涯をお献げしました。
 献げる価値があるもののために自分自身を犠牲にできる人は幸いです。私たちは今何のために労力や時間や持てるものをついやしているのでしょうか。神がおゆるし下さりお与え下さった一生を何のために使うかは、私たち一人一人の信じるところによります。たとえ沢山のことができなくても与える生き方の第一歩を踏み出し、失うことのないものを自分のものにしたいものです。塩の柱になったロトの妻にはなりませんように。
聖書のことば
自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者は、いのちを保ちます。ルカの福音書19章33節

見ていることを見る目の幸い ルカの福音書10章21〜24節
2003年2月9日第2聖日牧師山宮利忠
 伝道から戻った弟子達のよろこばしい報告を受けた主は,ご自身の立場を明らかに語られます。まず、福音は幼子のように自分を低くする者に受け入れられることこそ父なる神のみこころである事が祈りの内に語られます。この世の知者によって理解される福音でなく、純粋にして素直な、しかもこころ砕かれた者によってのみ救いはもたらされることは、実力主義のこの世にあっては全く反対の道ですが、人が神の前に自分の知恵と力が救いをもたらしたのだと誇ることのないための神の深いご配慮であります。
 実に使徒の大半は、無に等しい者でありました。それは神の前に誇ることのないためであり、人間の愚かな誇りを打ち砕く神の知恵でした。人々は「使徒は何とすばらしい」と言わず「使徒を変えたイエス・キリストは、何とすばらしい」と神をほめたたえるのです。主は、神の深い知恵からもたらされた人の子イエスの姿を見る者は幸いだとひそかに語られます。ガリラヤ出の大工の息子が何でメシヤであろう筈がないと世は思う中で、使徒達はイエスの心とみわざを見、「あなたこそ神の御子キリスト」と告白します。そしてその告白を通して、同じくあなたこそ救い主と信じる者は幸いだと言われました。
 私達は今反神的な時代、物質万能、実力主義の時代に、幼子のごとくイエスの中に神を見、救いを見ることによって同じ幸いを得ることができる恵みの時にいかされています。
聖書のことば
それからイエスは 弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われた。「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです」
ルカの福音書 10章23節

狼の中に遣わされた小羊 ルカの福音書10章1〜20節
2003年2月2日第1聖日牧師山宮利忠
 70人の弟子達を二人一組にして伝道に遣わされる時、彼等に与えた注意がここには記されています。これは現代も遣わされた者にとって大切な心構えですので、遣わされた伝道者だけでなく、その働きを理解し共に仕える全ての聖徒達がしっかりと心に納めておかねばならない事柄です。
 第一に、福音を伝える者は、物に頼らない事です。 物に執着すれば、十字架を負って従う事が難しくなります。必要最小限でもってその働きにつかねばなりません。
 第二に、働きに専念しなければなりません。 道草をくってはならないし、本当の務めをないがしろにしてはいけません。
 第三に、収入をあてにしてはなりません。自分の前にだされたものをもって満足をすべきで、欲をかいて必要以上を要求してはなりません。主はその必要を必ず満たして下さいます。
 第四に、主より与えられた大きな権威をもつことへの自覚が必要です。働き人を遣わしたのは主です。従って働人を拒否する者は主を拒否することになります。権威を与えられている働人の責任は重大です。
 第五に、働きの結果や力を誇るのではなく天に名を記されている事を喜ぶ事。
 第六に、自らは小羊のような弱い者である事を知る事、その弱い者が強くなれるのは、主が共にいて下さる故であることを知り狼の中で働けるのです。
聖書のことば
さあ、行きなさい。いいですか、わたしがあなたがたを遣わすのは狼の中に小羊を送り出すようなものです。
ルカの福音書 10:3

礼拝と聖書 使徒の働き38章26-40節
2003年1月26日第4聖日牧師 山宮 利忠
 CS・カミング・デーのこの日、改めて教会に於ける礼拝とその中心である聖書について思いをいたすことは、ふさわしい事と思います。聖書中有名な回心記事はいくつかありますが、このエチオピアの宦官のような詳細なものは他に見当たりません。しかもユダヤ人でなく肌の色の違うアフリカの人が遠路エルサレムにまで来て礼拝をささげ、帰りの馬車の中でも、聖書を声をあげて朗読する姿は、実にすばらしものがあります。主はこのような礼拝者を決してお見捨てにはならず、ピリポを遣わして正しい救いを伝え回心に導きます。ここにはみこころにかなった礼拝姿勢と神のことば聖書の重要性が実にはっきりと示されています。すばらしい礼拝者としてのエチオピアの宦官の礼拝姿勢を見てみましょう。
 まず、大きな犠牲を払って礼拝にのぞんでいます。遠くエチオピアからはるばるエルサレムまで沢山の犠牲を払ってやってきた彼には、時間的にも費用の点でも肉体的にも大きな犠牲があったでしょう。しかし神への礼拝はそれ以上に大切であったわけです。彼は異邦人でした。従って神殿に於てもユダヤ人とは差別された異る場所での礼拝でした。しかし彼は人を礼拝しに来たのではなく、神を礼拝する為に来た故に、そんな事に左右されませんでした。何よりも彼は聖書を求め、聖書を読んで、聖書に書かれている事を理解しようとしました。そして判ったらただちに従うのです。ならいたいものです。
聖書のことば
彼は礼拝のためエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。」
(使徒 8:28)

手を鋤きにかけたなら ルカの福音書9章49〜62節
2003年1月19日第3聖日牧師山宮利忠
 イエスはエルサレムに顔を向け、ご自分の使命である十字架にむけて進みはじめられます。これからの主の働きは弟子への訓練に重点が置かれるように思われます。主のもとには12名の使徒と呼ばれた弟子以外に大勢の弟子達がいたわけですが、その従い方は様々でありました。ここにはキリストに従う者への覚悟が教えられています。
 ここに三人の弟子志願者が登場しますが、第一の者は、どこにでもついてゆく覚悟を表明しますが、主はわたしにはゆっくり休むことのできる塒(ねぐら)さえない。あなたはそれ程の覚悟ができているのかと語られます。キリストに従う生活は時に動物以下というような事がある。それでもついてこれますかとその覚悟の深さを指摘なさいました。
 第二の者はまず父を葬ってから従いますと、従う前に条件をつけます。主はただちに従うことを求められました。たしかに父を葬ることは大切な事ではある。しかしそれ以上に御国に入るいのちの道を伝える働きの方がはるかに重要なのだと言われます。
 そして第三の者は、家の者にいとまごいをさせて下さいと、別れのあいさつを願い出ます。しかし手を鋤きにかけた人は、後ろをふりむかず、前をしっかり見て前進してこそその働きを全うすることができるわけで、後ろをふりむいたロトの妻にならないようにと教えられました。
聖書のことば
するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手に鋤をつけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」
ルカの福音書9章35節

大いなる人 ルカの福音書9章46〜48節
2003年1月12日第2聖日牧師山宮利忠
 12名の弟子達の中で常に最も関心があったのは、自分たちの中で誰が一番偉いかということでした。彼等は未だキリストの弟子として成長したしもべではなかったのです。主のお答えは、幼子を手もとに置いて、幼子を受け入れる者、即ち未熟で、無力なものを軽んずることなく、同等に受け入れる者こそ偉大な者であり、自分を最も小さい者と評価する者こそ大いなる者だと言われました。この教えはキリストご自身が実行なさったことでした。即ち神の座を捨ててしもべの姿となって、十字架の死に至るまで忠実に従われ、罪人の為にご自分のいのちをお捨てになったのです。
 私達の世には、覇権争いがおこり、己を神の座につけて誇る者が多くある中で、イエスの教えは全く逆の教えでありました。神の国の原理は罪なる世の原理とは異なります。幼子のような信仰者とはどのような人なのでしょうか。第一に、自分を低くすることのできる人です。自分を最も小さい者と評価できる人は、他のいかなる者をも軽んずることは、ありません。第二に、積極的に仕えることの出来る人です。(マルコ9:35)しんがりとなり仕えることのできる人こそ偉大な人です。最後に、人を躓かせない、心くばりと注意のできる人です。(マタイ18:6)
聖書のことば
あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。

ルカの福音書 9章48節

まっすぐな道 ルカの福音書9章37〜45節
2003年1月5日第1聖日牧師山宮利忠
 山上で栄光につつまれたイエスの姿を見たペテロは、そこに小屋をつくりましょうと言い、いつまでもその驚くべき様にとどまりつづけたかったのでしょうが、主と弟子の使命は、山の上にはありません。地にくだり、そこにある多くの失われ、痛み、傷ついた魂をいやす働きが待っていました。ところが残された弟子達は、その苦しむ人々に囲まれ、いやしを求められていたのです。彼等には、いやしと悪霊をいやす権威が与えられていた(9:1)にも係らず、求めてきた人の息子の悪霊を追い出すことができないでいました。主は「ああ不信仰な、曲った世だ」と、悪霊の働きに対し、又それを追い出すことの出来ない弟子達の無力を嘆かれ、ただちに息子を悪霊から解放します。
 三つの点を心にとめましょう。まず弟子達の無力さです。上よりの力は絶えず神との交わりの内にいただくことなくして、立場だけでは霊的な力を発揮することはできません。さらに、主の嘆かれた不信仰で曲った、ねじれた世であることに注目すべきです。神なき世はねじ曲った世であり、正常ではありません。ペテロの大説教は、この主の教えを反響しています(使徒2:40)、そして最後に本当のメシヤは、病や悪霊を追放したりするところにあるのではなく、曲った世をまっすぐにするために自らのいのちを犠牲にして神と人との橋渡しをします。       
聖書のことば
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。
ルカの福音書 9:41