聖書からのメッセージ

【礼拝説教要旨】

まことの独立と赦し  詩篇69篇 
2006年11月26日第4聖日 牧師 山宮利忠
 独立とは単独で存在し他に支配されない事です。しかし人は他に依存せずに存在することはできません。 人の助けや物による支え、神の創造のみわざである被造物の中で生かされているわけですから、 しかし大切な事は、何に依り頼むかなのです。真に依頼むものに依り頼むことこそまことの独立と言えるのではないでしょうか。
 詩篇にみられる一貫した姿は、人にも物にも依存せずただ神にのみ頼るまことの独立した信仰者の姿です。 勿論人や物や自分を大切にしないという事ではありません。それがいかに頼りにならないものかを知り、 全てのものの背後にあって全てのものを支配しておられる全知全能の神に信頼を置くことこそ、 罪深いこの世にあってしっかりとした歩みをなし続ける秘訣だという事を教えてくれます。
 この詩にみられる作者の姿は、この世の全てから捨てられたメシヤのような姿です。 それを示すかのように新約でのこの詩の言及が17ヶ所にも及び、 ほとんどが救い主キリストに関する言及であることに表されています。すなわちいわれなき訴えによる苦しみ、 神に従おうとすればする程受ける批難。旧約の教えに従って報復を願いますが〜

聖書のことば
しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。
詩篇69:13




魂の渇きを満たす神  詩篇63篇 
2006年9月10日第2聖日 牧師 山宮利忠
 水のない、かわいた荒野にいるような塊の状態を経験したダビデが、そのような苦しみの中にあって、真に魂を満たす者は、 神以外にないことを告白する信仰の叫びです。実際にダビデが荒野にあったのかどうか不明ですが、 少なくとも彼の生涯の中で荒野をさまよう経験は、何度かありました。

しかしたとえ身は荒野にあろうと、 内なる思いは聖所にあって礼拝をささげているがごとく、髄と脂肪で満ち足りるがごとき充満を経験しています。 肉体の渇きは、激しく水を求めます。人は水がなければ生きていくことはできません。 しかし霊の渇きを覚える人は多くはないでしょう。しかも霊の渇きを満たすのは、活ける真の神のみ、 そのあらわれであるイエス・キリストのみである事を知る人は、もっと少ないのです。

 主はある時サマリアの地で、水をくみに来た女に、この水を飲む者は、又渇く。しかしわたしの与える水を飲む者は、  永遠に渇くことがない(ヨハネ4:13、14)と言われ、霊魂を満たすまことの水を与える事が出来ると宣言なさいました。  人の魂を満たすものは、神以外にないことをダビデは知っていたのです。

聖書のことば

詩篇




神のおことばの豊かさ  ヘブル人への手紙4章12節 
2006年9月3日第1聖日 牧師 山宮利忠
 数千年に渡って神のことば聖書は、人類に多大な影響を与えつづけてきました。 今から3500年も前に記された聖書の一部が私達の手元にある事、そして何の不可思議な事もなく 読むことができること自体奇跡でありましょう。世界中の人々が最も多く読む聖書を学ぶことこそが教会学校の目的です。

 人が聖書に近づけば、罪と悪は遠ざかり、人が聖書から遠ざかれば、罪と悪は、人に近づくと言われます。
 第一に、聖書は、人を変えることができます。神のことばにいのちがあり、そのいのちが、 内に働いて人を造りかえるのです。これは不思議な神の霊の働きでもあります。 霊感をもって書かれた聖書は、聖い神の霊の働きによって信じる者の内に働き人を新しく生まれかわらせます。(第一ペテロ1:23)

 第二に、人を罪と悪から守ります。聖書のことばは、人を正しく整え、悪の道に入るのを妨げ、 神の性質を宿す働きをします。聖書の教えに多く触れることによって、人はキリストに似る者となり、 罪によって生じる多くの苦しみや悲しみから人を守ってくれます。

 第三に、希望と勇気を与えてくれます。たとえ艱難に遭うとしても、みことばによる励ましと力は、 人に勇気と希望を与え、挫折した人生を送ることをゆるしません。みことばを学びましょう。

聖書のことば
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣より鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、 心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
ヘブル人への手紙4:12




神によって力ある働きを  詩篇60篇 
2006年8月20日第3聖日 牧師 山宮利忠
 北からの侵入者との戦いにのぞんでいたダビデに南のエドムとモアブの軍勢が攻めてきて、 ダビデは前と後ろに敵を迎える事となって窮地に立たされます。みことばの記録によると将軍 ヨアブを急遽つかわすことによって、この危険な状況を脱することができましたが(第1歴代18章) この困難にぶつかった時にうたわれた歌であると表題は告げています。

ダビデの信仰は、若い時につちかわれて、その惰性で過すというものでも、 ある程度の事が判って信仰の卒業をしてしまったようなものでもありませんでした。 常に緊張感をもって神との係りを保ちつつ一生を過したのですが、そうさせたのは何であったかと言うと、 次々に起る戦いや苦しみや自らの失敗でした。人は楽な事より困難な事によって弱くもされるし、 強くもされるのです。

 ダビデの場合、両面戦争に遭遇した時、この苦しみは何故おこったのかと反省をしつつも、 自らの力の限界を知って、神のみわざに期待する信仰へと変えられていることが判ります。 「神によって力ある働きをする」という信頼こそ、ダビデを支えるものでありました。

聖書のことば
神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。
詩篇60:12




朝にあげる喜びの声  詩篇59篇 
2006年8月13日第2聖日 牧師 山宮利忠
 苦しみを克服する道は、活ける神にお委ねすることだとこの詩篇は、私達に教えてくれます。 なぜなら神は、正しい者を見捨てず、悪しき者に必ず正当な報いをされるからです。 この時には、苦しみから抜け出したダビデが、単にそれに耐えられたのみならず、 朝には、神をほめたたえる清清しい気持ちになっていることが印象的です。 神への信頼は、人の心の中の葛藤を見事に消し、平安を与えるものだということを教えられます。

 第Tサムエル記19章におけるダビデの状況は、サウル王のダビデ殺害の宣言の後、 息子ヨナタンのとりなしによって一時サウルの心は平静をとりもどしたものの、 再びダビデを殺そうと槍で突き殺そうとして果せず、 さらにダビデの家に兵士をつかわし朝には殺そうと計るのを娘のミカルのはからいで、窓から脱出するという、 危険極まりない状態が背景となっています。

 ダビデがどうして、朝明けには喜びの声をあげることができたのか、 その理由は、神に全てを委ねた時の平安、神は信頼する者を守られ、悪しき者から守って下さるという平安、 さらには神は悪しき者を必ずその大能の御手をもってさばかれるという信仰に裏付けられています〜

聖書のことば
しかし、この私は、あなたの力を歌います。まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。
詩篇59:16




正しい報いをされる神  詩篇58篇 
2006年8月6日第1聖日 牧師 山宮利忠
 この詩には、道徳的に無政府状態にある時、正しいさばきを行われる神の存在が宣告されています。 理不尽な暴虐と不正が、権力を持った者によって正しさの仮面をかぶって行われるところには、弱い者が抵抗しようもありません。 長い人類の歴史の中では、数え切れない程の、この種の行為が行われてきたのではないでしょうか。 力ある者とは、社会的地位のある者ととらえるのが妥当でしょう。 彼等は、表面的には正しく見えても、その内にあらゆる不正、貪欲があり、人を審きつつ、 自らも同じことを行う偽りと高ぶりに満ちた者達です。蛇使いの声に耳をふさぐコブラだと表現されています。

 しかしそれは母の胎を出た時からの生まれながらにして罪人(ローマ3:23)であるという事にほかなりません。 罪は万民にあり、力ある者だけでなく、全ての者が罪人であることをこの詩は、期せずして宣言しています。 作者は、不正の者への神の審きを願います。これはのろいでしょう。 詩篇の中にはこの種ののろいの詩篇が何篇か存在します。 たしかに私達の前には、のろいと祝福がおかれていると言えます。〜

聖書のことば
まことに、正しい者には救いがある。まことに、さばく神が、地におられる。
詩篇58:11




神の家にあるオリーブの木  詩篇52篇 
2006年6月4日第1聖日 牧師 山宮利忠
 アヒメレクは、祭司でしたがダビデを助けた理由で一族85人がサウルによって殺されました。 その時手をくだしたのがアヒメレクがダビデを助けた現場にいたドエグでした。彼のざん言によって祭司一族は殺されてしまいます。 ここには、神をおそれない者と神をおそれる者の大きな違いが、以上の背景のもとに歌われたものと思われます。 神をおそれない者の姿、鋭い小刀で人を切りつけるような言葉による暴力、善より悪を愛する罪の性質の傾向、 その行きつく先は根こそぎ破壊される結末だとうたわれます。

 しかし神をうやまう者の姿は、神の家にあるオリーブの木のように栄えるとうたわれています。 オリーブの木は、神殿の周囲に植えられ、常緑樹で美しい樹形を保つ、イスラエルの国にとっては、 なくてならない有益な木なのです。まずオリーブの木は、どんな荒地でも育ったたくましい木です。 神の守りと祝福の中にある者は、いかなる環境の中にあってもたくましく育ち、豊かな実を結びます。 オリーブの実は、食用になるだけでなく、最も多く用いられるのは、油です。 この油は有益な生活の必需品なのです。神を信じる人は有益な者として、この世を照らす光〜

聖書のことば
しかしこの私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々に限りなく、神の恵みに拠り頼む。
詩篇52:8




悩みの日に呼び求めよ  詩篇50篇 
2006年5月14日第2聖日 牧師 山宮利忠
アサフはダビデの臣下として礼拝の音楽を司る三人の指揮者の一人です。全部で12の賛美が詩篇の中に残されていて、その時は教訓的、預言者的な色彩が強く、この詩は、神の民の形骸化した礼拝に対し、神の法廷で審判が行われる情景がうたわれています。

まず形ばかりの礼拝が厳しく指摘されています。神は動物の犠牲などを求めておられるのではない、もともとそれらは全て神のものであり、世界とそれに満ちるものは神のもの(12)であるから、それらがいくら献げられたといえども意味のないことだと、礼拝の本質がどこにあるかが責められています。真の礼拝が献げられなくなると、不道徳と放縦がはびこることとなる。信仰生活は乱れ、あらゆることに不誠実となり混乱が生活の中に生れてきていると責められています。

真の礼拝とは、いかなる礼拝なのでしょうか。

第1は、感謝をもってささげられる礼拝です(14-15)。感謝の伴わない礼拝は、どんなに多くの犠牲がささげられても喜ばれません。

第2に、真実な礼拝、誠実さをもってささげられる礼拝です。神への誓いが果されている礼拝です。悔い改め、献身、約束が果されているでしょうか。

第3に、心からの叫びと求めをもっての礼拝です。祈りは神への真剣な求めです。主より解決を求める真剣な礼拝者を神は決してお見捨てになりません。


聖書のことば
苦難の日には、わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。
詩 篇 50:15




人のいのちは持物によらず  詩篇49篇 
2006年5月7日第1聖日牧師山宮利忠
 賛美というより、知恵や教訓色の強い詩であり、人のいのちは富によって買い戻すことができない事がうたわれると同時に、永世の信仰が示されている数少ない詩の一つです。

まず、富に依頼む愚かさが教えられています。人が富のみに心を向けるならば、悟ることもできない獣と同じであり、死がその牧者となるというのです。富そのものは決して悪いものではありません。

しかし富は人に万能のイメージを植えつけ、富さえあれば何でもできると思わせます。従って豊かな者が神の国を見出すのは、ラクダが針の穴を通るより難しいと言われる結果を生みます。度々富は人を更に貪欲にさせ、品性をそこなわせてしまい、争いは富をめぐって起ることが多いのです。

しかし最も大きな点は、富は決して死に勝利を治めることはないという事実です。死はあらゆる望みを断ち、たくわえた全てのものも残していかねばなりません。しかもいつ死が訪れるか判らないのです。豊かな富を持ちつつ、死の恐怖の中に生きる事は何と悲しくつらいことでしょうか。本当の豊かさ、真の富とは何かを知って生きることこそ、獣と異なる人間の在り方です。それは永遠への備えをし、内なる豊かさをたく〜


聖書のことば
人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。
詩篇49:20




シオンを巡り歩け  詩篇48篇 
2006年4月30日第5聖日牧師山宮利忠
「シオンの歌」と言われています。(137:3)エルサレムとその中心たる神殿に宿る大いなる神への賛美です。シオンとは、エルサレムの事であり、エルサレムは、旧約、新約の時代を通して民の中心となった町で、ダビデの町、聖なる都とも言われ、東洋の女王ともたたえられた美しい町、ソロモンは、ここに神殿を建設し、イスラエルの民の魂の中心となりました。エルサレムは、神礼拝が中心で、民はこの神殿に於いて神との交わりの回復をし、教えを受け、祝福を与えられました。彼等の賛美は大いなる都エルサレムとそこに宿る神に対してささげられたのです。

1、現在「エルサレムとその中心たる神殿は、教会となったと言って過言ではないでしょう。キリストのいのちをもって贖い出された人々の集り、それこそが教会でありますから。(エペソ1:22〜23)私達は、この教会に於いて恵みを思い巡らし、巡り歩き、その大いなる祝福を数えて後世に伝える役目を委ねられているのです。教会には礼拝があります。一週に少なくとも一度家族・夫婦そろって祈りと賛美をささげ、聖書から教えを聞く機会が与えられているということは、〜


聖書のことば
シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。
詩編48:12〜13




王なる神にほめ歌を歌え  詩篇47篇 
2006年4月23日第4聖日牧師山宮利忠
偉大な王の王たるメシヤへのさんびがこの詩篇のテーマです。王の即位式、又は新年に歌われたと言われますが、王としての神、メシヤへのほめ歌は終わることのない、永遠のほめ歌でもあります。

まず、ほめ歌を歌う対象となる王たる神のお姿が歌われます。すなわち、いと高き方であり、恐れられる方、大いなる王、全地の支配者、全地の王であられます。私達は、その民でありますから信頼と従順をもって仕える必要があります。人が何を信頼し、何に従うかによって人生が決まると言ってよいでしょう。

使徒達は迫害の最中で「人に従うより神に従うべきです」と自ら誰に従うかをあかししました。偉大な王への称賛に最もふさわしいものは、賛美です。ここには、叫べ、手をたたけ、角笛を吹き鳴らせ、たくみな歌をもってほめ歌(賛美)をささげよと命じられています。賛美は、大いなるお方にふさわしく又神を信じる直き者にふさわしいものです。さんびのあるところに神ご自身の喜びと祝福があることを忘れないようにしましょう。


聖書のことば
神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。
詩篇47:6




大いなる日  ヨエル書2章21節 
2006年4月16日第3聖日牧師山宮利忠
 メシヤの復活、これ程衝撃的で、驚くべきことはなかったでしょうし、この日、即ち週の初めの日は世界に希望を与えた大いなる日でもありました。何故この日が大いなる驚くべき日なのでしょうか。

第1に、イエスという方が、真のメシヤ(救い主)であることが証明された日だからです。主は、度々弟子達に十字架にかかり葬られて後3日後に復活されることを予告しておいででした。(マタイ16:21)弟子達はとても信じる事はできなかったのです。しかしイエスは、その言葉の通り復活されご自身を度々あらわされ、そのあかしをされました。死に勝利された方こそ私達を救いうる唯一のお方です。

第2に、この日こそ死が終りを告げた日だからです。死は人類が神から離れた結果です。しかしキリストは自らのいのちをもって罪と死から贖い出して人類の回復をもたらし、永遠の死から私達を救い出して下さいました。死は終りでもなく、絶望でもありません。永遠のみ国への門出なのです。

第3に、天のみ国の門を開いた大いなる日なのです。罪ある者は誰も天国へ入ることはできません。魂のいのちなき者も天国へは入れないの〜


聖書のことば
地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。主が大いなることをされたからだ。
ヨエル書2:21




神はわれらの避け所  詩篇46篇 
2006年4月9日第2聖日牧師山宮利忠
 この詩篇は、多くの聖徒に励ましと力となってきました。特に宗教改革を行ったルーテルは、この歌を困難の最中でうたい、大いに励まされたためにルーテルの詩篇などとも言われています。

この詩のテーマは、「主は我らと共におられる」で、7節と11節、さらに2節の終りから4節にとんでいる間に3節が本来挿入されるべきところで、ここにも「主は我らと共におられる」という一節があったと推測されます。主が共におられる。「インマヌエル」こそ聖書を貫く大きなテーマです。

私達が神と共にいるのではなく、神ご自身が私達と共にいて下さる。これは神が人に近づき、私達に手をさしのべ、救いの道を開き、いたりつくせりの愛のみわざをなして下さっていることを信仰の目をもって知ることは、なんと大きな励ましでしょう。

そこにある助け(1)、夜明け前に助けられる(5)ということばの中にはまさしく、神は、目に見えなくても常に私達の傍にいて下さり、まっさきに助けの手をのばし、苦しんでいるその時もっともそば近くにいて助けて下さるお方だというのです。ただ私達が神の助けを求め、願うことなしに神は働いて下さいません。〜


聖書のことば
神は、われらの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。
詩篇46篇1節





大いなる婚宴  詩篇45篇 
2006年4月2日第1聖日牧師山宮利忠
 この詩篇は、王の婚宴に際しての賛歌でどの王であったかは定かではありませんが、歴代の王の婚宴においてうたわれたものでしょう。しかしこれを単にイスラエルの王の婚宴にのみ思いをいたすことなく、メシヤなるキリストとその花嫁たる教会のやがて来る婚宴を想定すると、この歌は壮大な婚宴賛歌として読むことができるでしょう。

先ず、魅力に満ちた王即ちメシヤなるキリストのすばらしさが賛美されます。クリスチャン達は、キリストファンです。その魅力の程は、この世の者とは違います。いつまでも変わることのない熱い心がいや増しに高まり、やがて婚宴において最高潮に達するのです。その魅力の一つは、品格です。姿の麗しさ内面の美しさから生じるものですが、柔和にして優しく暖かさに満ちたお方であると共に真理の為には、決して妥協することのない、使命に生きた方であり、義に生きる勇敢な戦士です。

私達はこのお方の真似をしたいと思います。しかし決してこのお方の域には達しないでしょう。ですからいつまでも憧れのまとなのです。ペテロは、「キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(第1ペテロ1:8)と、私達の状態を言い表わすほどに、私達はキリストファンなのです。うしろのものを忘れ、前にむかってキリストに従う生涯の偉大さを体験しましょう。

聖書のことば
わたしはあなたの名を、代々にわたって覚えさせよう。それゆえ、国々の民は世々限りなく、あなたをほめたたえよう。
詩篇45:17




主よ、目を覚まして下さい  詩篇44篇 
2006年3月26日第4聖日牧師山宮利忠
 神が眠っておられるように思える状況がこの詩篇の記者の今の状況です。勿論神は、眠ってなどおられません。24時間まどろむことなく信じる者をお守り下さるのです。

まず彼(コラの子)は、過去のすばらしい神のみわざを思い出し、感謝し賛美します。とりわけ出エジプトに際しての驚くべきみわざは、毎年正月に行われる過越しの祭りにおいて再現され、親は子に代々語りつげられる責務がありました。神は活きておられ、信頼する者を必ず助けられるお方であることは、明らかなことでした。彼もそれを信じ、誇りに思っているのです。

しかし、今の状況は、まことに苦しい、つらいものです。彼は苦しみやあざけりの中にあっても、決して神を忘れはしないし、その道を外れたことはなく、約束を違えたこともありません。しかし今の状態はあまりにもつらい状態で、神はわたしを忘れてしまわれたのではないか、愛されていないのではないか、見捨てられてしまったのではないか。どうか目を覚まして下さい。み顔をかくさないで下さいと祈り求めます。

私達の人生にも、これに似た経験をする事があるに違いありません。その時、神は死んでしまわれた、もう私は見〜

聖書のことば
起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさまして下さい。
詩篇44:23




横浜教会と会堂の歩み  会堂献堂記念礼拝 
2006年3月19日第3聖日 牧師 山宮利忠
 46年間の教会の歩みは教会の入れ物である会堂の歩みでもありました。

1959年、宣教師館の応接間で始められた集会
1960年、共進町に移転、古屋を改造して会堂に、この年教会発足
1970年、37坪の借地に3階建ての新会堂建設、献堂
1975年、3階建ての牧師館が解放されCSの教室に、牧師家族磯子へ転居
1986年、下永谷の現土地購入、300坪
1987年、共進町の土地購入。同年単立宗教法人格取得
1990年、第三会堂献堂、共進町の土地売却
1996年、隣接地購入、350坪、会堂総面積650坪となる。
1999年、新教育館増築 93坪、総建坪192坪となる。
2006年、礼拝堂拡張、40坪、総建坪232坪となる。牧師館開放、新牧師館マンション購入。

 これらに加えて、裏の崖の擁壁工事、駐車場のアスファルト工事、駐車場の立体化、尖塔の取りつけ等様々な教会の必要に応じたわざがなされてきました。これらは教会の歩みと共になされた、必要から生じた事であったことこそが大切で、不要なものは何一つなく、より大きくより使い易くという願いの背後に主の大きな祝福とお恵みがあった事を忘れてはなりません。この働きは今後も継続され、みこころにかなった拡大が期待されます。

聖書のことば
この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。
万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。 
 ハガイ2:9



神よ、私の神よ  詩篇43篇 
2006年3月12日第2聖日牧師山宮利忠
 もともとは一篇であったこの詩の、その中心的テーマは、レビ人の神殿礼拝への渇望でした。しかしこの渇望の中に彼等の神への信仰の在り方が如実にあらわされている点に注目しなければなりません。

 それは、「私の神」ということばです。(42-11、43-2、4、5)信仰はそもそも団体で持つことではなく、極めて個人的なものであるべきで、たとえ夫婦であろうと、手をつないで救いの門を入ることはできません。しかし、救いを受けた後は又逆に共なる生活、いのちを共有する神の子としての在り方こそ、この詩の歌う精神に沿うことでもあるのです.

神と私というこの間に何ものも入れない係りこそが、クリスチャン信仰の基本にあるわけで、パウロは、この経験を個人的で直接的な体験と強調し、大切にしていることをあかししています。(ガラテヤ1:11〜17)この個人の信仰の確立こそが、クリスチャン生涯の基礎とならねばなりません。さらには、私の信じる神が如何なるお方であるかがうたわれています。

まず、力の神である(2)といいます。全知にして全能のお方、又最も喜びとする神なのです。神のして下さる事を喜ぶと〜

〜(ローマ5-11)。そして私の救いの神と告白します。まさしく私の信じる神は、救いの神(イエス・キリスト)であり、このお方によって希望も平安も安全も与えられる真の神、私の神なのです。

聖書のことば
神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。
詩篇43:5b




魂の渇望  詩篇42篇 
2006年3月5日第1聖日牧師山宮利忠
 第1巻が終り、第2巻に入ります。この歌は、神殿に仕えるレビ人で聖歌隊の指導者の一人の歌ではないかと思われます。今は、神殿で礼拝することが許されない遠く隔離された状態か、神殿が破壊されてかつてのように多くの者と神のみ名をほめたたえることのできない状態にあって、「お前の神はどこにいるのか」と、周囲のあざけりの中で一層礼拝の尊さを覚え、絶望としかおもえないような逆境の中で神への渇望をうたいます。私達は、この詩人のような魂の渇望と、礼拝への執着を持ちあわせているでしょうか。

この世のもので満足してしまい、魂の餓え渇きを覚えず、真剣な神への求めや叫びを忘れているとしたら禍です。雌鹿が渇いて谷川におりて水を求めるがごとく、公の礼拝に集まり、主の集りから受ける祝福にあずかる者は、再び力をいただいて起つことができるでしょう。

しかしもしこの水をのまなければ、やがて日照りの中で力つきて倒れて、誘惑の激しいこの世の水をのみつつ、やがてやせおとろえ力を失いやがて骸となるのを待つばかりです。この水を飲む者は渇くが、わたしの与える水を飲む者は、渇くことなく永遠にいたる水が湧き出ると言われた神の水を〜

聖書のことば
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます。
詩篇42:1




病の床で支えられる神  詩篇41篇 
2006年2月26日第4聖日牧師山宮利忠
  6篇や32篇とともに病床の歌といわれています。この41篇で第一巻が終了し、最後に神をほめたたえる頌栄で閉じられます。(13)

病の中での苦しみの思いが実に率直に言い表わされていて痛々しい程です。病そのものの苦しみは当然の事として、周囲の人達の反応は一層苦しみに苦しみを増すことになります。特にひそかなささやきや、親しい友であった者の裏切りは、たえられない悲しみであり、そのような状態にある自分自身に罪の結果だと思わせられる苦しみが重なります。

しかし病は、全ていまわしく、あってならないものではありません。人は何等かの形で健康をそこない病の床に伏さねばならない時があるものです。偉大な働きを残したパウロも病を持ちつつ、それを主の恵みとして受けとることができました。

第一に、病は自らの弱さを自覚させることに於て力があります。病の中で人は自らを反省し、自分の生き方を深く考えることができるのです。

第二に、人への深いあわれみの心を持つことができます。健康で何不自由のない状態では、人の痛みや苦しみを思いやる心は希薄です。

第三に、真の依りどころを見出す機会となります。孤独や不安に勝〜

聖書のことば
主は、病の床で彼を支えられる。病む時にどうか彼を、全くいやしてくださるように。
詩篇41:3




一粒の麦の死  ヨハネの福音書12章20〜26節 
2006年2月19日第3聖日牧師山宮利忠
 弟子達がキリストの築く王国への誤った野心を持っていることを正すために、一粒の麦の死のたとえをもって語られた主は、現代の私達にも必要な大切な教えを与えてくれます。

 一粒の麦の種が地に落ちて蒔かれる時、それは数百倍の実をみのらせるように、一人の人がそれに死ぬ時、そこには数え切れない実を結ぶことをここから教えられます。先ず死ぬとはいかなる意味でしょうか。当然の事ながらキリストのごとく肉体的に死ぬ事を意味しているというよりも、自分に死ぬという事、即ち自分を第一にし自分を愛し自分の都合を第一にしないということです。「自分を捨て、自分の十字架を負って」主についてこない者は、主の弟子ではないと言われた事と同義です。

 人がもし神第一の生き方をするとしたら、当然の事ながら自分を第2、第3にする生き方をするでしょう。それこそが人として豊かにされる道なのです。自分のいのちを救おうとする者は、それを失うの教えのごとく、自分第一にする生き方は、結局神の約束を自分のものにする事はできません。即ち実を結び、永遠を生き、報いを得ることはできないのです。

 過去のキリスト教徒のすばらしい生涯に共通するものは、己に死んだ人達の姿です。私達は宣教師の働きの中にその一粒の麦の死の模範を見ることができるでしょう。死んで生きる、失って得る道を歩みましょう。

聖書のことば
まことにまことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
ヨハネの福音書12:24




泥沼からの救出  詩篇40篇 
2006年2月12日第2聖日牧師山宮利忠
 この詩篇は13節以降、70篇と同じもので二つの歌の合併と考えられますが、神殿での賛美の都合上合わせられたのかもしれません。従って前半に中心を置いて学ぶことにしましょう。

 救出された感謝とそのあかしが前半の中心テーマです。ダビデの全般的な生活上起こったできごとのあかしがこの歌の背景と考えられますが泥沼のような罪の生活、即ち身動きできない汚れきった生活から救出されたこと、又その中での騒ぎから引き上げられた自分を、周囲の人々は驚きの目をもって見ていることがうたわれています。

 キリストによる救いは、暗闇から光の中へ導き出された者のごとく、大きな変化をもたらします。その歩みが確かにされ、呟きの口から賛美が溢れる様は、まさしくそこに奇跡を見るのです。それは泥沼から引き上げられた者のさわやかな希望に満ちた姿であり、きよめられた清々しさをみることができます。

 救いの感謝として犠牲をささげる旧約のならわしではなく、わたくし自身を神にささげ、献身のあかしとして神のみこころに従う服従こそが、主のお喜び下さることだということを知って「今、私はここに来ております」と言います。礼拝とは献身です。

聖書のことば
わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。
詩篇40:8





沈黙する人  詩篇39篇 
2006年2月5日第1聖日牧師山宮利忠
 38篇と類似した悩みと苦しみの中にある詩です。ここには神への信頼から生れる賛美や感謝がありません。伝道者の書にも似た空しさとはかなさが、うたわれています。そして作者は、沈黙すると言うのです。どうして沈黙するのでしょうか。

 第1に、舌をもって罪を犯さないためです。(2)人は苦しみに会う時、とんでもない事を言ったり、とりかえしのつかないことを喋ったりしてしまうものです。その結果自分も傷つき人も傷つけてしまい、苦しみにさらに苦しみを加えてしまいます。その点でヨブは言語に絶する苦しみの中にあっても罪を犯すようなことを口にしなかった事は驚くべきことでした。

 第2に、悪者が苦しみの中から語った自分の言葉を利用しないためです。口から出る言葉は、いったん出されたらとりかえしがつきません。人をおとしめようとする者は、その言葉じりをつかんで攻撃してくるでしょう。ですから手を口に当てて沈黙するのです。

 第3に、神に期待し、訴えることによって沈黙できるのです。(7)はかない一生の唯一の拠りどころは、旅人をもてなす神の保護であり、疲れ果てた者に手をのばされる神のあわれみです。ですから子供のように神に訴え願うことによって人に対し沈黙を守るのです。

聖書のことば
私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです。 
詩篇39:9





主よ、私の救いよ  詩篇38 篇 
2006年1月29日第5聖日牧師山宮利忠
 苦しみや困難がどうして自分にやってくるのか。この詩の場合自分の罪の結果であると判断している事がわかります。しかし聖書にはヨブのように正しい者でありながら突然の大きな苦しみに会う場合もあり、又パウロのように病の苦しみをとりのぞいて下さいと祈りながらも、それを神の恵みとうけとめ、自分の弱さの中に完全にあらわされるキリストの力を知って、反ってその苦しみを感謝し誇りにする例もあります。いずれにしても人が神に向く時いかなる事も無駄なものはなく、たとえ艱難さえ希望に支えられるという事こそ主のみこころであるということが判ります。

 さてダビデの場合、不義に対する神のこらしめと受けとめた苦しみは、大分深刻なもので健康を失っただけでなく、友人や近親者も離れてゆき、敵はこの時とばかり、ののしりと欺きを語りおとしめる算段をするような状況に陥ります。このような状態から脱する唯一の道は、神との交わりを回復し、神のみ怒りが静まることです。この苦しみは、身に覚えのあることが原因ですから“自分の罪を言い表し”(18)赦しを乞う以外に道はありません。

 たしかにある苦しみや困難は、自分の蒔いた種の刈り取りなので・・・・

聖書のことば
急いで私を助けて下さい。主よ、私の救いよ。
詩篇38:22




貧しい者の豊かさ  詩篇37篇 
2006年1月22日第4聖日牧師山宮利忠
 悪いことには、悪い結果があり、善いことには善い結果がある、仏語の因果応報に近い思想がうたわれています。たしかに蒔いた種は、自らかりとることになりますが、ここでは、神の前には何一つ隠れたことはなく,人の行為の全てを見られる神は、全てに正しい報いをお与えになるという事実がうたわれています。(ローマ2-6)

ここで言う悪しき者は,神を認めることをせず己を誇る者のことであり貧しい者は、自分のありのままの姿を認め、神に依頼む者のことをさしています。悪者がみじめな生活をしていれば納得がいくのでしょうが現実はそうではありません。不正を行う者が巨万の富を得、極めて幸福そうに生活をし,正しい者が苦労しながら額に汗して働かねばならない現実を見る時、人は,正直に真面目に生きることが馬鹿らしく思え、裏で適当に不正を行って上手に生きる事をよしとするような安易な道を歩きそうになります。

しかし、神はその全てに正しい審判をなさるのです。敬虔に正しく生きる者を神は決してお見捨てになることなく、たとえ困難に会い,倒れるような事があっても、致命的な倒れ方はしない、その必要は満た・・
,
一時的な快楽でなく、永遠の祝福をもって守って下さるとダビデは、生ける真の神を信じて歩むことを勧めます。主の前に静まり、耐え忍んで主を待つことが今の私達にも必要なことではないでしょうか。

聖書のことば
悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。
詩篇37:1−2




二つの道  詩篇36篇 
2006年1月15日第3聖日牧師山宮利忠
 神を信じない生き方と神を信じる生き方の対比が歌われています。それは空しい人生と豊かな人生という大きな違いです。まず空しい神に反逆する人生のいくつかのしるしがうたわれます。

第1に、罪は、心の中からはじまります。人格化された反逆の心は、ひそかに夜寝床の中ではぐくまれやがて昼その実を結びます。決して表にあらわれるまで姿を表しません。
第2に、知恵と義を捨て、神から遠ざかります。罪は人から神に属するものをしめ出し、近づけることをしません。自らの思いのみで行動し、光のもとへこようとはしないのです。
第3に、神への恐れの心をもつことはないのです。神は自分が何をしても、何もすることはない、即ち審き等はないし、できないのだと自らを欺くのです。

それに反して神を信じ従う者の豊かな人生は、神の恵みのもとに置かれます。神は人を生かし、必要を満たし、保護されます。そして神の家たる教会の豊かさの中で、大きい祝福をお与えになります。罪赦された人々の集りである教会、神の恵みと真実と義のあかしのあるところです。人々はその恵みを教会の中で体現するのです。そして神の啓示の光の中で、希望を見出し自らの人生の将来をはっきりと教えられ、人のあるべき姿にいよいよ成長することができます。この二つの道のどちらをあなたは歩まれますか。

聖書のことば
神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。
詩篇36:7〜8




無実の訴え  詩篇35篇 
2006年1月8日第2聖日牧師山宮利忠
 無実の罪を神に訴える嘆きの歌です。背景にはサウルによる追撃に苦しむダビデの苦しみがあげられるでしょう。ダビデにとってはいわれなき苦しみでありました。たしかに私達の人生には、思いもよらない苦しみや悲しみに会うことも少なくありません。生命をねらわれる苦しみ、策略をめぐらされる苦しみ、親しい友による裏切り、偽りの証言による苦しみ、これらは確かに同様な苦しみに会うことがあるとしても、その典型的な苦しみは、救い主キリストがあわれた苦しみであったに相違ありません。

私達が受ける苦しみは、意外にいわれある苦しみではないでしょうか。自分が蒔いた種を刈り取るような、あえて種を蒔くことはしなくても、知らぬまに蒔いた配慮の欠けた種や、誤解され易い行動の種、非礼の種、利己的言動の種等、案外苦しみや悲しみの背後に、実は自分が蒔いた種を刈り取っている苦しみがあるのかもしれません。

しかしダビデも決して完全な者ではなかったとしても、王に生命をねらわれる苦しみは、サウルのねたみから生まれた憎しみでしたから、ダビデは神に訴えるのです。私と戦う者と戦って下さい。黙っていないで下さい。奮い立って下さい。

聖書のことば
主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦って下さい。
詩篇35:1




主の恵み深さを味わう  詩篇34篇 
2006年1月1日第1聖日牧師山宮利忠
 神への感謝の賛美と神に向かう姿勢が歌われるイロハ歌です。新年初頭の歌としてふさわしいものではないでしょうか。

 まず主をほめたたえるという形で感謝がささげられます。作者は「いつも」と言います。それは順境の時も逆境の時も、いついかなる時にも賛美をささげますという言葉の背後には、神の恵みはいかなる時にも最善であるという信仰がみられます。それは、神の恵みを味わうということによってよろこびと賛美が湧き出るのです。味わうということは自分の中にとりこむことがあり、よくかみしめてその味をたしかめることです。もしそうすることができれば、神は恵みによって私達をとり囲み、愛で取り囲まれている事が判るに相違ありません。丁度エリシャがアラムの軍勢に取り囲まれてもそれ以上の神の軍勢がエリシャを取り囲んでいるのを見るがごとくです。

 来なさい子たちよ。と教師の口調で神に向かう人の姿勢を教えます。主を恐れることこれこそが人の本分です。人は神ではないし神のごとくふるまうものでもありません。反って自分の弱さや愚かさを知って自我、我欲、慢心を砕かれなければなりません。砕かれることは痛みを伴いますが、その痛みを通して神を求める者に神は近くいまし、その叫びに耳を傾けて下さいます。己がままなる道を歩む者の平安は、やがて失われますが、己れの弱さを知って苦しみ悩む者の心は、キリストの十字架のいやしを受けることができます。

聖書のことば
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。
詩篇34:8






Back Number 

2004年10〜12月 2004年7〜9月 2004年4〜6月 2004年1〜3月
2003年10〜12月 2003年7〜9月 2003年4〜6月 2003年1〜3月
2002年10〜12月 2002年7〜9月 2002年4〜6月 2002年1〜3月
2001年11〜12月