| まさしくわたしです ルカの福音書24章36〜43節 |
| 2004年12月26日第4聖日牧師山宮利忠 |
| 死から甦られたキリストは、闇の支配の中にあったマグダラのマ リヤにそして背信のペテロに、失意のクレオパ、疑い深いトマスそして反対者サウル(パウロ)にご自身をあらわされました。主の憐れみの深さを教えられます。弟子達は、主の復活がなかなか信じられませんでした。夢か幻か、はたまた霊かと戸惑うのです。しかし主は甦られた姿が決して霊ではなく、はっきりと人が触れることのできる体であることを、釘で打たれた手と足を示し、さわって、よく見なさいと言われ、さらには焼魚を食べてみせて甦られた霊体であることを強調されました。 後に同じ復活の主によって回心したパウロは、コリントの手紙の中で「血肉のからだがあるのですから、御霊(みたま)のからだもあるのです」(第1コリント15:44)と教え、復活する者には、栄光のからだと言われる霊のからだがあることを教えています。イエスの復活体は、肉体とは著しく変えられたからだであった事は確かですが「わたしの手、わたしの足を見なさい」と言われて、その手の傷跡があり、その声も主の声と変らず、たしかに主キリストと認められるお姿であったわけです。このからだは復活の「初穂」と言われ、やがて天に籍を持つ者に与えられる姿だと約束されています。(第1コリント15:20) なによりも我主は、活きておられ、信じる者と共におられ、教え 助け導き豊かに報いて下さる現実のお方だという事は、何とすばらしい事でしょう。 |
聖書のことば わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。 ルカの福音書24:39 |
| 何故祝う、クリスマス ルカの福音書2章11節 |
| 2004年12月19日第3聖日牧師山宮利忠 |
| 全世界でこの時期クリスマスの祝いがされます。クリスマスはメシヤなるキリストの御降誕を祝うことであることはほとんどの方が知っているとしても、その事はともかくとしてなんとなく雰囲気と年の暮れということで、お祝いをしようという人が多いのではないでしょうか?何故クリスマスが数千年にわたって祝い続けられてきたかを聖書の教えにたって考えてみましょう。 まず第一に、キリストの誕生は、真の神がいますことのあかしだからです。人類の堕落以来神は、様々な方法でご自身を表わして下さいましたが、特にメシヤ、救い主来臨の預言は、まことの神がおられることをはっきりと私達に示すものです。 第二に、その神は、イエス・キリストによってあらわされた神であることが明らかにされたからです。(コロサイ1:15)ヨハネは「ことばは神であった」と記しさらに「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と記します。神はどのような方かと言えば、キリストのご性質とその生涯によってあらわされたと言えるのです。そして最後に、神はメシヤとなって私達を救う為においでになられた、という大いなる出来事だからです。罪と死の絶望の世に赦しといのちをお与えになる神のよろこびのおとずれこそ、クリスマスの喜びなのです。 |
聖書のことば きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 ルカの福音書2:11 |
| 目を開かれた弟子 ルカの福音書24章11〜35節 |
| 2004年12月12日第2聖日牧師山宮利忠 |
| よみがえられたキリストを12弟子達に伝えに行った女達は、即座 に「たわごと」と思われてしまいます。長年キリストの教え
を耳にし体験してきた使徒達でさえこの始末ですから、その後の人達がキリストの復活を否定するのは、無理もないことなのでしょう。 ルカは、エルサレムの西11kmにあったエマオに戻る二人の弟子の感動的なイエスとの出会いを記録に残しています。その二人の内の一人はクレオパと言う弟子で(18)、彼等はエルサレムでの出来事を見て既に三日経ち、あのイエスの行いにもことばにも力があったイエスへの期待が完全に打ち破られて失望と落胆の内に自分の村へ戻るところだったのです。主は、この二人の落胆を放置なさいませんでした。 まず主は、一人の旅人の姿で近づかれます(15)。彼等はこの方 がイエスだと気付くことができませんでした。主があまりにも変えられてしまっていたからでしょうか。たしかに栄光の体、新しい復活体は、著しく変えられた御体であったことは確かだと思います。しかしそれ以上に彼等の心がさえぎられ、期待と信仰が消えていたのです。主は「心の鈍さ」(25)を指摘されます。彼らは幸いにも主を自らの家に招き入れ、親しく交わります。そこで、彼等はそのお方がイエス・キリストであることに気付くのです。泊るように願わなかったら、心の熱くなる経験も思い出さなかったでしょう。 |
聖書のことば 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。 ルカの福音書24:30−31 |
| その名は不思議な助言者 イザヤ書9章2節〜6節 |
| 2004年12月5日第1聖日執事 梅田信一 |
| イエス様のお生まれになる700年も前にイザヤはこの預言をしました。「不思議」は「すばらしい」とか「驚くべき」とも訳されています。皆様はよい助言者、相談者を持つておられますか? 節目の岐路での選択、困難な状況や解決しなくてはならない問題を抱える時に、適切な助言者が傍におられるのは幸いな事です。イザヤは未だ見ていないイエス様を不思議な助言者であると記しましたが、私たちは新約聖書を通して全てを見る事が出来ます。 1.私が実行出来る助言を与えてくださいます。どんなに素晴らしい手段や道が示されても、私が実行できなくてはどうにもなりません。しかし、このお方は私の全てを知ったうえで助言を与えて下さいます。安心して従うことができます。 2.このお方の言葉には力があります。この助言の言葉には力があります。不思議なことに、そこにはどんな状況でも慌てることのない、平安があります。このお方の言葉は私を前に進ませ、進むべき道を示してくださいます。 3.最後の難関をも乗り越えさせてくださいます。私たちの最大にして避けられない最高の困難「死」に解決を与えてくださいます。このお方はこの困難に際し手を貸して下さり、私を天の都まで導き入れてくださるお方です。ですから今も将来も安心と平安があります。 |
聖書のことば ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にある、その名は、「不思議な助言者」 イザヤ書9章6節 |
| 生きている方を死人の中で探す ルカの福音書24章1〜10節 |
| 2004年11月28日第4聖日牧師山宮利忠 |
| ルカは、甦られた主を強調して記して言うように思えます。他の福 音書特にヨハネ等は、マグダラのマリヤと復活の主との出会いを記していますが、ルカは、女たちとだけ記し10節で名を 挙げるにとどめます。まばゆいばかりの衣を着たふたりの人をマルコは「青年」と記し、マタイは「主の使い」、ヨハネは「ふたりの御使い」と紹介しています。異なる記述がかえって真実さを増しています。彼等(天使)は女たちにキリストの甦りを伝えますがその伝え方は極めて印象的で「生きている方を死人の中で捜すのか」というものでした。 イエス・キリストは、死に勝利して甦られ生きておられる、このお方に会うことこそが信仰です。聖書は「イエスが神の子キリスト(救い主)であること」(ヨハネ20:31)を信じさせるために記されたものであって、その主体は生けるキリストご自身であることを覚えねばなりません。この生きたキリストとの係りは、この女たちが朝早く死せる者の墓にキリストを探しに行った行為の中に見出すことができます。「イエスののことば」を思い出して(8)その真実さに気付く時、人は不信の時代の中で、生きておられるキリストと出会うことができます。求め、見出し、会うというキリストご自身との直接的な係りこそが、キリスト教徒の力となります。 主イエスは生きておられて、信じる者を助け導いて下さいます。 |
聖書のことば 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなた方は、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」 ルカの福音書24:5 |
| 救いはただ恵みによって エペソ人への手紙 2章1-10節 |
| 2004年11月21日伝道師 安藤修司 |
| 恵みによって救われるとはどういうことでしょうか。 第一に、思いがけない顧みです(2:1-4)。 人類はみな「自分の罪の中に死ん」でいました。いのちの源である神と断絶、死に定められ、抜け出せない状態に、生まれながらあったのです。しかもこの悲惨な状況にありながら、真の神を求めず、自分の欲望を満たすものを神として生きてきました。この「生まれながら御怒りを受けるべき」私たちを主は愛して救おうとして下さいました。 第二に、思いがけない犠牲です(1:4-7)。 神は罪人の悪を忍耐し、救い主が来られる準備をされました。そして御自身のひとり子を神のあり方を捨てて遣わして下さいました。私たちが罪赦されるため、御子を私たちの身代りに十字架にかけて下さいました。私たちを救うために御子を三日目によみがえらせ、公けに示して下さったのです。 第三に、思いがけない祝福です(2:5-10)。 信じる者に与えられる祝福は、永遠のいのち:キリストと共にいつまでも生きる、新生:キリストと共に罪に死に生まれ変わる、キリストと共に天の位をいただくこと、救いの福音を委ねられ神の栄光をあらわす生涯を送ること、そして何よりキリスト自身を与えられることです。これらの思いがけない恵みをいただくために必要なことはただ1つ、信じて受けるだけです。 |
聖書のことば あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 エペソ人への手紙2章8節 |
| 遅かった勇気 ルカの福音書23章50〜55節 |
| 2004年11月14日第2聖日牧師山宮利忠 |
| イエスの死体は、アリマタヤ出身のヨセフに引き取られて未使用の墓に葬られました。このヨセフという人物は、当時のユダヤ人議会の議員の一人で金持ちであり、イエスの弟子となった人でありました.(マタイ27:57)しかしヨハネの記録によれば「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」(ヨハネ19:38)と言われています。十字架上で息をひきとられたのを見てヨセフは「思い切って」(マルコ15:43)ピラトに死体の引き取りを申し出て議員としての肩書きに物を言わせます。 たしかに彼は立派な人物で、神の国の到来を待ち望む者ではありました。しかも他の議員達と行動を共にしなかったイエスの死刑反対者でした。しかしこの有力な議員の表だった反対があったら事態はどう変化していたか判りません.勿論十字架刑は、神の定められた不可避のメシヤの定めでありました.だがヨセフという人物の神への信仰者としての在り方は、死後の勇気よりイエスの生前の勇気の方がほめられたにに違いありません。この時ニコデモもやってきます.彼も夜ひそかに他の目をはばかって主の教えを乞うた者です。 どんな時にも私たち死後の愛より生前の愛を勇気を持って果たす者になりたいものです。 |
聖書のことば この人は、議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。 ルカの福音書23:5 |
| 絶望の壁を破る聖書のことば 第一コリント10章13節 |
| 2004年11月7日第1聖日伝道師 安藤修司 |
| 苦しい経験の中で、まるで自分だけがこんな苦しみに遭っているように思えることがあります。「だれも自分の苦しみを分かってくれない」と閉じ込もったり、「道を踏み外しても仕方がない」と開き直ってしまいがちです。 しかし聖書の神、イエス・キリストは、私たちの苦しみをご存知です。神のひとり子であり罪のない方であるのに、人類のもっとも罪深い憎悪と非道を受けられて十字架にかかられました。人類を愛して救おうと来られたのに拒まれたのです。そして父に見捨てられ、十字架で苦しみ抜かれて死なれました。しかし、御自身を拒んだ私たち人類を赦して救うために、三日目に死からよみがえられました。「主は、御自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18) かつてはキリストを拒んで迫害者であった使徒パウロが、救われ宣教師として労苦する中でこのようにあかししています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」人生には、予期せぬ出来事があります。期待していた道が閉ざされ、出口の見えない試練が続きます。しかし聖書のみことばは、どんな時にも私たちを励まし慰め、誘惑や試練に耐え抜く力を与えてくれます。 |
聖書のことば あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。 Tコリント 10章13節 |
| この曲がった時代から救われなさい 使徒の働き2章37〜42節 |
| 2004年10月31日第5聖日伝道師安藤修司 |
| ペテロは、メッセージに心刺され救いを求める人々に、信じてバプテスマを受けるように命じました。しかし彼の教えはそこで終わりませんでした。彼は、多くのことばをもって「この曲がった時代から救われなさい」と勧めるのです。このことばは何を私たちに訴えているでしょうか。 第一に、人間世界そのものがサタンによって捻じ曲げられていることです。創造の時、すべては良いものとして造られました。しかし人が神に逆らって堕落した後、造られたもの、人が良かれと思って造り出したあらゆる考えや働きは、逆に人を支配して神に逆らわせるものになってしまいました。 第二に、私たちは曲がった時代そのものから救われる必要があることです。救い主を十字架に掛けてしまったイスラエルの民族主義、律法主義、世俗主義、民衆の自分勝手は、今も形を変えて人を神に逆らわせ滅びをもたらしています。私たちはそこから救われなくてはならないのです。 第三に、キリストを信じバプテスマを受けることは、曲がった時代に勝利する出発であることです。私たちがイエス様を信じて救われるのは、個々の罪を赦され天国に入るためだけではありません。曲がった時代から救われ、神が願っておられる人本来の幸いな考え方、生き方を回復し、地の塩・世の光として神の救いを世界全体に広めてゆくためです。。 |
聖書のことば ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。 使徒の働き2章40節 |
| 我が霊を御手に委ねます ルカの福音書23章44〜49節 |
| 2004年10月24日第4聖日牧師山宮利忠 |
| キリストの苦難は、天地も揺れ動く程のものであったのでしょう.光は暗くなり地はふるえ、岩は裂け、12時から3時に至ります。しかしこのメシヤの死こそ人が神のもとへ戻る唯一の道の開通でした。神殿の幕が裂けます。この幕は聖所と至聖所をへだてる幕で至聖所へは年に一度だけ大祭司が入る事がゆるされる場所でしたが、キリストの血による犠牲は、もはや動物による犠牲や旧約で定められた制度が廃止され、誰でもが恵みの座にはばかることなく近づくことができる事を示すものです。 主は最後に大声で「わが霊を御手に委ねます」と叫んで息をひきとられました。全てのものは神のもの、神のかたちを宿す人も神のもとへ戻ることこそ真の在り方です。委ねるお方を持つ者は幸いです。私達が人生を終える時“我が霊を御手におゆだねします”と祈る事ができるという事は、自分の行く場所があるという事です。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来てあなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:2〜3) |
聖書のことば イエスは大声で叫んで言われた。「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。 ルカの福音書23:46 |
| 葬儀に思う ルカの福音書23章39〜43節 |
| 2004年10月17日第3聖日牧師山宮利忠 |
| 教会における葬儀の度毎にいくつかの事が心の思いを占めます。 第一に、誰しもが、自らの死の準備をしなければならないという事です。死は必ずやってくるものですから、賢い人は自らの死の備えをするはずです。ただ葬儀の備えというだけでなく、死にのぞんでの心備え、いつやってきてもよいようにしておく準備と共に、死後への備えが必要です。葬儀は本人の意思に関係なくのこされた者が行わなければならず、その時は安らかにと願われるのです。本当に安らかな死後の魂の保証を持つ者であれば、その願いは偽りのない願いとなりましょう。しかし死への解決なくして亡くなるのであれば、その願いは空しく、ただ言葉だけの慰めごとで終らざるを得ません。自らの死のむこうに約束の地への希望を持って生涯を閉じる方は、自分自身も又送る人にも喜びを与えることになります。しかしその逆は偽善です。 第二に、家族の死に関してです。救いをいただいている者は御国への約束があるので葬儀に関しても、死後に関しても1時の悲しみはあったとしても心の奥には安心感がありますが、救われていない家族がある時に、真に聖書のおことばを信じている者であれば、永遠のゲヘナの火に苦しむ情景を思い浮かべないことはないでしょう。それはいっときも我慢のならない事であるに違いありません。たとえ教会で葬儀が行われたとしても、それで天の御国へ導かれるわけではありません。葬儀を迎える度にあなたは何を思いますか。 |
聖書のことば あなたは、あなたの神に会う備えをせよ。 アモス書4章12節 |
| わたしと共にパラダイスにある ルカの福音書23章39〜43節 |
| 2004年10月10日第2聖日牧師山宮利忠 |
| カルバリの丘の上に三本の十字架がたてられました。イエスは真中、その左右に強盗がつけられたことは、イエスも同等だという意味でしょう。しかしこの辱しめの只中でも神の恵みは豊かであります。 まず第一に、ピラト・ヘロデについで犯罪人の一人の口を通して、イエスの無罪性があかしされます.「この方は、悪いことは何もしなかった」と、そして彼は、手足を釘づけにされたまま、自らの人生を顧み、罪の告白とイエスへの信仰の告白をするのです。悔い改めるのに生きている限り遅すぎる事はありません。キリストを信じるのに遅いことはないのです。神はいかなる罪人であろうと、その回心のわざによらず、砕かれた心と主への信頼によってのみ、赦しといのちをお与えになります。 第二に、今日と主は言われました。十字架刑が一日にして死を迎えることはまれです。この強盗がたとえ死を迎えるのに幾日がたとうとも、パラダイスにはきょう入ると言われるのです。イエスはまさしく、御国の門を開くお方です。しかも誰でも主の御名を呼び求める者は、この恵みにあずかることができます。そして主と共にある者は、既に今パラダイスにあると言ってよいのです。死を待つことなく今既に神のものとされ、神と共に生き、御国の住人として生きるのです。まさしく「目ざめていても、眠っていても主と共に生きる」のです。我が国籍は天にあり。 |
聖書のことば イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。 ルカの福音書23:43 |
| 彼らをお赦し下さい ルカの福音書23章32〜38節 |
| 2004年10月3日第1聖日牧師山宮利忠 |
| 「父よ彼らをお赦し下さい」は、ルカ独自の記録です。メシヤの苦痛に関して記すことなく、捨てられたメシヤの姿と、ご自分をあざけり苦しめる者を赦そうとされる、真のメシヤの姿を示します。 まず、十字架におかかりになるイエスに旧約で預言されている事柄が、次々と実現している事が判ります。二人の犯罪人の間に十字架につけられること、イエスの衣が分けられること、民と指導者のあざけり、キリストなら自分を救えとののしり、酸いぶどう酒を飲まされる事等等、沈黙の内に十字架にむかわれた主の身のまわりには、旧約の神のおことばがやつぎばやに実現しています。 彼らは「他人を救った」ことを認めます。だから今度は「自分を救ってみろ」と言います。自分を救わないメシヤこそ本当のメシヤであることに気付いていません。ですから主は、「何をしているのか自分でわからない」と祈られるのです。何をなすべきか、自分のしていることがどういう結果をもたらすかを知らない事程不幸なことはありません。自分の生涯が何のためにあり、何のために働き、何のために生きているかを知る者は、さいわいです。 イエスは、父よ赦して下さいと祈られました。赦して下さいと求めていますから赦してくださいというのではなく、赦しなど必要としないと思っている不敬虔な者のために赦して下さいと祈ります。 |
聖書のことば 父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。 ルカの福音書 23:34 |