| 小事に忠実であれば大事にも ルカの福音書16章1〜13節 |
| 2003年9月28日第4聖日牧師山宮利忠 |
| そのまますらっと読んでしまうと何の事か判らない難しい教えです。 1−8節までは、抜け目なく利口に自分の将来の安全を確保しようとした不正な管理人のたとえで、おおような主人は、このぬけめない管理人の利口なやり方をほめます。9−13節までは、このたとえを通して教えられた主イエスの勧告です。 ここでひっかかるのは不正の富という言葉でしょう。これは人から盗んだ言われある金という事ではありません。神から離れていよいよ物質、拝金主義となっていくこの世の富の総称です。全てのものは神からの預りものという考え方とあい反する世の富が神となってしまっている富をさします。 しかし主は、このたとえでこの世(不正の)富をいかに用いるべきかを教えるのです。その第一は、この世の子らのごとく、不正の富を得るのに熱心である程に魂の豊かさの為に熱心であるなら、その影響力はいか程であろうかと。第二に、この世の富の正しい使い方こそ御国への備えとなると語られます。金持ちとラザロの話は、そのよい一例です。持てるものをどれ程与えたかによって、持てる人の真価があらわされます。第三に、この世のものへの忠実さが神のみ国の大事への忠実さにあらわされるのです。忠実さは事の大小によりません。その人の心一つなのです。そして最後に人は神と富とに同時に仕えることはできない。神にか、そうでないかのいずれかなのです。 |
| 聖書のことば 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。 ルカの福音書16:10 |
| 息子の帰りを喜ぶ父の愛 ルカの福音書15章11〜32節 |
| 2003年9月21日第3聖日牧師山宮利忠 |
| 教会に足を運ぶ者であれば一度は耳にする放蕩息子のたとえは、この章の三つのたとえのクライマックスと言える福音の中の福音とでも言える有名なたとえです。家から飛び出した息子の回心が中心のように扱われ易いのですが、このたとえの中心は、家出息子の帰りを喜ぶ父親の愛が主なる教えです。 それは、迷える一頭の羊の帰りをみんなで喜び、失った銀貨を近所の人を集めてまで喜んだ女の喜びと共通するものです。ここにも帰って来た羊をあなたの息子と呼んで共に喜ぶことをしないパリサイ人の姿が背景にあります。 まず父親は、弟息子の心を尊重している事が判ります。父親の力で息子の家出をとどめる事はできたかもしれません。痛みと悲しみを抱きつつ、自分の道を行こうとする息子を強制的にとどめようとしません。その意志をを尊重し、じっとみつめて送り出します。そして赦している父をみます。 息子はやがて己の愚かさに気づいてボロボロになって戻ってきます。父親はその姿をいちはやく見つけるのです。いつか必ず帰ってくると忍耐して待ちつづけた父親は、既に放蕩した息子を赦しているのです。自ら走り寄り、しっかり抱き、くちづけしてやまない父親は息子の行為や姿ではなく、息子の存在そのものを喜びます。かつてなかったほどの大祝宴を開いて息子の帰りを喜ぶのです。神は私達を忍耐強く待ち、愛し、赦して下さっている事に気付く者は救われます。 |
| 聖書のことば この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。そして彼らは祝宴をはじめた。 ルカの福音書15章24節 |
| 見出された一枚の銀貨 ルカの福音書15章8〜10節 |
| 2003年9月14日第2聖日牧師山宮利忠 |
| 第二のたとえは、失われた銀貨のたとえです。10枚の銀貨は、この女性にとってはかけがえのない大切な銀貨であることが、この女性の熱心な探し方と発見した時の喜びようであらわされています。 パリサイ人にとっては、神が人を探し求めるなどという事は考えられないことでした。人が己れのみにくさにうちひしがれ、おそれおののきつつ神の前にひれ伏すことこそ彼等の考えたあるべき姿です。しかしイエスは、失われた一匹の羊を自ら探し求め、一枚の失われた銀貨を灯をかかげて家を掃いてまでみつけようとする神の執拗なまでの求めは、全く考えもしない神のお姿でありました。 私達は、一日の労賃にあらわされる程の価値の少ない存在です。しかもあるべきところから失われ、暗やみにただ存在するだけのものとなっているとすれば、まことにあわれなものと言わねばなりません。神の御手の中に握りしめられてこそ、人の真の価値があるのです。しかし神は10の中の1つとしてではなく、1つとして私を探し求め、私が神を必要とする以上に神が私を必要としていること、それ程までに私を尊いとして下さっている事を示して下さっています。この一方的な神の捜索に気づくこと、そしてそれ程まで愛されている事に気付くことこそ信仰なのです。その叫びをキリストの十字架から聞くことができる人は幸いです。神は大いに喜んで下さいます。 |
| 聖書のことば なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んで下さい。 ルカの福音書15章9節 |
| 探し出された羊 ルカの福音書15章1節〜7節 |
| 2003年9月7日第1聖日牧師山宮利忠 |
| 三つのたとえは、その背景として自己義認者であるパリサイ人が意識されています。最後の放蕩息子への父の愛が、このたとえのクライマックスですが、一貫して示されているのは、戻された事の喜びです。 羊は、人をあらわしていますが、有益でありながら弱くて愚かです。羊飼い、すなわち神の保護なくして生きてゆかれません。神のもとから迷い出した羊こそ我々一人一人なのです。たとえは、その全てが聖書の教えに合致しているわけではありません。何を教えんとされているかを学びとる事が必要です。 まず羊としての人そのものを考えましょう。羊はユダヤの社会では最も有益な家畜として位置づけられます。宗教祭儀に用いられた外、その全ては使われないところがない程生活上の必要を満たすものでした。しかし羊自体はまことに弱い動物であり、群をなして羊飼いの保護のもとで養われない限り生存は不可能と言って過言でない程のものであり、度々群から迷い出しては、羊飼いを困らせるものでもあります。人はまさしく神の御手から迷い出した羊のごとく、危険な状態でありながら、又自ら弱いものでありながら己が道を歩むものです。 神は迷い出た私達を探し出してつれ戻そうと御子キリストを羊飼いのごとくつかわされ救いに導こうとされています。見出された者は幸いです。なによりも天に大きな喜びがあると聖書は教えます。 |
| 聖書のことば いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。 ルカの福音書15章6節 |
| 最後まで弟子を愛された主 マタイの福音書 26章29-46節 |
| 2003年8月31日第5聖日伝道師安藤修司 |
| イエス様は、最後まで従ってきた11人の使徒たちに、彼らが主を見捨てて逃げてしまうことを宣告しました。彼らは必死で否定しましたが、主がゲッセマネの園で苦しみ祈る時に弟子たちは眠りこけて共に祈ることができず、主を捕える者がやってきた時、彼らは語られた通りに、主を見捨てて逃げ、ペテロは主を否んでしまいました。しかしこの痛ましい失敗の出来事の中にも、弟子たちを見捨てずに愛する主の大きな愛があかしされていました。 第一に、彼らのつまずきも神のご計画にあることを告げられました。弟子たちのつまずきは聖書の預言の成就(ゼカ13:7)でした。人間的な思いに支配されていた弟子たちの信仰が聖められ、神の恵みの力のみによって支えられるために、この試練に渡されたのです。 第二に、彼らが回復して主と再会することを告げられました。主は、弟子達のつまずきだけでなく、彼らが「ガリラヤでよみがえった主と会う」ことを約束され、彼らが再び立ち上がれるように備えて下さいました(32)。 第三に、弟子たちが御自身を失望させても見捨てられませんでした。最大の苦しみを迎える主は、彼らに共に祈ってほしいと願いますが、彼らは肝心の時に役立てなかったのです。しかしそんな彼らに主は「さあ、行くのです」(46)と声をかけます。受難の道とつまずきの道、一時は離れているように見えても、弟子たちはやがて主と同じ道に進むことを主は御存知で声をかけられました。主イエス・キリストは、私たちをどんな激しい試練や失敗の中でも見捨てることなく導き、勝利させてくださいます。 |
| 聖書のことば しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。 マタイ 26:32 |
| インドネシア訪問と按手の恵み |
| 2003年8月24日第4聖日牧師山宮利忠 |
| 入江宣教師が佐倉での伝道を後継者に渡してインドネシア、正確にはスマトラ半島メダンに渡ったのは、1975年12月の事です。今から28年前になります。メダンは人口の90%以上がイスラムである中で、バタック族を中心にキリスト教徒の多い町でもあり、町のそこかしこにキリスト教会堂が目につくところです。バタック族はメダン山岳地帯に住む昔は人食い人種と言われたいかにも勇猛な肌の色の濃い人種です。 今回按手を受けるルックマン師はメダンより北に位置するアッチェ出身でバタック族ではありません。私が兄弟にお会いしたのは、1981年4月最初にお招きをいただいてメダンを訪れた時でした。その時兄弟は高校生で、純朴な好青年でした。その時から22年の時が流れ、今教会の指導者として、一家庭のあるじ又伝道者と召されて按手を受けられる事はまことに大きな喜びです。入江宣教師にとってもメダン伝道初期の霊の果実であるわけですから、今回の按手礼式は宣教師として大きな喜びであり慰めであるに相違ありません。 現在メダンには、メンテン・ケサワンの両教会と共に神学校のキャンパスと宣教師館が建てられ、トバ湖方面にあるシアンタールでの開拓伝道が入江宣教師によって行われています。健康面での心配と年を重ねた宣教師にとって、息子の結婚と按手は二重の喜びとなる事でしょう。 |
| 聖書のことば 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。 テサロニケ人への手紙第一 2:19 |
| 祝宴へ招待 ルカの福音書14章15〜24節 |
| 2003年8月17日第3聖日牧師山宮利忠 |
| 神の国の喜びは祝宴にたとえられます。花嫁なる教会は花婿なるキリストとやがて婚宴をもつことになるのですがそこには大いなる祝福と喜びが約束されています。そして今はその婚宴への招待状がとどけられている時と考えてよいのでしょう。神の国の食事にあづかる人は幸いですねという客の言葉に主は、選民イスラエルを招待したが、彼等は色々理由をつけて食事の招きに応じなかったとたとえを語られました。ある人は畑を買ったから見に行くと、ある人は牛を買ったのでためしに行くと、そしてさらにある人は結婚したので行くことはできないと断ったため、招いた主人は、しもべに言いつけて町にいる人々や街道に出かけて行って誰でも、無理にでもつれて来るように命じます。勿論断った人達は誰一人食事の恵みにあずかることはできなかったのです。この事は今の私達にもあてはまります。神の国の祝福に招かれているのは全ての人達です。しかし何と多くの人達がこの招きに応じないことでしょう。神は今、イエス・キリストの十字架の赦しという招待券を無料で与えようとしています。ある人は忙しいと言い、ある人はそんな食事は不用だと言いある人は関係ないというのです。又信者と言われる人でもイエスの祝福への招きに様々な理由をつけて断る事があるのではないでしょうか。天の恵みは、招きに応じるところに豊かだと言う事を覚えておきましょう。 |
| 聖書のことば 主人は言った.「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。 ルカの福音書14章23節 |
| 己を低くする者は高くされる ルカの福音書14章1〜14節 |
| 2003年8月10日第2聖日牧師山宮利忠 |
| これも安息日の日のできごとです。律法学者、多分サンヒドリン(議員)の一員であった者の招きによって食事の席に着いた主は、そこに招かれざる客を発見します。彼は当時神ののろいと思われていた水腫をわずらっていました。主は彼の内にいやされる程の信仰をご覧になったのでしょう。ひややかな視線の中で彼をいやして帰らせます。 主はそこにいる者達のあわれみとへりくだりのない様子をご覧になり、彼らに憐みと謙遜を教えられます。人より上座に座ろうとする者に、婚宴の席に招かれたら下座に座るように、そうすれば招いた人が来てどうぞ上座の方へお座り下さいとうながされて面目をほどこすになるだろう。又招く人に対しては、自分のお気に入りの仲間ばかりでなく、貧しい人や困難を覚えている人達を招きなさい。彼らは返礼ができないので、天に宝を積むことになると教えられ、規則を守っていればそれが敬虔であるかのように錯覚しているパリサイ人に真の在り方を示されました。 私達は生れついて誇り高いものです。ひとよりぬきんでよう、人を押しのけてでも出世しよう、功成りとげれば自分の業績を誇って銅像をつくり名を残したいと思うのです。しかし主は最終的に人を評価するのは神であることを示し、その神は己を低くする者を高くし、己を高くする者を低くされるお方だと語られました。真の謙遜を身につける事こそキリストの僕です。 |
| 聖書のことば なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ自分を低くする者は高くされるからで す。 ルカの福音書14章11節 |
| ああ、エルサレム、エルサレム ルカの福音書13章31〜35節 |
| 2003年 8月3日第1聖日牧師山宮利忠 |
| 勿論エルサレムは町の名だけではありません。選民イスラエルの不信と不従順に対するイエスの嘆きと悲しみがこめられた叫びです。めん鳥がひなを翼の下にかくまうように、いくたびも集めようとしたが、彼等はそれを好まず、己が道へ走っただけでなく、神が遣わされた預言者を殺したのです。 ここには、生んだ我子の離反の悲しみがあります。親鳥が精魂こめて育てたひなが、親の苦労も心遣いも意に介することなく親元から離れてわがままに行動する悲しみはひとしおなのです。現代多くの若者がプチ家出をし、携帯電話の多額の使用料を親に支払わせ、あげくの果てに警察の厄介になって親がひきとりに出向く親の痛みと悲しみに共通するところがあるように思われます。度々かばう親の愛も通じない嘆きがあります。 人の内には、どうにもならない罪の性質があり、たとえひとたび後悔したといえども、二度と同じあやまちをしない保証はどこにもなく、そのたびに反省をしても又同じ泥の中へ入りこんでしまう姿に幾度となくかばってみたがもうかばいきれない嘆きがあります。そしてその最後は、大きな悲しみと滅びが待っている事を知る親の悲しみがあります。主は私達をご覧になって嘆かれるでしょうか、それとも・・・? |
| 聖書のことば ああ、エルサレム、エルサレム、預言者達を殺し、自分に遣わされた人達を石で打つ者、わたしはめんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾度集めようとしたことか、それなのに、あなたがたは、それを好まなかった。 ルカの福音書 13:34 |
| 狭い門から入る努力 ルカの福音書13章22〜30節 |
| 2003年7月27日第4聖日牧師山宮利忠 |
| 努力するという言葉の意味は、この場合苦悶する、苦闘するという意味です。狭い門とは、いのちに至る救いの門をさしています。(ヨハネ10:9)あたかも迷路から出口を探し出すような努力を想定すると判り易いかもしれません。弟子の「救われる人は少ないのですか」という質問に対して、主は「努力して狭い門から入れ」と答えられたのです。 まず、神の国に入るためには自動的に入るのではない、という事が示されています。人は死んだら即天国と言うわけでも、クリスチャンの家庭に育ったから、エスカレーターのように救いへというわけでもなく、努力がなくてはならないというのです。この努力とはどんな努力なのでしょう。それは求めのための努力です。パウロは自分を見つめる時、そこにみじめな死んだ自分を発見しました。このような自分を救ってくれる方はどなたかと求め、苦しみ悩んだのです。求道の苦しみだけでなく、神の国に入れたとしても神の子として育ち天の御国へたどりつくまでには、多くの戦い、苦しみを経なければなりません。御国への門といのちの道は主キリストが備えて下さいました。この道をしっかりと歩みつづけるために、己の十字架を負って従ってきなさい。即ち自らを十字架につけて従うことを求められています。 ですから、この努力、戦いを勝ち抜くには、先に走っていた人が後になったり、後の者が先になったりすることがあるわけです。<聖書のことば> |
| 聖書のことば 努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますがはいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。 ルカの福音書13:24 |
| からし種とパン種のように ルカの福音書13章18〜21節 |
| 2003年7月20日第3聖日牧師山宮利忠 |
| 安息日に病の女性を解放した奇蹟を見た群衆は、その輝かしいみわざを喜びました。それは神の国の到来をあらわすみわざでもあったわけです。主は、神の国について語られ、それはからし種のようであり、又パン種のようなものだと教えられました。両方とも小さく、わずかなものであるにも係らずやがて大きくなる比喩として用いられています。即ち神の国のはじまりは小さいが、やがて世界に広がり、大きな影響力を持つというのです。たしかに、以来、数千年キリスト教は全世界に拡大してきました。しかし終末的にはキリストの完全な支配があることを暗示しています。からし種とパン種は、福音による救いです。人の内側に働いて、それは大きくなるのです。私達の間に働く神の国のすばらしさをしっかり確信して、御国の住人としての喜びにあずかりたいものです。内にいのちの種を持つ者は、いかにして判るのでしょうか。それはからし種のように小さな種が鳥がとまる程大きくなるがごとく、又わずかなパン種(イースト菌)が大きくパンをふくらませるように、著しい変化です。イエス・キリストを救い主と信じる者の内に働く力は、その人を変えます。しかもより良く変えるのです。そしてそれは弛みなく成長するのです。キリストを信じる前と信じた後の変化を数えて、自分が神の国の住人とされた事を喜べる人は幸いです。 |
| 聖書のことば 神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。 ルカの福音書13章18節 |
| 安息の日のいやし ルカの福音書13章10節〜17節 |
| 2003年7月13日第2聖日牧師山宮利忠 |
| 安息日(あんそくにち)は、天地創造の第7日目、神が創造のわざを休まれた事に由来した安息の日の創造です。この日は、仕事をせず神への礼拝と奉仕の日として聖別することが戒めで定められました。(出エ20:8) イスラエルの民はこの日を命がけで守らねばならなかったわけです。しかも細則をもうけて、この日を守ることに最も大きな力を注ぎました。ですからこの日に人をいやす等という事は、もってのほかだったわけです。しかしイエスはこの日18年もの間病に苦しんでいた女性をいやされます。彼女は腰をのばすこともできない不自由な体でありながら会堂に来て聖書を学び礼拝をささげていたわけです。主はこの苦しむ女性を豊かに憐れまれて、18年間の苦しみから解放してあげました。 ここには形だけを重視する形式主義者と神の前に何が大切なのかを判断することのできない者への強い警告があります。たしかに安息日を守る事は神のご命令ですから守らねばなりませんでした。しかし何のために守らねばならなかったかと言えば、それは私達の益の為に守る必要があったからです。この日は魂の解放の日、現在では復活の日であり、リバイバルの日です。永遠の安息を覚えて神を礼拝し、内なる癒しと力をいただく日なのです。キリストは安息日の主なのですから、主がこの日苦しみから解放された事は、私達にとって大いに喜ぶべき幸いな日です。 |
| 聖書のことば 安息日だからといってこの束縛をといてやってはいけないのですか。 ルカの福音書13章16節 |
| 実を結ばないいちぢくの木 ルカの福音書13章1節〜9節 |
| 2003年7月6日第1聖日牧師山宮利忠 |
| ピラトの虐殺事件も、シロアムの塔の倒壊事件もそれにあった人の災難に対して、彼等は罪深かったからだというのが当時の人々の考える事でした。しかしイエス・キリストは、そのようには教えませんでした。不幸な目にあった人々が特別に罪深かったからではない。皆同じであって悔い改めて神にたちかえることをしなければ同様に滅びてしまうと語られました。そのたとえとしてこのいちぢくのたとえを語られたのです。 三年間も期待を外された主人は、根を張って邪魔ないちぢくの木を切り倒してしまえと番人に命じます。すると番人はもう一年猶予を下さい。手入れをしてみます。もしそれで駄目なら切り倒しましょうと願います。果たしてこのいちぢくの木は実を結ぶことができるのでしょうか。それは極めて疑わしい。ただきり倒されるのを待つのみという気配がします。ただ望みがあるとすれば「悔い改める」ことです。 昔イスラエルは、預言者イザヤによってぶどう畑の預言が示されました。主人は畑をほりおこし、石を取り除き、良いぶどうの実るのを待ち望んだが甘いぶどうはならず、酸いぶどうができてしまったと、神の期待は見事に裏切られ彼等は、大いなる神の審きに会わねばなりませんでした。かすかな望み、すなわち一年の猶予があります。今は恵みの時です。十字架の赦しを信じ、神にたちかえる救いの日がしばらく残されています。 |
| 聖書のことば 番人は答えて言った。「ご主人、どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」 ルカの福音書13章8節 |