油断せずに祈っていなさい  ルカの福音書21章29〜38節
2004年6月27日第4聖日牧師山宮利忠
 十字架の死を目前に控えた神殿での教えは、世の終りにかんするものでした。弟子達の神殿のすばらしさへの驚きに対して、美しい神殿も近い将来破壊される事を通し、世の終りの大規模な破壊を予告します。その時をどのように迎えたらよいかが、最後の教えでした。

まず第一に、神の国の実現が近いことを知る事です。(31節)木に若芽が吹けば、夏の近いことが判るとしたら、世の終りのしるしが見えてきたら、最後の時が近いという事を悟る知恵が必要なのです。知らなければ備えることはできません。拠りどころとなる聖書のことばは必ず実現するのですから。

第二に、よく気をつけている事です。(34節)キリスト再臨の時は、ノアの日のようだと(マタイ24:37)いわれました。人々の関心は、終りの時の事でなく自分の思いのまま世の事に心奪われ、全く終りがやってくる事を忘れているそんな時、突如としてキリストの再臨はあるので用心し、目を覚ましていなさいと勧められました。

そして油断せずに祈っている事です。(36節)いざという時にあわてる必要のないように、いつなんどき終りの日が来てもよいように、意識して信仰の目を開いているために祈っている事が必要です。神に会う備えをするとはどうすることなのかを具体的に考えましょう。

聖書のことば
しかしあなたがたは、やがて起ろうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに、祈っていなさい。
ルカの福音書21:36

頭を上げよ  ルカの福音書21章20〜28節
2004年6月20日第3聖日牧師山宮利忠
 1日に終りがあるように、始められたものには終りがあり、そしてこの世にも終りがあります。聖書は幾度となく世の終りについて明らかな終りがやってくること、イエスもここで明白に世の終りについて語られます。もし終りがやってくるとしたら、そのための備えをしておくことこそ賢い人の在り方ではないでしょうか。

世の終りのしるしの多くはエルサレム滅亡の時に実現しましたが、その規模は比較にならない程、ここで教えられた世の終りのしるしは大きく、破壊的で悲惨です。地震や疫病、自然の異変やキリスト教徒への迫害、そして教会の中にも呟きや裏切りがおこり、多くの者の愛が冷え、耐えられない程の苦しみが襲います。しかしそのような中でも福音は全世界に広められ、極限の苦しみの中で栄光の主が再臨されると予告されています。終末に向う前への警告として、目を覚ましつつ、あわてることなくまどわされることなく落着いている事が教えられています。そして安全だと思っている全てのものから逃れよ、ロトの妻のようになるなと警告されます。

そしてその苦しみのさなかに主は来られる、その時こそ背をのばし頭を上に上げなさいと命じられています。この時こそ主の約束が実現し、救いと信仰の正しさが証明される時であり勝利と確信の時です。世の終りに対し十分な備えをする賢い者でありなさい。

聖書のことば
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。購いが近づいたのです。
ルカの福音書21:28

忍耐して生命を勝ち取れ  ルカの福音書21章5〜19節
2004年6月13日第2聖日牧師山宮利忠
 当時エルサレムの神殿は、破壊されたソロモンの神殿の後イスラエルの民がバビロニヤから解放された後に建築された第二神殿と呼ばれる神殿が当時建てられていました。ソロモン神殿よりはるかに貧しいものであったと言われていますが、でもそれは見事な立派な神殿であり、人々がそれを見た時目を見張るに十分なものでありました。同じ記録をしているマルコ福音書には、弟子の一人が「これはまあ、なんとみごとな、何とすばらしい建物でしょう」(マルコ13:1)と言ったと記しています。

 主はこの神殿もやがて破壊され全てが崩れ去ると予告します。そしてそれはそのことばの通りA.D.70年ローマ軍によって完全に破壊されてしまったのです。しかし主は単にローマ軍による破壊される神殿の事だけを指して言われたのではなく、世の終りについて語られました。(マタイ24:3)

 そこで一貫して予告されている事は、この世の混乱と破壊、そして神を敬うクリスチャン達の苦難です。敬虔に生きようとする者は、迫害を受け、いのちの細い道を歩む者は、苦しみを受けると主は正直に信仰の道は、安易な道でないことを示されました。しかしこの苦難の道は、永遠の安息と栄光につながる道であり、しばらくの苦しみの道はやがて大いなる報いを受ける永遠の都へ通ずる道だと教えられました。そしてそこに到達するためには、忍耐が必要です。この忍耐は希望のある忍耐です。いのちのかかった忍耐です。

聖書のことば
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
ルカの福音書21:19

真の信者  ルカの福音書20章45節〜21章4節
2004年6月6日第1聖日牧師山宮利忠
 いつの時代にも、どのような世界にも偽り者は入るものです。当時の学者達は、権威欲と名誉欲のとりこでした。いかにも敬虔深くふるまい、人々から尊敬をこめてあいさつされることを好み、常に軽んじられることを嫌う、主イエスのしもべの姿とは比べようもない程滑稽な人々でした。こういう人達が、民の指導者だった世は推して知るべしです。弟子達も誰が一番偉くなるかを論じるような肉の思いがあった事を忘れてはなりません。主は仕える者こそ最も偉いのだと教えられ、自らその範を示されたのです。

一方宮には、真実な信者もみられました。多くの人達がささげものをする中に、一人の貧しいやもめが礼拝に来ていました。豊かな人達があり余るなかから献金をする中で、彼女は最小単位のレプタ銅貨二枚をささげたのです。主はこの女性の中に信仰の真実をご覧になります。このレプタ二枚こそ彼女のその日の生活を支える全てだったからです。ささげものの大小ではなく神に対する信仰と愛がこめられているかどうかなのです。主は何をご覧になったのでしょうか。

第一に、犠牲の伴う信仰です。痛みの伴う犠牲こそ真の犠牲です。アブラハムは我が愛する独子イサクを献げました。献金は献身が伴ないます。第二に、喜びをもって献げる信仰です。おしむ心は献げ物ではありません。第三に、信仰の伴う献金です。明日を神に委ねる信仰があれば献げられます。

聖書のことば
それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなた方に告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。」
ルカの福音書21:3

ダビデの子・主  ルカの福音書20章41〜44節
2004年5月30日第5聖日牧師山宮利忠
 今度は、イエスが質問します。「どうしてキリストをダビデの子と言うのか」と。詩篇110篇の引用をして「主は私の主に言われた」即ち「主(ヤハウエ)は私の主(キリスト)に言われた」のは、私、即ちダビデがキリストを主と呼んでいるわけだから、あなたがたが期待しているダビデの再来としてのメシヤというより、さらに大きく広い意味での人類の救済者、いのちの根源たる油そそがれたメシヤではないか、とイエスは問いかけられます。

勿論メシヤがダビデの末から来られることを否定しているのではありません。まさしくイエスはダビデの家系からお生まれになったのです。しかし彼等が自分流に考えているメシヤ観を是正しようとされて、このような質問をされたわけです。

わたしたちは、自分なりにイエスという方を受けとっていないかを考えてみなければなりません。メシヤに関する多くの資料を持ちながらも、イスラエルの民や指導者達は、ダビデの再来、国の復興、世界覇権への勝利者としてメシヤを期待しました。自分に都合のよいように神たるお方を受け入れる人間的弱さは、私達にも大いに存在するのです。私にいのちを与え、私の支配者、所有者としての主、あらゆる事に計画をもたれ、それを完全に実行される神としての主を、「我が神、我が主よ」と崇めたいものです。

聖書のことば
すると、イエスが彼らに言われた。「どうして人々は、キリストをダビデの子と言うのですか」
ルカの福音書 20:41

今も壮健です  ヨシュア記14章10〜12節
2004年5月23日第4聖日牧師山宮利忠
85才のカレブは、約束の地に入った後、強敵のいるへブロンの山地をヨシュアに申し出て征服し自らの相続地としました。神に従い通したことがカレブが壮健であることと、勝利を得た事の秘訣であったと聖書は記しています。(14)

モーセは80才で神から出エジプトの使命を受けて遣わされ、見事にその任を果しました。200万にも及ぶ民を荒野から約束の地へ導く行程は、実に困難であったことが記録されていますが強靭な精神力と信仰によってその務めを果たすのです。年を重ねるという事は、肉体的には衰えがみえたとしても内的には、多くの知恵を体得し、先見の力を身につけたすばらしい器となったという事であり、特にキリスト信者にとっては、永遠への行程の一段階にすぎません。

年をとったから若者に働きを譲ろう、引っこんでいよう等という考えは、神からの使命も将来への希望も持たない者の言うことであり、若者には若者のなす分があり、年輩者には年輩者のなす分があって、天に召されるまでみ栄えのために尽くす責任があるのだという自覚が必要です。

この世の働きから解放されたなら、専ら主の働きのために自分自身をお献げできる時がやってきたと考えるべきではないでしょうか。それまでは家族の為、自分の為に時を費やしたのです。これからは主の為に時を費やそうと願う方々が多くおこされるように祈ります。

聖書のことば
モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。
ヨシュア記14:11

神との生きたかかわり  ルカの福音書20章27〜40節
2004年5月16日第3聖日牧師山宮利忠
ユダヤ教の一派サドカイ派は、上層階級の者が多く復活を信じる者達ではなかった為、旧約律法にある家系の存続のために定められたおきてをたてに復活がいかに愚かな結果を招くかをついてきます。

しかし主はこの愚かしい質問を見事に退けてしまわれました。その答えの要点の第一は、天の御国では、とついだりめとったりするこの世の延長ではなく、そのような事のない全く新しい世界だという事です。イエス・キリストが与えて下さる霊のいのちは、たとえ肉体が滅びても生きる永遠のいのちですし、そのいのちは新たな霊の体をもって復活する約束を主イエスはお与えになりましたが、その初穂は主ご自身の復活体でした。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(第一コリント15:44)その時には、もはや今の世の全てが新しくされ、ただ栄光の神をほめたたえる神の子として天国の住人となり、以前のものが全て過ぎ去るのです。

第二は、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だという事です。いのちの根源である神は人を生かすことのできるお方であり、神に生かされる時にこそ人は本来あるべき人の姿になり、死のむこうに永遠の故郷をみつつ今の肉の世を生きることができるわけです。神との生きたかかわり方ができるために御子キリストは、この肉の世に来られ生命を与えて下さいました。

聖書のことば
神は死んだ者の神ではありません。生きた者の神です。
ルカの福音書20:38

めぐまれた母マリヤ  ルカの福音書1章26〜35節
2004年5月9日第2聖日牧師山宮利忠
今日は、母の日です。一年に一度改めて母に感謝の時を持つ事は意義のある事です。聖書には大勢の母親が登場しますが、中でもメシヤを宿したイエスの母マリヤは、最も不思議な体験をした母であり、めぐまれた母でした。何故ならば、救主メシヤを宿し、メシヤと共に歩み、メシヤの苦しみと喜びを経験した母だからです。彼女のすばらしさを学びましょう。

第一に、マリヤは、驚くべき知らせを受けとめる信仰の心を持つ人でした。未婚でありながら、受胎するという不可思議な宣告を突然受けた困惑と恐れは、言葉にあらわすこともできない程のものであったに違いありません。しかし、マリヤは、何故かと問うのではなく、どのようにしてとその方法について問い、神の全能を示された時、それを心に受けとめて、思いめぐらす信仰の心を持っていました。

第二に、おことば通りになるようにという謙虚な心を持つ人でした。自分の思いを優先させるのではなく、自分のふつつかさや弱さを認めて、みこころがなされるようにと謙虚な心を持っていました。みこころに従う道は決して平坦な道ではないでしょうが、神のみこころに従うのです。

第三に、救主を宿す恵まれた人でした。文字通り、内にキリストを宿し、共に歩み、苦しみと喜びを共にします。十字架の苦しみと復活の喜びを共にします。主を信じる者はメシヤの母です。

聖書のことば
御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられます。」 
ルカの福音書1:28

一致を保ちなさい  エペソ人への手紙4章1〜6節
2004年5月2日第1聖日牧師山宮利忠
エペソの教会への勧めは、一致を保てという事でした。キリストのからだである教会は、このエペソ書の中心テーマであり教会の本質的姿は、一つである事です。そこにはキリストによって与えられた強力なつながりがあります。

ここで注目すべき点は保つというおことばと、召しにふさわしく歩めという勧めです。教会には一致が必要であり、一致がある時教会の真の力を発揮することができる事は、人の体を考えてみれば容易に理解できることですが、ここでは一致をつくり出せと勧められていません。既に与えられている一致をしっかりと保ちつづけなさいと勧められています。

何故ならば一つ体に加えられ、頭は一つ、そして仕えるべきお方は一人、望みも一つだからです。教会に加えられた瞬間に一つとされたのだという明白な認識が必要なのですが、たとえどうであろうと既に一致があるのです。

さらに召しにふさわしくと勧められています。召しにふさわしくなれと勧められていません。召しにふさわしくされたのですから、そのふさわしさをあらわしなさいと勧められているのです。そのふさわしさは謙遜、柔和、忍耐、愛、平和です。これらはキリストを信じた者に与えられています。ですからこれをあらわす事が私達の務めなのです。そこに教会の祝福があります。

聖書のことば
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
エペソ人への手紙 4:3

神のものは神に返しなさい  ルカの福音書20章20〜26節
2004年4月25日第4聖日牧師山宮利忠
ローマに税金を納めるべきかどうかという議論は当時さかんに行われたものでした。14才から65才までの成人男子の税額は1デナリ(1日の労賃)でしたから大したものではありませんでしたが熱狂的ユダヤ人はカイザルへ税を納めることには反対でした。それは彼等の民族的、宗教的見地からできないものでした。従ってカイザルかキリストかというこの問いは、両刃の剣だったわけです。納税に反対すれば反逆者として訴える口実ができ、賛成すれば民衆の心はイエスから離れることになるというわけです。

しかし主は実に知恵深く処せられました。「カイザルのものはカイザルに神のものは神に返せ」と言われたのです。貨幣には王の肖像が刻印され王の所有が主張されていました。この世に生きる限り社会の秩序に従い善良な市民であるべきなのです。そこにも神の支配が及んでいるのですから、しかし神のものは神に返さねばなりません。

神のものとは何でしょうか。第一に、礼拝です。礼拝すべきお方はただ一人、天地万物を創造し、支配なさる神のみなのです。このお方以外のものを神のごとく崇拝してはならないのです。第二に、主の日です。日曜日は私の日ではなく主の日として主に仕える日です。この日を礼拝と奉仕の日として主にささげるべきです。第三に、主の物を返す事です。主に買いとられた体と収入の10分の1です。

聖書のことば
すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
ルカの福音書20:25

捨てられて礎の石となる  ルカの福音書20章9〜19節
2004年4月18日第3聖日牧師山宮利忠
悪い農夫のたとえは、イエスの十字架の死と復活に深い関係があります。このたとえを聞いた指導者達は、自分達の事と言われているのだと気付いてイエスを捕えようとします。ステパノはこの点を指摘し最初の殉教者となりました。(使徒7:51〜52)

ここで示されている悪い農夫は、主人すなわち神のものを預っていながら年貢を納めないばかりか、ぶどう園そのものを自分のものにしようとし、しかも度々しもべ(預言者)を遣わしたにもかかわらず袋だたきにしはずかしめて送り帰し、最後に送られてきた主人の息子(イエス)をも殺してしまいます。

農夫達は、あと取りでも殺してしまえば農園は自分のものだと考えましたが、彼等は主人がいる事を忘れていたのです。それはイエス・キリスト、神の独子を殺しても、父なる神を殺すことができないのと同じです。彼等が打ち殺して捨ててしまったイエスは、復活して勝利をおさめたのです。それはまさしく、価値のない見栄えのしないと思って捨てた石が、建物の大切な要の石となったという事です。

私達は今、この農夫のように神のものを自分のものだと主張し、神の忍耐と愛を軽んじ、信じないという大きな罪を犯しつつ、神の祝福を私(わたくし)している者ではないでしょうか。イエス・キリストを捨てるなら、このお方こそやがて重要で、大いなる力をもつ礎の石としての存在となるでしょう。

聖書のことば
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」と書いてあるのは、何のことでしょう。
ルカの福音書20:17

苦難と栄光  ペテロ第一の手紙1章3〜11節
2004年4月11日第2聖日牧師山宮利忠
小アジア各地の教会が迫害の中で苦しむ時、ペテロは励ましのためにこの手紙を書き送ったもので、何故キリスト教徒が厳しい迫害の中でそれに耐えることが出来るのかが示されています。

その最大の理由は、キリストの苦難とそれに続く栄光です。ステパノの殉教死以来聖徒達は、あらゆる時代に言語に絶する迫害にさらされてきました。しかし多くのクリスチャン達は、自らの信仰を捨てようとはしなかったのです。

彼等を支えたのは、イエス・キリストの苦しみでした。受難と言われていますが、まさしく罪なきお方のいわゆる苦しみであり、肉体的苦痛は、当時の処刑法の中でも最も非人道的なものでありました。死の恐怖と人に捨てられた呪いの十字架刑は、父なる神に捨てられる瞬間がその最高点であったろうと思われます。しかし御子は、父に与えられた使命に最後まで従順に従われ、人類の罪を一身に負われて十字架の処刑をお受けになられたのです。それはメシヤとしてふさわしい事でした。

慰めの神は人生の苦しみと悲しみの中にある者に、このイエスの受難を通して真の慰めを与え、さらには、三日後の復活により、苦難の後に栄光があることをお示めしになられたのです。死はそれまで勝利者でした。しかしメシヤの復活はその死に勝利し、私達に生きる望みをお与え下さいました。真のメシヤであるからこそ苦しみと復活を通して人類に救いの道を開くことがおできになりました。

聖書のことば
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
第一ペテロ 1:11

私は知りませんと言いますか  ルカの福音書20章1〜8節
2004年4月4日第1聖日牧師山宮利忠
 祭司や律法学者達のような民の宗教的指導者達は、ナザレから出たイエスが、多くの不思議な奇跡と教えをする事に快くおもっていないだけでなく、そのねたみと憎しみは、殺そうというところまでに至っていました。この箇所も訴える口実を得るための論議です。多くの人に歓呼して迎えられ、神殿での商売人を追い散らす主に、何の権威で、誰の許しを得てそんな事をするのかと迫ります。
 知恵のある主は、バプテスマのヨハネの例をあげて、真の権威の所在を示します。まさしくヨハネは預言者として、神から権威を受けて人々に語った神の器でした。彼等が知りませんと答えたのは、自らの欺瞞を明らかにした事に他なりません。
 真の事に直面した時、私達にはそれに答える責任があります。知りませんという答えは、答えになっていない事は勿論の事、正しいものをつかむ機会を失うことになるのです。
 「あなたは、わたしを誰と言うか」との質問に誰でもが答えねばなりません。ヨシュアは不信の民に、「あなたの仕えるべき神を今日選べ」(ヨシュア  24:15)と叫びました。
 イエス・キリストは、我々を救い得るまことのメシヤか、そうでないか、その問いに、知りません、わかりませんという答えはゆるされないのです。何故ならそれこそが自らの運命を決定してしまうからです。
聖書のことば
するとイエスは、「わたしも 何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。
ルカの福音書 20:8