時のしるしを見分ける知恵 ルカの福音書12章54〜59節
2003年6月29日第5聖日牧師山宮利忠
 私達は明日の事を知りたい、知ろうとするものです。天気予報等は実生活の中で大いに役立ちます。占いがはやるのも明日やこれからの事を知ろうとする人の心のあらわれです。たしかにこれからの事が判れば今どのように生きたらよいかが判断できるというものです。主は人が季節の移り変わりを敏感に察知する点を指摘して、今の時を見分ける知恵を持つことを教えられました。それは丁度罪ある者が告訴されて判決を受け牢につながれる事に似ていると言うのです。
 人の定めは残念ながら死と審判です(ヘブル9:27)。やがて来る時のしるしは、わたしたちの心の内を調べれば十分に判る筈です。わたしたちは最後のレプタを払えばよいのですが、それさえもはらうことのできない大いなる負債を聖なる神の前に持つ者だという事を悟らねばなりません。又この時代のしるしをも見分ける知恵が必要です。世の終りの前兆はいたるところに見出されるでしょう。いちぢくに実がつくと夏が近いことが判るように、世の終りの前兆はいたるところにみつけることができるのです。戦争や暴動、民族は民族に国は国に敵対し、地震や疫病、ききんが起ります(ルカ21:9)。
 たしかにこの時代は、確実に滅びに向かって驀進しているのです。自らの終末とこの世の終末に気付き備えをする人は、知恵ある人であり、自分の時を見分ける者は、真剣な求めと生き方ができる人です。
聖書のことば
あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。
ルカの福音書12章56節

剣を投げこむキリスト ルカの福音書12章49〜53節
2003年6月22日第4聖日牧師山宮利忠
 メシヤ誕生にあたってみ使いは「地には平和」と歌い、預言者は「平和の君(王)」の到来を預言しました。キリストご自身も「平和をつくりだす者の幸い」を教えます。しかしその平和は私達が考えているような平和とは異なる平和なのです。(ヨハネ14:27)
 このおことばの背景はミカ書7章6節にあります。イザヤと同時代の預言者としてイスラエルの滅亡と南ユダへの警告は、どうにもならない選民の堕落に神の厳しい審判がやってくる以外に道はない事を示すものでした。主はこのミカの預言の言葉を引用しつつ、私達の神への不信に対する神のお取り扱いは、まず破壊であることを示されるのです。もはや補修では事が足りない、根本からつくり直されなければならない、新しい生き方をするために古いものが壊されなければならないのです。
 火も分裂も神の審判を象徴的に表わすことばです。マタイはこれを剣と表現しますが、その方が判り易いかもしれません。古い契や習慣、思想や行動を切り離し新しい生き方を造りあげるメシヤの救い、一見破壊に見えますが新しいものをつくりあげるための破壊なのです。混乱もあり痛みもありましょう。しかし私達がつくりあげてきた安逸的、妥協的、物質的平和ではなく、内的、希望的、永遠的な平和、なにものにも動かされない不変的平和をお与え下さるメシヤの救い、そのために主も苦しみを通らねばなりませんでした。
聖書のことば
あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。
ルカの福音書12:51

思慮深い管理人 ルカの福音書12章41〜48章
2003年6月15日第3聖日牧師山宮利忠
 世の終り、再臨にのぞんで「目をさましている」ことを勧めた主は、目のさまし方について教えられます。ルカは特に教会の指導者に対して勧められたように記していますが、マタイやマルコは全ての者への勧めと解しているようです。まず思慮深い生活のしるしは、与えられた神からの賜を忠実に管理することです。日々の生活や私達の人生は、全て神によって与えられ支えられているのだという事を信じる者達は、管理者としての心構えをもってすごすことができます。それこそが豊かにして誤りのない生き方を生み出す秘訣なのです。思慮深い管理人の在り方を見てみましょう。
 第一に、いつ主人が戻ってきてもよいように備えていました。私達の人生には終りがあります。特にキリストは再び来られると約束をなさいました。いつ再臨されるか判りません。しかしいつ主が戻られてもあわてることのない人、あずけられたものを忠実に管理している人は思慮深い管理人だと言われています。
 第二に、あずけられた仕事に忠実な人です。再臨なんかないと思っている人は、全てを私有化し、横暴となって、傍若無人にふるまいます。しかし思慮深い人は、自らの使命を自覚し、神に喜ばれるように生きるのです。
聖書のことば
わたしは真実をあなた方に告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
ルカの福音書12章44節

目をさましていなさい ルカの福音書12章35節〜40節
2003年6月8日第2聖日牧師山宮利忠
 やがて来る事実についてまず群衆に、そして弟子達へと勧めがなされます。まず、「目をさましていなさい」と教えられました。目をさましていると言う事は、用心している。待ち受けているという意味です。これはやがて実現するキリスト再臨の予告でもあります。旧約の時代の人達がメシヤなるキリストが、イエスのような姿で来られる等とは思っていなかったように、又たとえイエスがメシヤであると判っても真のメシヤによる救いが判らなかったように、今の私達も復活され今父のみもとにあるキリストが再び来られる事を本当に信じられているかどうか、はなはだ疑わしい事でありましょう。
 しかし主は再び来られます。その時目をさましている人は幸いなのです。目をさましているとは、あかりをともし、腰に帯をしている事とたとえられています。二つともたえず、心をそこに置き、油断なく心を用いている事を示しています。ペテロは「心を引き締め、緊張していなさい」(第1 1:3)と教えています。基本的には、信仰生活を忠実にしていなさい。教会生活をしっかり送りなさい。聖徒同志互いに励ましあい徳をたかめあっていなさい。という事です。何故なら何時主が来られるか判らないからです。突然おいでになります。その時慎み深く信仰を守り通している者は幸いです。ともしびをかかげている者は、その忠実さの故に大いに称賛され、あたかも王のように主はその人達を扱ってくださるでしょう。
聖書のことば
帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。
ルカの福音書12章37節

恐れるな小さな群れよ ルカの福音書12章32〜34節
2003年6月1日第1聖日牧師山宮利忠
 群衆へは貪欲への警告をし、弟子達には心配への警告をした主は、人の最終地は天の御国であることを示されて、この地上の生活は最終地ではない事を教えられました。主は「恐れるな、小さな群れよ」と、ご自分に従うキリスト者の群れに語りかけられます。私達は神の創造のわざによる神の像に似せて造られた者であるにも係らず、やはり生ける大いなる牧者である主の守りの中にある羊なのです。
 目前の弟子達は、羊飼いであるキリストが打たれ殺される時、彼等は羊が散るようにさまよい出てしまうでしょう。しかし恐れてはなりません。栄光の主は再び彼等を集め天の御国へ導かれます。私達も今人生の最終地がどこで、その心がどこにあるのかを確認する必要があります。そして羊のように弱い者であることを認め、羊飼いであるキリストのもとに集められ、常にこの恐れるなという御声を耳にして、ふるいたつ必要があるのです。
 弱い者が強くされるその最大の秘密は、人の内に常に「恐れるな。私が共にいる。」という声を聞くことにあります。御国は信じる者の最終地です。即ち最後は天の御国なのです。そこにたどりつくまでのこの世の生き方をいかにしましょう。やがて行く天の御国へ宝を積む生き方こそ賢明な生き方ではありませんか。その方法は主に与えることです。時と労と心と物とを神に与えなさい。それは結局自分の為なのです。
聖書のことば
小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。
ルカの福音書 12:32

心配しないで ルカの福音書12章22〜31節
2003年5月25日第4聖日牧師山宮利忠
 群衆に対しては貪欲に対して警戒するように語られた主は、弟子達に対して心配しないように教えられました。たしかに弟子達には心配の材料が沢山あった事には違いありません。仕事を捨て、家族から離れ、ねぐらのないイエスとの日々の生活は、それこそ心配だらけだったと推測されます。しかし主は心配しなくてよい理由をたくさんあげて弟子達に安心するように求めます。
 第一に、いのちを与え守られるのは神だから心配してはならないのです。衣食住は人にとって不可欠なものには違いありませんが、それがあったからとて人のいのちが与えられるわけではありません。蔵を建てかえた貪欲者がそれを証明するのです。
 第二に、神は人の力にまさって私達を守って下さるからです。そらの鳥は蒔いたり刈ったりしませんし、野の花は紡ぎも織りもしません。しかし神は彼らを守り、美しく装って下さるのです。彼らとて生きる闘いをしていないわけではありません。しかし彼らを美しくたくましく支えておられるのは神御自身です。まして人のために彼ら以上によくして下さらないわけはないのです。
 第三に、第一にすべきものを第一にするなら必要は満たされるからです。まず何を第一にするか、それこそが大切で、あとは添え物にすぎません。
聖書のことば
だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
ルカの福音書12:22

信仰の戦いを勇敢に戦い 第一テモテ6章12節
2003年5月18日第3聖日牧師山宮利忠
 パウロは若いテモテに信仰を全うするように命じています。信仰告白と召しのあかしがされてキリスト教徒として又主に自らを献げた献身者として歩み出したテモテに必要な事は、最後まで忠実にその務めを果たすことでした。その中でパウロは、「信仰は戦いだ」と語っています。告白を最後まで誠実に守り通すには沢山の困難が伴う事を指しています。その戦いの内容とはいかなるものでしょうか。
 第一に、守る戦いがあります。主が命じられた信仰者の在り方を、この世の誘惑や自らの弱さからしっかり守るためには、多くの戦いが必要です。告白した事が忘れられたり、曲げられたり滞ってしまったりしてはならないのです。主と教会への変わることのない告白の証明がしっかり守られるためには、どれ程の戦いが必要でしょうか。迫害や異端から信仰を守るためには、激しい戦いが求められるのです。
 第二に、攻める戦いがあります。テモテには、機を得るも機を得ざるも福音を伝え教会を建てあげる責務がありました。福音を正しく伝える務めと共に、救われた魂を教会という集まりの中へ加えて共にキリストのお体なる教会を建てあげ、キリストの花嫁として整えてゆく責務がありました。これも大きな戦いであったでしょう。わたし達に与えられた信仰を戦いをもって守る信仰の勇者が必要です。
聖書のことば
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。
第一ペテロ6章12節

本当の豊かさ ルカの福音書12章13節〜21節
2003年5月11日第2聖日牧師山宮利忠
 群衆の中から遺産の問題を解決してほしいとの訴えがされた時の答えが、このたとえの語られる発端です。ここで教えられている事は、人が生きることは、いかに持つかではなくいかに生きるかだと言う事です。富める者の愚かさは、魂が生きるのに沢山の物があれば安心だと考えたことにあり、そのような生き方が私、わたしという利己的な生き方となり、又飲め食え楽しめという快楽的な生き方となります。人のいのちは物にはよらない、いのちも物も与える神にあることを知らない愚かさとなってあらわれるのです。
 主は遺産の分配を求めた者の背景に富の分け前を求める人間のあくなき欲望を見てとり、そこに生れるみにくい争いを察して貪欲への警告をなさるだけでなく、いかなる事が真の豊かさなのかを教えられました。すなわち、―神の前に富むことです。神の前に富むとはいかなることを指しているのでしょうか。
 第一に、神こそあらゆるものを支配し保つお方だという事を知ることです。物やいのちは神の御手の内にあり、人は神に生かされている事を知って謙虚になるべきなのです。飲め食え楽しめと言ってくださるのは神御自身です。第二に、キリストを通して与えられるいのちこそ永遠のいのちであり、キリストから与えられる豊かさは、はかりしれない価値を持つことを知る事です。
聖書のことば
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。
ルカの福音書12章21節

一羽の雀さえ ルカの福音書12章1〜12節
2003年05月04日第1聖日牧師山宮利忠
 イエスのもとに足を踏み合うほどの人が集まって来ました。そんな光景を今も見たいものです。主は先のパリサイ人への譴責に続いて弟子や群衆に対して、終末の世の状態を見越して背教の時代への心構えを教えられました。
 背教という最もあってはならない偽善に対して、自らを守る方法として、第1に、真におそれるべきお方をおそれる事。この世に在る間のいのちを奪うことができてもそれ以上の事もできないものを恐れてはならない。真におそるべき(知るべき)お方は唯一の神お一人。
 第2に、その神の守りを信ずべき事。マタイは、二羽の雀は一アサリオンで売られていると記し、ルカは五羽の雀は二アサリオンで売られていると記します。一羽はあまりにも安価なのでおまけなのでしょうか。そんなものでも神はお忘れにならない。神の配慮と加護は細部にわたることを覚えることです。
 第3に、聖霊なるお方の助けを信ずべき事。聖霊は、慰め主、助け主と言われて信じる者を弁護して下さるお方です。聖霊に対する罪は、神の導きと助けに背を向ける者、丁度パリサイ人のように耳で聞いても目で見ても悟る事のない、かたくなな心の持主が犯す罪です。しかし心砕かれた者に常にとりなして下さる聖霊の助けを信じることです。
聖書のことば
5羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも神の御前には忘れられてはいません。
ルカの福音書 12:6

忌まわしい者にならない為に ルカの福音書11章37〜54節
2003年4月27日第4聖日牧師山宮利忠
 愛深いキリストが激しく叱責した類の人々がいました。ここに登場するパリサイ人と律法学者と言われる人達です。パリサイ人はユダヤ教の一派、律法学者は、その祖をエズラとするバビロニア捕囚後に生れた会堂(シナゴグ)で律法を教える聖書解釈学者でやはりパリサイ派でした。彼等は律法を守るだけではあきたりず、更にこまかい日常のおきてを定め、伝承を尊び、外面的には落度のない立派な生活をしていた十分に尊敬をかちとることの出来た人達です。しかし主は彼らを忌まわしい偽善者だと厳しく責めておられます。何故なのでしょうか。
 第一に彼等は、自分の正しさをたてにして他を審く律法主義者だったからです。たしかに彼等の生活は外面的には非のうちどころのない立派なものではあったでしょう。それが故に律法を守れない者を地の民として軽蔑したのです。しかし彼等は人を審く者であっても人に審かれた時その本性をあらわすのです。自分を軽蔑したイエスを訴えるのは彼等でした。
 第二に、悔い改めることを知らない偽善者だったからです。彼等の関心は常に人でした。人からほめられること誉れを得ること誇ることが彼等の姿勢でした。内側は汚れに満ちていたのです。神殿で祈るパリサイ人と取税人の姿に対衆的なものを見ることができます。主はありのまま自分のみにくさと汚れを認めてあわれみを求めた取税人を好まれました。
聖書のことば
忌まわしいことだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。
ルカの福音書11:44

最大の奇跡 ルカの福音書24章1〜8節
2003年4月20日第3聖日牧師山宮利忠
 人の思いを超えた出来事が主イエスの生涯に起こりました。それはもはや私達の常識をはるかに超えた、全く新しい次元の始まりでもあったのです。その誕生から十字架上の死にいたるまでにも数多くの人の目から見れば奇跡としか思えないみわざをあらわされたイエスは、人生の最後と考えられていた死を超えて、想像もしなかった復活をなさいました。
 イエス・キリストの復活は、キリスト教の土台をなすものです。もし主が甦ることがなければ、アジアの片隅で起った事件で終っていたでしょう。弟子達の多くは散り、その教えを信奉するわずかな者が残されたにすぎなかったかもしれません。しかし12名の使徒達は、各々弱さを持ちながら、キリストの復活を体験して以来、イエスのメシヤであることを確信し、その生涯を殉教の死に至るまでささげつくすのです。彼等が得たものは何であったのでしょうか。大いなる富や名誉だったのでしょうか。彼らの誰一人世的なほまれを得ることはありませんでした。ただ神の栄光の為にその生涯をささげたのです。ここにもキリストの奇跡が見られます。
 イエス・キリストの復活は、イエスが真の神であり、救い主であることを示すものです。死に支配されない生きた者のみが、私達を救い、導くことができます。私達には死んだ案内人は不要です。復活のキリストにお従いする者に与えられる安心と希望を信じて生きることができる幸いを得ましょう。
聖書のことば
あなたがたはなぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。
ルカの福音書24章5〜6節 

明るく輝きなさい ルカの福音書11章33節〜36節
2003年4月13日第2聖日牧師山宮利忠
 しるしを行えと言う群衆への答えの後半は、弟子達への教訓が記されています。即ち光り輝いていなさいと勧めます。健全の目とは、見るべきものをしっかり見ることの出来る目でありましょう。目が不自由ですと全身に影響を与え暗い生活を余儀なくされます。当時は眼病の人が多かったのかもしれません。人は何を見つめるかによってその生涯も変るものです。アブラハムは天の星をみて神の祝福を思い、ノアは空の虹を見ては神の約束を思いました。
 私達は今、キリストの十字架を見て神の赦しと愛を思います。ひとすじにそして真剣に見つづける目にこそ、内なる人を輝かす秘訣です。人の弱さは、目を閉じてしまう事です。みにくい世や自分自身にも目を閉じてしまいます。主が苦しみの祈りをささげている間にも、弟子達は目を覚ましている事ができずに眠りこけていたように、この終わりの時代に目をしっかりあけていなければなりません。そして内なる人を輝かせている事こそキリストを信じて神の国の住人とされた者の特権です。
 次第に暗くなり易い私達は、目を開いて注意深く内なる人を輝かせておくことが必要なのです。喜びや希望、平安や愛、すばらしい上よりの賜をいただいている者として、常に心をそこにむけ、目を開いて主の恵みに目を注ぎ、日々新たにされていくことによって、光の子としてのあかしができます。輝きましょう。
聖書のことば
もしあなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように、明るく輝きます。
ルカの福音書11章36節 

よりまさった者 ルカの福音書11章29〜33節
2003年4月6日第1聖日牧師山宮利忠
 さらにしるし(証拠)を求めた者に主は答えられます。まず「悪い時代は、しるしを求める」と言われました。即ち言葉だけでは信じられず、常に結果を求め、証拠を求めるというわけです。
 わたし達の生活の中で、ことばが信じられなくなった時、それは大変不幸な現象ではないかと思います。ことばに出された事が守られない行動としてあらわされない限り信じられないということになります。結果しか信じられない世の中は、決して良いものではありません。教会に於ける結婚式の最も大切な部分は誓約ですが、神に対して互いに誓い合う厳粛さがあってこそ結婚の式をあげる価値があります。その誓いは果たされるべきだからです。しかしなんと多くの人達が多勢の祝福を受けて結婚したにも係らず、その誓いが守られない事でしょう。誓いのことばはむなしい結果として終わります。約束は守られずことばは空しく消えていきます。悪い時代は、ことばが信じられなくなったことにその病の深刻さがあらわれています。
 主は、ヨナのしるし以外には示されない即ちニネベでの説教によって悔い改めて神の審きをまぬがれた異邦の民やソロモンのもとにその知恵を聞くために訪れたシバの女王のように、膝をかがめて神のことばを聞く事のしるし以外は示されないと、そしてここにヨナよりソロモンより偉大な者がいます。
聖書のことば
ここにヨナよりまさった者がいるのです。
ルカの福音書 11:32